ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

百人一首31〜40

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人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香(か)ににほひける
              紀貫之(35番) 『古今集』春・42


紀貫之(きのつらゆき)35
【歌の意味】
人の心は変わりやすいものだから、あなたのお気持ちは、さあどうかわからない。
けれど昔なじみのこの里は、梅の花だけは昔のままの懐かしい香りで咲きにおっていることよ。
古今集・巻一・春上(42)に「初瀬に詣ずるごとに宿りける人の家にひさしくやどらで、ほどへて後に至れりければ、かの家の主、かくさだかになむやどりはある、といひ出して侍りければ、そこにたてりける梅の花を折りてよめる、貫之」とあるのが出典。
「貫之集」にも載り、更に宿の主人の返歌として
「花だにも同じ心に咲くものを植ゑけむ人の心しらなむ」が出ている。
作者が久しぶりに大和(奈良県)の初瀬にある長谷寺(十一面観音を本尊とし、平安時代に人々の信仰を集めた)へ参った折、かってのなじみの家を訪れると、家の主人は作者の久々の来訪を、
「このようにちゃんと宿はありますのに」と軽い皮肉をこめて迎えた。
それにひるむことなく、即座に梅の一枝を折り取って、この歌で逆襲したわけである。宿も人も、あるのは形、はたしてその心は・・・・・と、なれ合った親しさをもつ者同士のみなし得る、機知に富んだ応酬である。
唐の詩人劉廷芝の「年年歳歳花相似、歳歳年年人不、同」を思わせる一首であるが、この歌を作ったときは、知的に、なだらかに綴る遊びの心であり、相手の皮肉を逆手に取った当意即妙の面白さである。あるいは、ふるさとの自然は美しい、という初瀬への懐かしさを秘めた、初瀬の人への挨拶がこめられていよう。
しかし詞書に記されたような場を外して一首と向かいあうとき、故郷の地に立って、移り行く人の心と、変わらず咲きにおう花、すなわち悠久の自然とゆうげんのな人間とを対比する心が生まれ作者の懐旧の情は深い詠嘆をともなって春の日の中にたゆとうてゆく・・・・・と見られるのである。
これが中世の人々が心に抱いた王朝の美の映像であったのであろう。

【作者】
貞観十年(868)ごろ〜天慶八年(945)あるいは九年、古今集の中心的撰者で、その仮名序も書いた。
新撰和歌集の選者、土佐日記の作者。官位は従木工権頭(もくごんのかみ)に過ぎなかったが、
古今集時代の代表的歌人であり、仮名文字の先駆者であった。

<出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。

−33−


久方の 光のどけき 春の日に、しずこころなく 花の散るらむ  紀友則
 
<さくらの花のちるをよめる 古今集・春下・84>

・・・・・・・・・・・・・・
日の光がのどかな春の日に
おちついた心もなく
桜の花が何故に散り急ぐのだろう
・・・・・・・・・・・・・・


<語句・文法>

* 久方の 光のどけき 春の日に;
「ひさかたの」は「光」の枕詞。「久堅の」とも書かれる。天(あま/あめ)・雨・月・都などにかかる枕詞。光の枕詞として用いる例は稀(おそらくこの歌が初例)。「久し」の語感を響かせ、永々と穏やかに続く春の日のイメージを強めるはたらきもしている。
「光」と「のどけき」は句内主語・述語関係。
「のどけき」は形容詞「のどけし」の連体形。
「春の日」は春の日なが。
「に」は時を示す格助詞。

* しずこころなく 花の散るらむ;
「しず心」は落ち着いた心で名詞。
「なく」は形容詞「なし」の連用形。
「しず心なく」は述語「ちるらむ」を修飾。
「の」は主語を示す格助詞。
「ちる」は四段活用動詞終止形。
「らむ」は現在の理由、推量の助動詞「らむ」の連体形。
格助詞「の」には連体形で応じる。「らむ」は、疑問の意を表わす語を伴わなくても、「どうして…なのだろう」の意をあらわす場合がある。
・・・・・・・・・・・・・・・

【他の代表歌】

秋風に はつかりがねぞ きこゆなる たがたまづさを かけてきつらむ  (古今集)
雪ふれば 木ごとに花ぞ さきにける いづれを梅と わきてをらまし  (古今集)
夕されば 佐保の川原の 河霧に 友まどはせる 千鳥なくなり  (拾遺集)


【主な派生歌】

見るほどに 散らば散らなむ 梅の花 しづ心なく 思ひおこせし
 (和泉式部)
夢のうちも うつろふ花に 風ふけば しづ心なき 春のうたたね
 (式子内親王「続古今」)
ひさかたの 光のどかに 桜花 ちらでぞ匂ふ 春の山風
 (藤原家隆「新後撰」)
いかにして しづ心なく 散る花の のどけき春の 色と見ゆらむ
 (藤原定家)
よものうみ 風をさまりて ひさかたの ひかりのどけき 春はきにけり
 (宗尊親王)
さらでだに しづ心なく ちる花を あかずや風の なほさそふらん
 (性助親王「続古今」)
ひとりみて なぐさみぬべき 花になど しづこころなく 人をまつらん
 (北畠親房)
いづる日も 光のどけき 久方の 天の宮人 春をしるらし
 (正徹)
木の間より 花にかすみて 久堅の 光のどけき 鳥の声かな
 (〃)
・・・・・・・・・・・・・・・

<記事詳細や背景>

作者は、桜の花が散るのを見て、なぜ散るのだろうと疑い、そこで「しづ心なく」と推量したのである。正しくは「しづ心なくや」とあるべきだが「や」を省いて調べを流暢にした。
また偶然の結果であろうが、上三句の頭音が「ひ・ひ・は」結句のそれも「は」であることも響きを快くしている。
友則の歌は、当時の評価が高く、入集四十六首であるが、その特色は単純で清明な感じにあって、湿潤でないのが良い。

「音羽山 けさこえくれば ほととぎす 梢はるかに 今ぞ鳴くなる」
「秋ちかう 野はなりにけり 白露の おける草葉も 色変わりゆく」
「したにのみ 恋ふれば苦し 玉の緒の 絶えて乱れむ 人なとがめそ」

この三句とも、詠いかたが写実的で、平明で正直である。

「しづこころなく 花の散るらむ」の「らむ」が若い時はにはよくわからない。
「らむ」は本来、推量の助動詞だから、「静心」なく花が散るのだろう、とくると、ぜひともこれはその上に、「など」(なぜ)という言葉が入らないと理屈にあわない。

この歌は、『古今集』の心ともいうようなところがあり、それだけの『万葉集』派の人々からは、凡庸単純な作として排斥されてきた。

しかし歌というものは不思議なイキモノで心を閉ざした人が読んでも、その中へは、入ってきてくれないが、先入観を持たない自由な心の人が、こだわりなく親しむと、にわかに生き生きと起ち上がってきてくれる。

友則の視線は地を雪のように埋めつくす桜の花から次第にあがって、梢に移る。そのひまも、花は散り、友則の頭上にも肩にもふりかかる「花よ。なぜそのように、しづこころなく・・・」と、ふと友則の唇に「しづこころ」という言葉が浮かびあがってきたのではあるまいか。この歌の核心は「しづこころ」という言葉だと思う。

春の日の、もの悲しきアンニュイ。それを「しづこころ」という言葉で彼は凝縮させた。
そうなると、「など」は不要である。「らむ」は推量というよりも、むしろ吐息、詠嘆であろう。
「花の散るなり」としたら平板な叙述になって作者の美しき感傷は表現されない。
ここのところはやはり、「らむ」とその詠嘆を美しくぼかして暗示している。

その上にこの歌の秘密は、「ひさかたの」の「ひ」と「ひかりのどけき」の「ひ」と「はるのひに」の「は」とハ行音が重なって耳に快くひびくところである。本当に歌は理屈ではない、とつくづく思う。友則はベテラン歌人であるから「ハ」音を活用したのは彼の技巧であって、偶然の産物ではないであろう。

作者の紀友則は紀貫之の従兄弟。『古今集』の撰者の一人であったが、その完成を見ずに没したらしい。歌人としては有名だったが、下級役人であったからその生涯の詳しいことは不明で、貫之と比べると格段に資料が少ない。
<引用転載終了>ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に]より。 


【作者】

紀友則『古今集』歌人・宮内少輔紀有則の子。貫之の従兄弟。
大内記。寛平御時后宮歌合、是貞親王家歌合、寛平菊合わせに顔を出している。
『古今集』代表歌人、兼撰者の一人。
勅撰集入集歌四十六首。
四十代半ばまで無官のまま過ごし、寛平九年(897)、ようやく土佐掾の官職を得る。翌年、少内記となり、延喜四年(904)には大内記に任官。
歌人としては、寛平三年(891)秋以前の内裏菊合・是貞親王家歌合、同五年以前の寛平御時后宮歌合などに出詠して活躍した。延喜五年(905)二月二十一日、藤原定国の四十賀の屏風歌を詠んだのが、年月日の明らかな最終事蹟。
おそらくこの年、古今集撰者に任命されたが、まもなく病を得て死去したらしい。享年は五十余歳か。紀貫之・壬生忠岑がその死を悼んだ哀傷歌が古今集に見える。
古今集に収録された四十八首の数は貫之・躬恒に次ぎ集中第三位にあたる。
家集『友則集』がある。三十六歌仙の一人。


三木幸信・中川浩文共著書本・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>等よりの転載あり。

ー32−


山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり 
春道列樹 ( はるみちのつらき )

<志賀の山越えにてよめる 『古今集』・巻五・秋下・303>
比叡の南山麓を縫う志賀越えの山道での、実景と観念を詠う。

・・・・・・・・・・・
山あいを流れる川に
風が架け渡したしがらみは
流れることが出来ないで
散りたまったもみじ葉であったなあ
・・・・・・・・・・・

山道をゆけば川の急流にひとところ、秋風がかけた、しがらみができている。風が作ったしがらみってなんだかわかるかい、 もみじなんだよ深紅のしがらみなんだ、もみじはしきりに落ちてたまり、水は流れることもできず、秋風の風雅ないたずらだよ。

<語句・文法>

* 山川に 風のかけたる しがらみは;
「山川」名詞。
「に」は場所を示す格助詞。
「の」は主語を示す格助詞。
「かけ」は下二段活用動詞「かく」の連用形。
「たる」は存続の助動詞「たり」の連体形。
第二句は擬人表現。
「「しがらみ」(柵)は、川の水流をせき止めたり、護岸杭に竹や柴をからませたもの。
「は」は係り助詞。
「しがらみ」は歌の主語。(述語は「もみぢなりけり」)
* 流れもあへぬ 紅葉なりけり;
「ながれ」は本来下二段活用動詞「流る」の連用形だが、
「も」を接して名詞となる。
「も」は強意の係助詞。
「あへ」は下二段活用動詞「敢ふ」の未然形だが、そうすることを十分成し遂げる意。
「ぬ」は打消しの助動詞「ず」の連体形。
「なり」は断定の助動詞「なり」の連用形。
「けり」は詠嘆の助動詞終止形。
・・・・・・・・・・・・・・・・

<記事・背景>

志賀の山越え、というのは、京都市左京区北白川から、如意が嶽と比叡山の間を通って、近江の志賀へ抜ける山道をいう。志賀には滋賀寺もあったのでその参詣人をふくめ、たくさんの人が往来したらしい。
山道で見た実景であろうか、紅葉の吹きこむ清流、晩秋の冷たい風の雰囲気が出ていていい。
「風のかけたる」と風を擬人化して、かるく粘弄するところが『古今集』調。
しがらみというのは、田に水の流れを引くときとか、土木工事のとき、水の流れを堰きとめる柵である。杭を打ってそれに横ざまに木や竹を打ちつけたもの。そこに紅葉が流れせき止められているのである。

しがらみといえば古来から有名な歌がある。菅原道真が政争に破れて九州へ流されてゆくとき同志であり、庇護者である宇多法王に訴えた歌である。

ながれゆく われは水屑と なりはてぬ 君しがらみと なりてとどめよ
 菅原道真

しかしこのとき、宇多法王は無力で道真のしがらみとなって、彼を救ってやることはできなかった。

「志賀の山越え」というのは、『古今集』の詞書にもちょいちょい出てくる。そのころの歌枕であったのかも知れない。
紀貫之は春に、この志賀の山越えの道を行き、女たちがたくさん連れ立ってくるのに会って、

あずさ弓 春の山辺を 越えくれば 道もさりあえず 花ぞ散りける

という歌をよんで女たちに捧げた。
春の山路を越えてくると、満開、花だらけ、道をよけることもできぬほど、花が散りますなあということか。
花というのはもちろん女たちをさしている。女たちは大喜びしたであろう。
道は幅が狭く、女たちを通して男たちは道端へよける。「道もさりあへず 花ぞ散りける」というのは、思いもかけぬ山中、女たちと行き交うた、男の心のどよめきを表現して美しい。


【他の代表歌】

昨日といひ 今日とくらして あすか川 流れてはやき 月日なりけり

昨日はこうだった、今日はこれをしないといけない、明日には(飛鳥川にかけている)この予定が,あるといいながら、あっという間に月日がたってしまった、・・・・永遠に人はこの感懐をくりかえす。

【主な派生歌】
紅葉ばの 流れもやらぬ 大井河 かは瀬は波の 音にこそ聞け
 (源資綱「新勅撰」)
散りかかる 紅葉流れぬ 大井川 いづれ井ぜきの 水のしがらみ
 (源経信「新古今」)
桜木の 葉守の神はしらねども 風のかけたる 花のしらゆふ
 (藤原顕輔)
龍田川 木の葉の後の しがらみも 風のかけたる 氷なりけり
 (藤原家隆「続後拾遺」)
山川に 風の懸けたる しがらみの 色にいでても ぬるる袖かな
 (藤原家隆)
木の葉もて 風のかけたる しがらみに さてもよどまぬ 秋の色かな
 (藤原定家)
散ればかつ 浪のかけたる しがらみや 井手こす風の 款冬の花
 (藤原為家「続拾遺」)
岩つたふ 山のさくらの しき波に 風のかけたる 布引の滝 
 (藤原基家)
山川に 春ゆく水は よどめども 風にとまらぬ 花のしがらみ
 (源通光「続拾遺」)
谷川に 岸の木のはを 吹きためて 風のかけたる 瀬瀬の浮橋
 (後崇光院)
天の原 春立つ雲の 浪こえて 風のかけたる しがらみもなし
 (正徹)
さそはれて いとど思ひの 露ぞもる 風のかけたる 袖のしがらみ
 (〃)
風さむき を花が末の 浪の間に ながれもあへぬ 秋の日のかげ
 (一色直朝)
こほりつつ 流れもあへぬ 山川に つもればかかる 雪のしがらみ
 (望月長孝)
さそひきて 紅葉をしけば 是も又 風のかけたる 山河の橋
 (後西院)



【作者】
春道列樹(?〜920?)といわれるが正確な没年は未詳。春道新名の子。文章生、官吏登用の国家試験にパスし、叙位任官されて役人になって壱岐守に任じられたが、着任する前に死んだといわれる。
春道列樹のくわしい生涯は今のところ不明である。
父は主税頭(今でいうと財務省局長クラスか)新名という人であったという。列樹のほうは文章生あがりというから、学問はできたのであろう。
官吏登用の国家試験にパスして、叙位任官されて役人になっている。
延喜二十年というから醍醐天皇の御代、壱岐守に任じられたが、着任する前に死んだといわれる。没年未詳。
この春道列樹、歌は五首しか伝わっていない。『古今集』に三首『後撰集』に二首。



三木幸信・中川浩文共著本・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>等より転載あり。
坂上是則(31番) 『古今集』冬・332
<大和の国にまねかれる時に雪の降りけるを見て詠める 『古今集』・巻六・冬>

朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ほのぼのと夜が明けるころ
明け方の月の光かと思うほどに
吉野の里に降り積もった白雪であることよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<語句・文法>

* 朝ぼらけ; 
夜がほのぼのと明けるころ。夜明け。
* 有明の月と みるまでに;
「ありあけのつき」
夜明けにまだ空に残る月。月の出のおそい廿日前後の月。
「と」は動作の内容を示す格助詞。
「見る」は連体形で、理解する・思うの意。
「まで」は程度を表す副助詞。 
「見るまでに」は「ふれる」を修飾。
七五調。

* 吉野の里に ふれる白雪;
「吉野」は奈良県吉野郡。
「の」は連体修飾語を示す格助詞。
「里」は人里。
「に」は場所を示す格助詞。
「ふれ」は四段活用動詞「ふる」の已然形とも命令形とも。
「る」は存続の助動詞「り」の連体形。
「白雪」は体言止めで「白雪よ」の意で、余情を残す感動表現。
 成分上は独立語。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【主な派生歌】

夕月夜 よしのの里に ふる雪の つもりてのこる 有明のかげ 
 (藤原家隆)
み吉野の み雪ふりしく 里からは 時しもわかぬ 有明の空
 (藤原定家)
み空ゆく 月もまぢかし あしがきの よし野の里の 雪のあさけに
 (〃)
よしの山 くもらぬ雪と みるまでに 有明の空に 花ぞちりける
 (後鳥羽院「続千載」)
さらでだに それかとまがふ 山の端の 有明の月に ふれる白雪 
 (藤原為家「続古今」)
これも又 有明のかげと みゆるかな よしのの山の 花のしら雪
 (後嵯峨院「新拾遺」)
冬ごもる 芳野の岳に 降る雪を たれ在明の 月とだにみん
 (覚助法親王「新千載」)
影うすき 有明の月の 残るかと おもへば庭に ふれるしら雪
 (頓阿)
空にのみ 在明の月と 見し程に おぼえずはらふ 袖の露かな
 (飛鳥井雅世)
・・・・・・・・・・・・・・・
<展開・背景>

坂上是則の歌の少し前に『古今集』は壬生忠岑の歌を載せている。

み吉野の 山の白雪 ふみ分けて 入りにし人の おとずれもせぬ

この歌は静御前によって昔からよく知られている。
文治二年(1186)四月八日鶴岡八幡宮の神前で、頼朝や政子をはじめ、鎌倉幕府のそうそうたる侍たちがみな、静御前に注目している。都で一番、日本で一番というすぐれた白拍子の芸を見ようというので、東国人は期待と昂奮で固唾を呑んでいた。静御前が舞う。
周知のように、静御前は義経の愛人で、義経の都落ちに従って吉野山にまで同行したが、そこで別れ、静かは美しき囚われ人として鎌倉へ護送されたわけである。八幡大菩薩に奉納する舞であれば、関東鎮護、鎌倉幕府の千秋万歳を祝うべきことであった。しかしこのとき静かはわるびれず、堂々とわが思いをを歌い上げる。

 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

 しずやしず しずのをだまき 繰りかえへし 昔を今に なすよしもがな

鎌倉幕府の侍たちが血まなこで追討している最中の愛人を、静かは恋しがって歌い上げたのである。このとき静かは二十歳くらい。若さと愛は大変な勇気を与えるものである。
果たして頼朝は怒り狂ったが、妻の政子のとりなしで、機嫌を直して、静かに褒美を与えたという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<転載記事>
[月のうた ]より。

百人一首には、四首の『有明の月』の歌があります。
以前紹介した、壬生忠岑「有明の…」が一つ。これが二首めの紹介です。

 《有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
壬生忠岑(古今集・恋三・六二五)* 百人一首 三十番
 有明の月が、まるで貴女のようにつれなく見えたあの別れから、暁の時間ほどつらいものはありませんよ。(私は今でも月を見ては貴女を想い、つらい気持ちを引きずっています。)》

この歌は、実際に有明の月が詠まれている訳ではありません。
「雪明かりがあまりに明るいので有明の月が出ているかのように見えた」と、比喩の対象として詠み込まれています。
『有明の月』と言えば、男女の別れの意味を含んでおり、冷たい月です。
その冷たい有明の月と雪明かりの関連は、見逃せません。
凍えた風に身をさらしながら、空に姿の無い月を想ったのかもしれません。

また、是則は、初めて征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂の子孫でもあります。
蹴鞠の名手でもあったようです。(遊び上手の人だったのでしょうか。)

かるた取りの時、この札は少々難です。
「朝ぼらけ」で始まる歌は、百人一首中にもう一首あるのです。
このように、六字めまで読まないと取れない札のことを「六字決まり」の札と言います。
「朝ぼらけ」、「君がため」、「わたの原」が各二枚ずつあります。
お手つきしやすい札です。

【作者】
「坂上系図」(続群書類従)によれば征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫で、従四位上右馬頭好蔭の子。後撰集の撰者望城の父。
延喜八年(908)、大和権少掾。のち大和権掾・少監物・中監物・少内記・大内記をへて、延長二年(924)正月、従五位下に叙せられ加賀介に任ぜられた。
寛平五年(893)頃の后宮歌合をはじめ、延喜七年(907)の大井川行幸、同十三年の亭子院歌合など晴の舞台で活躍した。蹴鞠の名手でもあったという。三十六歌仙の一人。定家の百人一首にも歌を採られている。家集『是則集』がある。古今集初出。勅撰入集四十三首。


<記事出典・転載元>
三木幸信・中川浩文共著・[千人万首]・[北極星は北の空から〜ブログの中に ]・等より。

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