ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

百人一首41〜50

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あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたずらに なりぬべきかな 
謙徳公 ( けんとくこう )
<物いひ侍りける女ののちにつれなく侍りて、さらにあはず侍りければ 『拾遺集』・巻十五・恋五>
*  男女の情を交わしていた女が、冷たくなり、全く逢わなくなったので・・・。

【歌意】
・・・・・・・・・・・
わたしのことを
しみじみと思ってくれる人は
もういないのだよ
捨てられてむなしくこがれ死ぬ
片おもいのまま消えてゆくのだろうか
・・・・・・・・・・・

【語句・文法】

*  あはれとも いふべき人は 思ほえで;

「あはれ」は ああ気の毒だ、可哀想だ等、哀憐の意の感動詞。
「と」は引用を示す格助詞。
「も」は添加の係助詞。
「いふ」は動詞終止形。
「べき」は当然の意の助動詞「べし」の連体形。
「は」は係助詞。
「思ほえ」は下二段活用動詞「思ほゆ」の未然形で、自然と思い浮かぶ意。
「で」は打消の接続助詞。

*  身のいたずらに なりぬべきかな;

「身」はわが身。
「の」は主語を示す格助詞。
「いたづらに」は形容動詞「いたづらなり」の連用形。むなしく無用である意で、「いたづらになる」で死ぬ、の意。
「なり」は「ぬ」に接して、確認の助動詞終止形。キッと・・なる。
「べき」は推量の助動詞「べし」の連体形。
「かな」は詠嘆の終助詞。


【作者や背景】

謙徳公、藤原伊ただ(これただ)(924〜972)貞信公の孫、右大臣藤原師輔の子。
摂政・太政大臣・正一位、謙徳公はおくり名。
和歌所別当として『後撰集』の編纂を主宰。
歌人としても優れ歌集に『一条摂政御集』があり、勅撰集入集歌三十八首ある。

本歌は、
愛し合っていた女が、心がわりして冷たくなり、しまいには会ってもくれなくなった。
これはその男のハートブレイクの歌である。
国文を詠みなれている人はいいが、あまり古文に縁のない現代の人が読むとなんとも分かりにくい歌で、馴染みにくいものであろう。
せめて、かわいそうだという憐憫の情だけでもかけてほしいと思うけれども、それもかなわず、自分一人恋焦がれてむなしく死んでしまうだろう、と悲観し失恋のいたでに身も心もよわりはてた男のふくざつに、揺れうごく心のありようを的確にとらえている。
『源氏物語』で光源氏の正室女三の宮に横恋慕する、柏木が彼女に「あはれ」と言ってくれと共感を求めつつ我が身を滅ぼしてしまう、この歌とかよい合うところがある。
しかし当時の女性からみれば、末は摂政にまで昇った、藤原伊ただ(これただ)に、こんな言葉を吐かせる女性とはどんなに素晴らしい女人であったことだろう。「身のいたずらになりぬべきかな」などと、ストレートな愛恋のの言葉を一生のうちに一度でも言われてみたい、言って欲しいと思わせる言葉ではないだろうか。
「身のいたずらに」の「いたずら」は悪ふざけではなく、期待しただけのことはないという状態。むだなこと。「なりぬべきかな」は、なりそうです、なってしまいそうです、これは、運命的なものを認めている口ぶりである。

女に捨てられて、会ってももらえなくなって、優しい言葉をかけてもらえなくなった、この身には、恋煩いに死んでしまいそうだよと、しょげ返って女の同情を引くという、これはたいそう女々しい、やさ男の歌である。
それもそのはず人恋そめし若き青春の頃の歌である。

王朝の恋歌は大体に於いて、嫋嫋しい女々しい歌が多いが、これはその中でも、殊にきわだって、本音のままに弱みをさらけ出している。
男のプライドも面目もかなぐり捨てた純情一途の恋歌である。
それはのちに威勢一代に振るい「世の中は我が御心にかなはぬ事なく」といはれた、一条摂政藤原伊ただ(これただ)の若い頃の姿であった。
謙徳公というのは死後のおくり名である。

伊ただ(これただ)は、短命だったが幸運の人であった。
大臣の師輔を父に持ち、大貴族の家の御曹司として順調に出世し摂政・太政大臣・正一位まで昇る。
また「をりをりの御和歌などめでたく侍れな」と『大鏡』にあるように、歌人としても有名で、村上天皇の天暦五年(951)「和歌所」の別当(長官)となった。
別当として「梨壷の五人」の事業「万葉集」の訓点『後撰集』の撰進を監督する。
父や一門の長老亡きあと、伊ただは、遂に大臣・摂政となる。
帝(円融)の伯父、東宮(花山)の祖父で天下の後見役である。
摂政となって三年、これからというとき、天禄三年(972)四十九歳の若さで亡くなっている。

当時でもこれは若死にで、「御年五十にだに足らで、失せさせ給へる可惜しさ」を、「世の人惜しみ奉りしか」と『大鏡』にはある。
伊ただは、若いときから美男で鳴らした男で、学才も衆に優れていた。何もかもあまりに多くの幸運を与えられたので、寿命だけ不足したのであろうと、当時の世間の人にいわれている。

豪宕な性格で、派手好きだった。贅沢で華美なものが大好きで、それも成金趣味ではなく、彼一流の美意識による嗜好を、主張したらしい。
伊ただの父・師輔も、位階・人臣をきわめた人であったが、『九条殿遺戒』を子孫に残している。これは王朝の貴族として公私にわたる心得を述べたものである。
その内容は、親に孝を尽くし、兄弟仲よく、君に忠貞の誠を捧げ、信心あつく、悪友と交わらず、殺生や博打にのめりこまず、口をつつしみ、怒りをおぼえても色にださず、勉学に励み、立派な字が書けるようにせよ、暴飲暴食をするな、などと戒めている。これは上記の心得に反する貴族が、当時たいそう多かったという証であろう。
その中で師輔は、「衣冠よりはじめて車馬に及び、有るに随いて之を用ひよ。美麗を求むるなかれ」と規制する。息子の伊ただのぜいたく好みを案じたのかもしれない。。
その心配はすぐ事実となった師輔は、遺誠の中で薄葬を命じたが、伊ただは「そんなことできるもんか」とばかり、世間なみに仰々しい葬儀を行ったのである。
世間の人は、親の遺言にそむいたから短命だったのだと噂したが、伊ただの美意識が強かったのであろう、邸でパーティーを催すとき、寝殿の庇の裏板や壁が少し黒ずんでいるのをみつけ、急に思いついて、陸奥紙をいちめんに貼らせた。予想以上の効果をあげ、白く清げにみえたと『大鏡』にはある。大鏡の作者は「思い寄るべき事かはな」普通の人には考え付きもしないできないことだったという。

この人の孫にあたる花山天皇も、なでしこを築地に咲かせたり、桜を門の外に植えさせたり、優美なセンスの持ち主だった。また孫の一人の行成は史上に残る書道家である。伊ただには芸術家の素質があったのであろう。若い日の恋に突っ張りも気取りもなく、本音そのものが出ているのは、芸術家の率直奔放な性質からであろう。

ただしこの歌は、用語の読みぶりももはや現代的センスから遠く、現代人にはピンとこなくなってしまっている。
以後千年の時空を超えた今の若者の「キャ〜」「可愛い」「凄い」を連発する愛恋の表現はいかがであろうか・・・。


【主な派生歌】

いくたびか あはれ昔と 思ひいでて 身のいたづらに 月をみるらん
 (二条良実「続古今」)
恋ひしなむ 身をも哀と 誰かいはん いふべき人は つらき世なれば
 (西園寺実衡女「風雅」)
哀とも いふべき人は さき立ちて 残る我が身ぞ ありてかひなき
 (永陽門院左京大夫「新拾遺」)



【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>等から。
逢うことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし 
中納言朝忠 ( ちゅうなごんあさただ ) 
<「拾遺集」・巻十一・恋一・天暦の御時、歌合>

【歌意】
・・・・・・・・・・・・・
あのとき もし契りを結ぶということがなかったなら
あなたをも 自分をも
恨んだりはしないであろうに
なまじ一度の愛の時を持ったばかりに
冷たくなった恋の
いや増し募るこの苦しみよ
・・・・・・・・・・・・・

【語句・文法】

* 逢うことの 絶えてしなくは;
「あふ」は動詞「あふ」の連体形で、男女が契りを結ぶ意。
「の」は主語を示す挌助詞。
「たえて」は副詞。本来は動詞「たえ」に接続助詞「て」が接続、「うちたえて」の意から転成、全く・少しもの意となり、下に否定表現「なく」で応じている。
「し」は強調の副助詞。
「なく」は形容詞「なし」の未然形で、条件を表す接続助詞「ば」を接して順接の仮定条件を表すが、発音は清音で他に「ずば」は「ずは」としたものも。
「絶えてしなくは」は「絶えて」「し」「なくは」と切る。「絶えて〜ない」を強調表現の「し」が強めている形になる。「絶えて、しない」のではない。

* なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし;
「なかなかに」は副詞、「かえって」「むしろ」の意。
「人」は相手の女性。
「身」はわが身。
「を」は共に動作の対象を示す格助詞。
「も」は共に並列の係助詞。
「身を恨む」は自らを嘆く意。
「恨み」は上二段活用動詞「恨む」の未然形。
「ざら」は打消すの助動詞「ず」の未然形で、ず+あら。
「まし」は事実に反する仮想を表す助動詞終止形。結局「恨んでいる」ことになる。

【作者や背景】

中納言朝忠(910〜966)右大臣藤原定方の子。
土御門中納言とも称し、読書家で笙の名手だったといわれている。
天徳内裏歌合せに顔を見せている。
順調に出世して中納言に至ったが康保三年(966)五十七歳で没した。
勅撰入集歌二十一首、三十六歌仙の一人。
百人一首の作者の中には、中納言、参議、権中納言などの肩書きを持った人がたくさん出てくる。今でいう国家公務員の肩書きのようなもので、たとえば当時の国の最高機関ともいえる太政官のトップが太政大臣で、以下、左右大臣と内大臣、大納言、中納言、参議と続く。
それぞれに位があって、太政大臣は正(従)一位、左右大臣と内大臣は(従)二位、大納言は正三位、中納言は従三位、参議は正四位。
参議以上を公卿(くぎょう)といい、国政の審議、決定に関わっていた。 
大納言、中納言には、権大納言、権中納言という権官がおかれていた。
公卿の人数は、十五人程度。

光源氏の位を例にとると、明石から帰京したとき中納言に復帰し、まもなく権大納言に昇進、翌年 冷泉帝の即位に伴って内大臣にと、わずか半年の間に急激な昇進をしている。源氏物語は、恋や愛を語る一方で、王権や政治人事の物語でもある。

天徳の歌合せでは、十九番、この歌が左勝ちで、右は
君恋ふと かつは消えつつ ふるものを、かくても生ける 身とやみるらむ 元真(もとざね)

判詞は、「左右の歌いとおかし、されど左の歌は詞清げなりとて左を持って勝ちとなす」
どちらの歌もたいへんおもしろいが、左の歌は詞の運びがしっくりしていて綺麗だとした。
「絶えてしなくは なかなかに」の「な」のくり返し。
「人をも身をも」の「をも」のくり返しが、軽快なリズムを奏でています。
また後に、「寛治七年堤子内親王根合」の判詞に、恋の歌でありながら恋の字を使われていない例歌として引用された。
しかし判者の顕房は、ことばに恋の字がなくともその心があれば良いのだといったと『袋草子』は伝えている。

ことばの運びが整っていて、しかも恋の歌なのに恋という端的に主題をしめすことばが使われないで歌になったという歌の仕組みは何かといえば、それは「まし」が使われていることにある。
作者は、この「まし」を使う型を在原業平の

世のなかに 絶へて桜の なかりせば 春のこころは のどけからまし

に学んだのであろう。
そして朝忠の歌は、業平の骨法をうばいながら全く自身にとって必要で切実な思いを盛った、かけがえのない機才に富んだ歌としている。
この歌は、「恋」という字がひとつもないのに、恋歌となっていることは先に述べた。その点からも古来、引用されて有名である。
王朝の恋は型が決まっていて、「忍ぶ恋」「未だ逢わざる恋」「逢って逢わざる恋」などと分類され、それが歌のテーマとなる。
朝忠の恋は「逢って逢わざる恋」の例である。
「逢う」は「恋の時間を持つ」ということの婉曲表現であるから、ひとたびは機会を持てたのに、あと、なかなかチャンスがこない。という状況が「逢って逢わざる恋」であろう。朝忠の歌は調べが流麗で言葉えらびがすっきりしているので詠いやすい。
朝忠の歌でいえば、『大和物語』に歌のほうがよい。
朝忠が中将のとき、ある人妻に恋をした。女も浅からぬ気持ちで朝忠を愛し、人目をしのびつつ二人の仲はずっとつづいた。そうこうするうちに、女の夫が地方長官に任ぜられ、その国へ下ることになった。女も国守の北の方(夫人)として、夫に従って旅立たねばならない。
それは朝忠との別れを意味する。朝忠も女も、その別れをしみじみと悲しく思った。しかしどうすることもできない。
朝忠は女が一行と共に任地へ下るという日、こんな歌を、ひそかに女に贈った。

たぐへやる わがたましひを いかにして はかなき空に もてはなるらむ

私の魂はいつもあなたのおそばにあった。それをふり捨てどうしてあなたは、心細い旅の空へ、離れていらっしゃるのですか・・・・・。
この哀切なしらべは、朝忠の恋が本物であったらしいと思わせる。
王朝の恋は、歌を美しく詠まんがための遊びであることが多いが、ちなみに、朝忠が中将であったのは、四十一・二歳のころである。青年のアバンチュールではなかった。この朝忠の歌を知って紫式部は、六条御息所に伊勢へ去られた、源氏の君を設定したのではなかろうか。源氏の愛がさめたことをしった御息所は、斎宮の姫に従って伊勢へ下る。源氏はみおくりにいくのも、世間体がわるく、邸に引きこもって物思いに沈む。御息所の一行は、内裏へおいとまごいをしたあと、二条大路から洞院大路へ折れる。ちょうど源氏の邸の前を、行列は通ることになる。
去り行く恋人に、源氏はたまらなくなって歌を贈るのである。

ふりすてて きょうは行くとも 鈴鹿川 八十瀬の波に 袖はぬれじや

私をふりすててあなたは出立してゆく。でも鈴鹿川を渡るとき、川浪に袖をぬらさぬであろうか・・・私のことを思って、泣かれるのではありませんか。

朝忠が「逢うことの・・・」の歌を天徳四年の歌合せで詠んだのは彼が五十一のときだった。
去れば、ひとつの恋、ひとつの思い出を指すのではなく人間の生涯のほとんどをかえりみての、彼の述懐だったのかもしれない。


【主な派生歌】

我が恋は 庭のむら萩 うらがれて 人をも身をも 秋の夕ぐれ
(慈円「新古今」)
うくつらき 人をも身をも よししらじ ただ時のまの 逢ふこともがな
(藤原定家)
身をしれば 人をも世をも うらみねど くちにし袖の かわく日ぞなき
(〃)
たへてやは 人をも身をも 恨むべき 木の葉しぐるる 秋の山里
(光西「続後撰」)
忍び音の 絶えてしなくは 時鳥 五月待つまを 恨みざらまし
(今出川院近衛「続後拾遺」)



【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>等から。
逢ひみての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり 
権中納言敦忠 

<拾遺集巻十二(恋二)「題しらず 権中納言敦忠」>

【歌意】
・・・・・・・・・・
あなたと逢瀬を遂げた後の
今のこの切ない気持に比べれば
まだ逢うことのなかった昔は
物思いなどしていないのと同じだったのだなあ
・・・・・・・・・・

【語句・文法】

* 逢ひみての のちの心に;
「あひみ」は上一段動詞「あひみる」の連用形、男女が関係を結ぶ意。
「て」は接続助詞。
「の」は連体修飾語をつくる格助詞。
「のちの」の「の」も同じ。
「心」思う気持ち。
「に」は比較の基準を示す格助詞。

* くらぶれば;
「くらぶれ」は下二段活用動詞「くらぶ」の已然形.
「ば」順接の接続助詞、比べるとの意。

* 昔は物を 思はざりけり;
「昔」は「あひみ」る以前のことをいう。
「は」は係助詞。
「物を思ふ」は恋を思い悩む意。
「を」は動作の対象を示す格助詞。
「思は」は四段活用動詞「思ふ」の未然形、思い悩む意。
「ざり」は打消の助動詞「ず」の連用形(「ず+あり」・・・ナイデイル)
「けり」は詠嘆(始めて気付いた)の助動詞終止形。

◇逢ふ 男女が情を通じる
◇逢ひみての後の心 情を通じたあとの心境
◇昔 ここでは会う前までの時期を指す
◇物を思う 思い悩む
◇逢ひみてののちの心 逢って情交を遂げた後の心。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【作者や背景】

藤原敦忠 906〜943
作者は左大臣時平の三男。母は在原棟梁の娘であるから、業平の血を引くことになる。
延喜二十一年(921)、従五位下に叙せられて昇殿を許され、侍従・左兵衛佐・右衛門佐・左近権少将などを歴任し、承平四年(934)、蔵人頭に任ぜられる。さらに左近中将を経て、天慶二年(939)八月、参議に就任。同五年三月、従三位権中納言に至る。
前途洋々であったが、翌年の天慶六年三月七日、三十八歳の若さで薨じた。
その夭折を、世の人々は24菅原道真の怨霊のしわざと噂したという。
枇杷中納言、本院中納言と号す。
風流を好んだ敦忠は、比叡山麓の西坂本に数寄を凝らした山荘を構え、伊勢・中務を招いて歌を詠ませるなどした(拾遺集)。
色好みとしても名高く、39右近や西四条斎宮雅子内親王との恋は歌物語に説話化されている。
後撰集初出、勅撰入集は三十首。三十六歌仙の一人。
百人一首では43番目。百人秀歌では40番目に置かれ、39番の右近との合せになる。
『大和物語』によれば右近の「わすらるる…」は敦忠に贈られた歌とも見え、かつての恋人同士の組合せと見れば面白い。

この歌は敦忠が西四条斎宮雅子内親王に宛てたものとされる。
『敦忠集』にも分かるように、敦忠と雅子との関係が露見し、逢いにくくなった頃に贈った歌という。
好意を持ちはじめ、通い続け、そして逢瀬を遂げて、仲睦まじくあったところ、雅子の親によって引き裂かれる。そうした、幸せな時期を挟んだ物思いの時期を対比させ、現状の辛さを詠んだ、というところでしょうか。
このとき、敦忠が何を思いながらこの歌を贈ったのかは分かりません。
こののちも、二人の贈答は何度か行われます。けれど、敦忠と雅子は、当時の慣習から言えば認められるはずもない身分差があります。
強く思えば思うほどに、終わりの予感が二人を苦しめたろう。
父親はかの有名な左大臣藤原時平で、菅原道真を大宰府に左遷した張本人である。
それに因る道真の恨みを受けて、時平の系譜に名を連ねる人々は多くが早世したと言われる。実際、時平は39歳の時、敦忠4歳の時に逝去した。

母親には2説があり、まず一つは、『公卿補任』『三十六人歌仙伝』などが説く、在原棟梁(むねやな)の女(むすめ)が母だとするもの。彼女は大納言国経の室でのちに時平に嫁ぐ。
正妻(北の方)は保明親王御息所貴子。保明親王は醍醐天皇第二皇子で皇太子でもあった人で、彼と忠平女との間に生まれたのが貴子。
保明親王の死後(923年以後)、敦忠の北の方となった。しかし、藤原文範(紫式部の母方の曽祖父)が家令職として敦忠に仕えていたときに、敦忠は貴子に向かって「我は命短き族(ぞう)なり・・・」と、「私の一族はみんな短命です。だから私もきっと早く死ぬでしょう。私の死後には、貴方はこの文範と一緒になられるに違いありません。」という旨を語した。貴子は馬鹿なことをと思いましたが、後に敦忠が亡くなった後、この予言どおり藤原文範に嫁いだ。(『大鏡』)
当時の男性であれば、女性との関係が多いのは当然のことで、ましてや敦忠ほどの風流人とあっては、その数も群を抜いていると思われる。

まずは西四条斎宮雅子内親王。『敦忠集』では敦忠と雅子の熱烈な遣り取りが見られる。21歳の時に斎宮に卜定(ぼくじょう)された。
『大和物語』に拠れば、敦忠と逢瀬の約束をした矢先、それによって二人は引き裂かれるとあります。しかし、「あいみての」の和歌が雅子に宛てられたものだということが『敦忠集』から分かるので、『大和物語』はあくまで創作だったらしい。また、彼女は敦忠より4歳年下で、21歳の時に敦忠は25歳。既に妻を娶っていた。
雅子は斎宮を退いてのち、藤原師輔の室に入り、敦忠と結ばれなかったのは、内親王と臣下、それも敦忠のように官位も低く、権力もなく、長兄でない者との婚姻が認められなかった。

【補記】百人一首の古写本・古注・カルタは第四句を普通「昔は物を」とし、「定家八代抄(書陵部蔵本)」も「物を」であるが、「百人秀歌」や定家本拾遺集、南部家蔵伝定家筆小倉色紙は「物も」とあり、定家が「を」「も」どちらを良しとしていたか、俄には決定し難い。(千人万首)
・・・・・・・・・・・・・・・・

【主な派生歌】

あひみての のちこそ恋は まさりけれ つれなき人を いまはうらみじ
(永源「後拾遺」)
あだなりし 人の心に くらぶれば 花もときはの ものとこそみれ
(藤原忠通「金葉」)
あひみての あしたの恋に くらぶれば 待ちし月日は 何ならぬかな
(祐子内親王家紀伊)
思ひ出づる その慰めも ありなまし 逢ひ見て後の つらさ思へば 
(藤原季経「千載」)
うたたねの 夢に逢ひ見て 後よりは 人もたのめぬ 暮ぞ待たるる
(源慶 〃)
逢ひ見ての のちの心を 先づ知れば つれなしとだに えこそ恨みね
(藤原定家)
思ひいづる 後の心に くらぶ山 よそなる花の 色はいろかは
(〃)
恨み慕ふ 人いかなれや それはなほ 逢ひ見て後の 憂へなるらん
(京極為兼「玉葉」)
今までに 昔は物を とばかりも うらみぬ身をば 恨みやはせぬ
(後水尾院)
いかにせん 昔はものを とばかりの 歎きしらるる けさのおもひを
(後西院)
うつそみの よのはかなさに くらぶれば 桜は猶も ひさしかりけり
(鵜殿余野子)
あいみての のちの心の 夕まぐれ 君だけがいる 風景である
(俵万智)
・・・・・・・・・・・・・・・・


【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>等から。
ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは 
清原元輔 

<後拾遺集・巻十四・恋四・の詞書に「心変わり侍りける女に、人にかはりて」>

【歌意】
・・・・・・・・
かたく約束しましたね
おぼえているでしょうか
わたしたち涙で誓った
決して心変わりしないと
末の松山を波が越すような
そんなこと決してないって
誓いましたね
あなたとわたし
・・・・・・・・

【語句・文法】

* ちぎりきな;

「き」は過去に経験した事実の回想の助動詞終止形。
「な」は詠嘆の終助詞。

* かたみに袖を しぼりつつ;

「かたみに」は副詞、たがいにの意。
「袖をしぼる」は、涙にぬれた袖をしぼる事から、涙を流す意に用いる。
「そで」はたもと。
「を」は動作の対象を示す格助詞。
「しぼり」は「しぼる」の連用形。
「つつ」は継続の意の接続助詞。
一首を倒置法とすると、「しぼりつつ」は「ちぎりきな」を修飾。

* 末の松山 波越さじとは;

「末の松山」は宮城県の海辺にある山という歌枕。
「なみ」と「こさ」は主述関係。
「じ」は打消の推量の助動詞終止形。
「と」は引用を示す格助詞で、「ちぎる」内容を表す。
「は」は強意の係助詞。
[末の松山を波は超えない]という喩え。
本歌;
君をおきて あだし心を わがもたば 末の松山 波もこえなん 
(古今集 東歌)


【作者や背景】

清原元輔(908〜990)は、三十六番の作者清原深養父の孫で、清少納言の父。八十二歳で肥後守在任中に死亡。
歌人の家に生まれ、官吏としてはぱっとしなかったが、歌人として名を上げた。和歌所寄人『万葉集』に訓点をつける。『後撰集』の選者。
大中臣能宣、源順、紀時文、坂上望城ら梨壷の五人の一人であった。


心変わりした女に贈る歌を、その男に代わって詠んだというので、つまり代作。創作であるからといおうか、「かたみに袖をしぼりつつ」は、誇張がすぎようし「末の松山波こさじとは」も巧みすぎ。特にしらべは踊りすぎているだろう。
そこでいうことは実感が乏しいが、乏しくともいうことが楽しかろう。

「末の松山」は、陸奥の国の歌枕、
はっきりはしないが、宮城県多賀城の丘か。
海辺にあるが決して波をかぶらないという言い伝えから、男と女が心変わりしないと契るたとえにされ、もし不実があれば「波越ゆる」と表現された。

『古今集』巻二十には、
「君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波もこえなむ」
とありこれが本歌である。
「あなたをさしおいて、あたしは心変わりなんかしないわ。もしそんなことがあったら、あの末の松山を波が越えてしまうでしょう。」

これは口ずさんでみると、民謡調であるから、男からの歌ともいえるし、ローカルカラーを喜ばれた昔の流行歌であろう。


松山といわず「末の松」というだけいう場合もある。
どちらにしても、これは変わらぬ愛の契りをさす。
王朝ではたいそう好んでつかわれた常套語である。
海辺の松というだけで美しいのに、その上を波が越えるということは決してあり得ない、そのように愛がかわらない、というたとえは雅やかでいい。


清原元輔 は人にたのまれて代作して、心変わりした女のもとへ贈ったのであろう。人よい男である。

「契りきな」と、はじめに掲げてあるところはつよいが、しかしそれは下の句にいくにつれて、やさしい愚痴に軟化しており、反芻を誘い出すような憤怒や怨嗟はない。
むしろ、仲良かったころの甘美な思い出を示唆しつつ、それとなく、再びその甘美を共有しょうという、ほのかな哀願すらただよう。

それは元輔 の性格からきているのであろう。
性質は、ユーモラスでひょうきんで、才気に満ち明るい清少納言は多分に、この父の性質を受けついでいる。
清少納言は、元輔 のずいぶん晩年の子である。
五十七・八歳の頃ではないだろうか、母はどうやら清少納言の物心つくころには亡くなっていたらしい。
元輔 は、孫のような娘を溺愛して、六十六のとき周防守として赴任することになると、娘も連れて行った。

清少納言の『枕草子』には、男の噂も闊達に書かれているが、このあけっぴろげな異性への感覚は男親の手で育てられたからではないかと思う。
冗談好きな、明るい爺さん、教養はあるがそれがいやみにならなず、人間を楽しく人生を陽気にするのに役立っている爺さん。
それが清少納言の父親だったように思える。
彼女は父親と仲がよかったに違いないというのが私の想像である。

そして物の見方や発想は、かなり父親に負うことが大きかったと思われる。
元輔 は官位は遅々として進まなかったが、プロの歌人として、大貴族たちをパトロンに持ち、お邸に出入りして、賀歌や屏風歌、贈答歌を献じた。
だから儀礼的な歌がその家集『元輔集』に多いが『拾遺抄』には、肥後守として下る元輔 に、源満仲が送別の宴を設けたとき詠んだ歌がある。

「いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き道おば」

どんな気持ちでいるんだろうなあ、あの年で遠い所へ出かけるとは、・・・と君は思っているんじゃないかね。
というような歌で洒脱な詠みぶりである。

「いや待つほうが切ないよ、俺も年だ」ものというような歌を返している。
元輔 は七十九歳である。このたびは娘を伴ってゆかない。
清少納言はこの頃もう結婚していたらしい。
満仲はこのとき七十五、しかし元輔 は任地で没して再び都をみることはできなかった。
その知らせを聞いた老友の満仲は、感無量であったろう。


末の松山の歌をもう一首紹介すると、『源氏物語』の「浮舟」の巻、薫は愛人の浮舟が、自分を裏切って匂宮と通じていたことを知り、はらわたの煮えくりかえる思いで、歌をやる。

「波こゆる ころともしらず 末の松 待つらむとのみ 思ひけるかな」

あなたが心変わりしているとは、思いもよらず、私をまっているものとばかり思っていた。・・しかも、
その手紙の末尾に「私を人の笑いものにしてくださるな」と、ぴしりと書く。

この歌にこもる、しんねりむっつりした深刻な憎悪とあてこすりは、元輔の歌とは全く雰囲気が違う。
それはまるで、紫式部と清少納言の気質のちがいをみるようでもある。

【主な派生歌】

思ひ出でよ末の松山すゑまでも波こさじとは契らざりきや(藤原定家)
忘るなよ宿る袂は変はるともかたみにしぼる夜半の月影(藤原定家)
浪こさむ袖とはかねて思ひにき末の松山たづね見しより(藤原定家)
ちぎりきなさてやはたのむ末の松まつにいく夜の波はこえつつ(藤原雅経)
代々かけて波こさじとは契るともいさや心の末の松山(二条為氏[新後撰])
ちぎりきな有明の空をかたみにて月見むことにおもひでよとは(飛鳥井雅有)
たちわかれけぶりの末もあふことはかたみに袖をしほがまの浦(木下長嘯子)


【出典・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>等から。





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恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか 
壬生忠見 ( みぶのただみ ) 
<天暦の御時も歌合(960) 『拾遺集』・巻十一・恋一>


【歌意】
・・・・・・・・・・・・・
恋に悩んでいるという噂が
早くも世間に立ってしまった
人に知られないように
そっと思いはじめたばかりなのに
・・・・・・・・・・・・・

【語句・文法】

* 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり;

「恋す」はサ行変格活用動詞終止形。
「てふ」は「といふ」の複合語で、伝聞の意の四段活用動詞連体形。
「わが」人称代名詞。
「名」は評判・うわさ。
「は」は係助詞。
「まだき」は副詞。まだその時期ではないのに、早くもの意。
「立ち」動詞「立つ」の連用形。
「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。
「けり」は詠嘆の助動詞終止形。
三句切。

* 人しれずこそ 思ひそめしか;

「人」は他人。
「しれ」は下二段活用動詞「しる」の未然形。受身動詞で知られる意。
「ず」は打消の助詞「ず」の連用形。
「こそ」は強意の係序詞で、結びは過去の助動詞「き」の已然形「しか」。
文法的には終結するが、已然形なので、逆説的な気分を残す。

【作者や背景】

壬生忠見、生没年未詳。忠岑の子。
摂津大目、天徳内裏歌合わせに顔をみせているなど、微官ながら歌に優れ、家集に『忠見集』がある。勅撰集入集歌三十六首。三十六歌仙の一人。

「天徳四年内裏歌合」の結びを飾るものとして、第二十番に番わされた。
二首優劣つけがたく、村上天皇の勅判を仰いだが判は示されなかった。

しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで  兼盛

忠見か兼盛か。どちらに贔屓するするか千年来の論争になっている。

壬生忠見は、百人一首30番の

ありあけの つれなくみえし 別れより あかつきばかり うきものはなし

の作者、壬生忠岑の子。
幼時から歌が巧かったが、家は貧しく、父同様生涯、微官で終わった。
天徳二年(958)摂津大目(せっつのおおさかん)となった。地方官の下級官吏である。

天徳四年の歌合せには、歌の堪能を以って勅命で召されたのであった。
忠見はこの名誉をどんなに喜んだことであろう。
田舎者の格好で上京し、召しに応じてこの歌を詠んだ。

さて、テーマ「忍ぶ恋」、歌合左右の歌の優劣を決めかねぬまま、判者の実頼はついに「天気」を伺った。村上天皇も困られたことと思われる。どちらがよいとも仰せにならぬまま、ひそかに右方の「忍ぶれど・・・」の歌を口ずさまれた。
帝のご内意では、双方の歌を口ずさんで、ゆっくり優劣を考えられるおつもりだったかも知れぬが、右方の歌を詠じられた段階で、源高明は「天気若シクハ右ニアルカ」と判者に漏らし、判者はそこで、「右方の勝ち」と宣した。
もっとも判者自身は「左ノ歌甚ダ好シ」として引き分けかと考えていたらしい。しかし、ともあれ、兼盛の歌が勝ちときまり、右方はどっと勝どきの音楽を奏する。
「盃酒、頻リニ巡リ、絃歌、断ユルコト無シ」これほどの楽しい夜はなかったという。「歓楽ノ至リ、今夜ニ如カザルナリ」君も臣も楽しんだ。
「群臣、快ク酔ヒ、雑興、禁ジ難シ」
そのうちにようやく、夜は白々と明け、帝は入御された。
さて、作者の歌人たちはその座に列していない。
兼盛は衣冠を正しく陣の座にいて、勝ち負けのしらせを待っていた。
勝ったと聞くや、喜びを抑えきれず、そのほかの勝負は聞きもしないで、拝舞して退出した。
一方、忠見も別の所で吉報を待っていた。勝ちを信じていたにちがいない。
そこへ心外なしらせがきた。『沙石集』によると、そのとたん忠見は、「あわと思ひて」「胸ふたがりて」たべもののどに通らず、ついに「不食の病」になって死んでしまった。
平兼盛に敗れたために悶死したという『沙石集』所収(『袋草紙』では、悶死まではしていない)の説話は有名であるが、家集には年老いた自らの境遇を詠んだ歌もあり信憑性には疑問が呈されている。
しかしこの伝承のために二人の名と歌は、いつまでも世に残った。
田舎装束でかけつけて、歌人としての名誉に感激しつつ、渾身の力をこめて美しい恋歌をよみ、それが負けとしらされて落胆した忠見。
勝ち負けをきめずに、引き分けとしてやればよかったのに。
俊成の『古来風射抄』にも二首並べているが、定家も二首あわせて鑑賞すべきものとして、並べ採ったのであろう。定家が判者となっても、双方のどちらを勝ちともできず、引き分けであると思っていたのかもしれない。

【他の代表歌】

さ夜ふけて 寝ざめざりせば 郭公 人づてにこそ きくべかりけれ
(拾遺集)
いづ方に なきてゆくらむ 郭公 淀のわたりの まだ夜ぶかきに 
(〃)

【主な派生歌】

恋すてふ なき名やたたん 郭公 まつにねぬよの 数しつもれば
(源有仁[金葉])
はかなくも 人に心を つくすかな 身のためにこそ おもひ初めしか
(〃[千載])
恋すてふ 名をだにながせ 涙河 つれなき人も 聞きやわたると 
(読人不知[金葉])
人しれず しのぶの浦に 焼く塩の わが名はまだき 立つ煙かな
(藤原家隆[新勅撰])
恋すてふ うき名は空に 立つ雲の かかるつらさに 消えや果てなん
(花山院師継[続千載])
恋すてふ みほの杣人 朝夕に 立つ名ばかりは やむ時もなし
(西園寺実兼[〃])
もらさじと なに忍ぶらん 数ならぬ 身をしらでこそ 思ひそめしか
(則祐[新拾遺])
音に聞く 田子の浦波 それならで 恋すてふ名の たたぬ日ぞなき
(静仁法親王[新続古今])


【出典・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>等から。


・・・・・・・・・・・
<追加転載>『気は優しくて力持ち 』40・41番歌より。
http://blogs.yahoo.co.jp/tabakotokaimono/12222685.html
40、忍ぶれど色に出でにけり我が恋は
   物や思ふと人の問ふまで  平兼盛

【現代語訳】
誰にも知られないように心に秘めて恋していたのだが
とうとう顔色にでてしまったことだ、私の恋は。
何か物思いをしているのですか、と人が尋ねるほどに。
【語釈】
・忍ぶれど 人に知られまいと、心のうちに秘めているけれど、の意。
・色に出でにけり 「色」は顔色。主語は三句の「我が恋は」で、倒置法によって意味を強めている。
・物や思ふと 「物」は恋に関する物思い。「や」は疑問の係助詞。「物や思ふ」は人の問いで、歌の中に会話を取り入れて詠んだもの。
・人の問ふまで 「人」は周囲の人。「まで」は程度・限度を示す副助詞。
【出典】
『拾遺集』恋一622 詞書「天暦の御時の歌合」

41、恋すてふ我が名はまだき立ちにけり
   人知れずこそ思ひそめしか  壬生忠見

【現代語訳】
恋をしているという、私の評判がたってしまったことだ。
誰にもしられぬように、密かに思いはじめたばかりなのに。
【語釈】
・恋ひすてふ 恋をしているという、の意。
・我が名 「名」は評判・噂。ここはいわゆる「浮き名」。
・まだき まだその時期にならないうちに早くも、の意の副助詞。
・人知れずこそ 人に知られないように、の意。「人」は他人。
・思ひそめしか 「思ひそめ」は「思ひ初む」の連用形。「こそ〜しか」の形で逆接の条件句とんなり
・・・・・のに。の意。
【出典】
『拾遺集』恋一621 詞書「天暦の御時の歌合」

【鑑賞】
歌合は、歌人が左方右方に分かれ、ある定められた題に対して詠んだ歌を互いに一首ずつ番い合わせて、その優劣を争う文学的遊戯。
二首は天徳四年内裏歌合の作で恋題でつがえられたもの。
判者が優劣の判定を決めかねて、天皇に決着を仰ぐことになり、結局天皇が「忍ぶれど」を口ずさんでいるのを察知して、兼盛の歌を勝ちに定めたという。

40番歌について
一首の構成は二句切れで、上二句までと、第三句とが倒置されており、ついに顔色に出てしまったという感慨が強められている。下の句は、周囲の人々の会話を巧みに取り入れ、自分の意思に反して、顔色に出てしまったことを表現している。

41番歌について
会話を巧みに取入れた兼盛詠に比べると、この歌は地味ではあるが、一筋に通り素直な詠みぶりの中に、実感のあるしみじみとした感じを漂わせている。歌合の場を離れて独詠としてみる時その歌の優れていることに、改めて注目すべきである。

なお、『沙石集』には、忠見が歌合に負けたことに落胆して、食欲不振の病になり、ついに死に至ったと伝えられている。説話化されているので、事実であるかは定かではないが、誰もがこのような気持ちで歌合に臨んでいたのだろう。

どちらも「忍ぶ恋」を詠んでます。
まだ恋が始まったばかりで、隠しているのに、周りが気付くほど相手を思っている。
そんな歌です。
いつの時代も、恋をすると物思いをするのですね。まさに、恋の病です。
みなさんはどちらの歌が好きですか??
私は40番歌の方がいいかな。

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