|
−16− <題しらず 古今集・離別> いま別れて因幡の国へ行くとしても
稲葉山の峰に生えている「松」の名のように あなた方が「待つ」と聞いたならすぐに帰ってきましょう 立ちわかれ いなばの山の; 「立ちわかれ」は下二段活用動詞「立ちわかる」の連用形で、「(往)なば」 (ナ行変格活用動詞「往ぬ」の未然形+順接の接続助詞の形式ー仮定条件。)を修飾している。 「いなばの山」は鳥取県岩美郡の稲葉山。 「いなば」は掛詞。 峰に生ふる、まつとし聞かば; 第二・三句が「まつ」の序詞。 「に」は場所を示す。 「生ふる」は上二段活用動詞「生ふ」の連体形。 「まつ」は「松」と「待つ」の掛詞。主語は相手。 「と」は引用の格助詞。 「し」は強意の副助詞。 「聞かば」は仮定表現。 いま帰り来む; 「いま」はすぐにの意の副詞。 「帰り来」はカ行変格活用動詞「帰りク」の未然形。 「む」は意志を表す助動詞終止形。 ◇いなばの山 鳥取県岩美郡国府町の小山という。稲羽山、稲葉山とも書く。国庁跡の東北。ただし固有名詞でなく「因幡の国の山」と見る説もあり、また『歌枕名寄』など中世の歌学書は美濃国の歌枕としている。「いなば」は地名と「去なば」の掛詞。行平は斉衡二年(855)正月、因幡守に任じられ、赴任した。 ◇まつとしきかば (都の人たちが)待っていると聞いたなら。「まつ」に松・待つを掛ける。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 行平が、因幡守となったことは『文徳実録』巻七に、斉衡二年(855)正月十五日の記事にある。 その赴任の際に、宴席にふさわしい口調のよさ、平明さ、陽気さがある。 その分胸中深刻なものがあったかもしれない。 「たち別れ・・・」「ソレカラ、ドーシタ」「いなばの山の・・・」「ア、ドーシタドーシタ」 「峰に生ふる・・・」「ア、ドッコイ、ドッコイ」というようなものであろうか。日本人は昔から貴族も民衆も宴会大好き民族である。 松に「待つ」をかけ、因幡に「往なば」をかけている。藤原俊成の『古来風体抄』には「この歌あまりにぞく(俗か?)さりすぎたれど姿おかしきなり」とある。 行平の歌といえば、この歌の方が人々に愛されている。『古今集』・巻十八・雑に 「わくらばに 問ふ人あれば 須磨の浦に 藻塩たれつつ 侘ぶと答へよ」 これには「田村御時に、事にあたりて、摂津国の須磨という所にこもり侍りけるに、宮のうちに侍りける人につかはしける」という詞書がある。文徳天皇の時に、何か事件に連座したらしい。 流罪というほどではないが、みずから身を引いて僻地へこもっていたのである。 ・・・ひょっとして、あいつはどうしているかとたずねる人があったら、須磨の浦でしょんぼりと落ち込んで世をはかなんでいると伝えてください。しかし行平はそう落ち込んでもいなかった。 この須磨の地で「松風「村雨」の姉妹と好い仲になっているのであるから。 謡曲「松風」では、行平は須磨で「松風・村雨」と名付けた姉妹の海女を愛し、二人は死後も物狂おしく行平を恋い慕うという設定になっている。 こうして見てくると行平も、弟の業平と同じく、悲劇の主人公というイメージが強いが、現実はどうかというと、順調に出世して、堅実な官吏生活を送った。中納言というのは政界のトップメンバーの一人である。そこは出世の遅い業平とは違う。 また業平のように美男であったかどうかも分からない。業平とは異母兄である。父はともに阿保(あぼ)親王(平城天皇の皇子)であるが、業平の母は、伊登内親王(桓武天皇の皇女)で、行平の母は、まだ解明されていないが、身分の低い女性だったようだ。 【作者】 中納言行平(818〜893)阿保(あぼ)親王の皇子。臣籍降下して在原姓を賜り中納言となる。 業平は異母弟。漢学者で歌人の大江千里の叔父、在原一門の為奨学院という学問所を創設。 須磨流摘をめぐって、光源氏のモデル説がある。最古の歌合、在民部卿家歌合を主催した。 勅撰集入集歌十一首。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 作者は平城天皇の孫。阿保親王の第二子で、17業平の兄。九歳で臣籍に下り、在原氏を賜る。蔵人・右近少将などを経て、斉衡二年(855)正月七日、因幡守を拝命、任国に赴任した。帰京後諸官を経て、貞観十二年(870)、参議に就任。さらに蔵人頭・大宰権帥・治部卿など要職を歴任し、元慶六年(882)、中納言に進む。仁和三年(887)、七十歳にして辞職引退。最終官位は正三位。仁明から光孝まで五代の天皇に仕えた。民政に手腕を発揮した有能な官吏であり、関白藤原基経としばしば対立した硬骨の政治家であった。歌人としても古来名高いが、家集などは存せず、勅撰集入集歌は十一首にすぎない。定家はこのうち八首を『定家八代抄』に、三首を『八代集秀逸』に撰入するなど、きわめて高く評価していた。現存最古の歌合「民部卿行平歌合」(在民部卿家歌合)の主催者としても和歌史上に顕著な足跡をしるす。 百人秀歌では9番目に置かれ、10番の業平と対になる。名高い兄弟歌人の合せである。別れの歌と紅葉の歌の組み合わせは、一つ前の篁・猿丸の反復となっている。行平の歌と合わされることによって業平の歌の「唐紅」は、別れを悲しんで流す紅涙のイメージを帯びるのである。 百人一首でも弟業平と並んでいるが、16番と出番は遅い。 【他の代表歌】 わくらばに とふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶとこたへよ (古今集) 嵯峨の山 みゆきたえにし 芹河の 千世のふるみち 跡はありけり (後撰集) 【主な派生歌】 忘れなむ まつとな告げそ 中々に 因幡の山の 峰の秋風 (藤原定家「新古今」) これも又 わすれじ物を たちかへり 因幡の山の 秋の夕暮 (藤原定家) 風ふけば さもあらぬ峯の 松も憂し 恋せん人は みやこにを住め (〃) 一こゑも なきていなばの 峰におふる まつかひあれや 山ほととぎす (藤原有家) すゑとほき 朝日の山の 峰におふる 松には風も ときはなりけり (藤原良経) よしやさは 頼めぬ宿の 庭に生ふる まつとなつげそ 秋の夕かぜ (後鳥羽院) 夜半の月 いづるとやまの 嶺におふる 松をもはらへ 秋ふかき風 (〃) 程もなく いでていなばの 嶺におふる まつとしつれば 有明の月 (〃) 君が代に くらぶの山の 峰に生ふる まつは千とせを かぎるばかりぞ (源実朝) かひなしや 因幡の山の 松とても 又帰りこむ 昔ならねば (藤原為氏「続拾遺」) 鳴すてて 因幡の山の 郭公 なほ立ちかへり まつとしらなん (藤原経平「新後撰」) 別路ぞ 今は慰む 君がかく 待つとしきかば 千世もへぬべし (源季広「続千載」) 都人 まつとしきかば 言伝てよ 独りいなばの 嶺の嵐に (伏見院「新千載」) 峰に生ふる 松吹きこして いなば山 月の桂に かへる秋風 (尭孝) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ <出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より |
百人一首11〜20
[ リスト | 詳細 ]
|
ー17− <二条の后(きさき)の 東宮の御息所と申しける時に、御屏風に竜田川の紅葉流れたる形をかけりけるを題にて詠める 『古今集』・巻五・秋下> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(不思議なことが多かったという)神代の昔でさえも聞いたことがない 竜田川が(紅葉を散り流して)紅色に水を絞り染めにしているなどとは ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ちはやぶる;「神」の枕詞。 神代もきかず; 神代を、古事記などが伝えるような不思議なことの多い代と考えた。 「も」は同じ趣の事柄の一つをあげていう係助詞。 「ず」は打消しの助動詞終止形。 以上で二句切。 竜田川; 奈良県生駒郡斑鳩町竜田神社の西を流れる川。下流は大和川。水くくるの主語。 からくれなゐに 水くくるとは; 「からくれなゐ」は濃い紅色。唐伝来のと特にほめていう。 「に」は動作の目標を示す格助詞。 「水くくる」は水を括り染めにする意。 「くくる」は動詞終止形。見立ての表現。 「と」は引用を示す格助詞。 「は」は係助詞。 倒置法。 * 「ちはやぶる神代もきかず」は、竜田は上代から著名な神の山、御室の山のあるところなので、その縁からもさほど大仰な感じは持たれなかったろう。また関わりの「屏風絵」を題に詠まれたらしく、その装飾性は、業平の多くの歌からこの一首を色紙に選ぶという選者の意図に適合したものであったろう。 ◇ちはやぶる 「神」にかかる枕詞。「勢いはげしい」ほどの意が響く。万葉集では「千磐破」の字が宛てられている例があり、千の岩も破る意で解されていたか。後世、「千早振」などの宛字が多く見られるようになる。 ◇神世 神々が地上世界を跋扈(ばっこ)し、摩訶不思議な現象が日常的に発生していたと考えられていた時代。「神世もきかず」は「神代の昔語りにも聞いた覚えがない」ということだが、一種比喩的な言い方であり、この魅惑的な情景に対する驚嘆を強調しているのである。 ◇唐紅(からくれなゐ) 美しい深紅色。もともとは「大陸渡来の紅」の意。 ◇水くくる 「括る」は括(くく)り染めにする意。布を所々糸でくくり、まだら模様に色を染め出す染色法を言う。「くぐる」と濁ってよめば、川一面を覆い尽くした紅葉の下を水が潜り流れる意となる。定家編著『顕註密勘抄』では「水くゝるとは、紅の木のはを水のくゝりてなかると云歟」と顕昭の説が踏襲されており、定家は「水潜る」説を取っていたと見る説があるが、定家が新勅撰集に選んだ雅経作「秋はけふくれなゐくくる龍田河ゆくせの波も色かはるらん」など、新古今歌人による本歌取りでは明らかに「括り染めにする」意で用いている例もある(下記【主な派生歌】参照)。当時から両様の解釈があり、定家自身、どちらとも決めかねていた、と言うより仮名表記に由る多義性を認めるという意味でどちらの解釈も可としていたのではないだろうか。(千人万首) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以下<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に]>から転載。 竜田川の水の面まるで紅のしぼり染め、紅葉の錦の唐くれない、神代にもこんな美しさがあったとは聞いたこともない。なんとみごとな美しさ。 「もみじ葉の 流れてとまる みなとには 紅ふかき 波やたつらむ」 素性法師 のあとに並んでいるから、清和帝皇后・高子の屏風絵によせて詠んだ歌とわかる。 素性法師の「紅ふかき波」と想像するのもおもしろいが、「神代もきかず」「からくれなゐに水くくる」と飛躍して染色法を持ち出したのは自由奔放な発想だ。 『古今集』の仮名序で、紀貫之が「在原業平は、その心あまりて、ことば足らず」と評したが、最もな評言で、「神代もきかず」は「心あまりて」情感があふれすぎ「からくれなゐに」は「ことば足らず」表現が不十分であるというわけだ。しかし、人の意表に出て、鮮烈な美的世界に誘い込む力は抜群である。 『伊勢物語』は「在五中将物語」とも「在五の物語」とも呼ばれて、在原業平を主人公に、その一生を語ったものだとみられているが、先に出た河原左大臣の「陸奥のしのぶもじずりたれゆゑに乱れそめにし我ならなくに」が『伊勢物語』初段で引き合いに出されている。 業平が初段で詠んだことになる中心の歌。 「春日野の 若紫の すりごろも しのぶの乱れ 限り知られず」 の意図を説くのに左大臣の歌を引いているのである。そして物語の作者は業平の行為を「かくいちはやきみやびをなむしける」こんな荒っぽい風流、恋の歌を贈るのに乱暴なしかたでと伝えるのだが、それは業平がある女性を見初めて、着ていた狩衣の裾を切り取ってそれにこの歌を書いて贈ったという話である。 作者が乱暴だというのは、かえって業平の行為が業平の切迫した真率な気持ちの表れだと賞賛しているのである。紀貫之の評言は歌に即したことばだったが、行為にもあてはまる点すぐれた眼識であった。 百人一首は定家が撰んだ、ということは前にも述べたが、その選考基準というのがよくがわからない。例えば業平の歌は、ここにあげたものより、もっといい歌がたくさんある。何故これを撰んだのか。しかし、これも前にいったO氏のパズルのくさりに必要だったという。 在原業平は、東国へ下って放浪している。在原一家は漂泊の宿命を担っていたとみえ、定家はそれ故に、ほかの業平の名歌は置いて、紅葉が川に流れる歌を採って、さすらいを暗示したのであろう。 いったい、百人一首を定家が撰ぶ機縁となったのは、その晩年近く、嵯峨の小倉山の山荘にいたとき、息子為家の妻の父である宇都宮入道に「広間のふすまに貼りたいので色紙に和歌を書いて欲しい」と頼まれ、それに応じたものといわれている。 定家はその撰歌にあたって、和歌のプロらしく、活殺自在に古今の名歌、秀歌、伝承歌から拉致し来て百首を選んだが、その一首ごとの詩句の関連から、後鳥羽院と式子内親王への真情が示唆される効果をねらっているというのがO氏の説明である。この説はたいそう魅力的で説得力があると思う。 この業平は、美男の代表として伝承されているが『伊勢物語』の「むかし男・・・」は業平を指すことになっている。 その「むかし男」が一世一代の恋をしたのは、先の屏風の持ち主、二条に后、藤原高子だった。これは学者諸氏の説では、歴史的事実ではないという人もいるけれど、九世紀に生きた美男歌人のロマンスを、日本人は長く愛してきたのであるから、その伝承は伝承として、我々はいとしんで後代へまた言い伝えたらいいと思う。 藤原一族はその姫、高子を清和天皇の後宮に入れようと画策していた。、しかしその前に、三十一・二の業平とまだ十五・六の高子姫は恋し合っていた。裂かれれば裂かれるほど、恋人たちは燃えあがる。ついに業平は深窓の姫の高子を盗み出して背に負って逃げてくる。野にはいちめんの露がきらきらして、姫は「あれは何なの」というのである。無邪気な姫である。 それから、蔵のようなところへ姫を入れて警戒し守っていると、鬼がお姫様を食べてしまった。これが鬼のひとくちの話ですが、鬼というのは、追っ手の、姫の兄君たちのことをいう、と『伊勢物語』には書いてありまする。 なお、中納言行平は、業平の異母兄、父は平城天皇の皇子阿保親王(あぼしんのう)であるから、行平の歌の次に業平の歌を並べたのは順当な配置だろう。『百人秀歌』では、九番、十番と並んだ。 【作者】 在原業平朝臣、天長二年(825)平城天皇の第三皇子の第五子として生まれた。母は、桓武天皇の皇女伊登内親王(いとないしんのう)。天長三年に兄弟ととも在原朝臣姓を賜った。在五中将・在中将と後人のいうのは、在原氏の五男で近衛中将で亡くなったからである。 『三代実録』元慶四年(880)五月二十八日の記事に略伝がのっている。この日、業平は五十六歳で没した記事には「業平、体貌閑麗、放縦にして抱はらず、ほぼ才学無きも和歌を善くす。貞観四年三月、従五位を授けられ、五年二月左近権少将に遷り、尋いで右馬頭に遷り、累加して従四位下に至る。元慶元年、遷りて右近衛中将となり、明年相模権守をかね、後に遷りて、美濃権守を兼ぬ。卒する時、年五十六」とある。 『伊勢物語』はこの『古今集』所収の業平の歌を業平の生涯を語る骨子として、詞書とともに配列した冒頭の元服の折に遭遇した恋の歌、 「春日野の 若紫の すりころも しのぶの乱れ 限りしられず」『業平集』 に、始まって、最後百二十五段の臨終の時世の歌。 「つひにゆく 道とはかねて ききしかど このふけふとは 思はざりしを」『古今集』 に、終わる全編を貫く思想は、ひとつに絞れば「みやび」な行動を理想とすることである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以下<[千人万首]より転載。> 【他の代表歌】 世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし (古今集) 月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身一つは もとの身にして (〃) 名にしおはば いざ事とはむ 宮こどり わが思ふ人は ありやなしやと (〃) 【主な派生歌】 あやなしや 恋すてふ名は 立田河 袖をぞくくる 紅の波 (藤原俊成) 神無月 みむろの山の 山颪に くれなゐくくる 龍田川かな (式子内親王) 霞たつ 峯の桜の 朝ぼらけ くれなゐくくる 天の川波 (藤原定家) 龍田姫 てぞめの露の 紅に 神世もきかぬ 峯の色かな (〃) 立田河 いはねのつつじ かげ見えて なほ水くくる 春のくれなゐ (〃) 龍田川 神代も聞かで ふりにけり 唐紅の 瀬々のうき浪 (〃) 夕暮は 山かげすずし 竜田川 みどりの影を くくる白浪 (〃) 立田山 神代も秋の 木のまより 紅くぐる 月やいでけん (藤原家隆) 春の池の みぎはの梅の さきしより 紅くくる さざ波ぞたつ (藤原良経) これも又 神代は聞かず 龍田河 月のこほりに 水くぐるとは (〃「新拾遺」) 秋はけふ くれなゐくくる 龍田河 ゆくせの波も 色かはるらん (藤原雅経「新勅撰」) 秋はけふ くれなゐくくる 龍田川 神代もしらず すぐる月かは (後鳥羽院) 立田河 くれなゐくぐる 秋の水 色もながれも 袖の外かは (藤原道家「新後撰」) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ <出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。 |
|
ー18− <寛平の御時 后の宮の歌合せの歌 古今集・恋二> ・・・・・・・・・・・・・・・
住之江の岸に寄っては返す波 あたかもその波のように恋の思いを反復するわたしだが 昼のうちはもっともとしても 夜の夢のなかでの行き来にまで わたしはどうして人目を避けるのであろうか ・・・・・・・・・・・・・・・ 住の江の 岸に寄る波; 「よる」の序詞。「夜」・「寄る」同音に掛ける。 「住の江」は大阪市住吉区住吉の浦。 「に」は「よる」という動作、作用の帰着点を示す格助詞。 「よる」は動詞「寄る」の連体形。 よるさへや; 昼はもちろん夜までも 「よる」は名詞、「夜」。 「さへ」は添加の意の副助詞。 「や」は疑問の係助詞で、結びは「らむ」。 夢の通ひ路; 夢の中の恋路。「夢路」に同じ。相思相愛は夢で逢えると信じられていた。 人目よくらむ; 「人め」は人の見る目。ひとに見られること。 「よく」は避ける意。動詞終止形。活用は四段・上二・下二のいづれか不明。 「よく」の主語は作者か相手か。 「らむ」は現在の原因推量ドウシテ・・・ノダロウ。助動詞連体形で、「や」の結び。 ◇すみの江 摂津国の歌枕。 今の大阪府の住吉大社付近の海。当時は入江をなしていた。 万葉集や中世の歌集の写本には「墨江」「墨の江」の字を宛てている例があり、墨を流したように穏やかな入江のイメージがあったと思われる。 当歌でも「すみ」に「墨」を意識し、静かな暗い海を暗示していると思われる。 ◇岸による浪 ここまでが序詞。 「寄る」と同音の「夜」を導く。そればかりでなく、波は昼夜問わず寄せることから第三句「夜さへや」全体にも響き、また岸を歩く時は波を避けるので、第五句の「よく」にも響くことになる、という、複合的な効果を持つ序詞である。 ◇よるさへや (明るいうちばかりでなく)夜でさえも…か。 ◇夢のかよひぢ 夢の通ひ路。夢の中で恋人のもとへ通う時、魂が通ると考えられた道。 ◇人めよくらむ 恋人が来ないのは、人目を避けるからだろうか。「らむ」は原因・理由を推量する心。用心深すぎる恋人に対する恨みを籠めている。「よく」の主語につき「私は」とする説もある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ を前において詠んでいる。 比べると「夢の通ひ路」は並ぶ歌の「ゆきかよふ夢の直路」で「人目よくらむ」はおなじく「恋ひわびて」である。 二首はそうした関連を持った一組の歌である。敏行の歌の特色は、直叙的で平明な点である。 『古今集』には十九首入っているが、そのいくつかをあげると 「秋立つ日詠める」として 秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる 白露の 色はひとつを いかにして 秋の木の葉を ちぢに染むらむ ひさかたの 雲の上にて 見る菊は 天つ星とぞ あやまたれける どの歌も入り組んだ曲折がない。 話をこの歌に戻して、住之江の岸は、大阪市住吉区の住吉大社のあたりの海岸で、歌枕であるが、ここでは「よる」を引き出すための序である。 しかし全く意味のない言葉かというと、そうともいえず、夢うつつのまどろみに、ヒタヒタとよせる波音は、恋しい人のかそけき足音とも聞きまがうようでもあり、夜の海の深沈は恋の怨み、深い嘆きに通う。 作者の敏行は九世紀後半の人、清和・陽成・光孝・宇多・醍醐の五朝に仕え、寛平八年(896)右兵衛督となっている。 皇居警備の長官である。延喜七年に亡くなったといわれている。 父は陸奥出羽按察使(むつでわのあぜち)、富士麿で、母は紀名虎の娘であるから、母方に紀貫之友則らの縁戚がある。敏行自身も歌人として有名で、三十六歌仙の一人に入っている。 紀有恒の娘を妻にしたので、業平とは相婿になる。妻どうしが姉妹である。この相婿はどちらも色好みという点ではひけを取らなかったらしい。 彼は世に聞こえた能書家であった。この書にまつわる逸話を一つあげると、 能書家である故に、人々に頼まれて法華経をよく写経した。ある日、にわかに死んでふと気がつくと自分はきびしく鹹めとられ、引き立てられてゆく。 一体どうしたのだろうかとびっくりして、引き立てる使者に問うと 「御前の写経についてお裁きがあるのだ」というではないか。 見るとまわりに、見るも怖ろしいたけだけしい軍勢が目をいからし、歯をかみ鳴らして彼をねめつけており、いまにもつかみかからんばかり、あれは何かと使者にたずねると、使者は哀れむごとく。 「分からないのか、あれは御前に写経を頼んだ人たちだ。彼らは本来ならその功徳で、極楽に生まれて幸せになるべきはずのところ、御前はその経を書くときに不浄の行いがあった。御前は写経をしながら平気で魚を食い、女に触れただろう。思うことは女のことばかりだったろう。 だから功徳もかなわず、この連中は極楽へ行けなくて怒り狂っているのだ。 御前を呼んでくれ、八つ裂きにしてこの恨みを晴らしたいと閻魔さまに訴えたので、御前はまだ定命尽きてはいないが召されたのだ。お裁きで罪が明らかになれば奴らに引き裂かれるぞ」 聞くや否や、敏行はがたがた震えて、生きた心地もしない。確かに思い当たるふしがある。 しかし後悔してももうおそい。閻魔の庁の門は近づく。 敏行は足も地につかず、泣く泣く使者に取りすがり、 「おた、おた、おたすけ下さい、どうしたら助かりますか」とむせび泣く。 使者はさすがに哀れに思ったのか、内緒でカンニングしてやった。 「金光明経、四巻を写経供養しますという願をかけろ」・・・ 敏行はすぐさま心中に発願して念じた。閻魔の庁の前に引き据えられ、不浄写経をきびしく咎められ、怖ろしい軍勢の手に渡されようとしたとき、敏行はぶるぶる震えながら、必死に訴える。 「四巻の写経供養がまだできておりません、これを成し遂げて罪をあがないたいと存じますが」 「何?そんなことがあるのか。帳面にはついてないぞ」 閻魔大王の帳面には、その人間の一生で、した善事・悪事がつけ落としなくついている。 敏行のいいことは一つもなくてみな悪いことばかりだったというからおかしい。 しまいに一番奥に写経供養発願という殊勝な善事が書れてあった。なんといってもついさっき発願したばかりだからである。 おかげで敏行は「娑婆へ帰って願を遂げよ」と許されたかと見る間に目がさめ、生き返って、妻子らは泣いて喜んだ・・・ 敏行も、生き返った当座は、心身清浄にして写経しょうと決心していたが、生来の色好み、写経よりも女への懸想文のほうが忙しく、女の心を動かすような歌を詠むのに頭を使っているうちについつい「はかなく年月過ぎて」しまった。そのうち定命尽きて死に、あの世でえらい目にあったという話。 これは『今昔物語』『宇治拾遺集』に出ている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 【作者】 藤原敏行朝臣、陸奥出羽按察使、室麿の子。右兵衛督。書に優れ小野道風によれば空海と並ぶ古今の妙筆とされる。 勅撰集入集歌二十九首、三十六歌仙の一人。 妻は在原業平の妻の妹、母方には紀貫之・有恒らと縁戚がある。 能書家としても名高い。 百人一首では親交のあった業平の後、18番に置かれているが、百人秀歌では11番目に位置し、12番の陽成院と対になる。ともに暗い情念の感じられる悲恋の歌であり、かつまた名高い歌枕に寄せた恋歌である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 【他の代表歌】 秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる (古今集) ふる雪の みのしろ衣 うちきつつ 春きにけりと おどろかれぬる (後撰集) 【主な派生歌】 波の音に 宇治のさと人 よるさへや 寝てもあやふき 夢の浮橋 (藤原定家) 住の江の 松のねたくや よる浪の よるとはなげく 夢をだに見で (〃) 松かげや 岸による浪 よるばかり しばしぞ涼む 住吉の浜 (〃) はかなしな みつの浜松 おのづから 見えこし夢の 浪の通ひ路 (藤原家隆「続拾遺」) 見し人の 面影とめよ 清見潟 袖にせきもる 波の通ひ路 (藤原雅経「新古今」) すがはらや ふしみの里の ささ枕 夢もいくよの 人めよくらん (順徳院) 住の江の 浪の通ひ路 たがために 春は霞の 人めよくらん (藤原為家) よし野河 きしによる波 山吹の 花を名残の 春なさそひそ (肖柏) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ <出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。 |
|
ー19ー <新古今集巻十一(恋一)「題しらず 伊勢」> 難波潟の
あの葦の短い節と節の間のように 短いほんのわずかな間でさえも あなたに逢わないで 二人の仲のこの世を そのまま過ごしてしまえと言われるのだろうか 難波がた みじかき葦の; 「ふしのま」の序詞。 「難波潟」は大阪湾の一部。現在よりもっと入り込んでいて、芦の名所。 「みじかき」は形容詞「みじかし」の連体形で、「ふしのま」を修飾する。 ふしのまも; 芦の短い節と節の間の意の「節の間」と、短い時間の意の「節の間」を掛ける掛詞。 「も」は感動を含む強意の係助詞。 あはで此の世を; 未然形に接する「で」は打消の接続助詞。 「こ」は指示代名詞。 「の」は格助詞。 「世」は世の中・一生の意と、男女の仲の意とを掛ける掛詞で、「芦・ふし」の縁語。(節の間を「よ」という)。 「を」は動作の経過する時(「世」)を示す格助詞。 すぐしてよとや; 「てよ」は完了の助動詞「つ」の命令形。 「と」は引用を示す格助詞。 「や」は疑問の係助詞で、後に省略された結び「言う」(連体形)などを補って解する。 ◇難波がた 難波は今の大阪市及びその周辺部。潟は遠浅の海。 ◇みじかき葦の この句までが「ふしのま」を導く序詞。春先の生えて間もない短い葦は節も短いため、短い時間の比喩に用いた。「ふしのまといへばすなはちみじかき心あれども、わきて『みじかき蘆の』とよめるは其みじかきが中のみじかきほどをいはむとてなり」(改観抄)。 ◇ふしのまも 前の句からの続きとしては「(葦の)節と節の間も」の意になるが、後の句へのつながりとしては「ほんのわずかな時間も」の意になる。「ふし」には「臥し」が掛かる。 ◇あはでこの世を 逢わずにこの世を。この「逢ふ」は単に対面する意でなく、情交することを言う。「世」は「人生」の意だが、「男女の仲」の意も含む。また「節(よ)」と掛詞になり、「ふし」と共に葦の縁語。 ◇すぐしてよとや 過ごしてしまえとおっしゃるのですか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 作者は藤原北家の出身。若くして宇多天皇の后藤原温子に仕える。 父継蔭が伊勢守であったことから、「伊勢」の通称で呼ばれた。 藤原仲平・時平らとの恋を経て、宇多天皇の寵を得るが、天皇との間にもうけた一粒種の皇子を幼くして失う不幸に遭った。 宇多天皇の出家後、同天皇の皇子、敦慶(あつよし)親王と結ばれ、中務を生んだ。 歌人としては、寛平五年(893)の后宮歌合に出詠したのを初め、若い頃から歌合や屏風歌など晴の舞台で活躍した。古今・後撰・拾遺の三代集、いずれも女性歌人として最多の入集数を誇る。藤原公任の撰になる『三十六人撰』では貫之・躬恒に並ぶ十首を採られ、古今集最高の歌人の一人としての扱いを受けている。定家の評価も高く、『八代抄』に採られた二十三首は、和泉式部・式子内親王に次ぎ女流第三位にあたる。 百人一首・百人秀歌ともに第19番目に位置し、いずれも20元良親王の前に置かれている。同じ難波に事寄せた恋歌で、「あはでこの世をすぐしてよとや」(伊勢)、「身をつくしてもあはむとぞ思ふ」(元良親王)と呼応している。 百人一首ではこの伊勢から35紀貫之あたりまでが、古今集の時代の最盛期(宇多・醍醐朝)を飾る歌人たちということになる。 【他の代表歌】 あひにあひて 物思ふころの わが袖に やどる月さへ ぬるる顔なる (古今集) 難波なる 長柄の橋も つくるなり 今は我が身を 何にたとへむ (古今集) 思ひ川 たえず流るる 水の泡の うたかた人に 逢はで消えめや (後撰集) 【主な派生歌】 難波なる 身をつくしての かひもなし 短き蘆の 一夜ばかりは (藤原定家「続後拾遺」) あしの屋の かりねの床の ふしのまも みじかくあくる 夏の夜な夜な (藤原定家) 夏の夜はみじかき葦のふしの間に いつしかかはる 秋の初風 (藤原雅経) 難波江や うきてものおもふ 夏の夜の みじかき葦の ふしのまもなし (〃) 難波江や みじかき蘆の よとともに おつる涙を 知る人ぞなき (道珍「遠島歌合」) 世世かけて いひしにかはる 契りゆゑ みじかきあしの ねをのみぞなく (藤原為家) つひにさて 逢はで此世を 過しては たがつれなさの 名をか残さん (公宗母「新続古今」) みるほどは みじかきあしの ふしのまも なみに入江の みか月のかげ (本居宣長) <出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。 |
|
ー20− <後撰集・巻十三・恋五・詞書に「事いできて後に京極の御息所につかはしける、元良親王」とあるのが出展。> 人は私を指差してそしる
不倫の恋に狂う痴れ者と 世間の目に咎められ もはやあなたに逢うことも ままならぬ世のおきて あなたを恋うて 物狂おしく悶々の日々 ええい もはや同じこと 噂が立った,いまは 難波のみおつくしではないが 身をつくして破滅しても ままよ あなたに逢いたい 逢わずにおくものか 京極御息所というのは、宇多院の妃の褒子(藤原時平の娘)である。 元良親王 は恋多き美男として有名であったが、院の愛妃と恋愛沙汰をおこし、それが世に洩れ初めて、人々に噂されるようになってしまった。 「事いできてのち」というのは、それを指している。 激越な感情が、美しい調べにみごとに乗って、急端を落ち下るような勢いのある歌である。 ある研究者は、「あっぱれドンファンの心意気」とはやすむきもある。 時の帝の妃に歌を贈るなんぞ、とてもチンピラ貴族にできる技ではない。 きっと恋の手錬者であろう。 この歌の「難波なる」がちょっとまごつかされるが、これは別に大阪に関係ある歌ではなく「みおつくし」を持ち出したいための掛詞。 その昔、難波の入り江には、水脈を知らせる杭がたてられていた。 「水脈つ串」はそれをいう。 王朝に入ってから、難波といえばみおつくし、みおつくしと いえば難波。 歌の縁語になってしまった。 むろん「身を尽くし」に掛けられるのである。 元良親王(890〜943)は、陽成天皇の第一皇子であるが、天皇退位後の誕生である。 父君譲りの奔放な情熱を、もっぱら恋愛沙汰で燃焼したようである。 その歌を集めた。『元良親王御集』には全編これ、女性との恋のやりとりで埋められる。 冒頭に「陽成院の一宮、元良親王 いみじき色ごのみにおはしければ、世にある女の、美しと聞ゆるには、あふにもあはぬにも、文やり、歌よみつつやりたまふ」とあり美人と聞くと片っ端から歌を捧げて、まずくどく、というまめな人であったようだ。 『徒然草』によると元良親王 の元日の奏賀の声は、まことに音吐朗々と、大極殿からはるか遠くまで聞こえて見事だったというから、体格も立派な、いい男ぶりであったらしい。 「色好みというのは、現代の好色よりもっと広範囲の情趣をいう。 性的世界は抱合されるけれども、風流を解し、恋愛の駆け引きを楽しみ、恋の情緒を尊ぶ。 物のあはれを知り、柔軟で鋭敏な感受性をそなえていることを指し、そこに肉欲偏重の臭気はない。それが王朝の色好みである。」 元良親王 は、女房、人妻、姫君、ありとあらゆる身分の女と恋愛し、ついに宇多院の愛妃に懸想する。『御集』に「夢のごとあひ給ひて後」親王は御息所に歌を贈った。 「ふるさとへ あつくぞありける 富士の山 峰の思ひの もゆる時には」 この京極、御息所と呼ばれた藤原褒子は、美しい人だったらしい。 そして美しいだけでなく心も優雅であった。 それには次のような話が伝わっている。 近江の志賀寺に、朝勤上人という高徳の老僧がいた。 あるとき、志賀寺へ参詣に来た御息所を一目見て恋に落ちてしまった。 年来の修行の甲斐もなく、恋に狂ってふらふらと後を慕い、御所の御庭 まで入り込んで、二夜三夜、そこにたたずんで恋焦がれたという。 その哀れな姿に心を動かされた御息所は、老僧を召し寄せて御簾のうちから、わずかに白い手を出した。 老僧は感激にわななき、あえかたうつくしい手を握りしめ、 「初春の 初子の今日の 玉箒 手に取るからに ゆらぐ玉の緒」 と万葉の古歌を口ずさめば、御息所は、 「極楽の 玉の台の はちす葉に われを誘へ ゆらぐ玉の緒」 と返歌して、老僧に優しい心ずかいをみせたという。 その後老僧は、志賀寺で仏の道に専心し安らかな生涯を閉じたという。 【作者】 元良親王 (890〜943)陽成天皇の第一皇子。兵部卿 色好みの才子で『大和物語』等に多くの逸話が ある。勅撰集入集歌二十首。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ わびぬれば 今はたおなじ; 「わび」は上二段活用動詞「わぶ」の連用形。思い煩う意。 「ぬれば」は(完了の助動詞「ぬ」の已然形+順接の接続助詞)は確定条件を示す。 「いま」・「はた」は共に副詞、いまとなってはの意。 「おなじ」は形容詞終止形で、「身を尽くす」のと同じである意。 二句切。 難波なる; 「みをつくし」の枕詞。この難波は難波潟。 「なる」は存在の助動詞「なり」の連体形。 みをつくしても; 「みをつくし」は「身を尽くす」、すなわち「身を捨てる」意と、舟の水路を示す杭「澪標」との掛詞。 「て」は接続助詞。 「も」は感動を含む強意の係助詞。 <大きい川の河口には三角州がよくできる。 その三角州に自然にできる細い水路をみを(水緒)と呼び、昔から小さい舟の航路になっていた。 みをは浅いので、高潮などで水没するとどこにあるのかわからなくなってしまうので、事故を防ぐため水路のありかを示す杭を打ち込み、「みを・つ・くし」と名づけた。> 逢はむとぞ思ふ; 「む」は意志を表す助動詞終止形。 「ぞ」は強意の係助詞、結びは動詞連体形「思ふ」。 ◇わびぬれば つらくて、もう遣りきれなくなったので。「わび」は「困惑する」「つらいあまり歎く」などの意。 ◇今はたおなじ もはや、逢っても逢わなくても(噂が立ってしまった以上)同じこと。 ◇難波なる 「みをつくし」に枕詞風に掛かる。 ◇みをつくしても 命が尽きようと。「みをつくし」(澪標)を掛ける。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 【主な派生歌】 ながれても あふせは絶えじ 住江の 身をつくしても くちはててなん (中宮上総) 難波江の 葦のかりねの 一よゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき (皇嘉門院別当「千載」) 難波なる 身をつくしても かひぞなき みじかき蘆の 一夜ばかりは (藤原定家「続後拾遺」) 身をつくし いざ身にかへて 沈みみむ おなじ難波の 浦の浪かぜ (藤原定家) せきわびぬ いまはたおなじ 名とり川 あらはれはてぬ せぜの埋木 (〃) 難波人 いかなるえにか くちはてむ あふことなみに みをつくしつつ (藤原良経) さてもなほ いかなるえにて 難波なる みをつくしても よにしづむらん (藤原雅経) わびぬれば いまはたおなじ 山ざくら さそふ風をや 花もまつらん (平親清五女) 難波潟 かへらぬ波に 年くれて 今はたおなじ 春ぞまたるる (鷹司冬平「新千載」) 難波江の みをつくしても つかへきぬ ふかき心の しるしあらはせ (二条教頼) わびぬれば みてもかひなき 思ひねに 今はたおなじ 夢ぞまたるる (祝部行直「新後拾遺」) あれはてし 難波の里の 春風に いまはたおなじ 梅がかぞする (慶雲「新続古今」) <サ>http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34319734.html#34319734 ** 《やまとねこ》【「難波なる」は「みおつくして」の枕詞ではないか】 わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
これは百人一首の20番目の和歌です。
この和歌でわかりました。問題は、「難波なる みをつくしても」です。 「みをつくしても」は、「みおつくし」(澪標)にかけています。 「みおつくし」とは難波津にあった「浅瀬」「座礁」の事なのです。 私はなぜ「浅瀬」を「みおつくし」というのか今までわかりませんでしたが、
「みおつくし」とはどこにでもある浅瀬、座礁ではないのです。
さて、「なにわではないみおつくし」とは、「巫女が波にさらわれない安全な島の磐座」が、「隠さなければならない地域にあった」というのです。「難波なる」とは「難波にある」と言う意味ではありません。 「難波なる」は枕詞ではないでしょうか。 「みおつくし」は日本に二か所あったのです。 「難波なる」「みおつくし」と、「難波ではない」「みおつくし」です。 「みおつくし」は「みをつくし」ではないのです。 「みお」とは「磐座」(磐座)の意味です。 「み」は「神様」「お」は「良い」ですが「聖地」の意味です。 「つくし」でわかりました。 「つ」は「津」です。「海」の意味です。 「く」は「食べ物」です。 「つく」とは「水産物」です。 「つくし」とは「海産物があらわれる」という意味です。 「みおつくし」とは、「大漁を祈念する聖地」という意味です。 「難波なる」とは、「なみはやなる」という意味で、「波が速い」という意味です。 「なにわなるみおつくし」とは、「波が荒いため巫女ば波にさらわれる磐座」で、古代、大阪の淀川河口に、小さな岩場があったのです。 だから「難波なる」が枕詞なのです。
「隠さなければならない」のは九州王朝です。
その「安全な島の磐座」は、九州福岡の博多湾にある、「志賀島」です。<出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。 |



