ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

百人一首11〜20

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ー11−

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟    参議篁 

<隠岐の国に流されける時に 舟に乗りて出で立つとて 京なる人のもとにつかはしける>『古今集』・巻九・羇旅


海原の多くの島々を目指して漕ぎ出して行ったと
(都にいる 恋しいあの)人に伝えておくれ
そこの(漁夫の)釣り舟(の人)よ

はるけき大海原に、あまたの島々は点々と浮かぶ。
島から島へ漕ぎめぐりつ、私は流人島へ追われて行ったと都の愛しきあの人に伝えておくれ。
釣り船の漁師たちよ、伝えておくれ、愛する人に。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたの原; 大海の。海原の。連体修飾語。

八十島かけて 漕ぎ出でぬと;

「八十島」はたくさんの島。
「かけ」は下二段活用「かく」の連用形。心にかけて目指す意。(掛ける)
「て」は接続助詞。
「こぎいで」は動詞「こぎいづ」の連用形。
「ぬ」は完了の助動詞終止形。
「と」は引用を示す格助詞。
「と」で受ける以上三句は、難波から出航して、島々のある瀬戸内海を通り、隠岐の島へ行くこと。
 
人には告げよ;

「人」は京の親しい人をさす。
「「に」は動作の対象を示す格助詞。
「は」は係り助詞。
「告げよ」は下二段活用「告ぐ」の命令形で、依頼を表し、歌の文の述語。
主語は「あまのつり舟」を想定。

海人のつり舟;

「あま」は漁夫。
「の」は連体修飾語をつくる格助詞。
「つり船」は成分上独立語。この句を呼びかけの対象とする表現は擬人法。
体言止。倒置法。換喩。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仁明天皇の承和五年(838)遣唐副使に任ぜられたが、大使の藤原常嗣の船が破損していたので、常嗣は篁の乗る船と取り換えることを天皇に願い出た。
天皇がこれを許可されたので、篁は怒って仮病を使って乗船せず、しかも遣唐を諷する詩文を書いたので咎めを受け、官位を剥奪されて隠岐の島へ流されることになった。

篁は漢詩文にもすぐれていたが、歌も机上派の歌人にない、悲壮なリアリティをたたえている。篁はこのとき三十七歳だった。
隠岐は海の果ての辺土、それは雲煙万里の彼方に思われる。心細いが、しかし篁はおじ恐れているだけではない。篁は「野狂」というあだ名があるくらいで、直情怪行の性格、スジの通らぬ曲がったことが大きらいな男であった。
歌には高揚した悲壮美がある。
篁は詩才を惜しまれて二年後、許されて都へ還った。
その後は順調に累進して、のちには参議・従三位にまですすんだ。
参議は太政官の官名、政務審議の最高機関の構成員で、大・中納言につぐ要職である。

この篁は古くから、奇ッ怪な伝説にまつわられる人である。異母妹と愛し合ったとか、地獄の冥官であったとか、いわれている。
篁は勉強を教えていた異母妹に恋してしまう。それで仲を裂かれ妹は死ぬ。
死んだ妹は幽霊になって篁のもとにあらわれた。「魂なん、夜な夜な来て語らひける」とある。「この男、涙つきせず泣く」篁はその涙をすずりの水にして法華経を書いて供養した。

小野篁の遠祖には、遣隋使・小野妹子がいる。書家の小野道風は、篁の甥である。小野小町も、その一族であろうといわれ、風雅の家系である。


【作者】
参議篁(802〜852)参議・小野岑守の子。漢才を買われ遣唐副使となるが、大使・藤原常嗣との諍いから隠岐に流謫。赦免の後、参議従三位にまで累進す。
六尺豊な大男で、友情に厚く、母にやさしく、妻にも愛情は深かった。
勅撰集入集歌三十六首。



<出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。
ー12ー 


あまつかぜ 雲のかよひぢ 吹きとぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ   僧正遍昭 

<古今集巻十七(雑上)「五節のまひひめを見てよめる よしみねのむねさだ」>

空を渡る風よ
雲をたくさん吹き寄せて
天上の通り路を塞いでしまっておくれ
天女の美しい姿を
もうしばらく引き留めたい

あまつかぜ;  大空の風よ、と呼びかけの意で、成分上は独立語。
「つ」は古代に「の」と同義の機能を持っていたが、この時期には「天つ風」は一語(名詞)となる。

雲のかよひぢ 吹きとぢよ;
「雲のかよひぢ」は雲の切れ目(雲間)の通路。
「吹きとぢよ」は上二段活用「吹きとづ」の命令形で、擬人法の表現。成分上は上の句の述語。

乙女のすがた;
「をとめ」は、宮中の豊明節会(陰暦十一月第二丑の日)に五節の舞が行われ、その舞姫を伝説(天武朝に天女が吉野に下って舞ったという)になぞらえて、天女に見立てたもの。

しばしとどめむ;
「しばし」は状態の副詞。
「とどめ」は下二段活用動詞「とどむ」の未然形。
「む」は意志を表す助動詞終止形。
・・・・・・・・・・
◇あまつかぜ 天つ風。天空を吹き渡る風。
◇雲のかよひぢ 雲や月、鳥などが通ると想定された、空の道。「天上と地上を往き来する、雲の中の道」などと注釈する書があるが、誤解である。天女は天上(=内裏)で舞っているのであって、地上に降りて舞っているのではない。
◇吹きとぢよ 「天つ風」に対し、「雲をたくさん吹き寄せて、天の通り道を塞いでしまえ」と願っている。
◇乙女 天女。五節の時に歌われる「天人の歌」、「乙女子が 乙女さびすも からたまを 乙女さびすも そのからたまを」に由り、舞姫を「乙女」と呼んだもの。五節は新嘗祭などで舞われた少女楽で、公卿・国司の娘より美しい少女を四、五名選んで舞姫に召した。
◇すがた 「ちゃんとした恰好。人ならば、きちんと着物を着た様子に多くいう」(岩波古語辞典)。「乙女」の美しく装った様を言う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
作者は俗名良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。桓武天皇の孫にあたる。
仁明天皇の寵臣として蔵人・蔵人頭などを務めたが、三十五歳の時、天皇崩御に殉ずるかのように出家した。花山の元慶寺や雲林院に住み、仁和元年(885)、僧正に任じられる(ゆえに花山僧正の称がある)。同年、光孝天皇より七十賀を賜わった(藤原俊成が後鳥羽院より九十賀を賜わった先蹤である)。
平安時代初期の代表歌人の一人。六歌仙・三十六歌仙。後世続出する風流歌僧の先駆者のような人である。
貫之の仮名序では「うたのさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑにかけるをうなを見て、いたづらに心をうごかすがごとし」とリアリティの欠如を批判されているが、定家は『自筆本近代秀歌』の秀歌例に遍昭作を三首も引くなど、余情ある作風を高く評価していた。
 百人秀歌では15番目に置かれ、次の蝉丸と対になる。天女の通り路である「雲の通ひ路」に、下界の人々が往き来する「逢坂の関」を配した、味のある合せである(【鑑賞】参照)。また、前の組の奇数番、小野小町が容色の衰えを歎いた「花の色はうつりにけりな」に、「乙女の姿しばしとどめむ」の句が呼応することも面白い。因みに遍昭は小町と親しかったらしく、名高い贈答歌を残している。

【他の代表歌】
いそのかみ 布留の山べの 桜花 うゑけむ時を しる人ぞなき   
 (後撰集)
末の露 もとのしづくや 世の中の おくれさきだつ ためしなるらん    (新古今集)

百人一首の中でもとりわけ人気の高い歌ではないか。舞姫を天女に見立て、空の風に向かって呼びかけるという趣向には柄の大きな華やかさがある上に、結句「しばしとどめむ」には一種すがすがしい哀情が籠もる。しかも一首の声調は、朗々と吟ずるにふさわしい、強く明るい響きを持つ。そういう歌は百人一首に意外と少ないから、よけいこの歌が目立つのだろう。
 五節の舞は古来の宮廷舞楽で、『続日本紀』天平十五年五月五日条に天武天皇の創始と伝える。また延喜十四年(914)の三善清行『意見十二箇条』(『本朝文粋』所収)には五節の由来につき「旧記」を案じて「神女来舞」と記している。鎌倉時代の『年中行事秘抄』などになると話がもっと具体的になって、吉野行幸の際、天武天皇が琴を弾き、「高唐神女」の如き「雲気」が髣髴として曲に応じて舞ったのを起源とする、と言う。遍昭の歌でもこうした伝承を背景として舞姫が天女になぞらえられたと見るのが通説だが、かかる伝説を離れても、一首の理解に不都合はない。そもそも内裏自体が「雲の上」なのであるから、舞台がしつらえられた庭を吹く風は「天つ風」と呼ばれ、舞姫が舞台を出入りする道は「雲の通ひ路」と見なされるわけだ(むしろ、五節起源説話に遍昭の本作が影響を与えている可能性はないだろうか)。
 古今集では作者名を良岑宗貞とし、遍昭出家以前、仁明天皇に仕えていた頃の作である。但し、詞書を伴わない百人一首の歌として味わう場合、「乙女」を五節の舞姫とする制約はなくなり、文字通り天津乙女の姿が空にある、幻想的な光景を思い描いてよいことになる。それを眺めているのが僧侶としての遍昭であっても少しも構わないわけだ。百人秀歌での蝉丸との合せからは、そう読んだ方が面白くもある。逢坂山の隠者は地上の人々の流転のさまに会者定離の感慨を催し、一方花山の僧正は、空の彼方に消え去る天女との別れを名残惜しんでいるのである。<記事転載[千人万首]より。>


【主な派生歌】
乙女子が 雲のかよひぢ 空はれて 豊のあかりも 光そへけり
 (藤原俊成「玉葉」)
天つ風 氷をわたる 冬の夜の 乙女の袖を みがく月影
 (式子内親王)
あまつ風 さはりし雲は 吹きとぢつ 乙女のすがた 花ににほひて
 (藤原定家)
しろたへの あまのは衣 つらねきて をとめまちとる 雲の通路
 (〃)
ふかき夜に をとめのすがた 風とぢて 雲路にみてる 万代の声
 (〃)
天つ風 をとめの袖に さゆる夜は おもひいでても おねられざりけり
 (〃)
天つ風 雲井の空を 吹くからに 乙女の袖に 宿る月かげ
 (後鳥羽院)
忘れめや 雲のかよひぢ 立ちかへり 乙女の袖を 月に見し夜は
 (後鳥羽院「続古今」)
天津空 雲の通ひ路 それならぬ 乙女の姿 いつか待ち見ん
 (八条院高倉「新勅撰」)
天津袖 ふるしら雪に 乙女子が 雲のかよひぢ 花ぞ散りかふ
 (藤原家隆「新後撰」)
月のゆく 雲のかよひぢ かはれども 乙女のすがた 忘れしもせず
 (藤原公経「続後撰」)
天つ風 今朝や涼しき 乙女子が 秋の衣の 雲のかよひぢ
 (正徹)
天つ風 ちりくる雪を 吹きとぢて 雲のかよひぢ 春や立つらん
 (後水尾院)


<出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。
ー13−

筑波嶺の 嶺よりおつる みなの川、恋ぞつもりて 淵となりぬる  陽成院 

<つり殿のみこにつかはしける 後撰集・巻十一・恋三>
(第五句「淵となりける」)古今六帖・三(作者名なく、第四句「こひぞたまりて」)
「釣殿」は光孝天皇の御所で、「釣殿のみこ」は光孝天皇の皇女安子内親王のことで、陽成院の後宮に入られたが、延長三年(925)四月に薨去された。
(ナ・マ行音による)優しい調べの歌で、陽成院の后となった安子内親王に捧げられた恋歌である。


筑波山の峰の
わずかな雫次第に水かさを増し
一途に流れ落ちる男女川よ
わずかな水が積もって深いよどみになっているように
わたしの恋心も積もり積もって
深い物思いのよどみになったことだ

諷喩・比喩歌。川と物思い)
筑波嶺は東国の歌枕。


つくばねの 峰よりおつる みなの川;

「つくばね」は茨城県筑波山。
峰は男体と女体の二峰に分れ、女体の峰は「歌垣」の場と伝わる。(常陸風土記) 
「峰」は山の頂・
「より」は起点を示す格助詞。
「おつる」は上二段活用動詞「おつ」の連体形。
「みなの川」は筑波山に発し、霞ヶ浦に入る男女川。桜川のこと。

恋ぞつもりて 淵となりぬる;

「こひ」は「恋」と水の「こひ」の掛詞。
「ぞ」は強意の係助詞。
「つもり」は動詞連用形。
「て」は接続助詞。
「淵」は水が深く淀んでいる所で、物思いの深さにたとえる。「瀬」の対語。
「と」は変化の結果を示す格助詞。
「なり」は四段活用動詞「なる」の連用形。
「ぬる」は完了の助動詞「ぬ」の連体形で「ぞ」の結び。

◇みなの川 筑波山から流れ出、桜川に合流して霞ヶ浦に注ぐ小川。後世、男女二峰を有する山に因んで「男女の川」とも書かれる。「みな」は「蜷」(泥中に棲むタニシなど小巻貝の類)と同音なので、そこから次句の「こひぢ」(泥濘)と同音を持つ「こひ」を導く序となる。
◇こひぞつもりて 恋心が積もって。「こひ」は「泥(こひぢ)」を連想させるため、「泥濘が積み重なって」の意を兼ねる。
◇淵となりける 「淵」は水が淀んで深くなっているところ。ふつう「瀬」(流れが早くて浅いところ)の対語。「泥水が積もり積もって深い淀みとなった」、「恋が積もり積もって、淵のように深く淀む思いになってしまった」の両義。なお、百人一首カルタはふつう結句を「淵となりぬる」とするが、後撰集の諸本や百人一首の古注本などは「ける」で、本来は「ける」であったと思われる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この天皇は悲劇的な生涯を送られた。御脳を病んで、物狂おしい振る舞いがあったという。
王朝に世には、冷泉、花山という、これまた変人の天皇が居られて周囲を悩ましたが、陽成院の場合は、同じ変人でも凶暴性があり、始末に困ったものである。

藤原一族は、仁明(第五十四代天皇)・文徳・清和と三代にわたって一族の姫を後宮に送り込み所生の皇子を強引に皇位につけてきた。特に清和天皇のときは、文徳帝には清和皇子の上に三皇子があったのに、それを飛び越えて生後九ヶ月の藤原系の清和皇子を皇太子に据え九歳で即位させた。九歳の幼帝に十八歳の藤原高子姫をめあわせた。

在原業平との恋愛関係で、古来から有名な、スキャンダルにまみれた高子姫であるが、その頃、藤原一族には、ほかに持ち駒の姫は居なかったので仕方ない。十年後に陽成皇子がうまれられた。

陽成皇子が九歳のとき、父帝の清和天皇は退位されたので父君と同じ九歳で即位、高子の兄基経が摂政になる。しかし陽成天皇は長ずるにおよんで矯激な性格があらわになった。温和な父帝より奔放放縦な母・高子の血を多く受け継がれたのだろうか。
動物虐待の趣味があり人殺しの風評さえ立った。
これでは、人主の器とはいえない。その無軌道と凶暴振りには、さすがの権力者基経も庇いきれず、陽成天皇十七歳のとき、基経によって皇位を逐われた。

退位後もたびたび乱暴な振る舞いがあって、都人をふるえ上がらせたという。
陽成院の悲劇の一つは、欲求不満の生涯を、退位後六十五年もの長きにわたって送らねばならなかったことであろう。八十二歳という長寿であった。

【作者】
陽成院(868〜949)は第五十七代の天皇で、清和天皇の第一皇子。御名は貞明、御母は藤原長良の女の高子。貞観十九年(877)九歳で皇位につかれたが、脳病のため、乱行が絶えず、政務は母の兄藤原基経がとり、在位八年で譲位、陽成院に入って、狂態の治まらぬまま八十二歳で崩御、不幸な生涯であられた。勅撰集入集歌一首のみ。

【主な派生歌】
たまさかに 逢瀬はなくて みなの川 涙の淵に 沈む恋かな
 (京極関白家肥後)
小初瀬の 花のさかりや みなの河 峰よりおつる 水の白波
 (藤原清輔「新後拾遺」)
袖のうへも 恋ぞつもりて ふちとなる 人をば見ねの よそのたぎつせ
 (藤原定家)
みなの河 岸よりおつる 桜花 にほひのふちの えやはせかるる
 (〃)
つくばねの 嶺の桜や みなの河 ながれて淵と 散りつもるらん
 (飛鳥井雅有「続拾遺」)
みなの河 ふちにはよらじ つくばねの 峰より落つる 雁の一つら
 (正徹)


<出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。
ー14−

みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに  乱れそめにし われならなくに      河原左大臣 ( かわらのさだいじん )


<題しらず 『古今集』・巻十四・恋四>

陸奥の国のしのぶもじずり染めの乱れ模様よ
あなた以外のたれのせいで乱れてきたわたしの恋
というわけではないけれども
やっぱりあなたのせいですよ

みちのくの しのぶもじずり;

「みちのく」は陸奥の国、(三陸の分割は明治以降)
「しのぶもぢずり」は福島県信夫郡から産した乱れ模様にすり染めした布。
 本来は忍ぶ草のすり染めの布と言われる。
 その比喩的な言葉の縁で、この二句は「乱れ」の序詞。同時に「みちのく」
風土のはるけき遠さ、暗さのイメージと、「しのぶもみずり」の隠微な、解きほぐしがたい恋心の乱れを象徴するかの表現。
「もじ」はよじり、ねじる意。

たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに;

「誰」は不定称人代名詞。(古語は清音でタレ)
「に」は原因を示す格助詞。「たれゆゑに」ではないと間接的に表現しながら、「ならなくに」と恨み言へ言いもつれる。
「乱れそめ」は動詞「乱れそむ」の連用形。
「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形。
「し」は過去の助動詞「き」の連体形。乱れそめて久しい意。
「われ」は自称人代名詞。
「なら」は断定の助動詞「なり」の未然形。
「なくに」は、上代打消の助動詞未然形「な」に、体言的意を添える接尾語「く」、「に」は感動の終助詞で、「なくに」を一括して打消・感動の終助詞。・・・ナイコトダノニナァ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
陸奥の信夫の里の名産品。信夫捩じ摺り、もじずりの衣の模様はおどろに乱れていますが、私のこころもそれに似てあやしく乱れそめました。たれゆえとおぼしめす。あなたゆえではありませんか、あなたのために心を乱したこの私ではありませんか。
「しのぶもじずり」はまだ定説はない。信夫の里は現在の福島県福島市である。しのぶ草(のきしのぶ)の葉を布に摺りつけて染めたものを、しのぶもじずりともいい、また、模様を彫った石におしあてた布を山藍でもって染めたともいう。その石を信夫捩じ摺りの石といっている。

松尾芭蕉が『奥の細道』でたずねているがこれである。「はるか山かげの小里に、石なかば埋もれてあり」として「早苗とる 手もとや昔 しのぶずり」の句を得ている。歌によまれた古雅な風習は、芭蕉の時代にすら廃絶していたのであろうか。
もじずりの「もじ」は文字ではなく、よじり、ねじる、という意味の「もじ」であろう。信夫には信夫布として、布も産出した。その布にすりつけそめた柄は乱れ模様であった。そこから、「しのぶもじずり」は、「乱れる」という言葉を引き出す序になる。この「乱れ」には、恋する女の黒髪の乱れが示唆されているという解釈もある。

この歌は古来から人々に愛されたらしく、『伊勢物語』冒頭「むかし男」ではじまる、業平とおぼしき主人公の、初冠のくだりにも出てくる。業平は、歌の作者、河原左大臣と大体同じような時代の人であるがその初恋の物語に、この歌を援用している。
元服して間もない、ういういしい少年が、奈良の里で美しい姉妹の姫たちを見かけて「心地まどひにけり」・・・あやしく心乱す。少年は着ていた狩衣の裾を切って、それに歌を書いて贈った。それは「しのぶずり」の紫の狩衣であった。

「春日野の 若むらさきの すりごろも しのぶの乱れ かぎり知られず」

春日野の若い紫草のように美しいあなたたち、わたしの気持ちはこの紫のしのぶずりの衣のように、千々に乱れてしまいましたよ。若々しい、匂やかな歌になっている。

河原左大臣は源融(822〜895)の通称である。嵯峨天皇の皇子であったが臣籍に下って源姓となる。なかなか頭もよくやりてだったとみえて、臣籍に下った皇族の中では群を抜いて頭角をあらわした。国守を歴任し、三十五歳で参議になり中央政界へのり出している。順調に累進し、左大臣になった。家柄や毛並みに寄りかかっているだけの人ではなかったらしい。

それだけに権勢欲も猛烈だった。元慶八年(884)陽成天皇が廃位され、時代の帝に誰を立てようかという会議が宮中で開かれた。時の最高権力者は、藤原基経である。公卿一同は、基経の意中を忖度して口をつぐんでいる。その中で融はあえて発言する。

『大鏡』によれば、「いかがは。皇胤をたずねば、融らも侍るは」・・・議論するには及ばぬわ。近い天皇の血筋を求めるなら、この融などもおるものを。六十二歳の融は、皇位を望んで野心に燃えていたのである。その年でと笑うに当たらない。権勢欲は年をとるごとに激しくなるようで、現代の老齢政治家もみな重い大臣病にかかっているではないか。

基経はきっぱりと反対する。「皇胤なれど、姓たまはりて、ただひとにて仕へて、位につきたる例やある」天皇のお血筋といっても源姓をたまはって臣下になって仕えた方が、皇位についた前例はありません。この時推されたのは、人望ある時康親王、光孝天皇であった。

この融は、権勢と同時に莫大な富もたくわえていたらしく、それに美的センスもあって、豪奢な逸楽の生活を送った。東六条に河原院という豪邸を造り、その庭には歌枕で名高い陸奥塩釜の浦の風光をそままうつした塩釜をたて、塩を焼くさまをさせて楽しんだ。一日三百石の海水を尼崎から運ばせたとあるから大変な労役であったことであろう。

前代未聞のぜいたくとして、一世に評判となった。そのため彼のことを河原左大臣と呼ぶようになったのである。宇治にも別荘を持ち(これはのちほど平等院となった)嵯峨には釈迦堂を造り山荘とした。

融にこの恋歌を贈られた女は、どんな女だったのであろうか、この歌は「古今集」巻十四の恋の部に題知らずとして出ていて、歌の背景や諸事情は不明である。もしかして「それはう〜〜んと若い、世の中のことも、男女の恋の諸訳も知らぬ少女かもしれない」と。

この歌には、思いが相手にとどかぬ怨みが、そこはかとなく、ただようている。こんな、一流貴族、家柄良くて財産あって、権勢を誇る・・・というような男を、平気でキリキリ舞いさせるのは、まだ欲のない美少女ではないか。美少女にしてみれば融は「へんなオッチャン」と思うだけであろう。

それだけに融はよけいにのめりこむ・・・してみると・・・これはロリコンの歌か・・・・・。

解説が少し脱線したようなのでこの辺で・・・おしまいとする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
【なぜこの人】作者の源融は嵯峨天皇の皇子であるが、臣籍に下り源姓を賜わった。京六条の邸宅河原院に因み河原左大臣と称される。勅撰集入集はわずか四首、家集も伝わらず、古来必ずしも歌人として重んじられた人ではない。むしろ豪奢な暮らしを送った風流人として持てはやされ、庭園に海水を運び入れて陸奥の歌枕塩釜を模したという話はよく知られる。その河原院は融の死後荒廃したが、安法・恵慶ら歌人の集いの場となり、和歌の歴史に逸することのできない名所となる(47恵慶法師参照)。因みにこの邸は『源氏物語』の六条院のモデルとも言われている(『河海抄』)。すなわち融自身が光源氏のモデルの一人とも見なされるので、『源氏物語』を和歌の聖典として仰いだ定家の時代、歌人たちにとって河原左大臣の存在感はいっそう重みを増していたであろう。そのせいか、新古今歌人たちは競うように彼の歌を本歌取りしたのであった。

【なぜこの一首】この歌は古く『伊勢物語』にも引用されているほどで、作られた当初から評判を呼んだらしい。「みちのくのしのぶもぢずり」という、実体はよく分からぬながら、何となくエキゾチックで野趣の感じられる摺り染めの名を借りて、乱れる恋心を印象深く歌い上げている。陸奥の歌枕に憧れた風流人、河原左大臣には如何にも似つかわしい作であろう。「もぢずり」よろしく捩じれたような曲折ある調べも魅力的である。定家は『定家八代抄』に採ったくらいで、特別この歌を高く評価した形跡はないが、彼自身「みちのくのしのぶもぢずり乱れつつ色にを恋ひん思ひそめてき」など、盛んに本歌取りを試みているので、この歌の風趣を愛好したことは間違いない。

【作者】
河原左大臣、源融(822〜895)嵯峨天皇の皇子。臣籍降下により源姓を賜り、名は融。左大臣となる。
河原院を造営し、豪奢な生活を送る。宇治平等院はその別荘、嵯峨釈迦堂は山荘である。
勅撰集入集歌は三首。


<出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。
ー15−


君がため 春の野に出でて 若菜つむ、わが衣手に 雪は降りつつ      光孝天皇 

<仁和の帝、親王におましましける時に、人に若菜賜ひける御歌 古今集・春上>
若菜に添えられた歌で、挨拶性が強く親王(帝)が摘まれた訳ではなかろうから、緑の若菜を、春雪の白さに配した色彩のみずみずしさと、暖かい思いやりの心情を詠うものとうけとればよい。

あなたが今年もますますお健やかであってほしいと
若い命に満ちた早春の若草をつみとる私の衣の袖に
白雪が降りかかっているのです


君がため;

「君」は名詞で、人を尊敬していう語。男女共に用いる。
「が」は連体修飾語を作る格助詞。
「君がため」は「(若菜)つむ」を修飾して七五調。


春の野に出でて;

「春」はここでは正月。
「に」は場所を示す格助詞。
「いで」は動詞「いづ」の連用形。
「て」は接続助詞。

若菜つむ;

「若菜」は春の初めに生え出る食用の菜。
「つむ」は動詞「つむ」の連体形。「若菜の節会」は五節句の一つで、七草粥を祝う一月七日の節句。

わが衣手に 雪は降りつつ;

「わ」は自称代名詞。「が」は連体修飾語をつくる格助詞。
「衣手」は着物の袖。
「に」は場所を示す格助詞。
「雪」は春雪。
「は」は係助詞。
「つつ」は継続を表わす接続助詞で、言いさしの表現、すなはち余韻・余情を残す。
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七草(ななくさ)は、人日の節句(1月7日)の朝に、7種の野菜が入った羮を食べる風習のこと。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本来は七草と書いた場合は秋の七草を指し、小正月1月15日のものも七種と書いて「ななくさ」と読むが、一般には7日正月のものが七草と書かれる。現代では本来的意味がわからなくなり、風習だけが形式として残ったことから、人日の風習と小正月の風習が混ざり、1月7日に”七草粥”が食べられるようになったと考えられる。
昔の七草とは、これ以下の「春の七種 (はるのななくさ)」や「秋の七種 (あきのななくさ)」と異なることを指す。
米・粟・キビ・ヒエ・ゴマ・小豆・蓑米(葟・ムツオレグサ)

春の七種とは以下の7種類の植物である。
芹(せり) 芹 セリ科
薺(なずな) 薺(ぺんぺん草) アブラナ科
御形(ごぎょう) 母子草(ははこぐさ) キク科
繁縷(はこべら) 繁縷(はこべ) ナデシコ科
仏の座(ほとけのざ) 小鬼田平子(こおにたびらこ) キク科
菘(すずな) 蕪(かぶ) アブラナ科
蘿蔔(すずしろ) 大根(だいこん) アブラナ科
(「仏の座」は、シソ科のホトケノザとは別のもの)
七種は、前日の夜に俎に乗せて囃し歌を歌いながら包丁で叩き、当日の朝に粥に入れる。囃し歌は鳥追い歌に由来するものであり、これは七種粥の行事と、豊作を祈る行事が結び付いたものと考えられている。歌の歌詞は「七草なずな 唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、合わせて、バタクサバタクサ」など地方により多少の違いがある。

七種の行事は「子(ね)の日の遊び」とも呼ばれ、正月最初の子の日に野原に出て若菜を摘む風習があった。『枕草子』にも、「七日の若菜を人の六日にもて騒ぎ……」とある。

これらは水田雑草ないし畑に出現するものばかりである。おそらく水田周辺で摘まれたと思われる。
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仁和の帝とは、仁明天皇の第三皇子で、陽成天皇の後を受けて即位した光孝天皇のこと。だが即位の御年齢は遅く五十五歳で親王といっても若い折のこととは限らない。
若菜つむ、というのは古くからの習わしらしい。春とはいってもまだ余寒はきびしく、雪はちらちら降る。しかし、もはや土の表には青いものが萌えはじめている。それを摘んで食べることは、若草の持つ生々たるエネルギーをわが身にうつしとり、延命を願う、縁起のいいことなのである。
 生い初めたばかりのうすみどりの、なずな、すずしろ、よめな、それらをつむ貴公子の袖の上にかかる白雪、誰しもうっとりとするいかにも絵のように美しい光景であろう。 
この光孝天皇は仁明天皇の第三皇子であり、人となりは『日本三代実録』に詳しい。
「少ニシテ聡明。好ンデ経史ヲ読ミ、容止閑雅。謙恭和潤、慈仁寛曠」とあるから、幼さないときから学問を修めたインテリで、人柄は謙虚で温厚、思いやりがあって心が広かった、その上、気品のあるハンサムだった、ということであろう。
 親王は順調に官位を踏んで年をかさねて行かれたが、社交界ではともかく、政界とは無縁のまま一生を終えられるかにみえた。野心のない親王は、政界実力者の藤原基経とはいとこの関係でもあり、親しく付きあっていられたが、その無心で人なつこい性格がはからずも、親王を脚光の座に押し上げることになった。 
 元慶八年(884)陽成天皇が廃位され、時代の帝に誰を立てようかという会議が宮中で開かれた。時の最高権力者は、藤原基経である。公卿一同は、基経の意中を忖度して口をつぐんでいたが、その中で融はあえて発言した。
『大鏡』によれば、「いかがは。皇胤をたずねば、融らも侍るは。」議論するには及ばぬわと。近い天皇の血筋を求めるなら、この融がおるものを。六十二歳の融は、皇位を望んで野心に燃えていたのである。その年でと笑うに当たらない。権勢欲は年をとるごとに激しくなるようで、現代の老齢政治家もみな重い大臣病にかかっているではないか。 
 基経はきっぱりと反対する。「皇胤なれど、姓たまはりて、ただひとにて仕へて、位につきたる例やある」天皇のお血筋といっても源姓をたまはって臣下になって仕えた方が、皇位についた前例はありません。
 この時推されたのは、人望ある時康親王、光孝天皇であった。
 皇族男子は沢山ひしめいていたが、幼かったり臣籍に下ったりしていて、皇位継承者の詮議は揉めに揉めた。
 そのとき基経は、人望のある五十五歳の老親王(当時では五十五は老人の部類である)を帝位に据え、事態を収始した。
在位四年、次の宇多天皇は、光孝天皇の第七皇子であった。
『源氏物語』の光源氏は、光孝天皇がモデルではないかという説もあるそうだ。


【作者】
光孝天皇(830〜887)第五十八代天皇。仁和の帝とも称せられる。勅撰集入集歌十四首。


<出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。

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