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<和泉式部 保昌に具して丹後国に侍りけるころ 都に歌合のありけるに 小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを 中納言定頼つぼねのかたにまうできて 唄はいかがせさせ給ふ 丹後に 人は遣わしけむや 使いはまうでこずや いかに心もとなくおぼすらむなど たわぶれて立つちけるを ひきとどめてよめる 金葉集・雑上> 金葉集・巻九・雑上に「和泉式部、保昌に具して丹後の国に侍りけるころ、都に歌合せありけるに、小式部内待歌詠みにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかがさせ給ふ、丹後へ人はつかわしけむや、使いはまうでこずやいかに心もとなくおぼすらむ、などたはぶれて立けるをひきとどめてよめる、小式部内待」とあるのが出典。 【歌意】 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大枝山を越え生野を通り 幾つもの野を過ぎて行く道があまりに遠いので まだ天の橋立を踏んでもおりませんし 丹後からの母の手紙も見ておりません。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * おほえ山 いく野の道の とほければ;
「おほえ山」 京都市西京区の大枝山。亀岡市との境をなす山々の総称。旧山城・丹波国境にあたる。
「おおえ山」は京都府与謝群にもあるが(丹波と丹後の国境をなす山で御伽草子の酒天童子で有名)共にべつの地であるという説もあるが私は同名の地であると思う。「いく野」 生野。京都府福知山市に地名が残る。 「生野」は同名の地が兵庫県朝来群にあり(銀山と幕末の変で有名)、 「行く」を掛け、また「幾野」(いくつもの野)の意も掛かる。 「道の」の格助詞「の」は、主語を示す格助詞。 「とほけれ」は、形容詞「遠し」の已然形で、順接の接続助詞「ば」を接して、必然的関係を示す確定条件。 * まだふみもみず 天の橋立; (まだ行ってもいない意と、母の手紙を見てもいない両意。)
「まだ」は副詞。
幅は約20〜170m・全長約3.6kmの砂嘴(さし)でできた砂浜で、大小約8000本もの松が茂っている名勝。「ふみ」は「踏み」と「文」の掛詞。係助詞 「も」は係助詞、添加。 「ず」は打消しの助動詞終止形。 「天の橋立」は、丹後国の歌枕。京都府宮津市の宮津湾に突き出した砂嘴。その名は「天にのぼるために立てた梯子」程の意。『丹後国風土記逸文』によれば、イザナギが天にのぼろうとして作った橋が倒れて天の橋立になったのだという。
日本三景は以下の3つの名勝地を指す(記載順は全国地方公共団体コードの順番による)Wikipedia。
全て海(沿岸)にある風景となっており、各々古くから詩歌に詠まれ、絵画に描かれていた。松島 - 宮城県宮城郡松島町を中心とした多島海(地図) 天橋立 - 京都府宮津市にある砂嘴(地図) 宮島(厳島) - 広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした島 天橋立 http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%A4%A9+%E3%81%AE+%E6%A9%8B%E7%AB%8B 【作者や背景】 小式部内侍 こしきぶのないし 生年未詳〜万寿二(1025) 橘道貞と和泉式部の間の子。 寛弘六年(1009)頃、母とともに上東門院彰子に仕える。 後拾遺集初出。勅撰入集は八首(金葉集は二度本で数える)。 女房三十六歌仙。 母同様「恋多き女流歌人」として、藤原教通・藤原定頼・藤原範永など多くの高貴な男性との交際で知られる。 範永との間には娘をもうけている。 はじめ堀河右大臣頼宗の愛人であったらしいが、その弟二条関白藤原教通の妾となって一子を生む(のちの静円)。また藤原範永との間に女子を生んだ(堀河右大臣家女房。「範永女」として後拾遺集に歌を載せる)。 万寿二年(1025)十一月、藤原公成の子(のちの頼忍阿闍梨)を出産後、死亡し周囲を嘆かせた。二十八歳くらいか。 この際母の和泉式部が詠んだ歌 「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさりけり子はまさるらむ」
(『後拾遺和歌集』哀傷) は、哀傷歌の傑作として有名である。
このおほえ山 いく野の道の とほければ まだふみもみず 天の橋立 は、小式部内侍が歌合に呼ばれた時、藤原定頼が彼女の局にやって来て、 「丹後の国におられる母上(和泉式部)のもとへ人を遣わしましたか。 まだ使者は来ませんか。 さぞ心細いでしょう」とからかった。 それに対して、 「母の力を借りずとも大丈夫です」と言い返したものであろう。 掛詞を駆使し、地名を巧みに読み込んみ、当意即妙の才があふれており、こういう才気は、王朝女性の理想であり、そこで『俊頼髄脳』(としよりずいのう)・『袋草紙』(ふくろぞうし)などの歌学書をはじめ『古今著聞集』(ここんちょうもんじゅう)『十訓抄』(じっきんしょう)などの説話文学にものせられているので藤原定家も話しに興味があったのであろうと推察される。 【主な派生歌】 大江山 こえていく野の 末とほみ 道ある世にも あひにけるかな (*藤原範兼[新古今]) ふみもみぬ いく野のよそに かへる雁 かすむ浪間の まつとつたへよ (藤原定家) おほえ山 こかげもとほく なりにけり いく野のすゑの 夕立の空 (*飛鳥井雅経) おほえ山 いく野の道の 長き夜に 露をつくして やどる月かな (後鳥羽院) 夏草は 繁りにけりな 大江山 こえていく野の 道もなきまで (藤原忠定[新後拾遺]) 草の原 いくのの末に しらるらん 秋風ぞ吹く 天の橋立 (順徳院) ふる雪に 生野の道の 末までは いかがふみみん 天の橋立 (正親町院右京大夫[続拾遺]) 思ふより いとどいく野の 道たえて まだふみもみず つもる雪かな (少将内侍) おほえ山 いく野の道も まだ見ねば ただ恋ひわたる 天の橋立 (飛鳥井雅有) 大江山 過ぎしいく野の なぐさめに 日をわたるべき 天の橋立 (後柏原院) かけていはば 遠き道かは 人の世も 神代のままの 天の浮橋 (三条西実隆) 大江山 とほしとみえし ほどもなく いく野のすゑに かかる夕立 (中院通勝) たよりありて 待たれし雲の 上人も けふふみそむる 天の橋立 (細川幽斎) 恋ひわたる 天の橋立 ふみみても 猶つれなしや 与謝のうら松 (松永貞徳) 浪の音に 聞きつたへても 思ふぞよ ふみ見ばいかに 天の橋立 (後水尾院) さらにその 天のはしだて ふみも見じ いく野の末に かすむ雁がね (契沖) 年をへて 思ひわたりし しるしにや 今日ふみ見たる 天の橋立 (田捨女) おほえ山 いくへかすみて 丹波路や いく野のすゑに 春風ぞふく (清水浜臣) 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
百人一首51〜60
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<中の関白 少将に侍りける時 はらからなる人に物いひわたり侍りけり たのめて来ざりける つとめて女にかはりてよめる 後拾遺集・恋二>
【歌意】・・・・・・・・・・
おいでになるというお言葉さえなければ ためらいもなく寝てしまいましたでしょうにね 西に傾く月を見るころまで お待ちしたことですよ ・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 「たのめて来ざりける」来ると頼みに思わせて、来なかった。 「かたぶくまでの月」女の長い時間をかけた悲しい恨みをかってしまった少将のころの中の関白藤原道隆。 「はらからなる人」赤染衛門の同母姉妹。 * やすらはで;
四段活用動詞「やすらふ」の未然形。ためらう、躊躇する意。
「で」は打消の接続助詞。
言ずけなど気にしないでさっさと寝てしまえばよかったのに。
* 寝なましものを;
「寝」は下二段活用動「寝(ぬ)」の連用形。
* さ夜ふけて かたぶくまでの 月をみしかな;「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形。 「まし」は仮想推量助動詞「まし」の連体形。 「ものを」は逆接的な詠嘆の終助詞。
「さ夜」は夜。「さ」は接頭語。美化・畏敬・神聖、等の特別な意味づけ。
【作者や背景】「ふけ」は下二段活用動「更く」の連用形。 「て」は接続助詞。完了の助動詞「つ」の連用形「て」の転。物事の起こる順序を表す。・・・て、それから・・・ 「かたぶく」は動詞「かたぶく」の連体形で、月が西の山に傾く意。 「まで」は限度を示す副助詞。 「の」は連体修飾語を作る格助詞。 「を」は動作の対象を示す格助詞。 「み」は動詞連用形。 「し」は過去の助動詞「き」の連体形。 「かな」は詠嘆の終助詞。 赤染衛門; 大隈守赤染時用(ときもち)の娘で、父が右衛門尉(うえもんじょう)であったので赤染衛門と呼ぶ。 (実父は平兼盛だという)。 大江匡衡(おおえまさひら)と結婚した。 藤原道長の夫人倫子(りんし)に仕え、また、その娘中宮彰子にも出仕、和泉式部らとともにすぐれた歌人の一人に数えられる。 赤染の息子擧周(たかちか)は公に仕えた。 病を得て、症状は次第に悪化していったことがあった、 赤染は歌を詠んで御幣(みてぐら)として住吉明神に捧げた。 かはらむと 思ふ命は 惜しからで さても別れむ ほどぞ悲しき 身代わりになりたいという母の思いが神に通じたか、息子の病はその夜のうちに癒えた。 この息子が官位を望んだとき、赤染は御堂関白の妻倫子に歌を贈った。 思へ君 かしらの雪を うち払ひ 消えぬさきにと 急ぐ心を 「かしらの雪」は白髪のことであり、老いの母がせめて生きているうちに息子の出世を見とどけたいというのであった。 この歌が御堂(藤原道長)の目にとまり、息子は和泉守に任じられた。 赤染は妻としても夫の匡衡(まさひら)が稲荷の禰宜(ねぎ)の娘と浮気しているときつかわした歌がある。 我が宿の 松はしるしも なかりけり 杉むらならば たづね來なまし 「松」は「待つ」に通じ「杉」は「過ぎ」に通じる。また杉は稲荷の神木でもあった。 戻った匡衡の言い訳の歌は 人をまつ 山ぢわかれず 見えしかば 思ひまどふに ふみすぎにけり 【主な派生歌】 やすらはで 寝なまし月に 我なれて 心づからの 露の明ぼの (藤原定家) やすらはで 寝なんものかは 山の端に いさよふ月を 花に待ちつつ (藤原良経[続古今]) やすらはで 寝なましものを 梅の花 こぬ人の香に 匂はざりせば (土御門院小宰相) 人待たで 寝なましものを 梅の花 うたて匂ひの 夜はの春風 (宗尊親王) 誰故か かたぶくまでの 月影に ねなまし人の 衣うつらん (源邦長[続千載]) 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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<かれがれなるをとこのおぼつかなくなどいひたりけるによめる 後拾遺集・恋二> 途絶えがちになった男が、「お気持ちが分からず不安で」などと(手紙で)言っていたので詠んだ歌。 (おぼつかなくー 恋人の変心を疑うときの決まり文句) 【歌意】 ・・・・・・・・・・・・
有馬山から猪名の笹原に風が吹くと 笹はそよそよとなびかずにはいられない さあ おなじことですよ 音信があれば心は靡くもの わたしがあなたを忘れるなどありましょうか ・・・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * ありま山 ゐなの笹原 風吹けば; 笹の鳴る擬声語の「縁」から「そよ」の序詞。 序詞は、直接には主題(作者の言いたいこと)に関係ないように見えるが、しかし歌全体の姿から見れば、様々な効果があるだろう。 まず旋律が極めて美しく歌の調べが美しくなるということである。 序詞から連想されるそよそよという音が、なだらかに「いでそよ」に連なる効果は抜群なものであろう。 次に有馬山から吹き降ろす風で、寂しい猪名の笹原がなびいて音をたてている光景が浮かんでくる、読む人をわびしい心境に引き込む効果がある。 なお最近では、大弐三位(だいにのさんみ)詠歌傾向を分析し贈答歌の場合、相手の歌の表現を用いることが多く、「有馬山」の読み込まれた男の歌への返歌であろうとする説もある。 具象的に展開された序詞の風景、そこから浮かぶ気分、美しい旋律、それらが「そよ」に集約されて主題へと連なる。「そよ」は後拾遺集の詞書(ことばがき)の「おぼつかなく」を受けており、自分が離れ離れになっているのを棚に上げて、女を疑う男に対する反発である。 あなたこそどうなの?という余韻は、厳しくも鋭いが、序詞の旋律の美しさによって、全体の調子は穏やかである。こういう歌こそ、王朝生活の雅の場では、最も気のきいた秀歌とされたのであろう。 余剰豊かな、物語的な歌となっている。 「ありま山」は兵庫県神戸市にある山、または同県有馬地方の山の総称。 摂津国の歌枕。古くは有間山とも書く。現実的には有馬温泉として有名。 「ゐな」は兵庫県川辺郡から大阪府豊能郡にまたがる古名で、有馬山とはやや離れているが、古来よく結びつけられる。
万葉集の
しなが鳥 猪名野を来れば 有間山 夕霧立ちぬ 宿りはなくて以来、有馬山とセットで旅の歌によく出て来る。 荒涼とした原野のイメージで詠まれることが多い。 「笹原」は笹の生えた野原。 「吹け」は四段活用動詞「吹く」の已然形で、順接の接続助詞「ば」を接して確定条件。 「風」は男からの音信を暗示している。 * いでそよ人を 忘れやはする;
「いで」は、いやどうもの意の感動詞。
* 「イナ国(マ)」は、大阪府の昔の豊島郡(現在の大阪市北部と豊中市、箕面(みのお)市、池田市、茨木市、兵庫県伊丹(いたみ)市の一部を含む地域)の、すぐ北に隣接している「古代・稲国(イナマ)」すなわち大阪府の箕面市から兵庫県の猪名川町を中心とする一帯と考えられる。「そよ」はそれですよの意。 「そ」は指示代名詞で、詞書の「おぼつかなく」などいう男の言葉を指す。 「よ」は詠嘆の終助詞。 「人」は相手の男。 「を」は対象を示す格助詞。 「やは」は反語の係助詞で、結びはサ行変格活用動詞「す」の連体形「する」。 「わする」は恋歌の用語としては「恋人を捨てる」「気にかけなくなる」意に用いることが多い。 同時に蘇我稲目と孝徳天皇の二つの名乗りにも共通する。 「原」はハイ=ハリ・巴利で都。朝廷。 「ゐな」は日本列島の先住民イナと(委奴・犬・因・印・稲・猪名・伊那=殷・インド)から倭人(ウワイト)、女系王朝。 (歴史徒然:日本の誕生・日本語のルーツ・ウバイド・ウワイト・遷都 ) 「大阪北部を支配していた倭国王・蘇我稲目」より抜粋転載。 ** いでそよ人を 忘れやはする; 愛していないですって? なんで、あたしがあなたを拒んだことがある? いなのささ原だわ、 ありませんのよ有馬山、ってところね。 あなたご存じ?有馬山 そのふもとの猪名の笹原に風がわたると、 さやさや、そよそよとかすかな葉ずれ、 そうよ、そうよと ささやくのを。 そうなのよあなた、あたしがあなたを忘れると思って? わすれるはずがないじゃないの。 技巧の極致のような歌で、しかも実感があるから技巧が浮かび上がらず、詠唱してしらべがいかにも美しい。 訳よりも、何度も口ずさんで、そのフィーリングを楽しんでいただく方がいい。 この歌の結びの 「人を忘れやはする」 という、それだけが核であって、その上に美しい修辞がいくつも重なって、きらびやかなにふくれあがった歌なのである。 有馬山と猪名の笹原は旧い歌枕。 「有」と「否」男と女のラブコールも響かせた対句でもある。 笹原のそよぎから、「そよ」という言葉が引き起こされる。 「そよ」は「それよ」を略したもの、 「いでそよ」となると、「さあ、それなんですよ」と弾んで、ここの「人」は男、あなた、 ・・・あなたのことを忘れましょうか、いいえ、忘れませんよ、と反語になる。 【作者や背景】 大弐三位(だいにのさんみ)、藤原賢子(かたこ、かたいこ、けんし)(999−?) 父は藤原宣孝。 母は紫式部。 長保3年(1001年)3歳ごろ父と死別。 長和6年(1017年)18歳ごろ、母の後を継ぎ一条院の女院彰子(上東門院)に仕えた。 二つ三つくらいで父と死別したあと、母とともに祖父の藤原為時に養われたようである。為時は有名な学者であって、母方の系統はみな文雅の人であった。母とともに彰子皇太后に仕えることとなったが、まもなく母の紫式部に死別する。紫式部は長和三年(1014)ごろ、四十一、二歳で死んだのではないかと推定されている。 そのころ賢子は十四、五、六ぐらいの年頃であろうか、加えて翌々年、杖とも柱とも頼む祖父為時も出家してしまう。 賢子は若くして一人ぼっちになった。 宮廷女房として、自分の才と若さだけを頼みに泳ぎぬかねばならない。 しかし賢子はそれをやってのけたのである。 母ゆずりの才気と勝気、父譲りの美しさと快活、バイタリティ、それにそのころ宮中に『源氏物語』がようやくさかんに読まれはじめ、母の存在が大きくなっていたことであろうと思われる。賢子は親の七光を十分効果的に使ったのかもしれない。 賢子は権門の貴公子と次々恋をする。藤原定頼から藤原の兼隆みな一流の貴族である。関白藤原道兼の次男兼隆と結婚で一女をもうけた。 長暦元年(1037年)までの間の三十六、七のころ東宮権大進高階成章と再婚、 同2年(1038年)為家を生む。 しかも子供を産んだとき、ちょうど後冷泉天皇が誕生され彼女は乳母に選ばれた。 天皇の乳母の権威は大きい。また賢子は聡明で情理知りの女性だったから後冷泉帝へのお躾もきわめて評判がよかった。 そんなことで世に重く扱われ、しだいに出世して従三位、典持とすすんだ。 天喜2年(1054年)後冷泉天皇の即位とともに従三位(じゅさんみ)に昇叙、夫正三位成章も大宰大弐(大宰府の長官)に就任した。大弐三位はこの官位と夫の官名に由来する女房名である。 賢子は茂章と結婚したので大弐三位と呼ばれることになり、それまでは祖父が越後守だったので越後の弁と呼ばれていた。 この茂章は54番の作者儀同三司の母の一族であるが蓄財の才にはことのほか長けていたという男、賢子は若き日には貴公子らとしっかり恋をたのしみ仕事の業績もあげて立身し、中年になって大金持ちの高級官僚と結婚して身を固めたのである。 なんとめざましい生き方ではないか、現代キャリアウーマンの願望を絵に書いたような人である。 長元元年(1028年)「上東門院菊合」、永承4年(1049年)「内裏歌合」、同5年(1050年)「祐子内親王家歌合」など多くの歌合で歌を詠んでいる。 承暦2年(1078年)には80歳近い高齢で「内裏後番歌合」に出席し、子為家の代詠をつとめている。 家集『大弐三位集』(一名『藤三位集』)がある。『後拾遺和歌集』に37首入集。また、「小倉百人一首」にこの「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ 人を忘れやはする」が採用されている。 『源氏物語』宇治十帖や『狭衣物語』の作者と掲げられることがあるが、真偽は定かではない。 【主な派生歌】 もろともに ゐなのささ原 道たえて ただふく風の 音にきけとや (定家) 行きくらす ゐなのささ原 そよさらに 霰ふりきぬ 宿はなくして (藤原為家) 風わたる ゐなのささ原 そよさらに うきふししげく 露ぞ乱るる (九条教実) うらみばや ゐなのささ原 とにかくに いでそよつらき ふしのしげさを (宗尊親王) 鹿のこゑ 虫の音もまだ 有馬山 ゐなのささ原 そよや初雪 (木下長嘯子) 荻の葉に 秋風たちし 夕べより いでそよさらに 誰か恋しき (〃) 暮るる日の ゐなのささ原 風たちぬ いでそよ夏を わするばかりに (中院通勝) 風ふけば いでそよ今も ささがにの 袖にかかりし 暮ぞわすれぬ (下河辺長流) 【出典・引用・転載元】
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<心地れいならず侍りけるころ 人のもとにつかはしける 後拾遺集・巻十三・恋三> もはや死にそうなのに、心の中に思い秘めた人よ。 『和泉式部集』に「ここちあしきころ、人に」とあって、病気が重くなり死を身近に感じたころ、病床から恋人に贈った歌。 ということであるが「人」がだれか、また詠歌の時も明らかではない。 【歌意】 ・・・・・・・・・・・・・・
生きてはいない来世での思い出に いま一度あなとの逢う瀬がもちたい ・・・・・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * あらざらむ この世のほかの 思ひ出に;
「あらざらむ」は生きてはいないかもしれない意、「この世のほか」を修飾する。
* いまひとたびの あふこともがな;「あら」はラ行変格活用動詞未然形、この世に生きてあり、生きているという存在の意。 「ざら」は打消の助動詞「ず」(ず+あり)の未然形。 「む」は推量の助動詞「む」の連体形。 「この世のほか」は来世。 「こ」は指示代名詞。 「の」は連体修飾語をつくる格助詞。 「に」は目的(・・トシテ)を示す格助詞。 第三句は「あふ」にかかる。
「いま」は副詞、もう・さらに、の意。
75調は初心者に向いていない。というのは3句でいったん切れると、下の句がおまけのようになったり、力の弱い(説得力のない)死歌になりやすいため。「あふ」は四段活用動詞「あふ」の連体形。 「もがな」は願望の終助詞。 【作者や背景】 平安時代、ひとりの少女が大皇太后宮内親王に仕えていた。 ある夜、この内親王に恋焦がれた冷泉天皇の皇子が、忍んでくる。 内親王は部屋を暗くし、少女を残し去る。 少女は内親王の代わりに皇子に抱きすくめられ・・・・ まちがいから生じた恋に少女は、身も心もとろけていく。 だが、少女は和泉の守、橘道貞の妻となる。 少女は、「和泉式部」と呼ばれる・・。 さて、この和泉式部は、大江雅致の娘で、清少納言、紫式部など多くの才女たちと同様、本当の名前はわからない。 最初の夫、橘道貞が和泉守だったので「和泉式部」と呼ばれた。 二十歳になる少し前くらいに道貞と結婚したと思われるが、その数年後には弾正宮為尊親王との恋におちた。 道貞との間には子供もいたが、(後の小式部内待。
「大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」60番の作者)
燃えさかるマグマのような情熱を持つ彼女がただ、『平凡な幸福』に満足できるはずもなく、親王との愛にのめりこむ。作者ははじめの夫道貞のもとをはなれると、冷泉(れいぜい)天皇の皇子弾正宮為尊親王(だんじょうのみやためたかしんのう)との恋愛から、長保四年(1002)の親王の死を境に、その弟皇子帥宮敦道(そちのみやあつみち)親王と結ばれる。その愛の生活は「和泉式部日記」にくわしい。 弾正宮為尊親王死の翌年四月、亡き親王の弟、師宮敦道親王から橘の小枝が届けられた。 知らぬ者とてない『古今集』の名歌 一見何気ない見舞いのようであるが、孤りになった和泉式部の気を魅いて手応えを探ろうという狙いはすぐにわかります。彼女は、なんとも大胆な歌を返しました。 「薫る香によそふるよりは時鳥聞かばや同じ声やしたると」 (橘を、かっての恋人の香の香りに託すよりも、その橘に宿る時鳥が、昔の人と同じ声なのかどうか、きいてみたいものね・・・) 挑むような、積極的な歌。 「私に気があるというなら、私のほうも、あの方に劣らぬ弟宮なのかどうか、試しにあってみたいものね」というわけ。 その後、二人は烈しい恋におちます。男女の色恋沙汰には慣れた貴族社会の人も、これには驚き、眉をひそめた。 そして、この年十二月、二人は世間の目をさらに驚かせることをやってのける。 師宮が、正妻のいる本邸に和泉式部を入れたのである。 もちろん、妻としてではなく、正妻付きの女房という立場ではあるが、正妻にしてみれば腸の煮えくり返る思いだったはず、ひと月後(寛弘元年正月)に師宮の邸を出てしまった。 そして三年後、和泉式部に第二の衝撃が襲いかかる。 師宮敦道親王が、まだ二十七歳の若さでこの世を去った。 和泉式部の受けた精神的な打撃はあまりにも大きく、しばらくは立ち直ることもできなかった。 その後、和泉式部は、娘の小式部内待とともに、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の女)のもとに出仕し、紫式部や赤染衛門などの才女たちの居並ぶ華やかな宮廷生活を送る。 そして、道長の家司(執事)藤原保昌と結ばれますが、他に何人もの恋人(多くは年下の男)がいたようで、さすがアクの強い道長も呆れて「浮かれ女」と評したりもしたようである。 そして、その任地丹波へ下ることになる。 『百人一首』の中の 「あらざらむ この世の外の 思ひでに 今一度の 逢ふこともがな」56番 は『後拾遺集』から採ってあるが、その詞書には、「心地例ならず侍りける頃、人のもとに遣はしける」(病気で気分がよくないときに、男のもとに言い遣わした歌)と書かれている。 「私の命はもう尽きてしまうのでしょう。こうしてこの世を去って赴く死後の世での思い出のために、ああ、もう一度、あなたとの逢瀬がほしい」 というこの切ない呼びかけは、いったい誰に向けられたものであろうか。 こんな心細い時に優しく抱きしめてもらいたい男とは・・・・・・? もしかすると、もはやもとの仲に戻るわけにはいかない、かっての夫、道貞なのかも知れない。 情熱と愛欲に突き動かされて奔放に生きた和泉式部は、その一面、常に飢えるような孤独の思いに虐まされていたようである。 中古三十六歌仙の一人。 当時の最高権力者藤原道長によって「浮かれおんな」と評された恋多き人物だったらしい。 生没年不詳ではあるが974〜978年頃の生まれとされている。 父は越前守の大江雅致(まさむね)、 母は越中守の平保衡(やすひら)の娘で、二十代前半で和泉守橘道貞の妻となった。 和泉式部の名前は夫の任国の「和泉」と父の官名「式部」からこのように呼ばれた。 結婚後、和泉式部は一時は道貞と共に和泉に赴いたが、その在任期間の後半は何故か京に戻ってきて別居している。 * (誠心院より) 「誠心院の寺伝によりますと、平安の女流歌人の代表とされる和泉式部は、初代住職と言われています。
「 大江山 いく野のみちの とほければ
まだふみもせず 天の橋立 」 (小式部内侍 百人一首)その歌を母と共に百人一首に収められている、娘小式部内侍は、若くして他界します。娘に先立たれ、この世のはかなさを思った和泉式部は、当時、女人には出来ぬとされていた、往生のすべを求め、誓願寺のご本尊のお告げにより、六字名号を念仏し女人の往生を成し遂げます。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (蛇足)
散文
恋は狂気である。-プラトン『饗宴』 恋とは、明敏で、生き生きとして、陽気な興奮状態である。--ミシェル・ド・モンテーニュ 恋はどんな薬草でも癒せない。--w:オウィディウス、『変身物語』 "Nullis amor est sanabilis herbis." - Publius Ovidius Naso, Metamorphoses 詩歌 ほととぎす なくや五月の あやめぐさ あやめも知らぬ 恋もするかな
-よみ人知らず『古今和歌集』
恋歌一巻頭歌。
夢にだに 見で明かしつる 暁の 恋こそ恋の かぎりなりけれ
--和泉式部『新勅撰和歌集』 都都逸; 一つ消えてはも一つ灯る恋の炎と蛍火と-作者不明 恋にこがれてなく蝉よりもなかぬ螢が身をこがす-鴬亭金升 三千世界の烏を殺しぬしと朝寝がしてみたい-高杉晋作 人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ--作者不明 人の恋路を邪魔する奴は窓の月さえ憎らしい--作者不明 諺と格言 恋と戦争は、手段を選ばない。--英語の諺他 All's fair in love and war. 博打で幸運、恋愛で不運。--フランスの諺 恋するものは皆詩人。--出典不明 【出典・引用・転載元】
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