ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

万葉集索引第二十巻

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20 4482;作者:藤原執弓,難波,大阪,古歌,伝誦,大原今城,宴席,悲別,餞別,転用

[題詞]

保里延故要  等保伎佐刀麻弖  於久利家流  伎美我許己呂波  和須良由麻之<自>

堀江越え 遠き里まで 送り来る 君が心は 忘らゆましじ 

ほりえこえ とほきさとまで おくりける きみがこころは わすらゆましじ

堀江を越えて遠くの里まで送ってくださった
貴方のご厚情は
決して忘れることはないでしょう

* 「心」 誠実な気配り。
* 「ましじ」は上代語で、推量の助動詞「まし」に打消し推量の助動詞「じ」の付いたもの。
* 「堀江」は難波堀江。今城は当時兵部大丞で、防人交替などの事務のため、難波支庁に出張し、その際、難波を経て播磨へ向かう執弓と会う機会があり、「堀江を越えて」見送ったもの。
* 藤原朝臣執弓は仲麻呂の二男、久須麻呂の同母兄。当時の地位は六位以下。天平宝字二年八月従五位上にのぼり、父や兄弟とともに藤原恵美朝臣を賜姓される。同じ頃真先(まさき)と改名。参議・大宰帥などを経て、天平宝字八年九月父仲麻呂の謀反に加わり殺される。後、三月末、道祖王廃太子。四月、大炊王(後の淳仁天皇)立太子。家持は六月十六日兵部大輔(正五位下相当)に昇進。(出典等;大伴家持全集 訳注編 Vol.3 水垣 久 編訳)



20 4483;作者:大伴家持,宴席,無常,悲嘆,三形王

[題詞]勝寶九歳六月廿三日於大監物三形王之宅宴歌一首

[左注]右兵部大輔大伴宿祢家持作


宇都里由久  時見其登尓  許己呂伊多久  牟可之能比等之  於毛保由流加母

移り行く 時見るごとに 心痛く 昔の人し 思ほゆるかも 

うつりゆく ときみるごとに こころいたく むかしのひとし おもほゆるかも

時の移ろう様を見れば
心痛み 
昔の人が思われるのです

* だい‐けんもつ【大監物】〔名〕令制で中務(なかつかさ)省の職員。監物のうちで上位のもの。大蔵省、内蔵寮などの倉の鍵を管理する責任者。従五位下相当で、定員二名。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/kawatugu.html


20 4484;作者:大伴家持,枕詞,悲嘆,無常,寿歌,永遠

[題詞]

佐久波奈波  宇都呂布等伎安里  安之比奇乃  夜麻須我乃祢之  奈我久波安利家里

咲く花は 移ろふ時あり あしひきの 山菅の根し 長くはありけり 

さくはなは うつろふときあり [あしひきの] やますがのねし ながくはありけり

美しく咲く花も
いつか色あせて散る時が来る
山に生える菅の根は
切れることなく長く生き続ける

* 「菅」の細長いい地下茎は、強く切れにくい。地味だが、美しいが短命な花と対比している。



20 4485;作者:大伴家持,天皇讃美,寿歌,永遠

[題詞]

[左注]<右>大伴宿祢家持作之


時花  伊夜米豆良之母  <加>久之許曽  賣之安伎良米晩  阿伎多都其等尓

時の花 いやめづらしも かくしこそ 見し明らめめ 秋立つごとに 

ときのはな いやめづらしも かくしこそ めしあきらめめ あきたつごとに

時を得て咲く花は 
ひとしお心ひかれるものです
このようにして 
季節の度ごとにご覧になって
御心をお晴らしください
秋が来る毎に

* 「かくしこそ」 は「かくこそ」に強調の副助詞「し」が入ったもの。
* 「見(め)し」は、見るの尊敬語、主格は天皇(孝謙天皇)か。
* 「時の花」は臣下の暗喩か。
* (背景)橘・大伴・多治比氏らによる反仲麻呂クーデタ計画、橘奈良麻呂の乱あり。黄文王・道祖王・大伴古麻呂らが拷問を受けて死んでいる。



20 4486;作者:大炊王,肆宴,宴席,宮廷

[題詞]天平寶字元年十一月十八日於内裏肆宴歌二首

[左注]右一首皇太子御歌
大炊王(おほひのおほきみ)。舎人親王の第七子。この年(天平宝字元年)四月、孝謙天皇の推挙により皇太子に就く(二十五歳)。翌年八月、即位(淳仁天皇)


天地乎  弖良須日月乃  極奈久  阿流倍伎母能乎  奈尓乎加於毛波牟

天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

あめつちを てらすひつきの きはみなく あるべきものを なにをかおもはむ

天地を照らす太陽と月のように
皇位は極みなくあるものだ
何を物思いなどしようか




20 4487;作者:藤原仲麻呂,肆宴,宮廷,宴席

[題詞]

伊射子等毛  多波和射奈世曽  天地能  加多米之久尓曽  夜麻登之麻祢波

いざ子ども たはわざなせそ 天地の 堅めし国ぞ 夜麻登島根は 

いざこども たはわざなせそ あめつちの かためしくにぞ やまとしまねは

これ 人々よ
たわけたことはしなさるな
天地の神々が造り堅めた
この大和の国で

* 橘奈良麻呂の乱をほのめかしている。
* 「いざ」は勧誘の感動詞。
* 「子ども」は、若者や目下の人々に親しみ呼びかける語。
* 「戯業」は、たわけごと、ふざけたことの意。
* 「なせそ」は、副詞。禁止「な」+サ行変格活用動詞「す」の未然形「せ」+禁止の終助詞「そ」。
* 「夜麻登島根」は、「大和の国」。日本国の別称。

◆大和表記の始まり
Wikiが書いているように、その開始は多くの学説が一致して、聖武天皇が譲位して孝謙女帝の頃、ちょうど橘奈良麻呂の変(天平宝字元年・757)直後であったというのが主流だ。
聖武天皇時代の藤原広嗣の乱、隼人の乱、藤原仲麻呂の乱、そして奈良麻呂の乱など、この時代は藤原一族と母方橘一族との政権争奪時代である。このためこれ以上の騒乱のないことを祈念して国号表記を「大和」としたのである。





20 4488;天平宝字1年12月18日,作者:三形王,宴席,挨拶

[題詞]十二月十八日於大監物三形王之宅宴歌三首

三雪布流 布由波祁布能未 鴬乃 奈加牟春敝波 安須尓之安流良之

み雪降る 冬は今日のみ 鴬の 鳴かむ春へは 明日にしあるらし 

みゆきふる ふゆはけふのみ うぐひすの なかむはるへは あすにしあるらし

雪降る冬は今日かぎりに
鴬の鳴く春は
立春の明日からでしょうよ



20 4489;作者:甘南備伊香,三形王,枕詞,叙景,宴席

[題詞]

宇知奈婢久 波流乎知可美加 奴婆玉乃 己与比能都久欲 可須美多流良牟

うち靡く 春を近みか ぬばたまの 今夜の月夜 霞みたるらむ 

[うちなびく] はるをちかみか [ぬばたまの] こよひのつくよ かすみたるらむ

春が近いからでしょうか
今宵の月は
霞がかっていますね



20 4490;天平宝字1年12月18日,作者:大伴家持,枕詞,宴席,三形王

[題詞](十二月十八日於大監物三形王之宅宴歌三首)

安良多末能  等之由伎我敝理  波流多々婆  末豆和我夜度尓  宇具比須波奈家

あらたまの 年行き返り 春立たば まづ吾が宿に 鴬は鳴け 

[あらたまの] としゆきがへり はるたたば まづわがやどに うぐひすはなけ

年が行き変わり
立春を迎えたら
鴬よ 
どこより先にこの屋敷で鳴け



20 4491;作者:藤原宿奈麻呂妻:石川女郎,藤原宿麻呂

[題詞]

於保吉宇美能  美奈曽己布可久  於毛比都々  毛婢伎奈良之思  須我波良能佐刀

大き海の 水底深く 思ひつつ 裳引き平しし 菅原の里 

[おほきうみの みなそこふかく] おもひつつ もびきならしし すがはらのさと

大海の水底のように深く
あなたのことを思いながら
裳裾を引いて道が平らになる位
通い続けた菅原の里よ

* 「平(なら)し」は、平らにするという意。通い来る夫を待ちきれずに行きつ戻りつ待ち侘びた。
* 藤原宿奈麻呂(藤原四卿のうち式家の頭領 宇合の第二子)の妻、石川女郎が愛が薄れて離別されたことを悲しみ恨みながらも、寵厚く幸せだった日々を、あの頃が懐かしいと追憶した歌。宴席で歌劇のように歌ったか。


20 4492;天平宝字1年12月23日,作者:大伴家持,宴席,大原今城

[題詞]廿三日於治部少輔大原今城真人之宅宴歌一首

[左注]右一首右中辨大伴宿祢家持作

都奇餘米婆  伊麻太冬奈里  之可須我尓  霞多奈婢久  波流多知奴等可

月数めば いまだ冬なり しかすがに 霞たなびく 春立ちぬとか 

つきよめば いまだふゆなり しかすがに かすみたなびく はるたちぬとか

月数の上では十二月だから 
今はまだ冬である 
とはいえ 
あたりには霞がたなびいている 
すでに立春を迎えたことでもある

* 「読め」は、数を数える意。
* 「しかすがに」は、副詞。しかしながら。
* 「す」は、サ行変格動詞の終止形。 
* 「がに」は、程度・状態の接続助詞。
* 「春立つ」は、「立春になる。春になる」。
* 「ぬ」は、完了助動詞。
* 「と」は、引用の格助詞。
* 「か」は、疑問の係助詞。  〜たというのか。

* 大原今城は天平宝字元年六月十六日、治部少輔に任官。当時の治部大輔は市原王。今城はその前月には従五位下に叙せられており、ようやく貴族に列しました。題詞に「大原今城真人」の敬称法が用いられているのもそのためでしょう(これ以前は「大原真人今城」と称されています)。一方、今城より上位の従五位上だった家持は左注で「大伴宿禰家持」と卑称法で記されており、この歌の記録者が家持であったことは疑い難い。こうした例は他にも見られ、巻二十後半の筆録者を大原今城にあてる中西進氏の説(『万葉集形成の研究』中西進万葉論集第六巻、講談社)は肯定できません。<「大伴家持全集 訳注編 Vol.3 水垣 久 編訳」より抜粋転載>




20 4493;天平宝字2年1月3日,作者:大伴家持,未奏,宮廷,肆宴,宴席,藤原仲麻呂,寿歌,宮廷讃美

[題詞]二年正月三日召侍従竪子王臣等令侍於内裏之東屋垣下即賜玉箒肆宴 于時内相藤原朝臣(仲麻呂)奉勅宣 諸王卿等随堪任意作歌并賦詩 仍應詔旨各陳心緒作歌賦詩 [未得諸人之賦詩并作歌也]
(二年正月三日、侍従・堅子・王臣等を召して、内裏の東の屋の垣下に侍はしめ、即ち玉箒(たまばはき)を賜ひて肆宴きこしめしき。時に内相藤原朝臣勅を奉りて、宣はく、諸王卿等、堪(あ)ふるまにまに意に任せて、歌を作り并せて詩を賦せよとのりたまへり。仍りて、詔旨に応へ、各心緒を陳べて歌を作り詩を賦しき。諸人の賦せる詩と作れる歌とを得ず)

[左注]右一首右中辨大伴宿祢家持作 但依大蔵政不堪奏之也(大蔵の政に依りて、奏すに堪へざりき)右中弁としての仕事が忙しくて、奏上する機を逸した意。


始春乃  波都祢乃家布能  多麻婆波伎  手尓等流可良尓  由良久多麻能乎

初春の 初子の今日の 玉箒 手に取るからに 揺らく玉の緒 

はつはるの はつねのけふの たまばはき てにとるからに ゆらくたまのを

初春の初子の日である今日
頂戴したこの玉箒を手にした途端に
妙なる音をたてる玉の緒です

* 「初子」は、初春の最初のの子の日。
* 「玉箒(たまばはき)」は、玉の緒の象徴としての繭玉(または硝子玉)を飾った箒。〔名〕古代、正月の子(ね)の日に、蚕室を掃くのに用いた、玉の飾りをつけた小さなほうき。
* 「ゆらく」は、飾り玉がぶつかりあって微妙な音をたてること。
 


20 4494;天平宝字2年1月6日,作者:大伴家持,未奏,予作,宮廷,行事,宴席,寿歌

[題詞]

[左注]右一首為七日侍宴右中辨大伴宿祢家持預(かねて)作此歌 但依仁王會事却以六日於内裏召諸王卿等賜酒肆宴給祿 因斯不奏也(* 七日の宴に備えて予め歌を作っておいたものの、七日は仁王会(仁王護国般若経を講ずる儀式)と重なって、節会は中止され、六日に肆宴と給禄のみ行われたので、歌を奏上する意味がなくなった。)


水鳥乃  可毛<能>羽能伊呂乃  青馬乎  家布美流比等波  可藝利奈之等伊布

水鳥の 鴨の羽の色の 青馬を 今日見る人は 限りなしといふ 

[みづとりの] かものはのいろの] あをうまを けふみるひとは かぎりなしといふ

青馬を今日見る人は
寿命が尽きないと言う

* 「水鳥の」は「鴨」の枕詞。また上二句は「青」を導く序。
* 「青馬」は白っぽい灰毛の馬。「白馬」と表記して「あおうま」と読む。
* 「七日の侍宴」とは、白馬節会(あをうまのせちえ)に伴う宴。
「白馬節会」は中国渡来の宮廷年中行事。陽春陽月(正月は少陽の月)陽日(七は少陽の数)に、陽の色(青)の陽の獣(馬)を、陽の数(二十一頭)見て、来る一年の邪気を払うもの。
* 陽の日「一月七日」に陽の色の獣を見た人はその寿命も限りなしと。
 


20 4495;天平宝字2年1月6日,作者:大伴家持,宮廷,肆宴,宴席,叙景,未奏

[題詞]六日内庭(内裏の庭)假植樹木(仮に樹木を植ゑ)以作林帷(以ちて林帷(りんゐ)と作(な)して)而為肆宴(中止された白馬節会の代用の宴会)歌
(肆宴きこしめす歌一首)

[左注]右一首右中辨大伴宿祢家持 [不奏]
   (右一首、右中弁大伴宿禰家持 奏さず)


打奈婢久 波流等毛之流久 宇具比須波 宇恵木之樹間乎 奈<枳>和多良奈牟

うち靡く 春ともしるく 鴬は 植木の木間を 鳴き渡らなむ 

[うちなびく] はるともしるく うぐひすは うゑきのこまを なきわたらなむ

春の証しとわかるように
鴬よ
植木の枝の間を鳴いて渡ってくれ

* 「肆宴」し‐えん〔名〕(「肆」はつらねる意)宴席を設けること。宴をもよおすこと。ここでは中止された白馬節会の代用の宴会。
* 「きこしめす」(主催する意の尊敬語)、主語は孝謙天皇。


20 4496;天平宝字2年2月,作者:大原今城,宴席,中臣清麻呂,怨恨

[題詞]二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首

[左注]右一首治部少輔大原今城真人


宇良賣之久 伎美波母安流加 夜度乃烏梅<能> 知利須具流麻O 美之米受安利家流

恨めしく 君はもあるか 宿の梅の 散り過ぐるまで 見しめずありける 

うらめしく きみはもあるか やどのうめの ちりすぐるまで みしめずありける

残念で悲しい
無情なお人ですねあなたは
お宅の梅が散り果てるまで
見せてくださらなかったとは



20 4497;天平宝字2年2月,作者:中臣清麻呂,宴席

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)

[左注]右一首主人中臣清麻呂朝臣


美牟等伊波婆 伊奈等伊波米也 宇梅乃波奈 知利須具流麻弖 伎美我伎麻左奴

見むと言はば 否と言はめや 梅の花 散り過ぐるまで 君が来まさぬ 

みむといはば いなといはめや うめのはな ちりすぐるまで きみがきまさぬ

見たいとおっしゃれば
嫌だなどと申したでしょうか
梅の花が散り果てるまで
あなたが来られなかったのですよ


20 4498;天平宝字2年2月,作者:大伴家持,宴席,中臣清麻呂,主人讃美,寿歌,序詞

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)

[左注]右一首右中辨大伴宿祢家持


波之伎余之 家布能安路自波 伊蘇麻都能 都祢尓伊麻佐祢 伊麻母美流其等

はしきよし 今日の主人は 礒松の 常にいまさね 今も見るごと 

はしきよし けふのあろじは いそまつの つねにいまさね いまもみるごと

慕わしいこの日のご主人は
磯辺の松が常緑であるように
いつまでも変わりなくおいでください
今お見受けするままに

* 「はしきよ(や)し」[連語]形容詞「は(愛)し」の連体形+間投助詞「やし」。いとおしい。なつかしい。


20 4499;天平宝字2年2月,作者:中臣清麻呂,宴席,寿歌,永遠

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)

[左注]右一首主人中臣清麻呂朝臣


和我勢故之 可久志伎許散婆 安米都知乃 可未乎許比能美 奈我久等曽於毛布

吾が背子し かくし聞こさば 天地の 神を祈ひ祷み 長くとぞ思ふ 

わがせこし かくしきこさば あめつちの かみをこひのみ ながくとぞおもふ

あなたがそうおっしゃって下さるのを聞いて
天地の神々に祈願してでも
長生きしたいと思います

* 「祈ひ祷み」いの・る 祈る/祷る[動ラ五(四)]動詞「の(宣)る」に接頭語「い(斎)」が付いてできた語。1 神や仏に請い願う。神仏に祈願する。
*  中臣清麻呂は、奈良時代の公家(702〜788年)。初め中臣氏を称したが、769年に大中臣の姓を賜った。



20 4500;天平宝字2年2月,作者:市原王,宴席,中臣清麻呂,恋情,主人讃美

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)

[左注]右一首治部大輔市原王


宇梅能波奈 香乎加具波之美 等保家杼母 己許呂母之努尓 伎美乎之曽於毛布

梅の花 香をかぐはしみ 遠けども 心もしのに 君をしぞ思ふ 

うめのはな かをかぐはしみ とほけども こころもしのに きみをしぞおもふ

梅の花の香を貴ぶ心が強い余り
かえって遠ざかって失礼を致しましたが
心はいつもしなうばかりに貴方の方に寄せているのです

* 「かぐはしみ遠けども」は、畏敬の念が強い余り近づけないでいたが、
の意。清麻呂を誉め讃えると共に、たびたび訪問できないことの弁解。
* 万葉集には梅の花の「香」を読んだ歌は、この一首しかない。
万葉集では、梅の花は「見て」楽しまれる事が多く、その「香」に対する意識は高くなかったが、中国では「梅の香」のほうが賛美されていて、その中国の影響で懐風藻では梅の香を詠んだものが増え、古今集では梅の色も香も読み込まれるようになった。
* 「けど」は、形容詞の已然形の語尾「けれ」の「れ」の脱落が見られる。
* 「ども」は、接続助詞 逆接既定条件。活用語の已然形に付いて、逆接の既定条件を示す「〜けれど」「〜けれども」「〜であっても」などの意。「ど」も「ども」の意味は全く同じ。




20 4501;天平宝字2年2月,作者:大伴家持,宴席,中臣清麻呂,寿歌,永遠,主人讃美,予祝

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)

[左注]右一首右中辨大伴宿祢家持


夜知久佐能 波奈波宇都呂布 等伎波奈流 麻都能左要太乎 和礼波牟須婆奈

八千種の 花は移ろふ 常盤なる 松のさ枝を 吾れは結ばな 

やちくさの はなはうつろふ ときはなる まつのさえだを われはむすばな

色とりどりの花はいつかは色褪せる
常に変わらぬ松の枝を私たちは結びましょう




20 4502;天平宝字2年2月,作者:甘南備伊香,宴席,中臣清麻呂,宴席讃美

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)

[左注]右一首大蔵大輔甘南備伊香真人


烏梅能波奈 左伎知流波流能 奈我伎比乎 美礼杼母安加奴 伊蘇尓母安流香母

梅の花 咲き散る春の 長き日を 見れども飽かぬ 礒にもあるかも 

うめのはな さきちるはるの ながきひを みれどもあかぬ いそにもあるかも

梅の花が散る春の永い一日
ずっと見ていても
飽きることのない磯ですことよ



20 4503;天平宝字2年2月,作者:大伴家持,宴席,中臣清麻呂,主人讃美,恋愛

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)

[左注]右一首右中辨大伴宿祢家持


伎美我伊敝能 伊氣乃之良奈美 伊蘇尓与世 之婆之婆美等母 安加無伎弥加毛

君が家の 池の白波 礒に寄せ しばしば見とも 飽かむ君かも 

きみがいへの いけのしらなみ いそによせ しばしばみとも あかむきみかも

お宅の池の白波が繰り返し磯に寄せるように
幾度見ても見飽きるようなあなたでしょうか



20 4504;天平宝字2年2月,作者:中臣清麻呂,宴席,恋愛

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)

[左注]右一首主人中臣清麻呂朝臣


宇流波之等 阿我毛布伎美波 伊也比家尓 伎末勢和我世<古> 多由流日奈之尓

うるはしと 吾が思ふ君は いや日異に 来ませ吾が背子 絶ゆる日なしに 

うるはしと あがもふきみは いやひけに きませわがせこ たゆるひなしに

ご立派な方とお見受けするあなた
これからは日を追っていよいよ
絶える日なくおいでくださいな

* 「いやひけ‐に」弥日異に [副]日を追っていよいよ。日増しに。



20 4505;天平宝字2年2月,作者:大原今城,宴席,中臣清麻呂,序詞,主人讃美,忠誠

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)

[左注]右一首治部少輔大原今城真人


伊蘇能宇良尓 都祢欲比伎須牟 乎之杼里能 乎之伎安我未波 伎美我末仁麻尓

礒の浦に 常呼び来住む 鴛鴦の 惜しき吾が身は 君がまにまに 

いそのうらに つねよびきすむ をしどりの をしきあがみは きみがまにまに

庭の磯の入江に
いつも呼び交わしながら来て
棲みついている鴛鴦ではありませんが
そのオシという言葉のように惜しい
二つとない吾が身は
すべてあなた様のお心のままにいたします




20 4506;天平宝字2年2月,作者:大伴家持,宴席,中臣清麻呂,依興,高円,離宮,宮廷,懐古,聖武天皇

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)依興各思高圓離宮處作歌五首

[左注]右一首右中辨大伴宿祢家持


多加麻刀能 努乃宇倍能美也<波> 安礼尓家里 多々志々伎美能 美与等保曽氣婆

高圓の 野の上の宮は 荒れにけり 立たしし君の 御代遠そけば 

たかまとの ののうへのみやは あれにけり たたししきみの みよとほそけば

高圓の野の宮は荒れてしまいました
そこにお立ちになった「於保吉美」の治世も
遠い昔になってしまったので



20 4507;天平宝字2年2月,作者:大原今城,宴席,中臣清麻呂,依興,高円,離宮,宮廷,懐古,聖武天皇

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)(依興各思高圓離宮處作歌五首)

[左注]右一首治部少輔<大原>今城真人


多加麻刀能 乎能宇倍乃美也<波> 安礼奴等母 多々志々伎美能 美奈和須礼米也

高圓の 峰の上の宮は 荒れぬとも 立たしし君の 御名忘れめや 

たかまとの をのうへのみやは あれぬとも たたししきみの みなわすれめや

高円山の野に建つ宮は荒れてしまったが
そこにお立ちになった「於保吉美」の
御名をお忘れることはない
 

* 高円山は奈良の春日山と地獄谷を挟んで南方の462mの山。当時は狩りが行われたり、季節の野遊びが行われていた。その野原もすっかりさびれてしまったと、時代を懐かしんでいる。
* 聖武天皇の陵墓は奈良市法蓮町の佐保山南陵にあり、高円山の南東の田原西陵に埋葬されたのは志貴皇子である。
* 草壁皇子は「王」だが大嘗祭を執り行ってないので「大王」ではなく、大王、大皇、王など訓読みで一律に「大君」の表記を行なうことや、「おほきみ」=天皇の解釈は間違いであることから、万葉仮名で「於保吉美」と記されているから「おほきみ」=天皇とは決められない。親王も「王」の「おほきみ」で、「みこ」皇子と御子との違いの風景である。
* ここでの「於保吉美」は2年前に崩御された聖武天皇か、40年前に亡くなられた志貴皇子か、疑ってみると歌の背景も変わってくる。



20 4508;天平宝字2年2月,作者:中臣清麻呂,宴席,依興,高円,離宮,宮廷,懐古,聖武天皇,序詞

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)(依興各思高圓離宮處作歌五首)

[左注]右一首主人中臣清麻呂朝臣


多可麻刀能 努敝波布久受乃 須恵都比尓 知与尓和須礼牟 和我於保伎美加母

高圓の 野辺延ふ葛の 末つひに 千代に忘れむ 吾がかも 

[たかまとの のへはふくずの すゑつひに] ちよにわすれむ わがおほきみかも

高円山の野辺に這う葛がどこまでも続くように
千代の末までもお忘れすることがありましょうか
吾らの「於保吉美」を



20 4509;天平宝字2年2月,作者:大伴家持,宴席,中臣清麻呂,依興,高円,離宮,宮廷,懐古,枕詞,聖武天皇

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)(依興各思高圓離宮處作歌五首)

[左注]右一首右中辨大伴宿祢家持


波布久受能 多要受之努波牟 於保吉美<乃> 賣之思野邊尓波 之米由布倍之母

延ふ葛の 絶えず偲はむ 「於保吉美」の 見しし野辺には 標結ふべしも 

[はふくずの] たえずしのはむ おほきみの めししのへには しめゆふべしも

野に這う葛のように途切れることなく
絶えずお偲びしよう
「於保吉美」がご覧になった野辺に
標しを結いつけておくことにしよう
  



20 4510;天平宝字2年2月,作者:甘南備伊香,宴席,中臣清麻呂,依興,高円,離宮,宮廷,懐古,聖武天皇,悲嘆

[題詞](二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首)(依興各思高圓離宮處作歌五首)

於保吉美乃 都藝弖賣須良之 多加麻刀能 努敝美流其等尓 祢能未之奈加由

「於保吉美」の 継ぎて見すらし 高圓の 野辺見るごとに 音のみし泣かゆ 

おほきみの つぎてめすらし たかまとの のへみるごとに ねのみしなかゆ

「於保吉美」が今なをお治めになっていられるだろうと思えば
この高円の野辺を見るたびに声を挙げて泣かずにはいられない


yahoo《やまとねこ》さんのブログ【「日本」とは何か】自分の国の国名の由来は謎の謎! 

【「元正天皇」(女帝)の謎】
http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/64546189.html
元正天皇は奈良時代の女性天皇です。
44代天皇で、この時に日本書紀が編纂されました。
つまり、この女帝の時に「日本国」の国名が生まれたのです。
680年生まれ748年崩御 享年67歳
当時としては長生きです。
天皇在位期間715年10月3日 34歳から724年3月3日まで 8年間です。
元正天皇は、独身だったのです。
この女性は、健康で美しかったのです。
「美貌の女帝」という小説まで書かれています。
67歳まで生きたということは、健康だったということです。
健康で、美しい女性が、なぜ独身だったのでしょうか。
天皇になったのは34歳です。
天皇になってからは結婚しにくいことは考えられますが、当時の結婚適齢期は、女性は15歳くらいではないでしょうか。
もっと若いかもしれません。
元正天皇は、15歳になる前から、「将来二十年後に天皇になるから独身でいるように」と親から結婚を止められたのでしょうか。それは考えられません。
32代文武天皇が崩御されたのは、707年です。その時、元正天皇は26歳なのです。
元正天皇の三歳下の文武天皇が、697年即位しました。元正天皇が16歳の時です。
この時点で、元正天皇は、天皇になる見込みはなくなったのです。
まさか、弟の文武天皇が23歳で崩御するとの予言はあるはずがないのです。
なぜ元正天皇はご結婚なさらなかったのでしょうか。
私の答え:
元正天皇は、長屋王とご結婚していた。
ではさらなる「大疑問」それならなぜ「隠した」のか。
隠した理由は何か。
可能性1 元正天皇と長屋王が結婚していたら、当然長屋王が天皇になるはずです。
長屋王の父方は天武天皇がお祖父さんで、母方は天智天皇がお祖父さんなのです。
長屋王が天皇であったことを隠さなければならない事情があった。
可能性2 そもそも元正天皇の弟の文武天皇は「架空天皇」であった。
文武天皇は「軽皇子」です。「かる」とは「ありえない」という意味があるのです。
可能性3 私たちが想像もできないことが「隠されている」のでは。
追記:この大きな秘密は「せっかく隠されている歴史」なので、今更暴くことはないと思います。秘密のままにしておきたいのですが、どうでしょうか。


【「や」は「二番目に良い」】
http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/64546411.html
「や」が「二番目に良い」で、「う」が「一番良い」です。
私にとっては基本中の基本、弥生語の「いろは」です。
しかし、これが深刻な事態を招きます。
「大和」が二番目だということになるのです。
では「大和」より良いのは「宇治」なのです。
日本は大和の国の発展です。
では宇治の国はどうなったのでしょうか。
二番目の国が、日本になったのです。
一番の国は「隠れた」のです。
老子道徳教 四十一章 「道は隠れて名無し」
上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以爲道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若纇。上徳若谷、廣徳若不足、建徳若偸。質眞若渝、大白若辱、大方無隅。大器晩成、大音希聲、大象無形。道隱無名。夫唯道、善貸且善成。
上士道を聞いて、これを勤めて行う。
中士道を聞いて、有るが如し無きが如し。
下士道を聞いて、大いにこれを笑う。
笑わざれば、道に足らざるなり。
建言にこれあり。
明道は暗きが如く、進む道は退くが如く、
平の道は、曲がるが如し。
上徳は谷の如く、広徳は足らざるが如く、建徳は変わるが如く、質真は変ずるが如く、大白は辱が如く、大方は隅なし。
大器は晩成し、大音は希声、大象は形なく、道は隠れて名無し。
それ唯道は、善く貸して、且つ善く為す。

日本は老子の島です。
道徳教をよく読み、真の「言霊」を体得しなければいけません。

2016/6/23(木)
【「日本」は「にほん」か「にっぽん」か】
http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/64546763.html
現在「日本」は、「にほん」と読まれたり「にっぽん」と読まれたりしています。
しかし、本当はどっちかです。
「本当は」というのは、「言霊的には」と言う意味で、「あまり気にされると困るので」という表現です。
「ぱぴぷぺぽ」という発音は、古代日本にはなかったということです。
戦国時代に外来語から入ってきた発音なのではないでしょうか。
「にほん」が本当でしょう。
「に」と「にっ」でも意味が違うのです。
「に」は「天孫降臨ににぎの命」の「に」で、「天皇」「神」「都」の意味です。
「にっ」とは「にせ」の意味があるのです。


【邪馬台国に卑弥呼はいない】
http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/64546800.html
魏志倭人伝の邪馬台国はどこか。なかなかむずかしいです。
なぜ難しいのかがわかりかけましたが、「邪馬台国」と「卑弥呼の国」は別の国ではないかと思うのです。
「ひみこ」は「日の皇女」「日の皇子」どちらとも書けますが、
内容から言って、「ひみこ」は女性のようです。
なので、「日の皇女」です。どうも古代日本には、「雨乞い」と「晴れ乞い」があって、その神主、巫女が別なようなのです。
「日の皇女」とは、「晴れ乞い」が得意な女王ということになります。
「女王」ということは、日本では「女性天皇」ということになります。
奈良時代以前は、日本は大和政権と九州政権があったのです。
女性天皇は九州政権にも例外的にありましたが、大和政権では、女性天皇が通常でした。なので、「卑弥呼」は大和政権の女王です。
しかし、「やまと」は九州王権でも言ったのです。
ただし「やまと」の「と」の発音が違ったのです。
「大和」の「と」は詰まる音です「とっ」です。
九州の「やまと」は「山門」と書きました。
「とぅ」と発音するのです。
「邪馬台国」の「やまたい」はどう考えても「詰まる音」ではありません。
「邪馬台国」は九州王朝の意味です。
この魏志倭人伝の作者は「わざと混乱させた」のではないですか。


【魏志倭人伝の作者は天皇にお会いしたのでは】
http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/64546873.html
魏志倭人伝の作者は、大和まで実際に行ったのではないか。そして神武天皇と同じように、大和を見てびっくりしたのです。
そして、大和は「蓬莱島」だと悟り、「大和を隠した」のです。
中国から日本に来ても、邪馬台国にはたどり着けないのです。


【魏志倭人伝の筆者は壱与にお会いしたのではないか】
http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/64547178.html
女王の統治する国があると聞いたら、冒険好きな歴史家なら、実際に行ってみよう、出来たら女王様にお会いしたいと思うでしょう。
魏志倭人伝の筆者は陳寿という人で、大和まで来たのです。
卑弥呼は崩御されていましたが、壱与の息子が王となり統治していたのです。
十五代応神天皇です。
壱与は、神功皇后です。
応神天皇は中国語を話せたのです。
応神天皇は中国から来た天皇です。
中国から来た天皇は古代に四人いらしたのです。
神武天皇、綏靖天皇、応神天皇、雄略天皇です。


【古代中国山東省に「日本人村」があった】
http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/64547190.html
古代中国山東省には、「徐福村」があったのです。
飛鳥時代、大化改新で消滅しました。
十五代応神天皇と、二十一代雄略天皇は、中国山東省の日本人村から来たのです。
雄略天皇のお祖母さんは、大和の女性天皇で、九州王朝の仁徳天皇の侵略を受け、中国に亡命したのです。


【弥生人は雨を何と呼んだのか】
http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/64547199.html
弥生語で、「あめ」とは、「悪い女性」の意味です。
「あ」は「悪い」「め」は女性の尊称です。
弥生人は雨乞いのために神社を作ったので、「雨」を「悪い女」というはずはありません。
空を「は」と言いました。雲を「ふ」と言いました。
しかし、「雨」の音はないのです。
それは「雨」とは、ものではなく、現象だからです。
雲から水滴が降って来るのが「雨現象」なのです。
弥生人は、雨を「ふり」と呼んだのです。
「ふり」とは「雲が厚くなった結果」という意味です。
弥生人は大天才なのです。


【「ら」は過去形である】
http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/64547648.html?vitality
基本的に、「らりるれろ」は、語尾に来て、頭には着きません。
もし「りす」が和語なら、例外です。
「ら」は「過去形」です。基本は「から」です。
「か」は「稲」です。「から」とは、「昔稲であった」という意味で、「今はもみ殻」という意味です。
生き物や、人間も、死んで命がなくなったら、「から」になります。
「なきがら」ですが、「からだ」(体)はその意味が語源です。
弥生人は、体と命を分けていました。
命を「み」と言って、「見える神」としました。
現代の最高の宗教に匹敵しますよ!
中国のことを「唐」(から)と言いますが、「漢」も「から」と読むのです。
それは、「稲は昔中国から輸入された」と言う意味です。
「韓国」は「からくに」と読みますが、それは九州王朝が韓国を領土に持っていたからです。九州を「からくに」と呼んだのです。
「韓国岳」(からくにだけ)が鹿児島と宮崎にまたがっています。
九州王朝を「からくに」と呼んだのですが、九州王朝がなくなり、その一部の朝鮮南部が「からくに」として残ったのです。
朝鮮から稲が輸入されたからではありません。
「から」が「稲は昔そこから移入された」という意味だったので「フロム」の意味になったのです。
「○ら」は「昔○だった」と言う意味なので、「なら」(奈良)は、「昔なだった」と言う意味になります。
「な」とは弥生人最高指導者のお名前ですが、「神」「天皇」「都」の意味になりました。
「なら」とは「古都」の意味です。
平城京は藤原不比等と元明天皇は、「昔の都」の「奈良の都」を作ったのです。
ただし、「昔の都」より5キロくらい南ですが。


【邪馬台国の卑弥呼は「おおたたねこ」である】
http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/64547688.html
「ひみこ」は女性だと思い込んでいますが、「日の皇子」とも「日の皇女」とも書くことができます。
「おおたたねこ」も男性か女性かわからないのです。
しかしせっかく「卑弥呼」を見つけたので、「おおたたねこ」は女性だとしてお話を進めましょう。
「ねこ」も男女共用なのです。
「やまとねこ」という天皇は、男性も女性もいらっしゃるのです。
私はちなみに男性です。
さて、魏志倭人伝に、男性の王では国が治まらず乱れ、女王を立てると国が治まったと書いてあるのです。
卑弥呼の後の「壱与」(いよ)(いと)が15代応神天皇のお母さんとしたら、卑弥呼の時代は数代天皇が遡ります。
10代天皇の崇神天皇の時代が、疫病で国民が減ってしまい、神に祈ると「おおたたねこ」をまつりなさいと、神がかりに言われ、三人の大臣も同じ夢を見ます。
そこで国中を探すと、「ちぬ」に「おおたたねこ」がいらして、お祭りすると国が治まるのです。
「おおたたねこ」が「卑弥呼」で、「ちぬ」に邪馬台国があったのです。
「ちぬ」とは何かまた書きますが、「おおたたねこ」と「ひみこ」が「同じ意味」かどうかを調べましょう。
もちろんやまとねこ流の「言霊」で調べるのです。
「ひみこ」とは「日の巫女」で、「晴れ乞いの巫女」なのです。
さて、「おおたたねこ」は「晴れ乞い」でしょうか。「雨乞い」でしょうか。


【「卑弥呼」と「おおたたねこ」の意味は同じか】
http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/64547795.html?vitality
名前は記号で、意味なんかナンセンスだという方は、全く歴史をご存じないのです。
名前と言うのはとても重要なのです。
生まれた赤ちゃんの名前でも、両親が考えた挙句につけるのです。
この子が幸せになるようにとの祈りがこもっているのです。
日本の古代人の場合は、その方が亡くなってからつけた、諡号(贈り名)です。
「この方はこんな方でこんな実績を残した」という意味が名前にあるのですから、古代人の名前は、発掘された遺跡と同じ価値があるのです。
さて、日本の古代には、「雨乞い」と「晴れ乞い」がありました。
しかし、「雨を降らす神」と「太陽を照らす神」が、どうも違う神のようなのです。
神は万能で、全知全能で、天も太陽もどちらもできると言われればそうなのかもしれませんが、日本の古代では「はっきり役目が別れていた」可能性が高いのです。
神様が別ということは、神主や巫女も、聖地や神社も別と言うことです。
祈りや儀式も違ったのですね。
つまり、「卑弥呼」は「日の巫女」なので、「晴れ乞い」派なのです。
では「おおたたねこ」はどちらなのでしょうか。
「おお」と「たた」がかぶさっていますね。
「お」は「良い」ですが、神が降りてくる磐座も「お」です。
しかし磐座の場合は語尾に「お」がつくのです。
「たおたおねこ」とか。
最初につく「お」は、太陽と月です。
「おお」とは「太陽と月が雲間から出て雨が止む」という意味です。
「たた」は「山山」で、「双子の山」「二上山」です。
「ねこ」は「天皇の子供」です。


【「大和」(やまと)にも「山門」(やまと)があった!?】
http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/64547810.html
「やまと」にはふたつあります。「大和」と書くと、スポットの意味になります。つまり「聖地」「聖山」のことです。
近畿大和の「大和」は「二上山」です。
注:しかし、その前の大和は「大和葛城山」でした。「大和」とは「代名詞」なので、変わるのです。
「やまと」を「山門」と書くと、意味が違います。
「山門」とは「鳥居」の意味です。
中国では皇帝の住む都に神様が鳥になって飛んでくるのです。
その鳥が止まりやすいように門を作ったのです。
それを「鳥居」と言いました。なので、「山門」とは、都の意味です。
なので、河内王朝にも「大和」(聖地)と「山門」(都)の両方があったのです。
「邪馬台国」の「やまたい」は「山門」の意味ですね。
たぶん、「山門」には「港」の意味も含んでいると思います。
なので、これだけは言えます。
「港のない奈良盆地には邪馬台国はなかった」と。
「おおたたねこ」とは、「大和の聖地二上山で晴れ乞いをする女性天皇」の意味です。
邪馬台国は、二上山の西、大阪河内の「ちぬ」にあったのです。
邪馬台国は河内王朝のことです。

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