yahoo《やまとねこ》さんのブログ【藤原不比等の日本古代史観】<枕詞はヒント語である>2016/7/29(金) 【藤原不比等はヒント語をたくさん残した】 http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/57394898.html?vitality 日本の古代史は、実際には存在していたのです。 古代日本には日本人だけが住んでいたのではないのです。 中国人が、それも優秀なエリートがたくさん渡来していました。 歴史好きな中国人が、日本の歴史を残さないはずはないのです。 つまり、中国語で書かれた古事記が存在していました。 中国人と日本人の歴史に対する認識が違うのです。 中国人の歴史とは「史実」ですが、日本人の歴史とは「心」なのです。 「まこと」(誠)とは、「事実」ではないのです。 「まこと」とは「人間の正しい心」なのです。 だから「古事記」は、史実とかけ離れたものになってしまいました。 と言っても、古事記が自分で「書き換わった」のではありません。 誰かが書き換えたのです。 その半分は藤原不比等様です。 藤原不比等様は、そのおわびに、「ヒント語」を残しました。 「枕詞」ですが、実はそのほかにも続々見つかったのです。 藤原不比等様は、すぐに誰かが正しい史実を探し当てると思っていました。 しかしそれが絶望的になったのです。 それは桓武天皇が、さらに「焚書」してしまったからです。 桓武天皇は、天智天皇系と言われています。 しかし、桓武天皇は「近江朝系」なのです。 「近江朝」とは壬申の乱で、天武天皇と対立した王朝です。 この近江朝に原文に近い古事記が残っていました。 桓武天皇は、「この歴史はあまりにもひどい」と言って、全部燃やしてしまったのです。 藤原不比等様が隠して、そこにマークを付けた歴史、それは大きく三つあるのです。 九州王朝とその滅亡 大和朝廷は奈良盆地ではなく大阪平野の河内にあった 壬申の乱は数か月ではなく20年も続いた。 今回のブログは、飛鳥時代から奈良時代に焦点を当てます。 欽明天皇の息子、用明天皇と敏達天皇から、奈良時代の藤原不比等と元明天皇までです。 残念ながら、 ににぎ様、うずめさま、 神武天皇、綏靖天皇、 すさのう命、少彦名の命、 大物主の命、姫たたら五十鈴より姫様、 応神天皇、雄略天皇、清寧天皇様は、今回はあまり登場の機会はありません。 【「近江」は何故「おうみ」と読むのか】 「近江」はなぜ「おうみ」と読むのか。 これは簡単です。 「ちかつあわうみ」で、「近津淡海」と書き、「淡海」が「江」で、「近江」で「あわうみ」「おうみ」となったのです、 と私も騙されていました。 でたらめです! だいたい、 琵琶湖は「あわうみ」ではありません。 「うみ」(海)には三つありました。 「しおうみ」は「海」です。 「みずうみ」は「湖」です。 「あわうみ」は「海とつながっている湖」「汽水湖」です。 琵琶湖は真水湖なので、「あわうみ」ではなく「みずうみ」なのです。 ではなぜ「近江」を「おうみ」と読むのでしょうか。 超難問です。 「近江」は枕詞だったのです! またいつか、登場していただきましょう。 藤原不比等のヒント語だけでかなりページが出来ます。 【「近江」は何故「おうみ」と読むのか その二】 「近江」は、どう読んでも「おうみ」とは読めません。 それなのに、私たちは「近江」を「おうみ」と読めるのです。 それは何故でしょうか。 それが「枕詞」なのです。 「飛鳥」はどう読んでも「あすか」とは読めないのに、 私たちは「あすか」と読めてしまうのです。 「飛ぶ鳥の明日香」を「飛鳥」だけで「あすか」と読むのです。 「近江」も枕詞なら、「おうみの近江」という言葉があったことになります。 「おうみ」とは「おおきいみずうみ」のことです。 つまり「琵琶湖」です。 「近江」とはなんでしょうか。 「ちかえ」ではないでしょうか。 「誓え」です。 「おうみのちかえ」「琵琶湖の誓い」だったのです。 枕詞にはもう一つ「隠れ枕詞」があるのです。 それは「おうみでない誓い」「琵琶湖ではない誓い」です。 「吉野の誓い」でしょう。 壬申の乱で、天武天皇は息子たちに誓わせたのです。 「吉野の盟約」で、「草壁皇子を次期天皇とし、お互い助けて相争わないことを誓わせた。」と書いてあります。 実際の「吉野の盟約」の中身はこれから調べますが、 「琵琶湖の盟約」「近江朝の誓い」の方が先にわかってしまいました。 壬申の乱は、近江朝と吉野朝の対立で、吉野朝が勝ちました。 吉野朝は近江朝に誓約させたのです。 「この国を近江朝の国名にする」 「近江朝の人間を殺さずに、琵琶湖周辺、京都盆地、山代の開拓民とする」 この二つです。 この「琵琶湖の盟約」で、日本の国名が決まりました。 近江朝は自分たちの国を「日本」と名乗っていたのです。 吉野朝は「大和」と名乗っていました。 そして、近江朝の遺族が開拓した京都盆地が平安京となりました。 琵琶湖を開拓した遺民は、大変優秀な「近江商人」となったのです。 追記「吉野の盟約」の真実が分かりました。すごいです!だから日本は素晴らしいのです。またゆっくり書きます。 ちょっとだけ書きます。「九州王朝の天皇の遺族(蘇我入鹿の子孫)を天皇にする」というものです! 2016/7/30(土) 【「日下」を「くさか」と読むのは何故か】 「日下」は「くさか」と読みます。私はこれを何回も書いていますが、(消してしまってすみません)とてもとても重要だからです。 「日下」の「下」は音読みで「カ」と読みますが、「日」は音読みでも訓読みでも「くさ」とは読めないのです。 このように、音読みでも訓読みでも読めないのに読める漢字は、「枕詞」なのです。 そして、なぜ枕詞が出来たのか。 それはもうひとつの枕詞があるからです。 「飛鳥」を「あすか」と読むのは、「飛ぶ鳥の明日香」という枕詞があったからです。 そして、「飛鳥」には二つあって、「近津飛鳥」と「遠津飛鳥」があったのです。 「遠津飛鳥」は奈良盆地にあり、「近津飛鳥」は大阪河内にあったのです。 二つの「あすか」があったので、奈良盆地の明日香を「飛ぶ鳥の明日香」「飛鳥明日香」と書きました。 それで「飛鳥」だけで「あすか」と読むのです。 「日下」を「くさか」と読むのは、「日下」が枕詞だったのです。 「ひのもとのくさか」と言いました。 「日下草香」と書いたのです。「下」は「もと」とも読むのです。「橋下徹」は「はししたとおる」ではなく「はしもととおる」と読むのです。 つまり、「くさか」には二つあったということです。 「日下でない草香」「ひのもとではないくさか」があったのです。 「ひのもと」「日下」とは「太陽の本」なので「東の方角」の意味です。 注:「日の下」にはもう一つ重要な「隠れ意味」があります。「晴れ乞い」の意味です。後で詳しく書きますね。 「ひのもとではない草香」とは「西の草香」です。 古代大阪平野には、「河内湖」という湖がありました。 河内湖は大阪湾につながっていたので、「草香江」と呼ばれたのです。 そして、福岡市にも「草香江」があるのです。 古代博多湾も汽水湖で、「草香江」と呼ばれたのです。 「草香」が大阪と福岡にあったのです。 岡の「くさか」は「西の草香」なので、「日向の草香」と呼ばれていたと思っています。 さて、長々と書きましたが今回の本筋はこれからです。 「種種」という和語があるのです。読める方はいらっしゃいますか。 「たねだね」ではなく、「くさぐさ」と読むのです。私はびっくり仰天しました。「くさぐさ」とは「くさかくさか」ではないかとおもったのです。 「種種」の意味を広辞苑で調べると、「物事の品数・種類の多いさま。いろいろ。さまざま。」例として源氏物語(絵合)「種種の御たきものども」と出ていました。 「くさぐさ」とは、「大阪と福岡では色々な違いがある」と言う意味なのです。 大阪と福岡に、国があったのです。 古墳時代から飛鳥時代にかけて、日本には大きな国が二つありました。 大阪に「大和朝廷」福岡に「九州王朝」です。 藤原不比等は、古事記日本書紀で「九州王朝」と「河内王朝」を消し去ったのです。 そして消した場所にしるしを付けました。 その「しるし」が「枕詞」ですが、「種種」のように「繰り返し和語」をたくさんつくったのです。 「様々」「色々」も「繰り返し和語」なのです。 「繰り返し和語」は「大和と九州の違い」が分かるようになっています。 これから簡単な「繰り返し和語」を説明していきます。 「軽軽」(かるがる)は難しいけれどわかりやすいです。 「かる」とは「福岡港」と「大阪港」の意味なのです。 次回は「かる」とは何かから説明いたします。 ところで、「日下」は「ひのもと」ですが、それが「日の本」となり「日本」になったのです。 「日下」は最重要和語なのです。 注:私はそれを古事記雄略天皇紀から見つけました。 雄略天皇の皇后を「若日下部王」(わかくさかべのおおきみ)と言うのです。 【「近江なる」は枕詞ではないか】 伊勢物語に 近江なる 筑摩の祭 とくせなむ つれなき人の なべのかず見む という和歌が載っているそうです。 ある男は、異性を知らないであろう女が高貴な方と人目を忍んで愛を語らい、関係を持ったのを知った。 しばらくして男が女に詠んだ。 近江の筑摩神社の祭りを、すぐに、しましょう。男女関係なんて興味が無いという風だった女が、何個の鍋を頭にかぶっているか、見ようじゃないですか。
「近江なる」が枕詞なら、この和歌のどの和語に懸かるのでしょうか。
「おうみなる近江」「近江なる誓え」なのですから、この和歌の内容から見ると、「お祭りに神様の前で鍋をかぶる」(この女性が関係した男性の数を神様の前で正直にかぶる鍋の数で表す)というものなので、「誓え」は「祭り」ではないでしょうか。【継体天皇は大友皇子である】 「近江」が枕詞ではないかと考えている内に、近江(滋賀県)には、近江朝が出来る前は、何もなかったのではないか。 「継体天皇」は藤原不比等が作った、「供養天皇」 で、「大友皇子」一族の鎮魂天皇なのではないのか。 大友皇子は、天智天皇の息子ではなく、お兄さんの次男です。 有間皇子の弟です。 孝徳天皇の次男で、統天皇が殺したと言われる、大津皇子と同一人物です。 大友皇子は、秦河勝の次男なのです。 【「近江」は何故「おうみ」と読むのか その二】 「近江」は音読みなら、「キンコウ」で訓読みなら、「ちかえ」です。 しかし「近江」は音読みでも訓読みでもなく、「おうみ」と読むのです。 これは枕詞に違いありません。枕詞には、もう一つ「隠れ枕詞」があるのです。 「おおみなるちかえ」を、「大湖近江」と書いたのです。 それで「近江」だけで「おうみ」と読むのです。 もう一つ隠れ枕詞は、「おうみでないちかえ」があったのです。 枕詞は柿本人麻呂が作りました。 なので時代は飛鳥奈良時代です。 飛鳥奈良時代で「近江」と言ったら壬申の乱です。 「近江朝」の反対は、「吉野朝」です。 「近江の誓え」の反対は、「吉野の誓え」です。 何故「吉野の誓え」「吉野盟約」を隠したのでしょうか。 「吉野盟約」は日本書紀に書いてあるのです。 隠したのは「吉野盟約」の内容ではないでしょうか。 【コメント欄】 ニキタマ万葉集さんこんにちは。 「近江」も枕詞だと気がつきました。 藤原不比等はすごいことをたくさん隠してそれに印をつけたのです。 「おうみなるちかえ」「大湖近江」がありました。 近江朝に吉野朝が誓わせた誓いはすごいです。 「大友皇子をはじめ全員の命は助ける。」 「領土を取り上げるので京都盆地の開拓をせよ」 「近江朝の国名を統一国の国名にする」 と言うのです。
吉野朝は「大和」
遣唐使が中国皇帝に、「滅ぼした国の名前をもらって倭から日本に国名を変えました」と言えるはずはないのです。近江朝は「日本」だったのです。 2016/7/30(土) 午後 1:39[ やまとねこ ] . > やまとねこさん
もう日暮れですね。 過ぎ去る光陰?・・・まさに、 ガードレールどころか、道さえ見失わさせるスピードです。 [ やまとねこ ] さんのお陰様で、日本古代への道ははずせません。 四六時中楽しんでいます
ありがとうございます。
2016/7/30(土) 午後 6:24[ ニキタマの万葉集 ] |
万葉集索引第二十巻
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yahoo《やまとねこ》さんのブログ【藤原不比等の日本古代史観】<枕詞はヒント語である>2016/7/31(日)【ロードランとトレイルラン】 http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/57396332.html 【山を走ってきました】 真夏のアウトランは、山を走るに限ります。 「春日山原始林」を走ったので、森の中は涼しいのです。 真夏ランに最適なのは、 1.森の木陰を走れる。 2.高度があるので涼しい。 3.川のせせらぎや自然音で癒される 家から登山口まで自転車で。すぐ着きました。 途中で「奈良坂」を見つけました。 【奈良市には三回都が出来た】 平城京を元明天皇(たぶん藤原不比等)は、「奈良の都」と命名しました。 「なら」とはどんな意味でしょうか。 弥生語を知っている方ならすぐわかりますが、「ならの語源は不明」が定説のようです。 「な」というのは、古事記に最初に登場する神様のことです。 「天御中主」(あめのみなかぬし)と言います。 この方が「な」です。ににぎの命のお父さんで、弥生人の王様です。 「な」は「神様」「天皇」「都」と言う意味になりました。 「ら」は「過去形」です。 「なら」とは、「昔都があった」と言う意味です。 藤原不比等は、新しい都の名前を、「昔都があった」という意味の「なら」(奈良)にしたのです。 平城京を造る以前に、奈良には都があったのです。 つまり、藤原不比等は、平城京の北にあった、「ならやま」の地名から「奈良の都」を命名したのです。 平城京が出来る前に、「ならやま」(奈良山)があったということは、さらに昔に都があったことになります。 奈良市には三回都が出来ました。 新しい順に、「なら」「ならやま」「ならさか」です。 私は今日「ならさか」を走ってきたのです。 「ならさか」とは「坂」の名前ではないのです。 「さか」とは「佐賀」あるいは「嵯峨」です。 「さが」とは「二番目の都」という意味です。 一番目の都は「すが」です。 たぶん、出雲の国の都が「須賀」ではないでしょうか。 「ならさか」を作った方は誰なのでしょうか。 写真は「ならさか」を作った方の皇后の古墳です。 【「柳生」(やぎゅう)の語源】 今日は若草山を走りましたが、柳生まで行きたくて、ちょっと足を延ばしました。 柳生に「円成寺」という古刹があるのです。 そこで折り返しました。 ところで、「柳生」とはどんな意味なのでしょうか。 「柳が生えている森がある」と書いている人がいました。 でも「柳生」は漢字が輸入される前からの地名だと思います。 「東京」なら「東の都」で漢字のままの解釈で良いですが、「江戸」なら「入り江に戸がついていた」という意味なのでしょうか。 日本人は「漢字アホ」になってしまったのではないかしら。 何でも中国朝鮮が素晴らしいと思ったら大間違いの事もあるのです。 「合っていることもあるけど」「やぎゅう」は「やきゆ」ではないでしょうか。 「き」を「ぎ」としたのは強調でしょうか。 「やきゆ」とは、「やが消えた」という意味です。 「や」とは「素晴らしい王様」という意味です。 「柳生の地で、古代天皇が姿を消した」のです。 「姿を消した」とは「屍化仙」のことです。 死体を残さずあの世に逝くことを、「屍化仙」(しげせん)というのです。 役行者が有名ですが、円成寺で屍化仙になったのは紀元前350年くらいの方です。この方が、「ならさか」を造りました。 http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/57396837.html この方のお名前が二つあるのです。 「すさのう命」と「少彦名の命」です。 「すさのう命」とは「少彦名の命」と「大国主命」のことかもしれません。 柳生の地で屍化仙になったのは、少彦名の命です。 柳生が「根之堅州國」(ねのかたすくに)かもしれません。 【「猿田彦」の「さるた」とはどういう意味か】 猿田彦の謎が少し解けました。 百人一首20番目、 わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ の「難波なる」は「みおつくし」の枕詞なのではないか。 「みおつくし」の本当に意味は。 「なにわ」とは港の名前ではなく湖ではないか。 などと考えていくうちに、わかったのです。 「猿田彦」の語源が! 猿田彦も、屍化仙だったのです。 屍化仙については前項「柳生の語源」をご参照願います。 http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/57397002.html 「さるた」とは、「山の頂上で天に昇って逝った」と言う意味です。 「さ」は「いなくなる」「る」は「ずっと」「た」は「山」です。 猿田彦は、大阪と奈良の県境の「信貴山(しぎさん)」で、屍化仙となったのです。 私は信貴山の麓の龍田大社でこの刺繍絵を見つけました。 この神様は「龍田彦」ですが、私は「猿田彦」に見えるのです。 風の神様で、龍田姫とご夫婦です。 龍田姫は、秋の神様で、龍田川を紅葉に染めます。 ちはやふる 神代も知らず龍田川 唐紅に 水くくるとは 吾去るは 七日は過ぎず 龍田彦 ゆめ此の花を 風にな散らし 【「難波」(なにわ)とは港ではなく湖の意味である】 「難波津」とは、古代の国際港で、住吉津と並ぶ、大きな港だったのです。 しかし、「なにわ」とは、「海につながっていない淡水湖」の意味なのです。 さあ、この矛盾をどう解決したらよいでしょうか。 私は無理やりに解釈せず今まで温めてきたのです。 私は二十年、浪速区(なにわく)に職場があったのです。 住吉区に住まいがあったので、 「すみよし」とは何かと考えたことから、「弥生語」を発見し、日本語は一音一音意味があったとし、その法則をかなり解明したのです。 しかし「なにわ」の意味はよくわからなかったのです。 たった今、わかりました。 「なにわ」とは「都」の意味です。 このマークは大阪市のシンボルマークです。(ウイキペディアよりお借りしました) 河口や港の浅瀬や座標に「標識」をたて「みおつくし」と呼んだのです。 このマークは何を意味しているのでしょうか。 「みおつくし」とは何でしょうか。 【六月や峰に雲置く嵐山】
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2016/8/1(月) 「日下部」と「草壁」 http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/57397707.html?vitality 「日下部」(くさかべ)というのは、雄略天皇(21代)の皇后のお名前です。「若日下部王」(わかくさかべのおおきみ)と言います。 「草壁」(くさかべ)というのは、天武天皇(40代)と持統天皇(41代)の長男です。 「草壁皇子」(くさかべのみこ)と言います。 この「日下部」と「草壁」は、両方共「くさかべ」と読みます。漢字は違いますが、音は同じです。時代は、古墳時代と飛鳥時代です。 古事記・日本書紀が出来たのは、元明天皇(43代)と元正天皇(44代)です。 基本的に奈良時代以前の和語・地名・人名は、漢字は当て字です。 音が先にあって、同じ音の漢字を探して当てたのです。 「日下部」と「草壁」は同じ意味です。 さて問題です。「くさかべ」の意味は何でしょうか。 ヒント「くさか」には二つあります。 「草香」と「日下」です。 しかし「日下部」はありますが、「草香部」はありません。 「日下」は、関西大阪の地名です。「ひのもとに」の意味です。 「べ」とは「へ」の強調です。「べ」とは「とても遠い」と言う意味です。 「くさかべ」とは、「ひのもとからとても遠いくさか」です。 「日下」と「日下部」はとても離れているのです。 「若日下部王」は「くさかべにいらした」という意味です。 「草壁皇子」は「くさかべでお生まれになった」という意味です。 「くさかべ」は「ヒント語」なのです。 【ヒント和歌】 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香久山 万葉集もそうですが、百人一首の一番から三番まではシリーズで、「ヒント和歌」です。 冒頭の和歌は百人一首二番目、持統天皇作と言われています。 この和歌が「ヒント和歌」なのです。
天香久山に白妙の衣を干すとはどんな意味でしょうか。
天香久山は聖地です。梅雨が明けたからと言って、布団を干す人はいないのです。 「春が過ぎて夏がきたらしいわ」と関西では言いません。 北海道は春の次は夏ですが、関西では春の次に梅雨が来るのです。 今ここは(奈良市)で毎日猛暑ですが、 それは「春過ぎて」ではなく、「梅雨が明けたから」です。 この和歌は元明天皇作です。 天香久山は、奈良市の春日大社の山、若草山です。 原不比等はお盆にある神事をするため、そわそわ準備を始めたのです。 【「八王子」が何故東京にあるのか 一】 「八王子」とは、天照大神とすさのう命の「うけい」で産まれた、男神五柱、女神三柱の神様のことです。 長男を、「おしほほみみ命」と言います。 三女神を、「宗像三女神」と言い、九州福岡の宗像神社の神様なのです。 私はおしほみみ命は九州王朝の初代天皇だと思うのです。 とすると、八王子は、神武天皇以前の九州王朝の天皇ということになります。 何故九州王朝の天皇が、東京にあるのでしょうか。 【「八王子」は何故東京にあるのか 二】 八王子は天照大神とすさのう命のうけいで産まれました。 その中の三柱は女神です。 そして三女神は、徐福のお妃なのです。 つまり、徐福は日本に三つの国を作ったのです。 九州王朝と、大和朝廷と、「あずまの国」です。 「あずまの国」の都は東京大田区にありました。 九州王朝の古代天皇の神社を、徐福の子孫が建てたのです。 徐福の三男が、高尾山に八王子神社を建てました。 【山を走った次の日は疲れが残らない】 【聖徳太子は二人いた】 聖徳太子はお二人もいらしたのです。 推古天皇の摂政を勤め、十七条憲法を作った聖徳太子を、「押坂彦人大兄王」(日本書紀)「忍坂日子人太子」(古事記)と言います。 「摂政」とは「総理大臣」の仕事です。 大和朝廷は女性天皇でしたので、「女性天皇+摂政」で国を治めました。 「大兄」とは「摂政」の意味です。 法隆寺や仏教の解説書「法華義疏」(ほっけぎしょ)をお書きになったのは、九州王朝の天皇である聖徳太子です。 私は今朝、九州の聖徳太子天皇の「天皇名」がわかりました。 「天足彦国押人命」(日本書紀) 「天押帯日子命」(古事記)というのです。 第5代天皇の孝昭天皇の皇子として書いてありますが、お名前からして「天皇」ですし、もう一人の聖徳太子「押坂彦人大兄王」とそっくりのお名前です。 このお二人は双子なのです。 当時双子は「不吉」で片方を「流される」恐れがあったので、産婆さんが弟(先に生まれた赤ちゃん)を母親にも内緒で、大臣の「秦大津父」(はたのおほつち)に渡し、大臣はお祖父さんの「欽明天皇」(九州王朝の天皇)にだけ教え、大臣の領地の京都府南の伏見の「深草」に住んでいる親戚に預けたのです。 その聖徳太子弟の育ても親は、 まわりのものに、「馬小屋で拾った子供」と言っていました。本当の事情は内緒にしていたのです。 なので、「厩戸皇子」(うまやどのみこ)は大和の聖徳太子の呼び名でした。 ここから大悲劇が起こるのです。 【天然記念物は放し飼い】 「鹿」をなぜ「しか」と言うのかは、とても難しいです。 「し」の意味が難しいのです。 弥生人は鹿を作物を荒らす害獣と思っていましたので、「しか」は「稲を荒らす」と言う意味でしょう。 「し」は「だめにする」と言う意味と、「神が現れる」という、正反対の二つの意味があるのです。 もう一つ、「す」が「一番」「さ」が「二番」「そ」が「三番」「せ」が「四番」ですが、「し」は「五番」ではなく「最高」の意味もあります。 2016/8/2(火) 【この寺は 庭いっぱいの ばせうかな】 【古事記の天皇はほぼ全部九州王朝の天皇である】 大和朝廷の天皇は、女性天皇なので、古事記に登場する男性天皇は、四人以外は九州王朝の天皇です。 大和朝廷の天皇は、初代神武天皇、十五代応神天皇、二十一代雄略天皇、二十二代清寧天皇です。 推古天皇は大和の女性天皇で、聖徳太子が摂政です。 大和の摂政を「大兄」(おおえ)と言います。大和の聖徳太子は、「押坂彦人大兄王」と言います。 四人の天皇で、清寧天皇だけが、女性天皇と摂政の両方をしました。 かなり特殊な天皇です。 清寧天皇は「法皇天皇」なのです。 【伊勢神宮の外宮を作ったのは雄略天皇ではなく清寧天皇】 万葉集第一番、雄略天皇の
こもよみこもち
の和歌も、雄略天皇作となっていますが、本当は雄略天皇の太子の清寧天皇です。この天皇は天皇でいながら、仏門に入りました。 奈良時代の聖武天皇や、平安時代の宇多天皇も出家して法皇になりましたが、清寧天皇は、天皇でいながら法皇になったのです。 「白髪大倭根子」の「白髪」は、ホワイトヘアではなく、スキンヘッドだったのです。 「白髪部」とは、伊勢神宮の外宮です。 外宮は「仏教の隠れ神社」です。 【】
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【日本は何時「日本国」になったのか】 日本は「やまと」「倭」「大和」でした。 何時から「日本」となったのでしょうか。 これは知りたいですよね。 奈良時代の712年から720年の間です、 712年は元明天皇の時代で、古事記が完成しました。 しかし古事記には「日本」という文字は一つもないのです。 720年は元正天皇の時代で、日本書紀が完成しました。 日本書紀には「日本」(やまと)(国)が40か所出てきます。 「日本」のついている人名は「日本武尊」をはじめとして、「日本童男」(やまとおぐな)「日本武」(やまとたける)「日本足彦国押人尊」(やまとたらしひこくにおしひと)(6代考安天皇)です。 712年から720年の8年間に、「大和」が「日本」になったのです。 これは「大江の誓え」があったのです。 「大江の誓え」は、壬申の乱が終わった時と思っていましたが、壬申の乱は700年までには終わっているので、(定説では672年)「大江の誓え」はずいぶん後なのかな。 それにしても、六代天皇考安天皇の和名諡号「日本足彦国押人尊」は、私が「聖徳太子」としている方のお名前、「押坂彦人大兄王」とよく似ていますね。 【「柿本人麻呂」も「山部赤人」もペンネームではないか】 柿本人麻呂も、山部赤人も、超一流の万葉作家ですが、このお二人は別名があるのではないでしょうか。 「雅号」というか、ペンネームと言うか、和歌の作家名ではないかと思います。 直感からいいますと、 柿本人麻呂は藤原不比等で、山部赤人が長屋王。 お二人は親子。 実は、壬申の乱の後、「吉野の盟約」と「近江の誓え」があったのです。 「近江の誓え」では、「大和」の国名を「日本」にすると、吉野朝側が決めたのです. 「日本」とは近江朝が使っていた国名なのです。 吉野朝は「大和」という国名でした。 しかし, そうは決めたものの、滅んだ国の国名を、滅ぼした国の国名に使うことなど、 前代未聞で、積極的に賛成する人はいなかったのです。 ところがところが、おかしな具合になってきたのです。 時代は下り、持統天皇から元明天皇へ、高市皇子から藤原不比等、長屋王へと、天皇、政権が移ります。 都も、吉野から藤原宮、平城京へと移るのです。 藤原不比等は、平城京を「千年王国」にしたかったのです。 そのためにはぜひ「大鳥」に奈良の都に舞い降りて、千年居続けてもらわなければならないのです。 そこで、平城京の近くの若草山(大仏のある奈良公園の山)に春日大社を建て、お盆に「大」の字を「白妙の衣」で、芝生に描いたのです。 それを毎年続けました。 「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香久山」 百人一首の二番目です「天の香久山」とは「春日山」「若草山」のことです。 しかし、なかなか大鳥は降りてこないのです。 ところが、山部赤人が、この和歌を詠みました。百人一首の四。 「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」 それで不比等は気が付きました。 大鳥は富士山にいらっしゃるのだと。 富士山は「火の山」だったのです。 竹取物語では煙を出しています。 不比等は「この国はひのもとだよ」と大鳥に知らせることにしました。 「ひのもと」は「日本」なのです。 日本書紀の署名を「日本書紀」としました。 8年前に出来た古事記には「日本」の文字は一つもないのです。 国名も人名も全部「やまと」は「倭」なのです。 日本書紀の「やまと」を「倭」と書いているのが44か所で、 「やまと」を「日本」に書き換えているのが40か所です。 「倭」「大和」が「日本」になったのは、藤原不比等が大鳥を富士山から奈良の都に移ってきてほしかったからです。 しかし、そこまでしても、大鳥は平城京には降りてきませんでした。 それは何故でしょうか。 【「飛鳥」は二つある】 「飛鳥」はなぜ「あすか」と読むのか。 それは「飛鳥」が枕詞だからです。 「飛ぶ鳥の明日香」というのです。「飛鳥明日香」と書きました。 飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武 飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ 元明天皇の和歌です。 ニキタマの万葉集さんからお借りしました。 http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34301783.html 元明天皇が藤原京から平城京に遷都するときに詠んだ歌です。 「飛ぶ鳥の 飛鳥の里」とは「藤原京」なのです。 この和歌の「君があたりは」の「君」は、天智天皇の御陵なのです。 元明天皇は天智天皇の娘として育てられましたが、本当は天武天皇の娘だと知りました。 天武天皇は蘇我入鹿の太子で、蘇我入鹿は九州王朝の天皇だったのです。 大化の改新の際、天智天皇は、蘇我入鹿の太子一家、天武天皇持統天皇とその娘の元明天王と息子の高市皇子を、山深いお寺に隠したのです。 蘇我入鹿を殺したのは天智天皇のお兄さんの「古人大兄王」です。 お兄さんは天智天皇が天武天皇一家を隠していると知り、崖から突き落とし天智天皇は死んでしまいます。 (天智天皇はまだ天皇ではありませんでした) この状況はまた詳しく書きます。 元明天皇は天智天皇が一家の命の恩人で、そのために死んでしまったと知り、ショックのあまり一週間食事がとれなくなりました。 お父さんの天武天皇の薬草で治りましたが、その時に、京都山科にあった天智天皇の御陵から、遺骨を湧けて、藤原京の近くの「元薬師寺」の丘に埋葬したのです。 お話が違う方向へ飛んでしまいました。 「明日香」をわざわざ「飛ぶ鳥の」と枕詞で形容したということは「明日香」にもう一つあるということです。 もう一つあるので、枕詞で区別したのです。 鳥という動物は飛ぶのが当たり前なのです。 わざわざ「飛ぶ鳥」というのが「わざとらしい」のです。 なので、もうひとつな明日香は、きっと「飛ばない鳥の明日香」なのです。 日本書紀の履中天皇記に 「遠津飛鳥」(大和盆地)と「近津飛鳥」(大阪河内)が載っています。 「近津飛鳥」が「飛ばない鳥の明日香」なのです。 「飛ばない鳥」とはペンギンやダチョウではなくて、飛ぶのに千年も時間がかかるという「大鳥」のことです。 「飛ばない鳥の明日香」とは「大鳥の明日香」なのです。 「大鳥の明日香」は大阪河内にあり、河内王朝の都として、千年間も存在しました。 「大和朝廷」とは奈良盆地にではなく、大阪河内にあったのです。 藤原不比等と長屋王親子は、平城京を千年続けられるように、大鳥に降りてきてほしいと、色々努力をしましたが、大鳥が降りてきたのは、平城京ではなく平安京だったのです。 【「日本」は枕詞である】 「日本武尊」と書いて、「やまとたけるのみこと」と読みます。 なぜ「日本」を「やまと」と読むのでしょうか。 それは「日本」が枕詞だからです。 古事記では、「倭建命」と書いています。 日本書紀には「日本武尊」と書いています。 古事記では「やまと」を「日本」と表記している個所は一つもありません。 日本書紀には「やまと」を「倭」と「日本」と半分づつ表記しています。 古事記が完成したのは712年です。日本書紀が完成したのは720年です。 「日本」が枕詞になったのは、712年から720年の8年間の間です。 なので、「日本」を枕詞にしたのは藤原不比等か長屋王です。 (お二人は親子です) 「日本」はどうして「やまと」と読むのか、それは「日の本の大和」だからです。「日本大和」と書きました。 それで「日本」だけで「やまと」と読むのです。 枕詞にはもう一つ「隠れ枕詞」があるのです。 つまり、「日の本ではない大和」があるのです。 私は今まで「九州王朝の大和」だと思っていました。 それが「ふじやまのやまと」「富士山の大和」ではないかと思ってきました。 「富士山の大和」には「大鳥」がいらっしゃるのです。 【藤原不比等と長屋王は「大兄」(おおえ)である】 「藤原不比等」は他界されてからのしごう(贈り名)です。長屋王も本名ではないでしょう。 二人は「大兄」です。 古代大和朝廷は女性天皇で、今の総理大臣に当たる仕事をされるかたを「摂政」と言いますが、大和では「大兄」と言いました。 藤原不比等は、元明天皇の大兄で、「春日大兄皇子」と言ったと思います。 長屋王は、やはり「○○大兄皇子」と言ったのです。 長屋王は元正天皇の摂政です。 私の職場は平城京の近くですが、その間にヨーカ堂奈良店があります。 ヨーカ堂はそごうデパートがあったのですが、そごうデパートを建てるとき、地下から長屋王の遺跡が出てきたのです。 木簡が五万本です。 ヨーカ堂の二百メートル北に法華寺があり、そこに藤原不比等が住んでいました。 今度写真を撮ってきます。 追記 長屋王の正式名は、「奈良坂の大兄皇子」ですね。 【「大鳥」は番(つがい)であった】 藤原不比等と長屋王親子は、平城京奈良の都になんとか大鳥に降りて来て頂こうとしました。 しかし、お二人は大鳥が番、つまりご夫婦なのを知りませんでした。 しかも、雄の大鳥の好みだけ把握していたのです。 長屋王の時代に降りて来た大鳥は、雄の方で雌の大鳥が千年住めるか様子を見に来たのです。 奈良の都は、雌が住みたい条件を満たしていなかったので、雄の大鳥は飛び立ってしまいました。 雌の好みは「港」だったのです。 【桓武天皇は大鳥の誘導に成功した】 桓武天皇は平安京に遷都するとき、長岡京に寄り道をしました。 それは長岡京に港があったからです。 淀川は古代は海につながっていました。 長岡京の淀川対岸は、八幡市で石清水八幡宮があります。 大きな鳥居があったのです。 鳥居とは鳥に姿を変えた神様に来てもらう、港のお宮なのです。 すぐ大鳥が降りて来たので、桓武天皇はすかさず京都盆地に再度遷都したのです。 西には愛宕山があり、愛宕権現が雄の大鳥に姿を変え、千年間雌の大鳥に餌を運んだのです。 東京も、港と鳥居と高尾山の権現様がいらっしゃり、千年王国が続くのです。 これも不比等様と長屋王様のお陰なのです。 【】
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2016/8/6(土) 【「古事記」「日本書紀」は誰が作ったのか】 http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/40479438.html 「古事記」と「日本書紀」は、奈良時代に出来ました。 このふたつの国定歴史書は、誰が作ったのでしょうか。 同じ人が作ったのでしょうか。 何故二つ歴史書を作ったのでしょうか。 「古事記」も「日本書紀」も、藤原不比等が主監したと思っていました。 ところが、藤原不比等の影に、別な人物がいたのです。 藤原不比等のお祖父さんです。 藤原不比等は天智天皇の長男ですから、影の人物は、天智天皇のお父さんです。 天智天皇は皇極天皇の次男です。 天智天皇のお父さんは舒明天皇となっていますが、実は皇極天皇の前の夫との子供です。 皇極天皇は舒明天皇と再婚したのです。 皇極天皇の前の夫の名前は、高向王(たかむくおう)となっていますが、 実際は「山背大兄王」(やましろのおおえのおう)です。 この「山背大兄王」が「古事記」と「日本書紀」を「主監」したのです。 しかし、日本書紀が完成する前に崩御されました。 藤原不比等は「急いで改竄」したのです。 「日本書紀」は当初別名だったと思います。 藤原不比等が「急いで改竄」したのは何か。 「山背大兄王」とはどんな人物でどんな思想の持ち主なのか。 山背大兄王は、聖徳太子の長男で、蘇我入鹿に滅ぼされたことになっています。 しかし実際は逆で、山背大兄王と天智天皇の兄の古人大兄皇子が、蘇我氏を滅ぼしました。 蘇我氏を滅ぼした人物が作ったのが「古事記」と「日本書紀」ですが、その人物が崩御され、藤原不比等は「ヒント語」を「日本書紀」に満載しました。 「日本書紀」は「ヒント語集」なのです。 【「靖国神社」の「やすくに」の意味は何か】 靖国参拝が良いとか悪いとかの感情論ではなく、「一音一音意味がある」日本語から考えてみましょう、という趣旨で書きます。 「靖国神社」の「やすくに」の意味ですが、「やす」とは「休む」「安らかに」という意味で、「慰霊」という意味があるのです。 漢字で書くと「安」「康」なので、良い意味に感じるのですが、私たちは中国人ではなく日本人なのです。 漢字で考えるだけではなく、平仮名でも考えましょう。 「やす」は漢字が輸入される前からあった「和語」なのです。 「やす」とは本当は「枕詞」なのです。 「休み」の語源は、「やすみしし」と言います。 「やすみしし」とは「天皇」「吾大君」の枕詞なのです。 「やすみしし」の意味が難しいです。 万葉集の三番目の和歌、「中皇子」作です。 万葉集の一番目は雄略天皇、二番目は舒明天皇です。 万葉集の最初の部分は藤原不比等の「ヒント和歌集」です。 「や」は「二番目」の意味です。「や」は「八」の意味はないのです。 「す」は「一番目」の意味です。「すさのうの命」「須賀の宮」の「す」です。 「や」は「弥生語」で、一番は「う」と言います。 「す」は「出雲語」で、二番を「さ」三番を「そ」四番を「せ」と言います。 「み」は「天皇」の意味です。「御」です。 「し」は「現れる」です。 「しし」とは「大きな獲物」が原義ですが、この場合は「天皇がお二人現れた」という意味です。 「やすみしし」とは、「天皇がお二人現れた」と言う意味で、実際は「天皇と上皇が一緒に現れた」という意味です。 大化の改新、乙巳の変のことです。 蘇我入鹿と蘇我蝦夷は、九州王朝の天皇と上皇です。 それを、天智天皇の兄「古人大兄皇子」と父の「山背大兄王」が殺したのです。そして九州王朝は滅びました。 (前項をご参照ください) 「やすみしし」とは「滅んだ天皇」の枕詞で、「やすくに」とは「滅んだ国」の意味です。 物価は「やすい」方がいいですが、安倍晋三総理大臣の推し進めるのは、物価を高くする「アベノミックス」です。 「やすい」と「たかい」のどちらが「和語」「言霊」として良い音なのでしょうか。 「たかし」に決まっているのです。 しかし「たか」の原義は神武天皇皇后でとても良いですが、「高」と漢字で書くと「プライドが高い」「高慢」の意味になるので、「やすくに」の方が「休んでいる国」(能ある鷹は爪を隠す)で、日本的な表現かもしれません。 「戦没慰霊」としては「やす」は「やすらかに」でぴったりなのですが、「やすくに」と「国」を後につけると、「滅んだ国の慰霊」となってしまうのです。 【古事記を主監したのは「山背大兄王」である】 山背大兄王という方は、聖徳太子の長男で、蘇我入鹿に滅ぼされたことになっています。 聖徳太子の長男なのは事実ですが、聖徳太子はお二人いらしたのです。 九州王朝の天皇で、法隆寺(当初は福岡にあった)や天王寺を建てた仏教徒の方この聖徳太子を「九州聖徳太子」と今後呼びます。 九州聖徳太子には双子の弟がいて、双子は不吉だと親にも隠して、お祖父さんの欽明天皇が、大臣の「はたのおおつち」に大和(伏見の深草)の親族に預けたのです。 この大和朝廷の「大兄」(総理大臣)になった方、推古天皇の摂政になった聖徳太子を、「大和聖徳太子」と呼ぶことにしましょう。 「山背大兄王」とは「大和聖徳太子」の長男で、お母さんは推古天皇のむすめ「おわりだのひめみこ」(小墾田皇女)と言います。この方も推古天皇のあとに女性天皇になるのです。 「大和聖徳太子」の本当のお名前は、「押坂彦人大兄王」(日本書紀)「忍坂日子人太子」(古事記)と言います。 「太子」とは「大兄」の意味で「摂政」です。 大和朝廷は女性天皇だったので、男性の総理大臣が政治をみたのです。 山背大兄王の息子が降る古人大兄皇子と中大兄皇子(天智天皇)で、天智天皇の子供が藤原不比等です。 天智天皇と古人大兄皇子はなくなりましたが、不比等の世話は、お祖父さんとひいお祖父さんがみたのです。 大和聖徳太子はずいぶん長生きをしたようで、90歳以上、百歳近くまで生きたのです。 【日本国憲法は「護憲」か「改憲」か】 日本国憲法は1947年に施行されました。昭和二十二年です。 アメリカの占領軍の指導の下で作られたのです。今から69年前です。 1952年昭和27年、日本はサンフランシスコ条約に調印し、戦後日本は独立しました。 これで日本は自分の憲法に「改憲」出来るのです。 しかし日本人は69年間、アメリカ人の作った憲法を、「一字一句」改憲しなかったのです。 何故でしょうか。 難しいけれど簡単です。 それは「日本国憲法」が「言霊」だからです。 「言霊」とは「言に神の力が宿る」というものです。 日本人は「言霊」を信仰しているのです。 そしてその「言霊信仰」を守ったのは、「護憲派」なのです。 この方たちは「日本は神の国」という事実を認めてないのです。 というより否定しているのです。 神を否定している方々が「言霊」を信仰しています。 ここらへんが、「日本教」の難しさなのです。 【山背大兄王は出家して「役行者」になった!?】 「役行者」は私の妻の守護神で、私が妻と結婚してから私も守ってもらっています。 私が山岳マラソン(トレイルラン)をするようになったのも、役行者のおすすめで、山を走って一度も転んだことがありません。 雨の日も雪の日も、足が滑っても転ばないのです。 絶対にお守りいただいています。 その私の信仰の対象の、「役行者」が「山背大兄王」であったとは! 京都と滋賀の県境に、 「逢坂の関」があります。 これやこの いくもかえるも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 百人一首です。蝉丸作 この「逢坂」のネーミングは役行者がしました。 私は天智天皇が近江京で即位されたお祝いに役行者がつけたと思っていました。 天智天皇は天皇になる前に崩御され、近江京を作ったのは「大友皇子」で「大津皇子」と同一人物です。 大友皇子は山背大兄王のお孫なのです。 山背大兄王とお父さんの押坂彦人大兄王は、 天武天皇の吉野朝(大和朝廷)側の主催者なのです。 こう考えてみると、孫の作った国と、自分たちの作った国が対立している(壬申の乱)その国境が「逢坂の関」である。 これやこの いくもかえるも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 涙が止まらなくなりました。 【「聖徳太子物語」を書こうかな】 私の考えている聖徳太子とその子孫は、日本書紀などの定説とあまりにもかけ離れています。 しかし、その内容はとても見過ごすことはできず、何かの形で残しておいておかなくてはと思い始めました。 物語のような形式にしたら、面白く読んでいただけるかな。 でも「大悲劇」なので、気が引けるところもあります。 大まかなあらすじ その一 聖徳太子は双子であった。 産婆さんが最初の子供(弟)をさっと隠して、大臣に預けた。 双子の一人は「流される」恐れがあったから、産婆さんは憐れんだのである。 大臣(はたのおおつち)(秦大津父)はお祖父さんの欽明天皇にだけ許可をもらい、両親にも知らせず秘密裏に自分の親戚の若夫婦に預けた。 その若夫婦は、「馬小屋に捨てられていた」と子供や周囲に話して、聞かされていた真実を最後まで誰にも洩らさなかった。 聖徳太子の双子の弟は、「自分は馬小屋に捨てられた」と思い込んで、老年になるまで知らなかった。 その子供は「うまやどの子」「厩戸皇子」と呼ばれた。 【欽明天皇の夢 その一】 日本書紀の欽明天皇記冒頭に不思議なお話が載っています。 欽明天皇は幼い時に夢を見ました。 その夢である人が、天皇が「秦大津父」(はたのおおつち)という者を寵愛なされば成人されて必ず天下を治めることになるでしょうと申し上げた。 目が覚めると使者を遣わしてあまねく探し求めさせ、山背国の紀伊郡(きのこおり)の深草里(ふかくさのさと)で見出した。 声明は確かに夢でご覧になった通りであった。 このような、あまり意味の分からないエピソードは、重要な「ヒント挿話」なのです。 【神武天皇の皇后の母方の祖父「三嶋湟咋」(みしまのみぞくい)】 神武天皇の皇后は、ひめたたらいすずひめと言います。 この方は、神武天皇が崩御された後、神武天皇の長男に、「たぎしみみ命」の奥様になります。つまり、神武天皇とたぎしみみの命は同一人物です。 というより、神武天皇はたぎしみみ命が作り出した「架空天皇」なのです。 ひめたたらいすずひめのお母さんは、「せやたたらひめ」と言います。 「せや」とは「四番目と二番目」の意味です。 「四番目」とは「伊勢の国」です。 「せ」とは「伊勢」の「せ」なのです。 「や」は「大和国」です。 「せやたたらひめ」とは、「伊勢の国と大和の国の両方の女性天皇」という意味です。 「せやたたらひめ」のお父さんは、「三嶋湟咋」(みしまのみぞくい)と言います。 この意味は不明でしょう、と思っていましたら、解明できました。 漢字で考えるから不明なのです。 「みしま」は「御島」です。「尊い島」は「出雲」のことです。 出雲大社のある島根半島は、昔は島だったのです。 「みぞくい」の意味も分かりました。「み」は「天皇」です。 「ぞ」は「そ」の強調です。 「そ」は「一番」です。 「くい」は「魚を呼び寄せる名人」です。 「みしまのみぞくい」は、「大山津見神」の意味です。 「大山津見神」はすさのうの命の奥様、「くしなだひめ」のお祖父さんです。 「せやたたらひめ」は、「大山津見神」の女系で、代々女性天皇家の家系なのです。 【聖徳太子のお父さんは「用明天皇」か「敏達天皇」か】
聖徳太子は双子でした。 九州王朝の欽明天皇の孫には違いないのですが、父親の天皇名があやふやなのです。 記紀には用明天皇となっています。 用明天皇の和名諡号は「橘豊日天皇」(たちばなのとよひのすめらみこと)です。「豊」とは九州王朝「豊国」のことなので、聖徳太子の生みの親(父)は、用明天皇でしょう。 聖徳太子は九州で生まれたのです。 敏達天皇は、大和聖徳太子の育ての親(父)です。 欽明天皇の大臣、「秦大津父」(はたのおおつち)は何と、双子の弟を大和の親類に預けたのですが、その家が、敏達天皇だったのですか。 古事記では、推古天皇を皇后にしたと書いてあります。 私は推古天皇と敏達天皇は夫婦ではなく、欽明天皇の娘となっている、「大伴皇女」(おおとものみこ)の「摂政」だったのではないでしょうか。 でも敏達天皇は伏見の深草にお住まいだったのでしょうか。 「たらちねの」は「親」(母)の枕詞です。 この「たらちねの」は「生みの親」の意味です。 「たらちね」とは、「たらしね」「たりしね」のことです。 「ね」とは「天皇」です。 「垂らし」「足りし」とは、九州王朝の天皇の苗字なのです。 九州王朝の天皇は、「天垂らし」「天足りし」というのです。 枕詞には隠れ枕詞があるのです。 「生みの親ではない親」です。「育ての親」のことです。 隠れ枕詞は、「深草の親」です。 もう少ししたら大和聖徳太子の育ての母もわかりますよ。 |



