ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

百人一首31〜40

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人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける 

<初瀬に詣ずるごとに宿りける人の家にひさしくやどらで ほどへて後に至れりければ かの家の主 かくさだかになむやどりはある といひ出して侍りければ そこにたてりける梅の花を折りてよめる 貫之 古今集・巻一・春上(42)>

【歌意】
・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたは
はて
(私には冷たくなられたようですが)
昔なじみのこの里では
梅の花は以前のままのありさまで
美しく咲いていることですよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
人の心は変わりやすいものだから、あなたのお気持ちは、さあどうかわからない。
けれど昔なじみのこの里は、梅の花だけは昔のままの懐かしい香りで咲きにおって私を迎えてくれますね。人事と自然の違いかなあ。

更に宿の主人の返歌として

花だにも 同じ心に 咲くものを 植ゑけむ人の 心しらなむ

人とならぬ花でさえ、昔とかはらず美しいかほりで咲いているのだから、ましてこの梅の木を植えた私の気持ちをしって欲しい。

作者が久しぶりに大和(奈良県)の初瀬にある長谷寺(十一面観音を本尊とし、平安時代に人々の信仰を集めた)へ参った折、かってのなじみの家を訪れると、家の主人は作者の久々の来訪を「このようにちゃんと宿はありますのに、ひどいお見限りですね」とすねる風情の軽い皮肉をこめて迎えた。
それにひるむことなく、即座に梅の一枝を折り取って、この歌で逆襲したわけである。
宿も人も、あるのは形、はたしてその心は・・・・・と、なれ合った親しさをもつ者同士のみなし得る、機知に富み、一遍の小説めいた楽しくよくできた問答歌である。
しかし詞書に記されたような場を外して一首と向かいあうとき、故郷の地に立って、移り行く人の心と、変わらず咲きにおう花、すなわち悠久の自然と有限の人間とを対比する心が生まれ、作者の懐旧の情は深い詠嘆をともなって春の日の中にたゆとうてゆく・・・・・と見られるのである。
これが中世の人々が心に抱いた王朝の美の映像であったのであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<語句・文法>

* 人はいさ 心も知らず;
「人」は、特定の人(初瀬の家ぼ主人)を表す。
「は」強調の係助詞。他と区別する。
「いさ」は、さあ、いや、など否定的語気で陳述する副詞で、下に「しらず」などの否定表現で応じる。
「も」は感動をむくむ強意の係助詞。
「ず」は打消しの助動詞終止形。

* ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける;

「ふるさと」は昔なじみの場所で、「人」に対応させている。
「花」は詞書によって、ここでは梅の花。
「ぞ」は強意の係序詞で、結びは詠嘆の助動詞「けり」の連体形「ける」。
「に」は状態を示す格助詞。
「にほひ」は動詞「にほふ」の連用形で、美しく映えると、香気がするの両意で、後者に重きをおく。
「にほひ」は本来視覚に関する語であり、嗅覚に関する語は「かをる」であった。それが、平安時代頃には、本来の意味を有しつつも、視覚・嗅覚両方を意味するようになり、平安後期にはほぼ同義語となった。以後、良い匂いについては「かほる」、匂い全般については「にほふ」が使われる。ちなみに、視覚に関する「にほふ」の意味を引き継いだ現代語は無いとされています。また、「匂」は国字で音読みはない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<記事詳細や背景>

大和の長谷寺の十一面観音さんは、平安時代の人々から厚い信仰を寄せられた。
『源氏物語』でも玉鬘の姫はここへ徒歩でお詣りし、知るべの女房とめぐりあい、運が開けている。霊験たちまちあらたかだったわけである。『枕草子』にも、初瀬へまいった記事がある。

紀貫之『古今集』選者ののチーフ、プロ歌人として平安時代の第一人者。
『土佐日記』の作者、そうして『古今集』の序で見られるように批評家としても一流の人という。何しろ彼の歌は、真情流露という私小説風な歌よりも、屏風なんかに書くのにつくられた歌が多い。
ちょうど裾模様の軒物風というか、壁画風というか、大都会の駅のコンコースなんかにその都市や国にちなんだモチーフの一大壁画がある、そんなんに似ていて、彼の歌は公的な場が多い。
映えたって晴れがましい、おめでたい、美しい、人の心を晴れ晴れさせる。
そんな歌が彼は巧い人だった。

唐の詩人劉廷芝の「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」を思わせる一首であるが、この歌を作ったときは、知的に、なだらかに綴る遊びの心であり、相手の皮肉を逆手に取った当意即妙の面白さである。
あるいは、ふるさとの自然は美しい、という初瀬への懐かしさを秘めた、初瀬の人への挨拶がこめられていよう。

しかし詞書に記されたような場を外して一首と向かいあうとき、故郷の地に立って、移り行く人の心と、変わらず咲きにおう花、すなわち悠久の自然と、それがない人間とを対比する心が生まれ作者の懐旧の情は深い詠嘆をともなって春の日の中にたゆとうてゆくと見られるのである。
これが中世の人々が心に抱いた王朝の美の映像であったのであろう。

初瀬は現在、奈良県桜井市初瀬。長谷寺は、新義真言宗豊山派の総本山、寺号は豊山神楽院、天武天皇の発願によって飛鳥川原寺の僧、道明が朱鳥元年(686)に創建したと伝えられる。
本尊は十一面観音立像。観音利生の同情として信仰され平安時代には、ことに貴族の参詣が盛んで、貫之もその一人としてたびたび京都から泊りがけで参詣したのであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【作者・配列】

作者は貞観十年(868)ごろ〜天慶八年(945)あるいは九年、古今集の中心的撰者で、その仮名序も書いた。
新撰和歌集の選者、土佐日記の作者。官位は従木工権頭(もくごんのかみ)に過ぎなかったが、古今集時代の代表的歌人であり、仮名文字の先駆者であった。
古来人麻呂と評価を競ったほどの、和歌史上最大の歌人の一人である。
三代集(古今・後撰・拾遺)すべて最多入集歌人。
古今集仮名序や『土左日記』など優れた散文作品も残し、日本文学史に占める地位は比類ないものである。

しかし定家は歌論『近代秀歌』で「哥心たくみに、たけをよびがたく、詞つよく、姿おもしろきさまを好て、餘情妖艶の躰をよまず」と賞讃しつつ批判して、同書の秀歌例に貫之の歌を一首しか採らなかった(比して俊成は六首、西行は五首)。
百人一首では35番目に置かれ、古今集時代の最後に近く位置を占める。
百人秀歌では28番目に置かれ、27番文屋康秀「ふくからに秋の草木の…」と対になっている。「しをれる秋の草木」と「昔の香ににほふ花」との対比であろう。

【他の代表歌】

しらつゆも 時雨もいたく もる山は したばのこらず 色づきにけり
 (古今集)
むすぶ手の しづくににごる 山の井の あかでも人に わかれぬるかな
 (〃)
吉野河 いは浪みたかく 行く水の はやくぞ人を 思ひそめてし
 (〃)
桜ちる 木の下風は さむからで 空にしられぬ 雪ぞふりける
 (拾遺集)
あふさかの 関のし水に 影見えて 今やひくらむ もち月のこま
 (〃)
思ひかね いもがりゆけば 冬の夜の 河風さむみ ちどりなくなり
 (〃)


【主な派生歌】

君こひて 世をふる宿の 梅の花 昔の香にぞ 猶匂ひける
 (読人不知「続後撰」)
すむ人も うつればかはる 古郷の 昔ににほふ 窓の梅かな
 (藤原家隆)
花の香も 風こそよもに さそふらめ 心もしらぬ 古里の春
 (藤原定家)
ちりぬれば とふ人もなし 故郷は はなぞむかしの あるじなりける
 (源実朝)
里はあれて 春はいく世か かすむらん 花ぞむかしの しがの古郷
 (藤原行能)
人はいさ 心もしらず とばかりに にほひ忘れぬ 宿の梅がか
 (正徹)
ことの葉の 花ぞ昔の春に猶 にほふはつせの さとの梅が香
 (三条西実隆)
にほひをば 風こそおくれ 人はいさ 心もしらぬ 宿の梅が枝
 (足利義尚)
人はいさ 心もしらず 我はただ いつも今夜の 月をしぞおもふ
 (松永貞徳)



【出典・転載元】
< 三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[山と読書 ]、ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>
<小倉百人一首 注釈>等から。
ー34−

たれをかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに  藤原興風 
<題しらず 古今集・巻十七・雑上>

・・・・・・・・・・・
一体誰を知人にしようか
年老いた高砂の松も
昔からの友ではないことだ
・・・・・・・・・・・

理想である長寿がそのまま老いの嘆きとならねばならない
人生のかなしさよ
心を許しあった友は一人逝き二人逝きして今はもうだれもいない
一体だれを友としたらいいのか
高砂の松は私と同じように年古りているというけれど
松は昔しなじみの友ではないことだ

<語句・文法>

*  たれをかも 知る人にせむ;

「誰」は不定称人代名詞。
「を」は動作の対象を示す格助詞。
「か」は疑問の係助詞。結びは「む」。
「も」はは強意の係助詞。
「か」「も」いずれも所謂係助詞で、それぞれ疑問と詠嘆をあらわす.
「しる」は四段活用動詞「知る」の連体形で、「知る人」は自分を理解してくれる友人
「に」は動作の対象を示す格助詞。
「せ」はサ行変格活用動詞「す(為)」の未然形。
「む」は意志の助動詞「む」の連体形で、「か」の結び。
二句切。

*  高砂の 松も昔の 友ならなくに;

「高砂」は兵庫県高砂市。(山の意とも。)。
「高砂の松」は歌播磨国の歌枕。今の兵庫県高砂市、加古川河口付近。
古今集仮名序に「たかさご、すみの江のまつも、あひおひのやうにおぼえ」とあるように、古来松の名所とされた。
「も」は添加の係助詞。
「昔の友」は昔からの友人。
「なら」は断定の助動詞「なり」の未然形。
「なくに」は一括して打消・感動の終助詞。・・・ナイコトダガナア。
上代の打消助動詞未然形「な」に、体言的ないを添える接尾語「く」「に」は感動の終助詞。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【本歌】よみ人しらず「古今集」
かくしつつ 世をやつくさむ 高砂の をのへにたてる 松ならなくに

【参考歌】紀貫之「貫之集」「拾遺集」
いたづらに 世にふる物と 高砂の 松も我をや 友と見るらん

【他の代表歌】
契りけむ 心ぞつらき たなばたの 年にひとたび 逢ふは逢ふかは  
 (古今集)
きみ恋ふる 涙のとこに みちぬれば みをつくしとぞ 我はなりぬる  
 (古今集)

【主な派生歌】
高砂の をのへの松や 君がへん 千代のともとは ならむとすらん  
 (藤原俊成)
うき身をも 思ひな捨てそ 秋の月 むかしより見し 友ならぬかは  
 (藤原隆房「続後撰」)
高砂の 松も昔に なりぬべし なほ行末は 秋の夜の月
 (寂蓮「新古今」)
いかにせん 鏡のそこに みづはぐむ かげもむかしの 友ならなくに
 (鴨長明)
高砂の 松をともとて 鳴く千鳥 きみがやちよの こゑやそふらん
 (九条良経)
高砂の 松もかひなし 誰をかも あはれ歎きの しる人にせん
 (藤原忠定「続拾遺」)
冬きては 雪の底なる 高砂の 松を友とぞ いとどふりぬる
 (藤原為家「続拾遺」)
友と見し よそのもみぢは 散りはてて ひとりしぐるる 高砂のまつ
 (藤原為家)
みよしのの 吉野の宮は ふりにけり 松も昔の 松やすくなき
 (順徳院)
月だにも 老の涙の へだてずは むかしの秋の 友とみてまし
 (一条実経「続拾遺」)
子の日せし 代代のみゆきの あとふりて 松もむかしの 春や恋しき
 (宗尊親王)
知る人と 松をもいかが たのむべき うきよをいとふ 友ならなくに
 (〃)
高砂の 松を友とも なぐさまで 猶妻ごひに 鹿ぞ鳴くなる
 (尊円親王「新拾遺」)
風かよふ 松もむかしの 友とてや おなじ軒端に にほふたち花
 (飛鳥井雅世)
年こゆる 色やはかへん 高砂の 松もむかしの 沖つしらなみ
 (正徹)
さきやらぬ 花の梢は たかさごの 松を友とや つれなかるらむ 
 (直明王「新続古今」)
したふなよ 松もむかしの とばかりに あだなる花の 春の別れは
 (後柏原天皇)
君が代は 雲井はるかに 高砂の 松もむかしの 友づるのこゑ
 (三条西実隆)
高砂の 松をためしも 雪のけさ いたづらにふる 友とやはみん
 (木下長嘯子)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<記事詳細や背景>

この歌は、おめでたい歌のようにみえるが、実はさびしい歌なのである。
ただ昔から、高砂の松は、住吉の松とともに長寿とされ、めでたいものとして歌にも詠まれ、親しまれてきた。
高砂は今の兵庫県高砂市加古川市の海岸住吉は大阪市住吉付近の海岸である。

古代はどちらも老松が生い茂り、風景美しい名所ということになっていた。
謡曲「高砂」には「高砂の尾上の松も年ふりて、老いの波も寄り来るや、木の下影の落葉かくなるまでいのちながらえて、なほいつまでか生きの松、それも久しき名所かな」老人夫婦、尉と姥があらわれて、相生の松のいわれを物語る、おめでたい謡曲である。

「知る人」は、女ではなく男友達のようである。興風は、肝胆相照らした親友をうしなった寂しさを訴えつつ、そこに高砂の老松を持ってきて、人生の老いの悲しみを毅然と耐える男のイメージを透かせている。それが、この歌に挌調の高さを与えているのであろう。

『古今集』ではこの歌の前に、よみびと知ずとして、

かくしつつ 世おや尽くさむ 高砂の 尾上の上にたてる まつならなくに

高砂の松は老いてもがっしりと枝を張り、風雪に耐えて変わらぬ色を増している。私も老いたが、屈せず雄々しく生をおわろうと思う、高砂の松ではないけれど・・・というような意味であろうか。
ついでに老いににかかわる古来有名な歌を少しばかり抜き出してみよう。

われ見ても 久しくなりぬ 住之江の 岸の姫松 いく世経ぬらむ
世のなかに 古りぬるものは 津の国の 長柄の橋と われとなりけり
今こそあれ われも昔は をとこ山 さかゆく時も あり来しものを

無常感がないのは時代の風潮のせいであるが、その嘆きがドライでシンプルでからっとしている。もう、ダメじゃよ、この年では」といいながら、案外人ごとのようで、自分はさして老いを自覚していない。気は若いようである。
女の老いは、容色が衰えるという嘆きに重ねられるので、
小野小町の「花のいろは 移りにりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに」など複雑な陰影に飾られる。

自我を育てて生きれば、子や孫の肉親の情愛では埋められぬ、自分のキャリアを研いたり、職務に没頭している時はそんなことは意識しない、でもふと感じる時に人生の寂寥感と孤独を知るであろう。さればやがて日本の女たちも、こういう歌を詠むようになるであろうと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

「釈迦と女とこの世の苦」瀬戸内寂聴

釈尊の声が静かに流れた。
「可哀相な女よ、よくお聞き。元気を出すのだ。お前の打ち重なる不幸には
同情するが、人間はもともと、親兄弟や、夫や子供を拠りどころにしては生きていけないのだよ。遠い過去から今に至るまでの長い長い輪廻の中で、人間が愛する彼らを失って嘆き悲しみ、流した涙ははかり知れず、大海の水にもたとえられる」

「バターチャーラーよ。人間が拠りどころとして頼れるものは、法と自分しかないのだ。生まれた者は必ず死ぬ。会った者は必ず別れる。人間は生まれ、老い、病気になり、みんなみんな死んでゆく。おそかれ早かれ、わたしもお前も死んでゆくのだ。落ち着いてまわりを見廻してごらん。愛する者と別れなかった者など、一人だっているだろうか」

【作者】
藤原興風、生没年未詳。この人の詳しい伝記は未詳、日本最古の歌学書『歌経標式』(浜成式ともいわれる)の著者。
貫之と同年代の歌人である。官位は低かったが、当時有数の歌人だったとみえて『古今集』にはたくさんの歌が入っている。 
京家浜成の曾孫。正六位上相模掾道成の子。相模掾・上野権大掾・下総権大丞など地方官を転々としたらしい。最終官位は正六位上(尊卑分脈)。
歌人としては、寛平三年(891)、貞保親王(清和天皇皇子)の后宮(藤原高子)の五十賀の屏風歌を詠進したほか、寛平御時后宮歌合、昌泰元年(898)の亭子院女郎花合、延喜十三年(913)の亭子院歌合・内裏菊合などに出詠して活躍した。
三十六歌仙の一人。家集『興風集』がある。勅撰入集は四十二首。琴の師で、管弦にも秀でたという。

百人一首では34番目、紀友則と貫之の間に挟まれているが、百人秀歌では31番目に置かれ、32番の春道列樹「山川に 風のかけたる しがらみは…」と合せられる。列樹の歌に無常観を見て、興風の老いの述懐と取り合せたものか


<出典・転載>
三木幸信・中川浩文共著書本・
<ブログ[山と読書 ]、ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>等から。
−33−

久方の 光のどけき 春の日に、しずこころなく 花の散るらむ  紀友則 
 
<さくらの花のちるをよめる 古今集・春下・84>

・・・・・・・・・・・・・・
日の光がのどかな春の日に
おちついた心もなく
桜の花が何故に散り急ぐのだろう
・・・・・・・・・・・・・・


<語句・文法>

* 久方の 光のどけき 春の日に;
「ひさかたの」は「光」の枕詞。「久堅の」とも書かれる。天(あま/あめ)・雨・月・都などにかかる枕詞。光の枕詞として用いる例は稀(おそらくこの歌が初例)。「久し」の語感を響かせ、永々と穏やかに続く春の日のイメージを強めるはたらきもしている。
「光」と「のどけき」は句内主語・述語関係。
「のどけき」は形容詞「のどけし」の連体形。
「春の日」は春の日なが。
「に」は時を示す格助詞。

* しずこころなく 花の散るらむ;
「しず心」は落ち着いた心で名詞。
「なく」は形容詞「なし」の連用形。
「しず心なく」は述語「ちるらむ」を修飾。
「の」は主語を示す格助詞。
「ちる」は四段活用動詞終止形。
「らむ」は現在の理由、推量の助動詞「らむ」の連体形。
格助詞「の」には連体形で応じる。「らむ」は、疑問の意を表わす語を伴わなくても、「どうして…なのだろう」の意をあらわす場合がある。
・・・・・・・・・・・・・・・

【他の代表歌】

秋風に はつかりがねぞ きこゆなる たがたまづさを かけてきつらむ   (古今集)
雪ふれば 木ごとに花ぞ さきにける いづれを梅と わきてをらまし    (古今集)
夕されば 佐保の川原の 河霧に 友まどはせる 千鳥なくなり  (拾遺集)


【主な派生歌】

見るほどに 散らば散らなむ 梅の花 しづ心なく 思ひおこせし
 (和泉式部)
夢のうちも うつろふ花に 風ふけば しづ心なき 春のうたたね
 (式子内親王「続古今」)
ひさかたの 光のどかに 桜花 ちらでぞ匂ふ 春の山風
 (藤原家隆「新後撰」)
いかにして しづ心なく 散る花の のどけき春の 色と見ゆらむ
 (藤原定家)
よものうみ 風をさまりて ひさかたの ひかりのどけき 春はきにけり
 (宗尊親王)
さらでだに しづ心なく ちる花を あかずや風の なほさそふらん
 (性助親王「続古今」)
ひとりみて なぐさみぬべき 花になど しづこころなく 人をまつらん
 (北畠親房)
いづる日も 光のどけき 久方の 天の宮人 春をしるらし
 (正徹)
木の間より 花にかすみて 久堅の 光のどけき 鳥の声かな
 (〃)
・・・・・・・・・・・・・・・

<記事詳細や背景>

作者は、桜の花が散るのを見て、なぜ散るのだろうと疑い、そこで「しづ心なく」と推量したのである。正しくは「しづ心なくや」とあるべきだが「や」を省いて調べを流暢にした。
また偶然の結果であろうが、上三句の頭音が「ひ・ひ・は」結句のそれも「は」であることも響きを快くしている。
友則の歌は、当時の評価が高く、入集四十六首であるが、その特色は単純で清明な感じにあって、湿潤でないのが良い。

「音羽山 けさこえくれば ほととぎす 梢はるかに 今ぞ鳴くなる」
「秋ちかう 野はなりにけり 白露の おける草葉も 色変わりゆく」
「したにのみ 恋ふれば苦し 玉の緒の 絶えて乱れむ 人なとがめそ」

この三句とも、詠いかたが写実的で、平明で正直である。

「しづこころなく 花の散るらむ」の「らむ」が若い時はにはよくわからない。
「らむ」は本来、推量の助動詞だから、「静心」なく花が散るのだろう、とくると、ぜひともこれはその上に、「など」(なぜ)という言葉が入らないと理屈にあわない。

この歌は、『古今集』の心ともいうようなところがあり、それだけの『万葉集』派の人々からは、凡庸単純な作として排斥されてきた。

しかし歌というものは不思議なイキモノで心を閉ざした人が読んでも、その中へは、入ってきてくれないが、先入観を持たない自由な心の人が、こだわりなく親しむと、にわかに生き生きと起ち上がってきてくれる。

友則の視線は地を雪のように埋めつくす桜の花から次第にあがって、梢に移る。そのひまも、花は散り、友則の頭上にも肩にもふりかかる「花よ。なぜそのように、しづこころなく・・・」と、ふと友則の唇に「しづこころ」という言葉が浮かびあがってきたのではあるまいか。この歌の核心は「しづこころ」という言葉だと思う。

春の日の、もの悲しきアンニュイ。それを「しづこころ」という言葉で彼は凝縮させた。
そうなると、「など」は不要である。「らむ」は推量というよりも、むしろ吐息、詠嘆であろう。
「花の散るなり」としたら平板な叙述になって作者の美しき感傷は表現されない。
ここのところはやはり、「らむ」とその詠嘆を美しくぼかして暗示している。

その上にこの歌の秘密は、「ひさかたの」の「ひ」と「ひかりのどけき」の「ひ」と「はるのひに」の「は」とハ行音が重なって耳に快くひびくところである。本当に歌は理屈ではない、とつくづく思う。友則はベテラン歌人であるから「ハ」音を活用したのは彼の技巧であって、偶然の産物ではないであろう。

作者の紀友則は紀貫之の従兄弟。『古今集』の撰者の一人であったが、その完成を見ずに没したらしい。歌人としては有名だったが、下級役人であったからその生涯の詳しいことは不明で、貫之と比べると格段に資料が少ない。 





【作者】

紀友則『古今集』歌人・宮内少輔紀有則の子。貫之の従兄弟。
大内記。寛平御時后宮歌合、是貞親王家歌合、寛平菊合わせに顔を出している。
『古今集』代表歌人、兼撰者の一人。
勅撰集入集歌四十六首。
四十代半ばまで無官のまま過ごし、寛平九年(897)、ようやく土佐掾の官職を得る。翌年、少内記となり、延喜四年(904)には大内記に任官。
歌人としては、寛平三年(891)秋以前の内裏菊合・是貞親王家歌合、同五年以前の寛平御時后宮歌合などに出詠して活躍した。延喜五年(905)二月二十一日、藤原定国の四十賀の屏風歌を詠んだのが、年月日の明らかな最終事蹟。
おそらくこの年、古今集撰者に任命されたが、まもなく病を得て死去したらしい。享年は五十余歳か。紀貫之・壬生忠岑がその死を悼んだ哀傷歌が古今集に見える。
古今集に収録された四十八首の数は貫之・躬恒に次ぎ集中第三位にあたる。
家集『友則集』がある。三十六歌仙の一人。


三木幸信・中川浩文共著書本・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>等からの引用・転載あり。


** 《やまとねこ》さんから転載。
この「ひさかたの」は枕詞ですが、高級問題です。
「ひさかたの」は「光」に懸かるのではないのです。
「ひさかたの」は「春」にかかるのです。
そして、「春」は、弥生語では「梅雨」なのです。
「はる」の「る」は「継続」なのです。
「は」は「空」です。
「はる」とは「ずっと空が仕事をしている」という意味です。
弥生人は「空」と「雲」は「雨を降らす」のが仕事だと思ったのです。
「ひさかた」とは「瓢形」で「ひょうたんの形」と言う意味です。
さて、ひょうたんの形で私はすぐ、「入道雲だ」と分かったのですが、歴史家にはそれが難しいようです。
出雲の枕詞に「八雲立つ」があるのですが、「出雲」も「八雲」も「雨雲」「入道雲」の意味ではないですか。
これは「神様が雨を降らせるために雲を湧かせてくれた」という意味で、
「雨乞いの結果」という意味なのです。
「ひさかたの」とは「あめ」にかかる枕詞で、「雨」「天」にかかり、「春」のもかかるのです。
では最高に難しい問題です。
下記の和歌の「ひさかたの」は何に懸かるでしょうか。
「ひさかたの 月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ」
答え
「桂」です。
弥生人は雨乞い儀式に「桂」を使ったのです。
「萩」(はぎ)「荻」(おぎ)も雨乞いに使いました。
「柳」(やなぎ)と「杉」(すぎ)は晴れ乞いに使ったのです。
さて、またまた私はおかしな推測をしてしまいました。
「葛城」(かつらぎ)の意味です。
「葛城氏」とは「雨乞いの名人」の意味ではないでしょうか。
日本の神様は、「晴れ乞い」か「雨乞い」のどちらかの名人なのです。
三番目の名人が紀元前200年に現れました。
その方を「徐福」と言うのですが、
徐福は何の名人だったのでしょうか。
答え「そろ」と言います。
「そろばん」の「そろ」です。
「そろ」とは、「中国から文明を輸入し日本用に改造して使いやすくする」ことです。
「そ」は「三番目」で、
「ろ」は「祝詞」なのです。

「ひさかた」とは、「ひさごの形」という意味です。
「ひさご」とは「ひょうたん」のことです。
「ひょうたんの形」とは、「入道雲」です。
日照りがずっと続いて雨乞いをしたら、やっと入道雲が湧いた。これで大雨が降る」という意味です。
ここから、「ひさかた」が「ずっと続いていた」という意味になります。
「久しぶり」とは、「日照りの後の雨」の意味です。
枕詞は「隠れた意味がある。重要だよ」という意味なのです。
「ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ」とは、
菅原道真を左遷した醍醐天皇を、こっそり批判したのです。
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
           平兼盛(40番) 『拾遺集』恋一・622


心のうちに忍びつづけていたけれど、とうとう顔色に出てしまったことよ。
私の恋は、「何か物思いでもしているのか」と人に問はれるほどまでに。


拾遺集・巻十一・恋一(622)に「天暦の御時の歌合、平兼盛」とあるのが出典。
この天暦は、年号ではなく、村上天皇の治めている御代の意で、「天徳四年三月三十日内裏歌合」のとき詠まれた歌。

この歌はその歌合せの二十番右歌で、次の四十一の歌「恋すてふ・・・」とつがえられて優劣を争ったもので、勝負の判定に関しての逸話が有名である。

つまり、両歌共にすぐれ判者藤原実頼が勝負の判定を付けられず、源高明に判定を下させようとしたが、高明も決められずにいたところ天皇が低く「忍のぶれど・・・」と口ずさんでいたので、この歌に天意ありと判じて、勝ちとしたという。これは実頼が記している事だから、確かであろう。

この歌は、技巧的には二句切れ、倒置法の使用があり、
直せば「我が恋は忍のぶれど物や思ふと人の問ふまで色に出でにけり」となる。ひそかにひそかに忍びつづけていたのだが、それもついに様子にまであらわれてしまった、その高まった感情の積み重なりが詠嘆の「けり」に集約されていよう。

それは人の目にとまるほどのものであったのだ、それが明らかになった今、自己のみを見つづけてきた日々への思いと、そうした自分を見つめる他人の目の存在への意識が、作者を現実へ引き戻し恥らわせているのである。

上の句の率直な自己表現に対し、下の句は会話体を取り入れ、客観化している。上下対照の表現に妙があるといえよう。

忍んでも色にでる恋、人が問うほどに表れる恋は、古今集・巻十一・恋一(503)詠み人しらず
「思ふには忍ぶる事ぞまけにける色には出でじと思ひしものを」や『奥義抄』に見える古歌
「恋しきをさらぬ顔にて忍のぶればものや思ふと人ぞ問ふ」などがありこれ等を発想の土台としたものと思われる。

天徳四年(960)内裏歌合は、村上朝宮廷歌壇の結集ともいうべき大きな催しであった。『袋草紙』によれば、兼盛は勝ちと聞いて拝舞しつつ退出、他の歌の勝負には執しなかったという。このようなさまざまな逸話を生む歌が作られてことでも、いかに歌人たちが、一首一首に精神をかけていたかが窺い知れよう。

【作者】
生年未詳〜正暦元年(990)光孝天皇の曾孫篤行王の子。始めは兼盛王と名のっていたが、天暦四年(950)に臣籍に降って、平氏となった。
従五位上、駿河守と、地位はそれほど高くはないが平安中期の有力な歌人で、三十六歌仙の一人。家集に『兼盛集』がある。

<出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな

            右近(38番) 『拾遺集』恋四・870


【歌の意味】
あなたに忘れられる我が身のつらさはなんとも思いません。ただ、愛を神に誓ったあなたの命が、罰のためにちぢまるのではないからと、惜しまれるのです。

拾遺集・巻十四・恋四(870)に「題知らず、右近」とあるのが出典。

『古今六帖』(こきんろくじょう)にも出ている。またこの歌は『大和物語』に『同じ女(右近)、をとこの忘れじとよろずのことをかけて誓ひけれど、わすれにけるのちにいひやりける』として載っている。

大和物語の記載順に従えば、右近の恋の相手は権中納言敦忠かと思はれる。

この歌の解釈は、大きく二つに分かれている。一つは二句切れと見る説、もう一つは三句切れと見る説である。

二句切れと見る場合、「思はず」で切れるのであるが、このことばは、女自身が自らの運命をもう嘆くまい。と自らにいい聞かせる悲しい決意の心との心と見られよう。男との愛の日が去ったことを自覚したとき、男の自分に向けられていた数々の愛の証しが、作者の棟に蘇える。

あのように熱っぽくくり返した誓いは、神に向けられたものではなかったのか、誓いを破った者への神の制裁はくだされずにはないだろう。だが、男の身をあんぜずにはいられない、というものである。

三句切れと見る場合、私は忘れられる身であったのに、そんなことを考えてもみず、愛を誓いかわした、我が身の愚かさを省みつつ、どこか相手の身を惜しむ気持ちも捨てきれない。ということになろうか。

二句切れにしても、三句切れにとっても、下の句は、やがて心変わりの罪の報いを受けるであろう男の命を思うことに変わりはない。しかし二句切れに従う方が、やはり素直な感じがしょう。

男に対する皮肉、あてつけととられないことはないし、元来そういう歌であったかもしれない。
しかし一首を独立したものとして味わうとき、断ちがたい未練を我から切って、自立の姿勢を保とうとしながらも、執着の心も捨てきれない・・・・・その間で必死に格闘する女の心を良く表した歌として読みとれる。

恨むに似て恨みえず、男への限りない愛憎の交錯が、複雑な女の感情を映し出した、王朝時代における典型的な女の歌と言えよう。

【作者】
生没年未詳。十世紀中頃の人。右近衛少将藤原季縄(鷹匠、歌人)のむすめ(妹と言う説もある)
父の官名から右近と呼ばれた。醍醐天皇の后穏子の女房。応和二年(962)康保三年(966)等の歌合せに出詠。敦忠、師輔、源順(みなもとのしたごう)らと恋愛関係にあった。


<出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。

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