ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

百人一首31〜40

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忍ぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで 
平 兼盛 
<天暦の御時の歌合 拾遺集・恋一>拾遺抄・恋上 天徳四年内裏歌合 新撰朗詠集・下・雑
この天暦は、年号ではなく、村上天皇の治めている御代の意で、「天徳四年三月三十日内裏歌合」のとき詠まれた歌。


【歌意】
・・・・・・・・・・・・・・
わたしの恋はひそかに隠していたけれど
顔色や表情に表れてしまったらしい
恋の物思いをしているのかと
人が尋ねるほどまでに
・・・・・・・・・・・・・・

【語句・文法】

* 倒置法;「忍ぶれど 色にいでにけり」という述語を、主語の句「わが恋は」と倒置し冒頭に押し出し、一気に秘めていた恋を認めてしまう。
「物や思ふ」と「人のとふ」までと現実の第三者を登場させて、「忍ぶ恋」の表れるさまを洗練された情感で詠いあげている。

* 忍ぶれど 色にいでにけり;

「しのぶれ」は上二段活用動詞「しのぶ」の已然形。
「ど」は逆接の接続助詞。
「色」は顔色・表情、様子。
「に」は変化の結果を示す格助詞。
「いでに」の「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形。
「けり」は詠嘆の助動詞終止形。
二句切。

* わが恋は 物や思ふと 人のとふまで;

「わが」の「わ」は自称代名詞。「が」は連体修飾語をつくる格助詞。
「は」は係助詞。
「物や思ふ」は人の言葉。心配ごと・悩みごと。
「や」は疑問の係助詞で、結びは連体形「思ふ」。
「人」は一般、世間の人。
「の」は主語を示す格助詞。 
「とふ」連体形に接する。
「まで」は限定を表す副助詞。

【作者や背景】

生年未詳〜正暦元年(990)光孝天皇の五代孫、曾孫筑前守篤行王の子。始めは兼盛王と名のっていたが、天暦四年(950)に臣籍に降って、平氏となった。
従五位上、駿河守と、地位はそれほど高くはないが平安中期の有力な歌人で、三十六歌仙の一人。家集に『兼盛集』がある。
『袋草紙』には『江記』からの引用として59赤染衛門の実父であるとの説を載せる。もと兼盛王と名のったようであるが、天暦四年(950)、平姓を賜わる。
越前権守・山城介・大監物などを経て、従五位上駿河守にいたる。
兼盛の娘(赤染衛門。兼盛の妻が離婚した際に妊娠しており、赤染時用と再婚した後に娘を出産したので兼盛が親権を主張して裁判で争ったが認められなかったと言う逸話が伝えられる)は大江匡衡に嫁いでおり、その血脈は大江広元や大江姓毛利氏にも流れている。
天徳四年(960)の内裏歌合など、多くの歌合に出詠。また永観三年(985)二月、円融院紫野御幸における歌会では和歌序を執筆。屏風歌も多い。
勅撰入集計は九十首に上り、拾遺集・後拾遺集の主要歌人の一人。

【他の代表歌】

み山出でて 夜はにやきつる 時鳥 暁かけて 声のきこゆる
(拾遺集)
くれてゆく 秋の形見に おく物は わが元結の 霜にぞありける
(〃)
かぞふれば わが身につもる 年月を 送り迎ふと なにいそぐらむ
(〃)

* 天暦御時歌合(天徳内裏歌合)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)は、天徳4年3月30日(960年4月28日)、村上天皇によって行われた歌合。
歌題の提示から当日まで1ヶ月の期間をおき、進め方や左右双方の衣裳、歌を書いた色紙を置く州浜(入り江などをかたどった飾り台)にいたるまで周到に準備されたもので、その典雅さなどで後世の歌合の手本となった。
3月初めに示された題は霞、鶯 、柳、桜 、款冬(山吹)、藤、暮春、首夏、郭公(ほととぎす)、卯花、夏草、恋の12。鶯、郭公が各2、桜が3、恋が5の計20番で戦われた。
判者(はんじゃ:勝敗を決める役)は左大臣藤原実頼、その補佐に大納言源高明(たかあきら)、講師(こうじ:歌を読み上げる役)は左方源延光、右方源博雅、方人(かたうど;応援する役)には女房たちが左右に分かれ、それぞれ左方は赤(朱)、右方は青(緑)を基調に衣裳を揃えるなど趣向を凝らしたものであったという。
当日は午後早くから会場となる清涼殿の準備が始まったが、左方の州浜の参上が遅れ、歌合が始まったときはすでに日が暮れていたといわれる。歌合は夜を徹して行われ、左方の10勝5敗5引き分けで終わった。歌合のあと管弦の遊びが催され、退出は翌朝のことであった。

20番の内容

1.霞

左:藤原朝忠卿(勝)
倉橋の山のかひより春霞としをつみてやたちわらるらむ
右:平兼盛
ふるさとは春めきにけりみよしのの御垣の原をかすみこめたり

2.鶯

左:源順(勝)
こほりだにとまらぬ春のたに風にまだうちとけぬうぐひすのこゑ
右:平兼盛
わがやどにうぐひすいたくなくなるはにはもはだらに花やちるらむ

3.鶯

左:藤原朝忠卿(勝)
わがやどの梅がえになくうぐひすは風のたよりにかをやとめこし
右:平兼盛
しろたへの雪ふりやまぬ梅がえにいまぞうぐひすはるとなくなる

4.柳

左:坂上望城
あらたまのとしをつむらむあをやぎのいとはいづれの春かたゆべき
右:平兼盛(勝)
さほひめのいとそめかくるあをやぎをふきなみだりそ春の山風

5.桜

左:藤原朝忠卿(勝)
あだなりとつねはしりにきさくらばなをしむほどだにのどけからなむ
右:清原元輔
よとともにちらずもあらなむさくら花あかぬ心はいつかたゆべき

6.桜

左:大中臣能宣(持(じ;引き分けのこと))
さくらばな風にしちらぬものならばおもふことなき春にぞあらまし
右:平兼盛(持)
さくらばないろみゆるほどによをしへば歳のゆくをもしらでやみなむ

7.桜

左:少弐命婦(勝)
あしひきのやまがくれなるさくらばなちりのこれりと風にしらすな
右:中務
としごとにきつゝわがみるさくらばなかすみもいまはたちなかくしそ

8.款冬(山吹)

左:源順(勝)
春がすみ井手のかはなみたちかへりみてこそゆかめやまぶきの花
右:平兼盛
ひとへづゝやへ山ぶきはひらけなむほどへてにほふはなとたのまむ

9.藤

左:藤原朝忠卿
むらさきににほふふぢなみうちはえてまつにぞちよのいろはかゝれる
右:平兼盛(勝)
われゆきていろみるばかり住吉のきしのふぢなみをりなつくしそ

10.暮春

左:藤原朝忠卿(勝)
はなだにもちらでわかるゝ春ならばいとかく今日はをしまましやは
右:藤原博古
ゆくはるのとまりをしふるものならばわれもふなでておくれざらまし

11.首夏

左:大中臣能宣(持)
なくこゑはまだきかねどもせみのはのうすきころもをたちぞきてける
右:中務(持)
夏ごろもたちいづるけふは花ざくらかたみのいろもぬぎやかふらむ

12.卯花
左:壬生忠見
みちとほみ人もかよはぬ奥山にさけるうのはなたれとをらまし
右:平兼盛(勝)
あらしのみさむきみやまのうのはなはきえせぬ雪とあやまたれつゝ

13.郭公(ほとゝぎす)

左:坂上望城(持)
ほのかにぞなきわたるなるほとゝぎすみやまをいづるけさのはつこゑ
右:平兼盛(持)
みやまいでてよはにやいつるほとゝぎすあかつきかけてこゑのきこゆる

14.郭公

左:壬生忠見(持)
さよふけてねざめざりせばほとゝぎす人づてにこそきくべかりけれ
右:藤原元真(持)
人ならばまててふべきをほとゝとぎすふたこゑとだにきかですぎぬる

15:夏草

左:壬生忠見(勝)
夏ぐさのなかをつゆけみかきわけてかる人なしにしげる野辺かな
右:平兼盛
なつふかくなりぞしにけるおはらぎのもりのしたくさなべて人かる

16:恋

左:藤原朝忠卿(勝)
ひとづてにしらせてしがなかくれぬのみこもりにのみこひやわたらむ
右:中務
むばたまのよるのゆめだにまさしくばわがおもふことをひとにみせばや

17.恋

左:大中臣能宣(勝)
こひしきをなににつけてかなぐさめむゆめにもみえずぬるよなければ
右:中務
きみこふるこゝろはそらにあまのはらかひなくてふる月日なりけり

18.恋

左:本院侍従(持)
ひとしれずあふをまつまにこひしなばなににかへたるいのちとかいはむ
右:中務(持)
ことならばくもゐの月となりななむこひしきかげやそらにみゆると

19.恋

左:藤原朝忠卿(勝)
あふことのたえてしなくばなかなかに人をもみをもうらみざらまし
右:藤原元真
きみこふとかつはきえつつふるものをかくてもいけるみとやみるらむ

20.恋

左:壬生忠見
こひすてふわがなはまだきたちにけりひとしれずこそおもひそめしか
右:平兼盛(勝)
しのぶれどいろに出でにけりわがこひはものやおもふとひとのとふまで

百人一首では40番、百人秀歌では41番であるが、いずれも次の壬生忠見と並べられており、天徳内裏歌合の組合せがそのまま踏襲されている。但し天徳内裏歌合では忠見が左、兼盛が右であり、百人一首・百人秀歌共に順番が入れ替わっている。
天徳四年(960)三月三十日、村上天皇の内裏で開催された歌合、二十番右勝。左は壬生忠見の「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか」。
判者藤原実頼は優劣を決めかねたが、天皇より判を下すよう命ぜられ、困惑して補佐役の源高明に判を譲った。しかし高明も答えようとせず、天皇のご様子を窺うと、ひそかに兼盛の「しのぶれど…」を口遊まれた。
そこで右の勝と決したという。この負けを苦にした忠見が病に罹りそのまま亡くなったとの話は名高いが、後世流布された虚事らしい(『沙石集』など)。しかし生涯を低い官位で過ごした。
天徳四年(960)内裏歌合は、村上朝宮廷歌壇の結集ともいうべき大きな催しであった。『袋草紙』によれば、兼盛は勝ちと聞いて拝舞しつつ退出、他の歌の勝負には執しなかったという。このようなさまざまな逸話を生む歌が作られてことでも、いかに歌人たちが、一首一首に精神をかけていたかが窺い知れよう。

【主な派生歌】

しのぶれど 涙ぞしるき 紅に 物おもふ袖は そむべかりけり
(源道済[詞花])
忍ぶれど 思ふ思ひの あまりには 色に出でぬる 物にぞありける
(大江嘉言[風雅])
袖の色は 人のとふまで なりもせよ 深き思ひを 君し頼まば 
(式子内親王[千載])
とふ人は 忍ぶ中とや 思ふらむ こたへかねたる 袖のけしきを 
(良経)
ふく風も ものや思ふと とひがほに うちながむれば 松のひと声
(〃)
うつせみの 鳴く音やよそに もりの露 ほしあへぬ袖を 人のとふまで
(〃)
おのれだに 言問ひこなむ さ夜千鳥 須磨のうきねに 物や思ふと
(〃)
色にいでて いはぬ思ひの なぐさめは 人のつらさを 知らぬばかりぞ
(家隆)
いかにして 忍びならはむ 程だにも 物や思ふと 人にとはれじ
(〃)
うき身には たえぬ歎きに おもなれて 物や思ふと 問ふ人もなし
(鴨長明[新後撰])
とはばやな みぬめの浦に 住むあまも 心のうちに 物や思ふと
(西園寺公経 〃)
しのぶれど 色にやいづる をみなへし 物やおもふと 露のおくまで
(源具親)



【出典・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>等から。
浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき 
参議等 ( さんぎのひとし )
<人につかはしける 『後撰集』・巻九・恋一>

【歌意】
・・・・・・・・・・・・
まばらで小さな茅(ちがや)の生えている野の篠原の「しも」ではないが
わたしは思い忍んでいるけれども
どうにもたえきれない
どうして 
あなたがこれほど恋しく思えるのであろうか
・・・・・・・・・・・・

【本歌】(大方の定説);古今集・恋一・読人知らず
 
浅茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人知るらめや 言う人なしに

(私があの人を恋い慕っていることを あの人は知らないだろう そのことを伝えてくれる人はいないのだから)

【語句・文法】

* 浅茅生の 小野の篠原;

音の類似から「しのぶれ」の序詞とする。
「浅茅生」は、茅のまばらに生えている所。または低い茅の生えている所。
「浅茅生の」は「小野」の枕詞。
「小野」は野原。
「小」は語調を整える接頭語。
「篠原」は細く小さい竹の篠の生えている野原。
「しの」と同音の動詞「しのぶ」を導く。

* しのぶれど、あまりてなどか 人の恋しき;

「しのぶれ」は上二段活用動詞「しのぶ」の已然形。心にこらえる意。
「ど」は逆接の接続助詞。
「あまり」は四段活用動詞「あまる」の連用形で、しのぶにあまる、たえきれない意。
「て」は順接の接続助詞。
「など」は疑問の副詞。・・・ドウシテ
「か」は疑問の係助詞で、結びは形容詞「恋し」の連体形「恋しき」。
「人の」の「の」は主語を表し、述語は「恋しき」。

【作者や背景】

「人」は女。「浅茅生の小野の篠原」は、「しのぶ」をいいたいための序であって、「しの」という言葉が必要なところから持ち出されたのであるが、何となく広漠とした原野が想像され、荒野に立つ心ぼそさと、忍ぶ恋の辛さが貼りついていて、中々いいムードである。
「私があの人に恋をしていることを、あの人は知ってくれているだろうか、いや、知らないだろうなあ、あの人に告げ知らせてくれる人はいないんだもの」というような意味だが、かなり古い歌らしく、万葉調の味がある。等はそれをうまく、王朝風な言いまわしに、すげかえて成功している。
小野の篠原、というのは、特定の場所ではなく「小」は接頭語である。王朝の昔は、ちょっと都を出はずれると(いやどうかすると都のうちでさえも)浅茅の野や、篠原を目にすることが、おおかったのであろう。この浅茅というのは古典によく出てくる。
『古事記』の昔から、よく歌にうたわれているので、国文好きの方にはおなじみの名詞であろう。上田秋成の『雨月物語』にも「浅茅が宿」という桂品がある。秋成のイメージにある「浅茅が宿」はこんな風である。
「簾垣朽ち崩れたる間より、萩ススキ高く生い出でて、朝霧うちこぼるるに、袖湿ぢてしぼるばかりなり。壁には蔦葛延ひかかり、庭は葎に埋もれて、秋ならねども野らなる宿なりけり」『源氏物語』で浅茅がさかんに出てくるのは、これはもう、いうまでもなく、常陸宮の姫君、末摘花の邸である。
「浅茅は庭の面もみえず、しげき蓬は軒をあらそひて生ひのぼる」というような荒れた邸に姫君は心変わりもせずに住んでいるのであった。この浅茅「浅」は、丈が低いとか、まばらに生えている、という意味で、ほんとうは茅という。いま、チガヤというが、これさえ、町ものには目にすることが少ない。
かすかな甘味があるが、それを「つばな」といい『万葉集』のころから食べられていたらしい。巻八に紀女郎(きのいらつめ)の歌がある。

戯奴がため 吾手もすまに 春の野に 抜ける茅花ぞ 食して 肥えませ(巻八・一四六○)

あなたのためにあたし、手をかいがいしく動かして春の野でつばなを抜いたのよ、さあ、これを召し上がってもっとお太りになってよ。・・・この歌を贈られた大伴家持は、同じくたわむれてこう返している。

吾が君に 戯奴は恋ふらし 給りたる 茅花を喫めど いや痩せに痩せす(巻八・一四六二)

・・・私は君に恋しているらしいぜ、もらったつばなを食べたが、物思いにいよいよ痩せるばかりさ・・・・・・万葉人はジョーク好きなので、あるいは家持という人は、恰幅のいい、ほどよきほどに太り肉の男だったのかもしれない。

参議等、本名源等(みなもとのひとし)、中納言源希(みなもとのまれ)の子。勅撰集入集歌三首のみ。
源等は、どの本でも二、三行で片付けられている影の薄い人である。
嵯峨天皇の曾孫、天暦元年(947)に参議となり、四年後に死ぬ。
伝記は不詳。
『後撰集』に三首のこるのみで、無名に近い。
少なくとも、百人一首を王朝詞花集とするならば、源等よりもっとほかに有名な歌人はたくさんあり、採るべき名歌かじゅうも少なくない。「名誉ノ人、秀逸の詠、皆コレヲ漏ス。用捨心ニ在リ」と『百人秀歌』の奥書に定家が書くとおりである。
話は違うが、私が国文に興味を持ったのは、高校の時国文に長けた美人同級生がいたからだ。
生きていれば80のお婆さんだなあ。

【主な派生歌】

霜うづむ 小野の篠原 しのぶとて しばしもおかぬ 秋のかたみを  
(藤原定家)
夕ぐれは 小野の篠原 しのばれぬ 秋きにけると うづらなくなり (〃)
あさぢふの をののしらつゆ 袖のうへに あまる涙の ふかさくらべよ  (〃)
なほざりの をののあさぢに おく露も 草葉にあまる 秋の夕暮 
(〃「続後撰」)
浅茅生の 小野のしのはら 霜枯れて いづくを秋の 形見とか見む  
(藤原俊成女)
浅茅生の 小野の篠原 なく虫の 涙にあまる 秋の夕露  
(藤原為理「続後拾遺」)
浅茅生の 小野の篠原 風そよぎ 人しるらめや 秋たちぬとは  
(宗良親王「新葉」)
夕されば 玉ゐる蓮の 広葉にも あまりてなどか 露のこぼるる  
(木下長嘯子)


【出典・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>等から。
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな 

右近 
<題しらず 『拾遺集』・巻十四・恋四> 
「をとこの、わすれじとよろずのことかけてちかひしけれど、わすれけるのちに言ひやりける」

【歌意】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたに忘れられるわが身のつらさは何とも思いません
ただ いつまでもと神に誓われたあなたの命が
神罰で縮められるのが惜しく思われることです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【語句・文法】

* 「題しらず」とあり、実際に贈呈された歌かは疑問。


忘らるる 身をば思はず;

「忘ら」は四段活用動詞「忘る」の未然形。
「るる」は受身の助動詞「る」の連体形。
「を」は動作の主体を示す格助詞。
「ば」は強意の係り助詞「は」の連濁した形。
「ず」は打消しの助動詞終止形。
「思はず」気にかけない。主語は作者。
二句切。

誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな;

「誓ひ」永久に変わらない愛を神に誓った。四段活用動詞連用形。
「て」は完了の助動詞「つ」の連用形。
「し」は過去の助動詞「き」の連体形。
「人」は特定の相手。
「いのちの」の「の」は、主語を示す格助詞。
「惜しく」は形容詞「惜し」の連用形。
「も」は強意の係助詞。
「ある」はラ行変格活用「あり」の連体形で、補助動詞。
「かな」は詠嘆の終助詞。
述語の文節は「惜しくもあるかな」。
<藤原敦忠が返歌をなしえなかったことと、三十八歳で若死にしたという事実は興味ぶかい。>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【作者や背景】

右近、十世期初めのころの人。右近少将藤原季縄の娘。
醍醐天皇の皇后穏子に仕え、王朝貴族の御曹子にもてた。
勅撰集入集歌九首

男への思いをなお訴えずにはいられない女心と捉えるか、
男の偽善・身勝手へのあてつけとみるか、
作者の心底にどんな意図を感じるか、
読者の品位も問われる一首か。
はたまた現代人の世では、男女区別することかと一笑に伏せられる?
ま そんなことわかり申さず。

この右近は艶聞の多い女であった。
この歌の解釈は二通りあって「わすらるる身をば思わず」で切るものと「誓ひてし」までつづけるもの。
切り方によって意味が少し変わってくる。

自分のことよりも、男の命の方を惜しむというところが、昔の男には受けたとみえて、下河辺長流あたりも「貞女の心なり」ときわめて満足そうである。
昔の男は(昔に限らないか)女が自分のことはあとまわしにして、男に献身すると「憂い奴」と満足する。

しかし、裏切った男に尽くすなど嘘っぱちにきまっている。
自分を裏切った男なんか死んでしまえばいい、というのが女の本音であろう。自分を美人と思ってくれない男の前に、一分でも座っていたくない、というのが女の本音ではなかろうか。

『梁塵秘抄』
(王朝末期、後白河院の編で、当時のはやり歌をあつめた歌集)に

「我を頼めて来ぬ男 
角三つ生いたる鬼となれ 
さて人に疎まれよ 
霜雪あられふる水田の鳥となれ 
さて足冷たかれ・・・」

呪詛と憎しみに満ちた女の叫びである。

『大和物語』の八十一段から八十五段に右近のことが載っている。
右近は藤原季縄という人の娘、この人が右近の少将だったので「右近」と呼ばれたらしい。
醍醐天皇の皇后穏子に仕えた女房であった。
れいによって実名も生没年もわからない。おおざっぱにいって十世紀始めのころの人である。

恋人の名はわかっている。藤原敦忠、百人一首にやはり採られている。
「あひみての のちの心に こらぶれば 昔はものを 思はざりけり」
43番の作者である。
左大臣藤原時平の三男、時の権力者の御曹司である。
歌にすぐれ、音楽の才にも恵まれた風流貴公子であった。

だから右近との恋は、歌人同士、芸術家同士の恋である。
ただ右近の身分は低い。そして一介の女房に過ぎない。二人の恋が燃えているうちはいいが、恋がさめるとバランスは崩れる。
しかも右近は敦忠に恋しつつ、別の男、桃園の宰相とも噂があり、また頭の中将とも交渉があった。男に持てた女だったのだ。

しかし右近が本当に愛し、相手の心変わりでショックを受けたのは、敦忠であったようだ。『大和物語』には「忘すらるる」の歌を載せ、その前にこうある。
「男の『忘れじ』と、よろずのことをかけてちかひしけれど、忘れにけるのちにいひやりける」
男は「・・・君のことは忘れない」といろんなことをいって誓ったのである。
「もし心変わりしたなら私は命を取られてもいい、神仏にかけて誓うよ」
「あたしもよ」と女も誓う。
「お互いに一刻でも忘れるようなことはないと誓おう。神も仏もご照覧あれ」

恋の最中は、上ずっているからいくらでもそんな誓いが出てくる。しかし男は、新手の恋にめぐりあって、右近を忘れたのである。
「やがて忘れられることを思いもせず、誓った私。私は愚かだけど、心がわりしたあなたには罰が・・」
「いえ、あなたにもしものことがあっては、いやだわ。でもあなたに何の罰も当たらず、ほかの女と幸福 になるなんて許せないわ・・・・・」
と、心の深奥での邂逅がえんえんとつづく女心というものは複雑である。
当時は、神仏にかけた「愛の誓い」は、破るとバチ、すなはち天罰がてきめんと信じられていた。

『拾遺和歌集』
おほかたの 秋の空だに わびしきに 物思ひそふる 君にもあるかな
身をつめば あはれとぞおもふ 初雪の ふりぬることも 誰にいはまし
わすらるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の をしくもあるかな  


【主な派生歌】

忘らるる 身をば思はで 龍田山 心にかかる 沖つ白波
(寂蓮)
身をすてて 人の命を 惜しむとも ありし誓ひの おぼえやはせむ
(定家)
誓ひてし 人の命を 嘆くとて わがたのまぬに なしてこそみれ
(藤原為家)
しほたるる 身をば思はず こと浦に 立つ名くるしき 夕烟かな
(少将内侍[新拾遺])
埋もるる 身をば歎かず なべて世の 曇るぞつらき 今朝の初雪
(*後醍醐院[新葉])
恋ひ死なむ 身をば思はず 同じ世に あはぬためしの 名こそ惜しけれ
(寂昌[新千載])
しづむべき 身をば思はず 涙川 ながれて後の 名こそ惜しけれ 
(崇光院 〃)


【出典・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[山と読書 ]>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>等から。


.
しらつゆに 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける 
文屋朝康 
<後撰集・巻六・秋・の詞書に「延喜の御時、歌召しければ」>

【歌意】
・・・・・・・・・
秋の野の草に置くいちめんの白露
風がしきりに吹き渡るとぱらぱらとこぼれ散る
紐に通してとめていない水晶の玉が
風の吹くたびに
あ 
こぼれ散る
・・・・・・・・・

<語句・文法>

*  しらつゆに 風の吹きしく 秋の野は;

「白露」は草の葉に置いて白く光る露。
「に」は動作・作用(吹きしく)の対象を示す格助詞。
「風」は秋風。
「の」は主語を示す格助詞。
「吹きしく」は四段活用動詞「吹きしく」の連体形で、しきりに吹く意。
「秋の野は」は「散り(ける)」の場所」を表す。
「は」は係助詞。

* つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける;

「つらぬきとめ」は下二段活用動詞「つらぬきとむ」の未然形で、紐や緒で通してとめる意。
「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形。
「玉」は宝石。ここでは白玉のことで真珠をいう。
「ぞ」は強意の係助詞で、結びは詠嘆の助動詞「けり」の連体形「ける」。
「散り」は四段活用動詞「散る」の連用形。

◇吹きしく 吹きしきる。「しく」は「事が重なって起きる」意。
◇つらぬきとめぬ玉 緒で通して留めていない玉。白い玉と言えば真珠を指すことが多かったようであるが、この歌では数珠を連想させられるので、玻璃珠(水晶玉)や白珊瑚の珠などを思い浮かべても良いか。
◇白露 大気中の水蒸気が葉の上などに凝結したもので、白く光って見える水滴を言う。万葉集でも用いられた歌語。和歌では涙の喩えやはかないものの象徴ともなる
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<作者や背景>

文屋朝康(ぶんやのあさやす)、生没年未詳。
『古今集』歌人康秀の子。
大舎人充、寛平御時后宮歌合せに顔を見せているほかは、伝記不明。勅撰集入集歌三首。
身分の低い官人であったが、当時の主要な歌合に出詠しており、歌人としての名は高かったようである。もっとも勅撰集への入集は古今集に一首、後撰集に二首と少ない。
同族の歌人としては、清和天皇に万葉集のことを問われて歌を奉った有季もおり、文屋氏は和歌に通じた一族として宮廷に重んじられていた節がある。父の康秀が六歌仙に選ばれたのも恐らくそれ故であろうし、朝康が百人一首に選ばれたのもやはり家柄あってのことだったろう。百人一首では親子での入集が十八組にも及ぶのである。

延喜御時は、 醍醐天皇の御代(897〜930)。
醍醐天皇が歌を差し出せとおおせられたのでというのである。
歌の着想の中心は白露を白玉に見立てたことにあるが、同じ見立てのものはこの時代いくつか見える。
同じ作者の

「秋の野に おく白露は 玉なれや 貫きかくる 蜘蛛の糸すじ」 文屋朝康

「浅みどり 糸よりかけて 白露を 玉にもぬける 春の柳か」 僧正遍照

いずれも精麗な歌である。身に泌む秋冷が感じられ、野原いちめんの露の美しさに茫然としている作者の心に、私たちの心も寄り添うであろう。

ある研究者がいっているが、この歌について「野の露よりもむしろ水晶の玉に対する執着があって生まれたような歌」とされ、「その作者は日頃女たちの服飾のことに口を出すか、緒に貫いた玉をみずからも手草にするか、そのあたりの手触りを実感している男でなければなるまい」と指摘しているが鋭いという外ない。

日本民族は、西洋人ほど宝石に執着しないといわれるが、美しい自然に敏感な日本人が玉を賞玩しないはずはなく、結構アクセサリーも好きで『古事記』の昔から、宝玉に目のくらんで身の破滅を招いた男の話もよく出てくる。
『万葉集』には、真珠がうたわれていることも多い。

この朝康の歌の「玉」を真珠とする訳もあるが、白露の感じからして、作者は水晶に見立てたのではあるまいか。水晶も日本人に好まれた玉で、王朝の世に閑院の左大将と呼ばれ藤原朝光、この人は人気ある伊達男であったが、やなぐいの矢筈を水晶で作ったという。

朝康はひそかに、水晶に愛着する男であったのかもしれない。あるいは野の露にことさら、心をひかれる詩人であったのか、それも露を人の命のはかなさにたとえる、というような王朝末期の無常感とは関係なく、ただ虚心に露の美しさを楽しんだのでえあろうか。

『古今集』には、冒頭に紹介した白露の歌がある。

「秋の野に おく白露は 玉なれや 貫きかくる 蜘蛛の糸すじ」 文屋朝康

白露を、蜘蛛の糸で貫いた水晶に見立てている、ここでは静止した露の玉の美しさに目を止め先の歌ではこぼれ散る、動きのある露の玉を描いている。

『古今集』のは「これ定親王の家の歌合せに読める」という詞書「百人一首」の歌は『新撰万葉集』に「寛平御時后の宮の歌合せの歌」とあり混乱が見られる。どちらにしろ制作年代としては宇多天皇の寛平初年ごろの作られた歌であろう。

清らかな歌で中々いいと思う。定家もこの歌が好きだったようである。白露を玉と見立てる趣向は、これはもう、この時代には、いやというほどあって、類型的な発想であるが、朝康の歌のように美しいものは少ない。

直ぐに思い出されるのは、僧正遍照の

「蓮葉の にごりにしまぬ 心もて なにかは露を 玉とあざむく」僧正遍照

ちょっと理に落ちたきらいはあるが、蓮の葉の上をころころところがる露の玉をよんでいかにも涼しげでいいと思う。僧正遍照の歌はスマートで身が軽く爽やかである。これも冒頭に紹介した春の歌で

「浅みどり 糸よりかけて 白露を 玉にもぬける 春の柳か」 僧正遍照

これは西寺のほとりの柳を詠んだという。いま見る京のお寺はしぶくくすんだ色であるが、出来たての王朝初期の頃は、原色が鮮やかであったであろう。街路樹の柳のあさみどりに光る露の玉、これも美しいものである。

『源氏物語』にも露の歌は多いが、紫の上が死ぬ「御法」の巻、紫の上は死を前にして、

「置くと見る ほどぞはかなき ともすれば 風に乱るる 萩のうは露」 と詠み、養女の中宮は泣きながら答えられる。露のようなはかなさは、みな同じですわ。

「秋風に しばしとまらぬ 露の世を たれか草葉の 上とのみ見む」

そうして紫の上は「まことに消えゆく露のここちして」「消えはてたまひぬ」と・・・

こういうさまざまな露の歌を見た後で、やはり朝康の、こぼれ落ちる水晶の露は格別の風趣だと思うのである。朝康の生涯はいまだ不明である。父の康秀同様に微官で終わったらしいが、白露の歌で長い命を得たことである。朝康は九世紀後半から十世紀初頭に生きた人であろう。

もし康秀の「吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ」 の歌が朝康の歌だとすると、この人だけは「百人一首」に二首採られていることになる。百人一首研究者の解き明かされることのない永遠の謎であろう。(引用終了)
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【主な派生歌】

玉ぼこの 道もやどりも しら露に 風の吹きしく 小野の篠原
 (藤原家隆)
てづくりや さらすかきねの 朝露を つらぬきとめぬ 玉川の里
 (藤原定家)
むさし野に つらぬきとめぬ 白露の 草はみながら 月ぞこぼるる (〃)
川なみに 風のふきしく 白露や つらぬきとめぬ 玉のをやなぎ
 (順徳院)
武蔵野や 人の心の あさ露に つらぬきとめぬ 袖の白玉
 (九条道家[新勅撰])
山風に あられうちちる 音はして つらぬきとめぬ 庭の玉笹
 (三条西実隆)
露むすぶ みどりの糸に 風絶えて つらぬきとむる 玉のを柳
 (木下長嘯子)
まくず原 露も玉まく 夕風に つらぬきとめぬ 秋ぞちりける
 (松永貞徳)
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【出典・転載元】
< 三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[山と読書 ]>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>等から。
夏の夜は まだ宵ながら あけぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ 
清原深養父 
<古今集巻三(夏)「月のおもしろかりける夜、暁がたによめる 深養父」>

【歌意】
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夏の短い夜は
まだ宵だと思っているうちに
明けてしまった
いったい雲のどのあたりに
月は隠れていたのだろうか
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<語句・文法>

* 夏の夜は;

「夏」は陰暦四・五・六月で、夏の短夜、秋の夜長に対する。
「は」は係助詞。
第一句は第三句にかかるので七五調。

* まだ宵ながら あけぬるを ;

「まだ」は副詞。
「宵ながら」は名詞「宵」と、継続の接続助詞「ながら」で・・ノママデ。また「ながら」を接尾語として、「宵ながら」を副詞とも。
「あけ」は下二段活用動詞「あく」の連用形。
「ぬる」は完了の助動詞「ぬ」の連体形。
「を」は逆説の接続助詞。

*  雲のいづこに 月やどるらむ;

「の」は連体修飾語を作る格助詞。
「いづこ」は不定称で場所を示す指示代名詞なので、連体形「らむ」(現在の推量の助動詞)で応じる。
「やどる」は終止形。
この二句は擬人法。
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【主な派生歌】

夏の夜は まだ宵ながら 明けぬとや ゆふつけ鳥の 暁のこゑ (慈円)
大和路や 都も遠き ひむろ山 まだ宵ながら 岩戸あくなり (藤原家隆)
夏の月は まだ宵の間と ながめつつ ぬるや河辺の しののめの空
(藤原定家)
宵ながら 雲のいづこと をしまれし 月をながしと 恋ひつつぞぬる (〃)
折しもあれ 雲のいづくに 入る月の 空さへをしき しののめの途 (〃)
山路行く 雲のいづこの 旅枕 ふすほどもなく 月ぞ明け行く (〃)
夕づくよ かたぶく空は よひながら 雲のいづくに ありあけの月
(藤原忠良)
夏の夜は 雲のいづくに やどるとも わがおもかげに 月はのこさむ 
(藤原良経)
郭公まだ宵ながら明くる夜の雲のいづくになきわたるらん (後鳥羽院)
郭公 雲のいづくに やすらひて 明がたちかき 月になくらん
 (〃「続拾遺」)
あかなくに 雲のいづくに やどりつつ はるればあくる 夏の夜の月    (〃)
月だにも 雲のいづくに 夏の夜の やみはあやなし 曙の空  (順徳院)
卯の花の 籬は雲の いづくとて あけぬる月の 影やどすらむ
 (藤原為家「続古今」)
暁の 空とはいはじ 夏の夜は まだ宵ながら 有明の月 
(西園寺公相「続古今」)
久方の 雲のいづくの 影ならで 木のまあけ行く みじか夜の月
(伏見院)
よひのまに 明けなば明けよ 天つ空 雲のいづくと 月はたどらじ (正徹)


【作者・配列】

豊清原深養父 きよはらのふかやぶ 生没年未詳
舎人親王の裔。豊前介房則の子(または房則の祖父備後守通雄の子とも)。
後撰集の撰者元輔の祖父。清少納言の曾祖父。
延喜八年(908)、内匠允。延長元年(923)、内蔵大允。延長八年(930)、従五位下。
晩年は、洛北の北岩倉に補陀落寺を建てて住んだとの伝がある。
寛平御時中宮歌合・宇多院歌合などに出詠。貫之・兼輔らと親交があった。
古今集に十七首入集。勅撰入集四十二首。家集『深養父集』がある。中古三十六歌仙。小倉百人一首にも歌を採られている。
因みに清原氏は天武天皇の皇子舎人親王の末裔である。
百人秀歌では33番目に置かれ、次の貞信公「小倉山峰のもみぢ葉…」と合される。夏の月と晩秋の紅葉、それぞれに時の流れ去る早さを惜しむ組合せか。

【他の代表歌】
冬ながら 空より花の ちりくるは 雲のあなたは 春にやあるらむ
 (古今集)
光なき 谷には春も よそなれば さきてとくちる 物思ひもなし
 (古今集)


<記事詳細や背景>

「まだ宵ながら明けぬる」は言葉としては矛盾ながら妙句、誇張と言わざるを得ないが、夏の短か夜の実感をよく捉えた言い方であろう。
しかも当夜は雲が多かったのだろう、せっかくの「おもしろかりける」月を堪能できない心情を、機知あふれる詞遣いで詠んでいる。
まことに古今集の歌らしい風雅の一首。


【出典・転載元】
< 三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[山と読書 ]、ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>
<小倉百人一首 注釈>等から。

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