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【「大和朝廷」にあって「九州王朝」にないもの三つ】 「大和朝廷」は女性天皇の国でしたが、「九州王朝」は男性天皇の国でした。 なので、九州王朝で天皇が女性だった時代は二度しかありません。 「前方後円墳」は九州王朝では作られませんでした。 それは大和と九州の宗教が違ったからです。 「前方後円墳」は宗教施設なのです。 「宇治」が九州にはありません。 本当はあったのですが、「浦」に書き換えられてしまったのです。 逆に九州王朝にあって大和朝廷になかったもの。 「男性天皇」 「奴隷」 「みみ」(天皇の称号) 「軍隊」 九州王朝は「男系」で、大和朝廷は「女系」です。 さて、飛鳥時代に九州王朝は滅びるのですが、壬申の乱後、九州王朝の天皇系が復活するのです。 ところが、奈良時代と平安時代は天皇系が途切れているのです。 それを繋いだのが、「藤原氏」です。 なので、現在の天皇は「藤原系」です。 「藤原」ってすごいのですよ! 【「はれ」(晴れ)の反対は「ひろ」(広)】 「は行」は「見えない霊」ですが、実際は天体です。 「は」は「空」 「ひ」は「太陽」 「ふ」は「雲」 「へ」は「地平線」 「ほ」は「見えない霊」ですが「星となって表れる」のです。 「れ」と「る」はどちらも、「神様への祈り詞」です。 違いは何となくしか分かりません。 「はれ」とは「空へのお願い」です。 「ひろ」とは「太陽へのお願い」です。 この二つの祈り詞が、反対の意味なのです。 「空」へお願いするのは、「雨を降らせてもらう」「雨乞い」です。 「太陽」へお願いするのは、「太陽が現れる」ことなのです。 「ひろ」とは「晴れ乞い」の祝詞で、「ひろし」(広し)とは、雲が亡くなり青空が広がったことを言います。 何故、「はれ」が「雨乞い」から「晴れ」になったのでしょうか。 どうも「はれ」を「晴れ」としたのは「聖徳太子」のようです。 【「月」を「はり」と呼んだのではないか】 「は行」は「見えない霊」ですが実際は天体です。 「は」は「空」「ひ」は「太陽」「ふ」は「雲」「へ」は「地平線」 「ほ」は「見えない霊」ですが「星」として見えることもあるのです。 ここまでは良いのですが、何故「月」が「は行」ではないのでしょうか。 「つき」とは「津稲」の意味で、「月には田んぼはない」という意味なのです。きっと、お父さんのおもいかねの命と息子の少彦名の命の、おとぎ話の中にあったのです。 おもいかね命は少彦名の命の子供の時に亡くなってしまいました。 しかし天才少年の少彦名の命は全部覚えて「日本語にした」のです。 私たちが今使っている日本語は、少彦名がお父さんの思い出として作った言葉なのです。 さて、月が「は行」ではないかと思っていました。 「はり」は「針」で、三日月だとはわかりました。 三日月は弓月です。 それで、弓を「張る」のです。 しかし、「はり」には「水が張る」という意味もあります。 「お肌に張りがある」と言います。 弥生人はお月様のことを「はり」と言ったのです。 三日月も満月も「はり」だったのです。 2016/7/17(日) 【「日本」も枕詞だったのではないか】 「天皇」も「大和」も「日本」も、皆枕詞だったのかもしれませんね。 「大和」は難しいので、「日本」を説明いたします。 「日本」は「ひのもと」と読みます。 「ひのもとのやまと」と言いました。 「ひのもと」とは「東」の意味なのですが、ここでは「太陽の下の」と言う意味です。 「太陽の下」とは、「太陽が照っている」「天照」と言う意味です。 つまり、「伊勢神宮の」「晴れ乞いの」という意味なのです。 やっぱり難しいでしょうか。 枕詞なので、反対枕詞があるのです。 「太陽の下ではないやまと」です。 「雨が降っているやまと」です。 「あめたりしやまと」と言うのです。 「天垂山門」と書きます。九州天皇のことです。 隋書「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に、「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」と書いてあります。 倭王の姓は「あめ」で字は「たりしひこ」号は「阿輩雞彌」(不明) 「あめたりし」とは「天孫降臨」の意味もありますが、「雨乞い」の意味も含まれているのではないでしょうか。 【「すさのう命」の「すさのう」とは「天皇」の意味ではないか】 「天皇」という概念は、雄略天皇が創ったのだと思うようになりました。 弥生人は、自分たちのリーダー「ににぎの命」が、お空から宮崎の高千穂に舞い降りたとは思いませんね。 一緒に船で中国台湾か杭州から渡ってきたのですから。 神武天皇も、九州王朝、大和朝廷の支配者を「天皇」(空から舞い降りた王の子孫)とは思わなかったのです。 21代雄略天皇がどうして「天皇」を発明したのか、その理由はまだわかりませんが、少しづつ解明は進んでいるのです。 神武天皇が日本に渡来した時は、天皇を「すめらみこと」と言ったのです。 ではその前の出雲語では「天皇」を何と呼んだのでしょうか。 「すさのう」と言ったのです。 ところで、「すめらみこと」の「すめ」の意味が面白いのです。 「す」は「すさのう」ですが、「め」は「くしなだ姫」なのです。 日本は古代の古代から天皇ご夫婦、神様御夫婦は仲が良いのですね。 だから民は幸せなのです。 ではもっとさかのぼって、弥生人は「天皇」を何と呼んだのでしょうか。 思いつくのは、「宇治山田」です。 【「すさのう命」とは「二人体制」の意味】 「すさのう命」は誰なのか、なかなか実態をつかみきれなかったのです。 昨日のブログに「すさのう命は天皇の意味」を書いた後気が付いたのです。 http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/34804991.html 「すさのう」の意味を考えたのです。 「す」は「一番」「さ」は「二番」「のう」は「王」です。 注:なぜこう解釈できるのかは、「さ行」と「神武天皇が持ってきた中国語」で詳しく書きます。 「すさのう」は「一番と二番の王様」という意味になります。 今までは、すさのう命は「大王」なので、「一番」と「二番」を兼務したと考えていたのです。 しかし、「すめらみこと」の「すめ」が「天皇皇后両陛下」の意味だと自分下何気なく書いていて、では「すさ」もそうなのではないかと気が付いたのです。 弥生人は「天皇」を「宇治山田」(うじやまだ)と呼んだとも書きました。 「宇治」とは「一番」で、「山田」とは「二番」の意味です。 「山田」が「大和」になったのです。 「宇治」は「天皇」で、「大和」(山田)が総理大臣なのです。 日本の統治は「天皇」と「総理大臣」のお二人が中心となって治めたのです。 「天皇」が「神様事」を司り、「総理大臣」が「民の政治」を行いました。 とすると、「すさ」の意味も、「す」が「天皇」で、「さ」が「総理大臣」かもしれません。 少彦名の命は、弥生人で、おもいかね命と天うずめ命との間に生まれました。 出雲の国に稲作を伝えに行った最中に生まれ、少彦名の命は出雲で育ったのです。お父さんもお母さんも少彦名命の子供のうちに亡くなりました。 出雲の王様は、大変少彦名をかわいそうに思い、長男の大国主命の弟として、とても大切に育てたのです。 そして、なんと、出雲の王様は、次の国王を自分の長男、大国主命ではなく、弥生人の少彦名の命に継がしたのです。 これを「出雲の国譲り」と言うのです。 少彦名と大国主命はとても仲が良く、お二人で国を富ませ、大きくしていきました。 この出雲の国が、九州王朝と大和朝廷を作ったのです。 そして、このお二人を「すさのう」と呼んだのです。 日本は古代から、天皇と総理大臣が仲良く政治をしていたのですね。 「世界が平和でありますように」 【桃から生まれた桃太郎】 「桃太郎」は「もも」から産まれたのです。 さあ、「もも」とは何でしょうか。 普通の人間は桃からは生まれず、人間のお母さんから産まれるのです。 なので、「ももから産まれた」というからには、「もも」に秘密があるのです。 「もも」とは何でしょうか。「もも」は「も」と「も」です。 「も」とは何でしょうか。 「ま行」は「見える霊」です。「ま」は「弥生人の男性」 「み」は「実」で「生命」の意味です。 「む」は「弥生人以外の民族の女性」です。 「め」は「弥生人の女性」です。 「も」は「弥生人以外の男性」です。 「も」とは「出雲人」でしょうか。「渡来人」でしょうか。 「ももから産まれた」とは「二人の弥生人以外から産まれた」と言う意味です。 男性二人の王様と言うのは、少彦名のこの場合は「まも」となります。 少彦名の命は両親とも弥生人なのです。 神武天皇と綏靖天皇(徐福)が、九州王朝と大和朝廷と東の国を一緒に作りました。 このお二人は中国人で「も」でしょう。 「ももから産まれた」とは、神武天皇と綏靖天皇の子孫という意味でしょうか。 桃太郎伝説は雄略天皇が作られたお話なので、桃太郎は雄略天皇ご自身です。 雄略天皇は応神天皇のひ孫です。 まだ本当の系図がよくわかりません。 吉備団子を食べて日本一になるのですから、キーワードは「吉備の国」です。 家来は、猿、雉、犬です。 百済と吉備と大和でしょう。 九州の方には申し訳ありませんが、鬼が島とは「九州王朝」です。 【「はる」(春)は「梅雨」である】 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香久山 持統天皇のお歌ですが、実際の作者は元明天皇です。 という話題ではなくて、「はる」が「梅雨」だったのではないか、という提案です。 「は」とは「空」です。「る」とは「継続」です。 「はる」とは「空がづっと続く」という意味です。 弥生人は、太陽(ひ)の仕事を「晴れ」と考え、空の仕事は「雨を降らすこと」だと思っていたのです。 「はる」とは「雨が続く」ことで、「梅雨」です。 冬(ふゆ)は「雪が溶ける」夏(なつ)は「お盆に天皇が海に入りみそぎをする」秋(あき)は「悪い虫がいなくなる」と言う意味です。 冒頭の、「春過ぎて 夏来にけらし」とは、「梅雨が明けたのね、いよいよ夏本番だわ」と言う意味です。 【鐸比古鐸比賣神社】 今月の始め、私は友人と信貴山に登ってきました。 とても暑い日でしたが、山道は涼しく、快適に歩いたり走ったりしました。 友人は大阪側の近鉄恩智駅で帰りましたが、私は、八尾市柏原市の麓道をとことこ走ったのです。 実はここに「飛ばない鳥の明日香」「おおとりの飛鳥」があったと探すのが目的でした。 しかし、麓道はとても暑くて、一時間でリタイア。 コンビニに駆け込み冷たいスポーツドリンクを三本も飲み干したのです。 近鉄の最寄り駅まで行く途中で、不思議な神社を見つけました。 「若倭媛神社」と言います。 この神社で感じ取ったことは、とても重要なのでまた改めて書きます。 そして私ととてもゆかりの深い神社がありましたので、 真を撮ってきました。 この神社は二回目です。 「鐸比古鐸比賣神社」と言いますが、「ぬでひこぬでひめ」と読ませているようです。 「ぬで」とは「漆」の意味です。 うるしなら植物なので木偏か草冠でしょう。 「鐸」は金偏なので、私は「すず」と読みます。漢和辞典にも「すず」と載っていて、「大きな風鈴」と書いてありました。 「すずひこすずひめじんじゃ」と呼んでいるのです。 そして、「すずひこ」は神武天皇、「すずひめ」は皇后のひめたたらいすず媛です。 「すず」とは何でしょうか。 「す」は「すさのうの命」の意味で、「一番」と言う意味です。 「すず」とは、「最高の最高」という意味なのです。 なぜ「すず」が「最高の最高」なのでしょうか。 それは、「すず」とは「鉄器の中の最高の最高」という意味です。 では、最低の最低の鉄器とは何でしょうか。 それは「人間を殺める武器」の意味です。 そして、「とても良い鉄器」は「鍋などの生活用品」「農機具」です。 最高の最高の鉄器は「すず」です。 「すず」とは「神様をお呼びする鈴」なのです。 関西の梅雨明けはまだでしょうか。 今日も雨模様、まだ「春」なのです。 ところで、私は百人一首の最初から三番目(浪速津の歌を入れて四番目)までが、シリーズ和歌だと気が付きました。 またゆっくり書きます。 【孔席暖まらず墨突黔まらず】 私は、キリスト教なら「洗礼のヨハネ」派です。 ユダヤ教なら「ヤコブの息子ヨセフ」派です。 仏教なら「阿弥陀教」ですが、日本の仏教なら空海様か道元様か法然様です。 中国の思想家なら、老子教徒でしょうが、最近は「おおとりの飛鳥」に魅せられて、荘子教徒になっています。 しかし、大切な方を抜かしていました。 その方を「墨子」と言います。 「墨守」という熟語をご存知でしょう。 「とても固い守り」「破ることのできない守り」を言います。 日本が他国から侵略されない国であることは、「墨守の国」かも知れません。 二代目天皇綏靖天皇は別名徐福と言いますが、この方が「墨家」なのです。 徹底した「平和主義」ですが、 単なる「護憲派」とは違い、「徹底的に守る」のです。 日本を1500年もの間、他国から守ったものは何なのでしょうか。 島国だからではありません。 イギリスだって、台湾だって、フィリピンだって、他国の侵略を受けているのです。 その秘密は二つの神社にあります。 八幡神社と稲荷神社です。 「やわた」とは何でしょうか。伏見稲荷のたくさんの鳥居は何のシンボルでしょうか。 「墨突黔まらず」です。 2016/7/18(月) 【「ふ」は「雲」である】 は行」は「見えない霊」ですが、実際は天体です。 「は」は「空」「ひ」は「太陽」「ふ」は「雲」「へ」は「地平線」 「ほ」が「見えない霊」で、星になって光るのです。 「ふ」は、「ふわふわ」となり、蝶々は「てふてふ」など、空中を浮遊するものも「ふ」となります。 「ふ」は「雲」です。弥生人は、「雲の仕事は雨を降らす」と考えました。 雨のことを「あめ」とは言いませんでした。 「あめ」とは「悪い女性」の意味です。 弥生人は雨を「ふり」と言いました。 「ふり」とは、「雲が厚くなった結果」という意味です。 「ふる」とは「ずっと雨が続く」という意味です。 「古い」は「古し」です。「し」とは「形容詞の語尾」ではなく、具体的な現れなのです。 「ふるし」とは、「昔からある磐座で雨ごいをするとよく雨が降って降り続く」と言う意味です。 「ふる」(古)とはとても良い意味だったのです。 【神社を「ふるや」(古屋)と言った】 神社のことを、和語では「やしろ」と言います。 しかし、「やしろ」とは、「雨乞いの祝詞」なのです。 弥生人は神社を作ったのですが、その神社を「ふるや」と呼んだのです。 「ふ」は「雲」です。 「る」は「ずっと」です。 「や」は「二番目に良い」です。 「ふる」は「雲がずっと働く」という意味で、「雨が良く降る」という意味です。 雨乞いで一番良いのは、「ふるし」磐座なのです。前項参照下さい。 さて、大問題です。 「ふるや」には屋根がありました。 雨乞いには屋根がある方が効果的と弥生人は考えたのです。 その理由は何故でしょうか。 【神社には何故屋根があるのか】 神社は最初雨乞い施設だったのです。 弥生人は神社を「ふるや」と言いました。そして「ふるや」には屋根があったのです。 「屋根」の語源は「ふるや」なのです。 何故雨乞い施設に屋根が必要なのでしょうか。 雨乞いは雨が降っていないからするのです。屋根はいらないのです。 その答えは、「神様どうか雨を降らせて下さい。雨が降っても私たちは屋根があるので濡れる心配はありません」と巫女達はお祈りしたからです。 【「晴乞い」は命掛けであった】 雨乞いは、屋根のある宗教施設でしまいたが、晴乞いは、山の頂上で、雨晒しでしたのです。 基本的に雨が止むまでお祈りをするので、風邪をひいたり、雷に打たれてなくなった巫女達もいたのです。 弥生人は日本に渡来した時に、晴乞いを禁止しました。 では何故、伊勢神宮の内宮の神様は、天照大神なのでしょうか。 天照大神は晴乞いの神様なのです。 「百済」は何故「くだら」と読むのか。 それは「百済久陀良」と書いて、「ももとせのくだら」と読んだからです。 それで「百済」だけで「くだら」と読むのです。 「新羅」も枕詞ではないでしょうか。 「あらたなしらぎ」「新羅たな白城」と書いたのです。 「新羅白城」です。それで「新羅」だけで「しらぎ」と読むのです。 つまり、もう一つの「しらぎ」があったのです。 「いにしえのしらぎ」で、「古辺白城」と書きました。多分百済の意味です。 「白城」とは何でしょうか。思いつくのは、「葛城」です。 葛城氏は、中国、百済、新羅、九州、大和と渡来した、天皇家のことです。 【】
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万葉集索引第二十巻
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2016/7/20(水) 【「天皇」と「皇帝」の違い】 日本史を研究している方で、「天皇」の意味を知らない方が多いので、びっくりしています。 中国の皇帝と日本の天皇は違うのですが、どこが違うのかわからないのです。 その日本歴史家の欠点は、「宗教観念の無視」なのです。 私は不思議でたまりません。 「天皇」という存在は、神社と共にあるのです。 神社の教祖様が「天皇」なのです。 「天皇」と「日本の神社」は切り離すことができないのです。 残念ながら、中国には神社がありません。 儒教といっても宗教ではないのです。 もちろん。共産主義になってからは、宗教自体が迫害されてしまいましたので、全くお話にならないのです。 日本人は誰でも知っているのに、日本史の歴史研究者はそれを「見ないふり」「知らないふり」をするのです。 「雄略天皇」は「大長谷若武命」と書くなら本格的ですが、 「雄略帝」と書く方がいます。 「○○帝」なんて、どこの国から持ってきた概念ですか。 呆れるばかりです。 【聖徳太子が十七条憲法を作らなければならなかった理由があった】 親が子供たちに、「仲良くしなさい」「喧嘩をしてはいけません」と言う理由は、子供たちが喧嘩をしているからなのです。 聖徳太子の内、「聖徳大和太子」が十七条憲法を作りましたが、「和を以て貴しとなす」と言わなければならなかった、事情があったということです。 なんと、法隆寺を作ったもう一人の聖徳太子、「聖徳九州天皇」が、神社宗教を弾圧したのです。 蘇我氏が物部氏を滅ぼした。聖徳太子も参戦したとの歴史書の記述は、そのことを言ったのです。 雄略天皇の時代は、神社が仏教を弾圧しました。 聖徳大和太子は、宗教の上に「和」をもってきたのです。 【聖徳太子(大和)の別名「押坂彦人大兄王」の意味】 聖徳太子はお二人いました。 九州王朝の聖徳太子は、天皇であり、仏教信者で、法隆寺や四天王寺を建てたのです。 もう一人の聖徳太子は、推古天皇(女帝)の摂政をしました。 十七条憲法を書いた方で、「太子信仰」はこの方を信仰したのです。 大和の聖徳太子を、「押坂彦人大兄王」と言います。 このお名前の意味を考えましょう。 「おしさかのおおえのおう」です。 「おし」とは「宇治」の意味です。 聖徳太子は「上宮」におられたとなっていますが、「上宮」は「かみのみや」ではなく「うえのみや」です。 「うえのみや」とは「宇治の宮」です。 「さか」とは「佐賀」の意味です。 「ひこ」とはお兄さんの九州聖徳太子の意味で、「ひと」とは大和の聖徳太子、自分のことです。 「おしさかひこひと」とは、「宇治と佐賀で二人の聖徳太子がおられた」と言う意味なのです。 では、「大兄」(おおえ)とは何でしょうか。 実は「大江山」(おおえやま)には鬼が出るのです。 「おおえ」とは「鬼」のことです。 「初代大兄」は、「大物主の命」で、自分のことを「大兄」と言ったのです。 大和には「謙遜しすぎる」癖がありますね。 すさのうの命からか、少彦名の命からか、何と考えたら良いのでしょうか。 【蘇我氏は物部氏を滅ぼしてはいない】 蘇我氏と物部氏が宗教戦争をして、蘇我氏が物部氏を滅ぼし、聖徳太子も蘇我氏側に立って参戦したと、学校の日本史で習いました。 これは嘘です。 蘇我氏が仏教派で、物部氏が神社側なのは事実で、聖徳太子が蘇我氏側なのも真実です。 聖徳太子(聖徳九州天皇)は蘇我蝦夷なのですから。 蘇我氏は九州王朝の天皇で、物部氏は大和朝廷の摂政です。 大和朝廷は天皇は女性だったので、 男性が摂政(総理大臣)だったのです。 九州王朝は、蘇我氏の滅亡で消滅しましたが、物部氏は健在だったのです。 (後で滅びますが) yahoo《やまとねこ》さんのブログ【大鳥は山城に降りた】<不比等は大鳥を奈良の都に呼んだ>http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat2016/7/21(木) 【「大鳥」は平城京には降りず平安京に降りた】 桓武天皇は、平安京の地、京都盆地を、「山城」と書き、「やましろ」と読ませたのです。 それまでは、 「山城」は「やまき」「やまのき」と読んでいました。 さらに、「やましろ」は「山代」と書いたのです。 何故桓武天皇が平安京を「山城」としたのか、やっとわかりました。 「山城」とは「大鳥のお城」の意味だったのです。 大鳥は、自分の巣が出来たと喜び、平安京に舞い降り、千年間飛ばなかったのです。「飛ばない鳥の明日香」が復活したのです。 【「もの」(物)(者)の本当の意味】 「もの」は「物質」ではありませんでした。「もの」は「者」とも書くのです。「もの」とは一体どんな意味でしょうか。 実は、「もの」とは世界最高の神様の名前なのです。「もの」とは「大物主神」の意味なのです。 「も」とは、「弥生人以外の男性」です。「の」とは、「低い霊」です。 高い霊は「やま」(山)で、低い霊は「の」(野)なのです。 何故素晴らしい神様が、低い霊の憑いた人間と呼ばれるのでしょうか。 それは、大物主神が、自分を卑下したからです。 日本人は、自分を低めて相手を高めるのです。 大物主神は日本教の大教祖です。 【「飛ぶ鳥の明日香」の意味は何か】 「飛鳥」は「明日香」の枕詞です。「飛ぶ鳥の明日香」と言いました。「明日香」とは「都」の意味です。 「飛ぶ鳥」とは、「すぐなくなる」「短期間で遷都する」という意味です。 藤原京とその前の吉野京を指します。 では遷都しない都は何と言ったのかといいますと、「大鳥の明日香」と言ったのです。 九百年続いた「大鳥の明日香」は、壬申の乱で滅びたのです。 藤原不比等は、大鳥にもう一度奈良の都に降りて来ていただこうと、若草山に「しるし」をつけました。 「大文字」と言います。 【藤原不比等は聖徳太子が二人いるのを知らなかった】 不比等は、仏教信者の聖徳太子(天皇)と、推古天皇の摂政を勤めた、聖徳太子(忍坂彦人太子)で、十七条憲法を作った方を、別人とは知らなかったのです。 しかし天武天皇と持統天皇はご存知だったのです。 天武天皇は不比等に、日本書紀の十七条憲法だけは手を入れないように注意しました。 だから十七条憲法の原文は、日本最古の文章なのです。 【「山城」の城主は誰か】 桓武天皇は、平城京から平安京に都を移しました。 それまで、京都盆地は「かどの」(葛野)と呼ばれていましたが、桓武天皇は、「やましろ」と呼ばせたのです。 そして「やましろ」を「山城」と書いたのです。 【聖徳太子が夢殿を作った理由】 夢殿と法隆寺は、別な方が作者です。 夢殿は、建物ではなく、像でした。 聖徳太子は、蘇我氏と物部氏の宗教争いに大変心を痛めていたのです。 ある日聖徳太子は、夢を見ました。 大物主神が現れて、 「神、仏の上に私を置きなさい」と言ってお空に消えたのです。 聖徳太子は目が覚めて考えました。 神仏の上に大物主神を据えるとは、どんな意味なのだろうかと。 そして、十七条憲法が出来ました。 【「夢殿」は「十七条憲法」のお礼である】 そして聖徳太子は気が付いたのです。「大物主の命」は「にぎはやひの命」と言うのです。「にぎ」とは「和」なのです。 「にぎみたま」を「和御魂」と書きます。「にぎ」とは「にぎにぎしい」「にぎやか」の意味で、みんなで和やかに話し合うことなのです。 それで、聖徳太子は、十七条憲法を作り、第一条に「和を以て貴しと為す」と書いたのです。 「和」は「にぎ」と読むのです。 の十七条憲法によって、仏教徒神社の宗教争いは収まったのです! そこで、聖徳太子は夢に現れた大物主の命にお礼がしたくなりました。 像を彫らせました。モデルは自分がなりました。 そして、水色に塗らせたのです。 大物主はお空に消えたので、お空に住んでいると思ったからです。 この聖徳太子は、もちろん、蘇我氏と一緒になって物部氏を滅ぼした、「聖徳九州天皇」ではなく、推古天皇の摂政の、「聖徳大和太子」です。 この方のお名前を、「押坂彦人大兄王」またの名を、「忍坂日子人太子」と言います。 この方を「うまやどのみこ」(厩戸皇子)と言いますが、子供のころから呼ばれていたのです。 それは両親から、「おまえは馬小屋に捨てられていた」と教えられていたからです。 近所の人もそう思い込んでいたのです。 この方が真実を知るのは、70歳になってからです。遅すぎたのです!!! yahoo《やまとねこ》さんのブログ【和語の起源】<日本語は一音一音意味があった>2016/7/22(金)http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/57385652.html?vitality 【「奈良」の語源】 「なら」(奈良)の語源です。 日本語は一音一音意味がありました。なので、一音一音に分解できるのです。 だから、「奈良」の語源は、「楢の木」でも「均す」(ならす)が語源でもありません。「均す」の語源が「奈良」なのです。 「な」とは、弥生人の王様のお名前です。 事記に一番最初に現れる神様の名前、「天御中主」(あめのみなかぬし)の本名(諱)が、「な」なのです。 「な」は「神様」「天皇」「都」の意味になりました。 「ら」は「過去形」です。 「なら」とは「昔都があった」という意味です。 元明天皇が奈良市に平城京を作りました。 平城京を「奈良の都」と名付けました。 「奈良の都」とは、「昔都があった場所に都を造った」という意味です。 では、昔に都を造ったのはどなたでしょうか。大物主命の都があったのです。 平城京よりも5キロ北で、奈良県と京都府の県境です。 現在はそこにイオンがあります。「高の原」と言います。 【奈良に都が三回できた】 元明天皇が、奈良市に平城京を造り、「奈良の都」と命名しました。 しかし、元明天皇が「奈良」と名付ける前に、「奈良」があったのです。 「奈良」(なら)とは、「昔都があった」と言う意味です。 つまり「奈良」は「古都」の意味です。 元明天皇は「古都」に都を造ったのです。 「奈良」は三つあったのです。 「奈良」「奈良山」「奈良坂」です。 一番新しいのが「奈良」で元明天皇が造った平城京です。 次に新しいのが、大物主命が創った「奈良山」で、「高の原」のことです。 一番古いのが、すさのうの命が創った「奈良坂」で、若草山の麓、今の奈良公園・春日大社です。 奈良の大仏はすさのうの命なのでしょうか。 【「奈良坂」は「奈良佐賀(嵯峨)」ではないか】 私はマラソンが好きで、家の周りを良く走ります。 は古代史のブログも好きで、書いたり消したりしているのです。 私は奈良県と京都府の「国境」に住んでいます。 この「国境」を、「奈良山」と言うのです。 「奈良山」には「奈良坂」があるのです。 私はマラソンでも特に山を走るのが得意なのです。 つまり、坂が好きなのです。 しかし、いろいろな坂を走るのですが、「奈良坂」がはっきりしないのです。 ひょっとすると、「奈良坂」は坂の名前ではなくて、都の名前ではないでしょうか。 「ならさか」とは、「奈良佐賀」または、「奈良嵯峨」なのです。 ちなみに、高の原イオンシネマの住所は、京都府木津川市相楽台と書き、「さがなかだい」と読みます。 【「奈良山」は「奈良大和」ではないか】 山を走るので、それほど高い山でなくても走れますし、駅から登山口まで離れていても走るので平気なのです。 なので大阪、奈良、京都の山は結構走りました。 しかし、「奈良山」と言う山はまだ走ったことはないのです。 生駒山、信貴山、葛城山、金剛山はみな頂上があるのに、「奈良山」は頂上がないのです。 「ならやま」は山の名前ではなくて、「奈良大和」と言う都の名前ではないでしょうか。 【和を以て貴しと為す「和」の訓読みは?】 聖徳太子十七条憲法第一条、「和を以て貴しと為す」 「和」を「わ」と読むのは漢字の音読みです。 当時は、「和」を訓読みしたのです。 「和」をなんと読んだのでしょうか。 【】
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yahoo《やまとねこ》さんのブログ【和語の起源】<日本語は一音一音意味があった>2016/7/22(金)http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/57385652.html?vitality 【「和」の訓読み】 「和」の訓読みは、「やわらぎ」「なごみ」ですが、漢字の「和」の意味は、「人の声に合わせ応じる」「心を合わせる」と言う意味です。 日本の神道では、一霊四魂三元八力と言います。 その「四魂」は、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)です。 「和魂」を「にぎみたま」と読むのです。 「和」の本当の訓読みは、「にぎ」なのです。 「にぎやか」「にぎにぎしい」の「にぎ」ですが、「にぎ」とは、「に」の神様という意味です。 「に」という神様がいて、その方が「和」の持ち主だったのです。 「に」というのは、「な」の王様の長男です。 古事記には、天孫降臨ににぎの命となっています。 「あめにぎしくににぎしあめのひこひこほのににぎ」と言います。 「にぎ」が三回も繰り返されています。 そして「大和」を作った王様の名前が、「大国主命」ですが、本名は「にぎはやひ命」と言います。 この王様も「和」の持ち主なのです。 聖徳太子の十七条憲法の第一条、「和を以て貴しとなす」の「和」は、「にぎ」と読むのです。 「にぎ」とは、「皆で和やかに話し合って物事を解決していく政治体制」なのです。 【春過ぎて夏来にけらし 「春」と「夏」について】 百人一首の二番目 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香久山 持統天皇の和歌と言われています。 実はこの和歌は持統天皇作ではないのです。 奈良の都をお造りになった、元明天皇の和歌です。 とてもとても重要な和歌なので、百人一首の二番目なのです。 「はる」(春)とは、「梅雨」の意味です。 「は」は「空」「る」は「続く」です。 「はる」とは、「お空がずっと仕事を続けている」と言う意味です。 「お空の仕事」は「雨を降らす」ことなのです。 「春過ぎて」とは、「梅雨が明けて」という意味です。 「なつ」(夏)の意味は何でしょうか。 「な」は「天皇」「都」「神」ですが、「な」とは弥生人の王様の本名です。 古事記に最初に登場する神様、「天御中主」(あめのみなかぬし)の本名(諱)です。この方が、弥生教の教祖です。 「つ」は「津」で「海」です。 天御中主神が、お盆に海にお入りになり、禊の行事をするのです。 「なつ」とは「お盆」の意味です。 「春過ぎて夏来にけらし」とは、「長い梅雨が明けてお盆が来たのね」という意味です。 「白妙の衣」とは、この世のものとは思えないくらい真っ白な「ころも」ですが、「ころも」とは何でしょうか。 「天の香久山」は大和三山の「香久山」ではありません。 「かぐ」とは「かぐやひめ」の「かぐ」で、固有の地名ではないのです。 「かぐやま」とは「雨乞いをする聖なる山」です。 「天の香久山」とは、奈良市の若草山なのです。 この写真の芝生に、藤原不比等が、「大」の文字を白い布で描いたのです。 それは「大鳥」に舞い降りてきてもらい、奈良の都が千年続くように居座ってもらうためです。 この行事を不比等は毎年お盆にしたのです。 さて、大鳥は舞い降りてきたのでしょうか。 元明天皇と藤原不比等の祈りを、元正天皇と長屋王が引き継ぐのです。 【長屋王は大鳥と龍神を間違えてしまった!】 藤原不比等は、平城京に大鳥が舞い降りて千年居着いていただけるように、 毎年お盆に若草山に「大文字」の広い衣を広げたのです。 そしてその後を継いで、長屋王も、その行事を続けました。 そうすると、大鳥が舞い降りてきたのです。 舞い降りた大鳥は写真の姿をしていたのです。 これは薬用養命酒のマークですが、大鳥のように見えますが、実はお顔にひげがあり、鳥のくちばしがないのです。 これは龍神が大鳥に化けたものだったのです。 長屋王は龍神を降ろしてしまいました。 それで奈良の都平城京は百年も持たなかったのです。 長屋王は深く責任を感じ、自分は藤原四兄弟に無実の罪を着せられ自害し、「長屋王の祟り」で四人を祟ったことにしましたが、自作なのです。 ところで、この偽物大鳥は、実は大鳥の旦那様で、竜王なのです。 竜王は、奥様の巣の大きさを調べに舞い降りたのですが、京都盆地の平安京に目が行ってしまったのですね。結局平安京に大鳥は千年居着いたのです。 平城京が千年続かなかったのは、長屋王の責任ではありません。 長屋王の祟りはなかったのです。 2016/7/23(土) 【「秋」と「冬」の語源】 「春」は「梅雨」で、「夏」は「お盆」が語源です。 では「秋」と「冬」の語源を調べてみましょう。 「あき」がなかなか難しいのです。「あ」は「悪い」で簡単なのですが、「き」が難しい。 「き」は「稲」ですが、「消える」と「先」の意味があるのです。 これは天うずめと猿田彦の会話から生まれました。 猿田彦は何人かはわかりませんが、二人の言語は違ったのです。 猿田彦が、うずめに、 「き」と大声を出したのです。 「き」とは「危ない!」と言う意味です。(猿田彦語?) 猿田彦は、うずめに、「蜂が来た!危ない!」と指を指して言ったのですが、うずめが指の先を見たときには蜂はどこかに飛んで行ったのです。 それで、うずめは、「き」とは「先」「消える」という意味に誤解したのです。 「あき」は「悪いものが消える」と言う意味で、「虫がいなくなる」季節です。宮崎で出来た言葉なので、「晩秋」か「初冬」でしょう。 【「冬」の語源は「雪が消える」】 「春」(はる)は「梅雨」 「夏」(なつ)は「お盆」 「秋」(あき)は、 「悪い虫がいなくなる」と言う意味で、「初冬」です。 では「ふゆ」の意味は何でしょうか。 「ふ」は「雲」です。 そこから「ふわふわ」「ふかふか」が生まれました。 昆虫、花びら、雪も「ふ」と言うのです。 「ゆ」は「湯」です。 「溶ける」と言う意味になりました。 「ふゆ」は、「雪が溶ける」と言う意味で、「春」です。 【「あしひきの山」とは「金剛山」である】 百人一首三番目、あしひきの山鳥の尾のしだれ尾の 長々し夜を 一人かも寝ん 柿本人麻呂作です。 「あしひきの」とは、枕詞なのです!枕詞とはもう一つの隠れ枕詞があるのです。 つまり、「あしひきではない山」があるのです。 柿本人麻呂はその山を隠したのです。 「あし」は「足」ではなく、「朝鮮」の意味です。 朝鮮と大和にある同じ名前の山は、「金剛山」なのです。 「あしひきの山」とは、「朝鮮から引き揚げて金剛山の麓に国を作った葛城氏」の意味です。 「山鳥」とはどんな鳥でしょうか。 定説では雉の雄ですが、この山鳥は尾が長いのです。 五十センチや一メートルではきかないのです。「長々し夜」が明けるくらい長いのです。 そうです。この山鳥は「大鳥」なのです。 藤原不比等は、「長々し世」「千年王国」を大鳥にお願いしているのです。 柿本人麻呂は藤原不比等です。 【藤原不比等は葛城氏?】 百人一首三番目、 あしひきの 山鳥の尾のしだれ尾の 長々し夜を 一人かも寝む この有名な和歌を解読しようとしています。 「あしひき」の意味です。 「あし」の「あ」は「二番目」という意味です。 「あし」とは「二番目に遠い国」で、「あし」とは「朝鮮」です。 「あしひき」とは「朝鮮から国を移ってきた」という意味です。 「あしひきの」は「山」に懸かる枕詞です。 「あしひきの」が来ると次は「山」と決まっているのです。 なぜ「決まっている」のにわざわざ枕にするのでしょうか。 それは「もう一つの山」「あしひきでない山」を隠しているからです。 つまり、大和と朝鮮に「山が二つある」のです。 大和と朝鮮にある同じ名前の山は、「金剛山」しか知りません。 なので、「あしひきの山」は、大阪府で一番標高の高い「金剛山」で、「あしひきでない山」は北朝鮮にある「金剛山」「クムガンサン」です。 なぜ枕詞で「クムガンサン」を隠したのかはわかりません。 そして、朝鮮半島から大和、葛城山山麓に国を造ったのは「葛城族」です。 さて、「山鳥」とは「雉」ということです。 雄の雉はしっぽが長いのです。 しかし、この「山鳥」の「尾」は、長くて長くて、この山鳥の尾を計っていると、長い長い夜が明けてしまうのです。 さらに、「山鳥の尾の」「しだれ尾の」と、「尾」が二度も出てきます。 「お」とは「良い」と言う意味ですが、具体的には「磐座」(いわくら)なのです。「磐座」とは「神が降りてくる聖なる岩」です。 尾が長くて計っているうちに夜が明けるくらい長く、山の聖地に降りてくるのは、普通の鳥ではなく、「大鳥」です。 「大鳥」が降りてくるようにお祈りして、「ながながし世」「千年王国」を奈良の都に造ろうと頑張っているのは、藤原不比等なのです。 ということは、この和歌を作った柿本人麻呂と藤原不比等は「同一人物」ということになるのです。 さてさて、では葛城氏と藤原不比等はどんな関係があるのでしょうか。 天智天皇の諱(本名)は「葛城」だと日本書紀には書いてあります。 私は藤原不比等は中臣鎌足の子供ではなく、天智天皇の長男だと思っているのです。 藤原不比等は「葛城の子供」という意味なのでしょうか。 「葛城」「かつらぎ」とはどんな意味なのでしょうか。 三年前、天智天皇が夢で、「私が初代天皇である」と系図を見せました。 系図には「八代」と書いてありました。 わたしはびっくりして、「ではそれまでの天皇は何なのですか」とお聞きしました。すると天皇は、「日本人の天皇では私が初代である」とおっしゃいました。それでわたしは、「日本人とは何ですか」とお聞きすると、「日本人とは葛城である」と言われたのです。 そこで私は目が覚めました。 「日本人とは葛城である」この禅問答が解けるでしょうか。 私は三年間考え続けているのです。 【「新羅」を「しらぎ」と読むのは「枕詞」ではないか】 「百済」を「くだら」と読むのは、「百済」が枕詞だったからではないか。 「百済久陀羅」と書いて、「ももとせ(百歳)のくだら」と読んだのです。 なので「百済」だけで「くだら」と読むのです。 では隣国の「新羅」はどうでしょうか。 「新羅」を「しらぎ」と読むのは、枕詞だからではないでしょうか。 「新羅白城」と書いたのです。 「新羅白城」は何と読むのでしょうか。「あらたらのしらぎ」「あららのしらぎ」でしょうか。 「あらら」とは「新しくできた」という意味で、「ひゃくさいのしらぎ」「百済白城」が、「古くからあるしらぎ」です。 では「白城」「しらぎ」とは何でしょうか。 「しらぎ」とは「葛城」ではないでしょうか。 「かつらぎ」とは何でしょうか。 「かつらぎ」とは「勝羅城」で、「九州王朝の天皇」です。 「葛城氏」とは、九州王朝の天皇が、百済を造り、新羅を造り、大和を造ったのです。 【「青森」の語源は「青い森」ではない】 飛行機に乘って、日本列島を見下ろせば、どこでも山は「青い森」なのです。 別に東北の一番北の青森県だけが「青い森」ではないのです。 「あお」とは「色の名前」ではないし、「もり」とは「森林」ではないのです。 「あ」とは「悪い」です。「お」とは「良い」です。 「あお」とは「良いか悪いか判断がつかない」という意味です。 「もり」とは宗教施設ですが、弥生人の神社以外の、他民族の宗教です。 縄文人の「もり」は「鎮守の杜」ですし、渡来人徐福の作った鳥居は「守」なのです。 さて、青森県の「もり」は、アイヌの宗教施設ではないでしょうか。 良くわかりませんが、きっと「神居古潭(かむいこたん)」です。 現在は旭川などの地名になっていますが、古代には、何か宗教的なシンボルが青森にもあったのです。 追記 「神居古潭」とは、川の淵の大きな崖ではないでしょうか。 そこに「神が降りる」のです。 「古潭」とは集落の意味もあるので、アイヌの巫女が泊まり込んで「お祈りを捧げた」のです。 ににぎの命と皇后の咲くや姫は、青森県まで行ったのです。 津軽富士の岩木山には咲くや姫が祭られています。 アイヌの宗教やアイヌ語には弥生語の影響がみられるのです。 2016/7/24(日) 【「る」は「継続」である】 古代、日本音の「る」は継続を表す接尾音であるという証拠が見つかったので、少し書いてみます。 学生のころを思い出してください。 日本語文法のお勉強です。 「取る」という動詞があります。「取る」は五段活用します。 取らない 取りたい 取る 取るとき 取れば 取ろう 「らりるるれろ」と語尾の「る」が五段に変化するのです。 「乗る」も同じです。 乘らない 乘りたい 乘る 乗るとき 乘れば 乘ろう です。 さて、「る」が五段活用しない動詞があるのです。 「居る」「煮る」「似る」「見る」「着る」「干る(ひる)」です。 「着らない」ではなく「着ない」です 「着りたい」ではなく「着たい」です 「着る」「着るとき」これは言います。 「着れば」これも言います 「着ろう」は「着よう」ですね。 「煮らない」ではなく「煮ない」です。 「煮りたい」ではなく「煮ない」です。 「煮る」「煮るとき」これは言います。 「煮れば」これも言います。 「煮ろう」は「煮よう」ですね。 「着る」「煮る」の「る」は「る」と「れ」しかないのです。 この意味は何を示すのでしょうか。 「居る」「煮る」「似る」「見る」「着る」「干る(ひる)」は、最初は動詞ではなかったのではないでしょうか。 動詞でなかったのでうまく変化できないのです。 「る」という「継続の語尾音」がついた、名詞だったのです。 「動詞」でない証拠に、「居る」は「動かない」のです。「居る」とは「ずっと居る」です。 「煮る」とは「煮続ける」のです。 「似る」は「似たまま」なのです。 「着る」は「着たまま」です。「脱ぐ」は「動詞」です。脱いでしまうのですから。でも「着る」は「そのまま着続ける」のです。 不思議な不思議な日本語文法のお時間でした。 【「飛ばない鳥の飛鳥」があった】 古事記と日本書紀は、九州王朝を隠しました。 しかしもう一つの王朝も隠したのです。 それを「河内王朝」と言います。 「大和」とは、奈良盆地ではなく、河内にあったのです。 藤原京までは「皇居は遷都しなかった」のです。 河内王朝の都を「おおとり」と言いました。 「大鳥」「鳳」「鵬」と書きます。 現在堺市に「大鳥大社」がありますが、 もとの場所は大阪府八尾市の「恩智神社」です。 今月初め、私は同僚と「おおとりの飛鳥」を探しに、奈良県から信貴山を超えて大阪府の八尾と柏原まで走った(ほとんど歩きですが)のです。 道に迷い、降りてきたのが「恩智神社」でした。 その時の写真です。 この神社が「大鳥神社」だったのではないかと思っています。 【「岩走る」は特殊な枕詞ではないか】 「いわはしる」は、「近江」と「垂水」に懸かるのです。 私はなぜ「近江」と「垂水」に懸かるのかわかりませんでした。 それがわかりそうなのです。 この「いわはしる」は特殊な枕詞ではないでしょうか。 「いわはしる」とは「磐走る」です。 「磐」とは「磐座」(いわくら)で、神様の降りる聖地の意味です。 「いわはしる」とは、「目まぐるしく都が移った」「国がどんどん変わった」という意味で、枕詞はその「二つの国」を隠しているのです。 「近江」とは壬申の乱の近江朝です。 では「垂水」はどうでしょうか。 「たるみ」とは、「天垂る天皇」の意味で、「み」とは「水」ではなく「天皇」です。九州王朝の天皇を、「天たりしひこ」「天垂りし皇子」と言ったのです。 「いわはしる」とは、九州王朝と近江朝が滅びたことを隠したのですが、本当に隠したのは、近江朝ではなく、「河内王朝」です。 伊波婆之流 多伎毛登杼呂尓 鳴蝉乃 許恵乎之伎氣婆 京師之於毛保由 石走る 瀧もとどろに 鳴く蝉の 声をし聞けば 都し思ほゆ ニキタマの万葉集さんからお借りしてきました。この万葉集は、「いわはしる」が「滝」に懸かっています。 しかしよく見ると「都」があるのです。 「いわはしる」は「都」に懸かっているのではないでしょうか。 この都こそ「大鳥の明日香」です。 ここには岩戸神社があり、みぞぎの滝があるのです。 作者の大石簑麻呂は奈良時代の人のようで、「大鳥の明日香」を偲んだ歌ですね。 藤原京にも平城京にも、「とどろの滝」はないのです。 【登りの坂を平らだと思え】 これは枕詞でも、万葉集でもありません。 やまとねこの「トレラン」(山マラソン)語録です。 登り坂を平らだと思え。平らな道は下りだと思え 下りの坂は、ダンスのように。 翼のある鳥のように舞い降りろ。 【「あかねさす」は「君」の枕詞】 万葉集の額田王の和歌です。
茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が手を振る
振り袖は、未婚の女性が着るのです。既婚の女性は振り袖を着てはいけません。 「袖を振る」とは「求婚」なのです。 なので既婚の女性は、「留め袖」を着るのです。 「あかね」とは、「夕陽」の意味です。 「あかねさす」は「君」にかかる枕詞なのです。 枕詞はもう一つの「君」を隠しているのです。 「朝日さす君」、「日の下の君」です。 「あかねさす君」は九州王朝の天皇の皇子の、大海人皇子です。 隠しているのは、天智天皇ではありません。 天智天皇の息子と思われている、大友皇子です。 このあと額田王は、近江朝に味方してしまうのです。 大混乱が起こります。 壬申の乱は二十年も続きます。 【平安京遷都の前に長岡京に遷都した理由】 藤原不比等は、大鳥を奈良の都に降りてきてもらおうとしました。 しかし大鳥は奈良の都には降りず、平安京に降りてきたのです。 だから、平城京は100年も持たず、平安京は千年続いたのです。 なぜ、大鳥は奈良の都ではなく平安京に降りたのでしょうか。 大鳥は「入り江」が好きだったのではないでしょうか。 「大鳥の明日香」は入り江だったのです。 古代の大阪平野には「河内湖」という湖があり、難波の海につながって「潟」になっていたのです。 その潟の奥に「大鳥の明日香」があったのです。 入り江は港なのです。 そして港には「大きな鳥居」があったのです。 大鳥は「大きな鳥居」が好きだったのです。 平城京には入り江がなく、大きな鳥居の港がなかったのです。 もし、藤原不比等が今更ではなく、当時この「大鳥の好み」を知っていたら、 木津川の岡田神社に、大きな鳥居を造ったに違いありません。 そして形だけでも「港」にしたのです。 「木津」というくらいなので、昔は港だったのですから。 木津と平城京は自転車ですぐの距離なのです。 では平安京には入り江も港もないではないですか。 だから、桓武天皇は一旦長岡京をつくったのです。 実は、長岡京の淀川対岸は、石清水八幡宮があるのです。 そして、こここそ「宇治」だったのです。 「宇治」とは「港のある都」の意味なのです。 桓武天皇は、長岡京で大鳥を誘い出し、奥の平安京に落ち着いてもらったのです。 【有間皇子の悲劇】 有間皇子は孝徳天皇の長男です。 無罪の罪を着せられ、和歌山で自害しました。 全くの冤罪なのです。 しかし、何故有間皇子が自害に追い込まれたのか。 単純な理由ではないのです。 皆さんの考えているように、中大兄皇子との後継者争いなら良かったのです。 実は、中大兄皇子は当時既に天国に旅立っていたのです。 有間皇子のお父さんの孝徳天皇が崩御される前に、中大兄皇子は孝徳天皇に殺されたのです。 それは極秘にされ、孝徳天皇は自害しました。 そして何も知らない有間皇子も無実の罪を着せられました。 【「有間皇子」は本名ではない】 有間皇子は本当は、「播磨王」と言います。 お父さんの孝徳天皇も「軽皇子」(かるみこ)ですが別名があります。 「ありま」とは、「悪いことをした結果こんな男になった」と言う意味で、「罪人」の意味です 神戸から六甲山を超えたところに、「有馬温泉」がありますが、 本当は「播磨温泉」でしょう。 孝徳天皇の奥様は、安倍氏ですが、安倍氏とは「秦氏」です。 孝徳天皇も有間皇子も水軍を操り、瀬戸内海を我が物顔で暴れまわっていたのです。 孝徳天皇に次男がいました。 お父さんとお兄さんが自害させられ、次男は反旗を翻します。 壬申の乱です。 次男は大友皇子と呼ばれますが、天智天皇ではなく孝徳天皇の次男です。 【孝徳天皇「軽皇子」の謎】 「かる」(軽)の意味を是非しりましょう。 とても不思議な和語なのです。 「軽」とは、日本に二つありました。 福岡と大阪です。「軽」とは「都の港」の意味です。 何故「都の港」が「軽」なのでしょうか。 「か」とは「稲」です。 「かり」とは「稲を育てた結果こうなった」と言う意味で、 「稲刈り」の意味です。 「かる」の「る」は「ずっと継続して」と言う意味です。 「かる」とは「一年中稲が取れる」と言う意味です。 ここから二つの意味が生まれました。 「そんなこと有り得ない」「架空」と言う意味と、「魚介類なら一年中取れる」「水産物」と言う意味です。 都の港を「かる」と呼んだのは、「一年中大漁を祈念する」と言う意味です。 孝徳天皇が「軽皇子」なのは、「大阪港に皇居があった」と、「水軍を操る」と、「本当は別な名前がある」と言う三つの意味があります。 【】
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yahoo《やまとねこ》さんのブログ【和語の起源】<日本語は一音一音意味があった>【「福」(ふく)に訓読みがないのは何故か】2016/7/26(火)http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/15093031.html 日本語は、一音一音に意味がありました。なので、「お」「も」「て」「な」「し」と一音一音切り離して発音しても、相手には意味が通じるのです。 こんな言葉を持つのは日本語だけです。 しかし、和語の中に、一音一音分解できない日本語があるのです。 「福」(ふく)には訓読みがありません。「ふく」は「福」の音読みなのです。しかし日本人は「福」を和語として使っているのです。 「ふくがある」(福がある) 「ふくむすめ」(福娘)と言う感じです。 「高天原」という和語があります。「原」を訓読みで読みますと「はら」です。「はらっぱ」と言います。 日本人は「はら」と聞くと、前後の文脈で判断しますが、「はらっぱ」だとわかるのです。 しかし「原」を「ゲン」と音読みすると、前後の文脈を考えても意味が通じないのです。 「福」は音読みの「フク」と発音しても、日本人には意味が通じます。 それは何故でしょうか。 【「福」という漢字の意味】 いつも「ひらがな」ばかり研究しているので、たまには漢字の研究もしてみましょう。 「福」を漢和辞典で調べると、「ネ」は「示す扁」で、旁(つくり)は「富」の「ウ冠」ではなく「ワ冠」の字です。 「フク」と発音するそうです。 それで「福」も「フク」と発音するのでしょう。 「副」も「フク」と発音します。 ワ冠の「富」の意味は、「酒壺」です。 神からさげわたされるめでたい酒で、そこから「さいわい」の意味になったと書いてあります。 日本人は「福」をそのまま「ふく」として、和語にしてしまったのです。 それは何故でしょうか。 【「福」に反対語がないのは何故か】 「幸福」の反対語は、「不幸」です。 しかしそれは、「幸せ」の反対語、「不幸せ」なので、「福」の反対語ではないのです。 「大吉」の反対語は、「大凶」ですが、「福」の反対語は見当たらないのです。 「福」の反対語がないのは、「福」が人名だったからではないでしょうか。 人名には「反対語」はないからです。 「西尾」さんに反対する人を、「東尾」さんとは言いません。 基本的に、地名や人名には反対語がないからです。 紀元前二百年ころ、「福」と言う名前の中国渡来人がいらしたのです。 【徐福は天皇になった】 紀元前二百三十年ころ、徐福と言う人が中国山東省から、三千人の側近や部下と、九州に渡来しました。 徐福の名前の「福」が、そのまま和語になったのです。 徐福は中国からたくさんの文明の利器を日本にもたらしました。 それらが、日本に「福」をもたらしたのです。 それより大切なものがあったのです。 それは徐福の思想です。 徐福は徹底した平和主義者だったのです。 【中国で生まれた天皇が五人いらっしゃる】 なんと中国で生まれ育った天皇が、五人もいらっしゃるのです。 初代神武天皇 二代目綏靖天皇 十五代応神天皇 二十一代雄略天皇 二十二代清寧天皇です。 後の三人は日系人ですが、神武天皇と綏靖天皇は、百パーセント中国人です。 二代目綏靖天皇が徐福です。 中国人の徐福がどうやって天皇になったのでしょうか。 徐福は平和主義者なので、武力征服したのではないのです。 【八王子と宗像三神】 八王子と言うのは、天照大神と素戔嗚尊の「うけい」から産まれました。 この八柱が九州王朝の天皇のようなのです。 八柱のうち、素戔嗚尊が産んだ三柱は、宗像三神と呼ばれ、女性なのです。 この三神の中のお一人が、徐福の奥様で、徐福は九州王朝の天皇の娘の婿になったのです。 ひょっとすると、徐福は大国主命のお一人かもしれません。 【天武天皇は蘇我入鹿の長男】 蘇我入鹿は、大化の改新の前日、乙巳の変(いっしのへん)で暗殺されました。 蘇我入鹿のお父さんは蘇我蝦夷で、次の日に自害したことになっています。 しかし、蘇我入鹿の奥様と子供たちはどうなったのでしょうか。 どこを調べても書いていないのです。 蘇我入鹿は享年37歳です。 当然結婚し子供もいたのです。 不思議ですよね。 蘇我入鹿は天皇を凌ぐ勢力だったのです。 それで中大兄皇子に殺されたことになっているのです。 そんな、大豪族のトップの家族が、全く記録にない。 つまり「記録から消された」のです。 実際は、大海人皇子、天武天皇が蘇我入鹿の太子で、奥様は持統天皇だったのです。 蘇我氏は九州王朝の天皇の名前なのです。 蘇我入鹿は九州王朝の天皇だったのです。 天皇と天皇の父親、蘇我蝦夷は、大阪に出てきたのです。 なぜでしょうか。 それは「結婚式」だったのです。 蘇我入鹿と皇極天皇の結婚披露宴に、親族全員が出席して、全員殺されました。 天武天皇と持統天皇とその二人の子供は、 隠されていて助かったのです。 ここら辺の事情が、かなり詳しくわかってきました。 キーワードは「みみ」です。 大阪堺市に「耳原」という地名があるのです。 ここで、九州王朝天皇家が全滅いたしました。 「耳原」とは、「仁徳天皇陵」の正式名称で、 「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」と宮内省につけたれているのです。 ここにとても不思議な言い伝えがあるのです。 【蘇我入鹿と舒明天皇は同一人物】 天智天皇のお父さんは、舒明天皇ではなく、皇極天皇の最初の夫で、山背大兄王(やましろのおおえのおう)と言います。 聖徳太子の息子で蘇我入鹿に殺されたことになっていますが、実際は逆です。 山背大兄王が蘇我入鹿を殺しました。 舒明天皇の和名諡号は「息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)」と書いてありますが、 「息長足日広額」とは山背大兄王のことです。 奈良県明日香村にある、「石舞台古墳」ですが、この岩に「蘇我馬子」と書いてあるそうです。 写真はウイキペディアからお借りしました。 それでこの墓を「蘇我馬子の墓」としている方がいるのですが、 「蘇我馬子」「蘇我入鹿」「蘇我蝦夷」「蘇我稲目」は全部藤原不比等がつけた「悪口」です。 石舞台に「蘇我馬子」と書いたのも藤原不比等でしょう。 この方は、古事記・日本書紀をねつ造しただけではなく、遺跡もあちこちから持ってきて大和盆地にねつ造したのです。 藤原不比等が建てたと言われている「春日大社」ですが、春日大社は若草山の麓に建っています。 若草山の頂上に古墳があるのです。 2016/7/27(水) 【「イルカ」は和語だとは知らなかった】 「クジラ」は和語だとはわかりましたが、「イルカ」が和語だとは知りませんでした。「イルカ」は「伊瑠加」と書く和語だったのです。 それも、とても古い和語です。「いるか」は出雲語です。 「い」とは「居」で「居る」と言う意味です。 「る」は「継続」で、「ずっと」と言う意味です。 「か」は「稲」ですが、出雲語になって「水産物」という意味になったのです。 「いるか」とは「いつまでも動かないでじっとしている水産物」という意味です。 「岩の上でじっとしているのですぐ捕まえられる」というのは、「イルカ」ではなく「オットセイ」ではないでしょうか。「トド」かもしれません。 なので、「いるか」とは「とど」のことだったのです。 「蘇我入鹿」の「いるか」は「とど」と言う意味で、お会いしたことはありませんが、ちょっと太り気味だったのではないでしょうか。 前項で「蘇我入鹿」とは藤原不比等のつけた悪口と書きましたが、考えてみると藤原不比等は蘇我氏の慰霊神社まで建てた方です。 藤原不比等は春日大社を建てましたが、春日大社は蘇我氏、九州王朝の慰霊神社なのです。なので、蘇我氏の「入鹿」「蝦夷」「馬子」「稲目」と悪口を付けたのか、蘇我氏を殺し九州王朝を滅ぼした、天智天皇の兄(古人大兄皇子)父(山背大兄王)祖父(押坂彦人大兄王)でしょう。 ところで、「稲目」とは「欽明天皇」のことですが、「いなめ」がなぜ悪口なのでしょうか。 「いな」とは「いやいやをする」という意味です。「め」とは「女性」です。 「稲目」とは、入鹿よりひどい悪口ではないでしょうか。 さてさて、藤原不比等は大きな間違いをするのです。 蘇我入鹿のお父さんを「馬子」なのに「蝦夷」としてしまいました。 古人大兄皇子は、反対に悪口を付けたのです。 蘇我蝦夷が、法隆寺を建てた「聖徳太子」なのですから。 最初は蘇我蝦夷が「蘇我馬子」だったのです。 古事記日本書紀をみんなで改ざんするから訳が分からなくなっています。 さてさてさて、藤原不比等は万葉集にまで「字句」を入れ替えたのです。 このトリックで私は頭を悩ませました。 万葉集の解読も少しづつ進んでいます。 もちろん、「日本語は一音一音意味があった」理論で推し進めるのです。 【古代大和にはお一人だけ男性天皇がいらした】 古墳時代には、日本には二つの大きな国がありました。 大和朝廷と九州王朝です。 古事記に書いてある天皇は、ほとんど九州王朝の天皇なのです。 大和朝廷は、女性天皇の国だったのです。 こんな国は世界で大和だけでしょう。 「大和の不思議」はまだまだあるので、お楽しみに。 その「女性天皇の国」の歴史で、お一人だけ男性天皇がいらっしゃいました。 22代清寧天皇とおっしゃいます。 この方は、「独身で子供がいない」と古事記に書いてありますが、天皇と総理大臣(摂政)の両方をこなしたのです。 清寧天皇の「本当の古墳」が堺市にあることが分かったので、今度ランニングしてきます。 実は「仁徳天皇陵」(一番大きな古墳)は「雄略天皇陵」なのです。 その近くに「にさんざい古墳」があります。 以前の職場と住まいの途中にあったので、清寧天皇陵とは知らず、よく走っていました。写真を探してみます。 それより、万葉集の第一番目の雄略天皇の和歌は実は清寧天皇作だったのです。 【清寧天皇は「生まれたときから白髪」なのは本当だろうか】 清寧天皇の和名諡号は、「白髪大倭根子命」(しらかのおおやまとねこ)と古事記に書いてあります。 しかし、古事記には「白髪だった」とは書いてありません。 日本書紀に、「生而白髮」(生まれたときから白髪)と書いてあるのです。 そして、古事記に、「故御名代定白髮部」(ゆえにその御名を記念して白髪部を定めた)と書いてあります。 この「白髪部」(しらかべ)に秘密があると感じませんか。 「白髪部」とは何でしょうか。 そして、清寧天皇はお妃も子供もいないと書いてあります。 天皇に子供がいないので、跡継ぎ探しが「大騒ぎ」となるのですが、本当は奥様も子供もいらしたのです。 追記:清寧天皇のお名前は「しらかのおおやまとねこ」とおっしゃいます。 「おおやまとねこ」なので、私の遠いご先祖様だったのではと思い込んでいます。色々わかってきますよ。ご先祖様よろしくお願いいたします。 【「難波津の歌」の「咲くやこの花」が二度も入っているのは何故か】 百人一首の競技大会で、最初に「からうた」(空歌)を詠みあげます。それが「難波津の歌」です。 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花 なぜこの短い短歌に、「咲くやこの花」を二度も使ったのでしょうか。 この和歌の作者は「わに博士」となっています。 応神天皇の太子の「うじのわきいらつこ命」の、家庭教師にと、応神天皇が百済で一番優秀な博士を招待したのです。 その博士が「わに」とおっしゃいます。 応神天皇が崩御され、うじのわきいらつこが天皇になるはずでしたが、太子は、「おおきさぎ」に天皇の位を譲ろうとします。 お互いに譲り合ったまま三年後、うじのわきいらつこが、自殺してしまいます。そして「おおきさぎ」が仁徳天皇になるのです。 仁徳天皇のお宮は「高津宮」と言って、大阪市の難波にあるのです。 仁徳天皇の即位に、「わに博士」がお祝いの和歌を献じます。 それが「難波津の歌」なのです。 「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今が春べと 咲くやこの花」 これは明らかにおかしいでしょう。 自分の教え子が自殺したのですよ。 その自殺で仁徳天皇が即位したのです。 それを「今が春」とは詠わないでしょう。 「今が春」とは、 「自殺したうじのわきいらつこの子孫がやっと天皇になりました!」 とご先祖様にささげた歌なのです。 つまり、この「難波津のうた」の作者は、仁徳天皇系の天皇ではなく、うじのわきいらつこ系の天皇なのです。 その天皇は、仁徳天皇の孫とされている雄略天皇です。 雄略天皇は仁徳天皇の孫ではなく、うじのわきいらつこの孫なのです。 私はこの「難波津のうた」を読むたびに、目が潤んでしまいます。 【「宮崎」と「長崎」どちらが「先」か】 天孫降臨ににぎ命は、実は台湾から琉球列島を渡って宮崎にたどり着き、宮崎に都を作りました。 伊勢に都を作る前に出来たので、「みやさき」と言うのです。 では「ながさき」(長崎)はどうでしょうか。 長崎の語源を、「長崎氏」が住んでいたからと書いてありますが、逆です。 長崎に住んでいたので「長崎氏」と名乗ったのです。 「山田太郎」とは、「山田村の太郎」です。 「浦島太郎」とは、「浦島の太郎」なのです。 ににぎ命が宮崎に都を作る前に、長崎に都があったのです。 出雲族が九州まで進出していました。 ににぎ命の長男、おしほみみ命が出雲と隼人を融合させ、九州王朝を作ったのです。 九州王朝の初代天皇は、おしほみみ命です。 【「津々浦々」の秘密】 宮沢賢治の「オツベルと像」「ある牛飼いが物語る」で始まり、 「君、川に入っちゃいけないったら」で終わります。 「君」とは「牛」のことです。 日本は「神様は降りる」のですが、「日本語も降りる」のです。 「君」とは天皇の意味で、一時代にお一人が基本でした。 しかし、今では「君君、お茶をいれたまえ」と、女性に言うのもなら、「パワハラだ」とおしかりお受け手しまします。 「君」とは「牛」に言ってもかまいませんが、女性に入ってはいけない二人称なのです。 「津々浦々」は、全国どこにでもあるという意味で、「津々浦々から集まる」というのは、「あちこちから集まる」と言う意味です。 しかし、「津」も「浦」も、「君」と同じように、一時代に一か所しかなかったのです。 「津」から説明をしましょう。 「津」は三重県の県庁所在地で、「津市」です。 なぜ「津市」だけが「津」なのでしょうか。 「津々浦々」なら三重県以外にもどこにでもあって、「特定の地名」ではないのです。 「山」という山の名前があったらおかしいでしょう。 「川」という川の名前は「地名ではなく一般名」なのです。 「津」とは「副都」と言う意味なのです。 では「副都」とはどんな機能を持っていたのでしょうか。 それは「国際港」なのです。 つまり、東京都に対して横浜大阪に対して神戸という感覚です。 では三重県の津市の場合「首都」はどこだったのでしょうか。 三重県の津市が「副都」の時代は、伊勢神宮が「首都」だったのです。 さて、三重県の津市のほかに、日本にはもう一つ「津」があるのです。 お分かりの方はいらっしゃいますか。 【「久方の」の枕詞は何に懸かるか】 「久方の光のどけき春の日に 静心なく花の散るらむ」 この「ひさかたの」は枕詞ですが、高級問題です。 「ひさかたの」は「光」に懸かるのではないのです。 「ひさかたの」は「春」にかかるのです。 そして、「春」は、弥生語では「梅雨」なのです。 「はる」の「る」は「継続」なのです。 「は」は「空」です。 「はる」とは「ずっと空が仕事をしている」という意味です。弥生人は「空」と「雲」は「雨を降らす」のが仕事だと思ったのです。 「ひさかた」とは「瓢形」で「ひょうたんの形」と言う意味です。 さて、ひょうたんの形で私はすぐ、「入道雲だ」と分かったのですが、歴史家にはそれが難しいようです。 出雲の枕詞に「八雲立つ」があるのですが、「出雲」も「八雲」も「雨雲」「入道雲」の意味ではないですか。 これは「神様が雨を降らせるために雲を湧かせてくれた」という意味で、「雨乞いの結果」という意味なのです。 「ひさかたの」とは「あめ」にかかる枕詞で、「雨」「天」にかかり、「春」のもかかるのです。 では最高に難しい問題です。 下記の和歌の「ひさかたの」は何に懸かるでしょうか。 「ひさかたの 月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ」 答え 「桂」です。 弥生人は雨乞い儀式に「桂」を使ったのです。 「萩」(はぎ)「荻」(おぎ)も雨乞いに使いました。 「柳」(やなぎ)と「杉」(すぎ)は晴れ乞いに使ったのです。 さて、またまた私はおかしな推測をしてしまいました。 「葛城」(かつらぎ)の意味です。 「葛城氏」とは「雨乞いの名人」の意味ではないでしょうか。 日本の神様は、「晴れ乞い」か「雨乞い」のどちらかの名人なのです。 三番目の名人が紀元前200年に現れました。 その方を「徐福」と言うのですが、徐福は何の名人だったのでしょうか。 答え 「そろ」と言います。「そろばん」の「そろ」です。 「そろ」とは、「中国から文明を輸入し日本用に改造して使いやすくする」ことです。 「そ」は「三番目」で、「ろ」は「祝詞」なのです。 【「ひさかた」の反対は「宗像」(むなかた)である】 「ひさかた」というのは、「ひさごのかたち」という意味で、「ひょうたんの形」の意味です。 「瓢箪の形」とは「入道雲」で、「雨」に懸かるのです。(前項を参照してください) 私は「ひさかた」の反対の和語を探し当てました。 「宗像」(むなかた)と言います。 「宗像」とは「三女神」なのです。 天照大神とすさそうの命の「うけい」で、すさのうの命から産まれた三柱の女神を、宗像三女神というのです。 「むなかた」は「胸の形」ではないでしょうか。 女性の乳房のことです。 女性の豊かな胸を「太陽」にたとえたのです。 つまり、宗像三女神は「晴れ乞い」の神様なのです。 私は「宗像三女神」は、「嵐を収める神様」だったのではないかと思うのです。 この「宗像三女神」が実は徐福の奥様なのですが、なんと三人全員奥様なのです。 中国人って奥様が多いのかな。 【「津々浦々」の秘密 その二】 「津々浦々」とは、「日本全国どこにでもある」という意味です。 しかし「山山川川」とは言わないのです。 「津々浦々」とは、「津」と「浦」は、「二つづつある」という意味なのです。 注:ごめんなさい。「津々浦々」の一項目で、「一時代に一つ」と書いてしまいました。実は「君」も「一時代に二つあった」のです。 「津々浦々」とは、「津」も「浦」も、「日本に二つある」という意味なのかもしれません。 飛鳥時代まで、日本には二つの大きな国があったのです。 「大和朝廷」と「九州王朝」です。なので、「都」も「天皇」も「二か所」「お二人」いらしたのです。 「津」が「国際港」なら、「大和朝廷」には「難波津」で、「九州王朝」なら「唐津」でしょうか。 太閤秀吉が、朝鮮征伐に拠点にしたのが、「名護屋城」です。 「なごや」とは「都の名前」なのです。 佐賀県の唐津の「から」とは、「朝鮮」ではなく「九州」です。 次回「から」の秘密を書いてみます。 ところで、持統天皇の諱を「うののさらら」と言います。 「うの」とは佐賀県の「嬉野」(うれしの)ではないでしょうか。 「さらら」とは「佐賀」の意味です。 持統天皇の出身は佐賀県なのです。 「津」が二つあるのはわかりました。 では「浦」が二つあるのは何故でしょうか。 「浦島太郎」の「浦島」は「対馬」と私は考えます。 では近畿の「浦」とはどこでしょうか。 「浦」とは一体どんな意味があるのでしょうか。 【「難波なる」は「みおつくして」の枕詞ではないか】 わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ これは百人一首の20番目の和歌です。 問題は、「難波なる みをつくしても」です。 「みをつくしても」は、「みおつくし」(澪標)にかけています。 「みおつくし」とは難波津にあった「浅瀬」「座礁」の事なのです。 私はなぜ「浅瀬」を「みおつくし」というのか今までわかりませんでしたが、 この和歌でわかりました。 「みおつくし」とはどこにでもある浅瀬、座礁ではないのです。 「難波なる」とは「難波にある」と言う意味ではありません。 「難波なる」は枕詞ではないでしょうか。 「みおつくし」は日本に二か所あったのです。 「難波なる」「みおつくし」と、「難波ではない」「みおつくし」です。 「みおつくし」は「みをつくし」ではないのです。 「みお」とは「磐座」(磐座)の意味です。 「み」は「神様」「お」は「良い」ですが「聖地」の意味です。 「つくし」でわかりました。 「つ」は「津」です。「海」の意味です。 「く」は「食べ物」です。 「つく」とは「水産物」です。 「つくし」とは「海産物があらわれる」という意味です。 「みおつくし」とは、「大漁を祈念する聖地」という意味です。 「難波なる」とは、「なみはやなる」という意味で、「波が速い」という意味です。 「なにわなるみおつくし」とは、「波が荒いため巫女ば波にさらわれる磐座」で、古代、大阪の淀川河口に、小さな岩場があったのです。 さて、「なにわではないみおつくし」とは、「巫女が波にさらわれない安全な島の磐座」が、「隠さなければならない地域にあった」というのです。 だから「難波なる」が枕詞なのです。 「隠さなければならない」のは九州王朝です。 その「安全な島の磐座」は、九州福岡の博多湾にある、「志賀島」です。 【伊勢神宮より熊野大社が少し先に出来た】 枕詞を調べると、九州王朝の実態が少しづつわかってきました。 そうすると、「徐福」と言う人物が浮き出て来るのです。 「ひさかたの」から、「宗像三女神」が浮き出て、宗像三女神と徐福が何故関係あるのか考えました。 「津々浦々」を調べていくうちに、「難波なる」が「みおつくし」の枕詞だと気がつきました。 「みおつくし」は「海の難所」の「旗印」なのです。 徐福は海の難所に印をつけたのです。 それが海難を防ぎ漁民から大変感謝されたのです。 その感謝が神社になったのではないでしょうか。 【宗像三女神が徐福の奥様の理由】 「むなかた」(宗像)は「ひさかた」の反対語です。 「ひさかた」とは「ひさごの形」「瓢箪形」のことです。 瓢箪を逆さまに見ると入道雲になるのです。 「ひさかた」とは「雨乞い」で、その反対語は「晴乞い」なのです。 「むなかた」とは「女性の乳房」のことで、太陽のシンボルだったのです。 宗像三女神は、「晴乞い」の女神ですが、実際は「海難事故を防ぐノウハウ」なのです。 「たぎりひめ」は、濃い霧の時の霧笛で、またの名の「おきつしまひめ」は、離れ島に避難小屋を作ったのです。 「さよりのひめ」は夜の航海の「かがり火」で、 「たきつひめ」は、「暴風雨の対策」でしょうか。 全部徐福が日本人に教えたのです。 【】
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