ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

百人一首51〜60

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滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ 
大納言公任 ( だいなごんきんとう ) 

<大覚寺に人々あまたまかりたちけるに ふるき滝をよみ侍りける 『拾遺集』・巻八・雑上>

【歌意】
・・・・・・・・・・・・・・・・・
(大覚寺に古く伝わる、嵯峨の帝が賞でたもうたという)
滝の音は絶えて聞けなくなってから
長い年月が経ってしまっているが
その名高い評判だけは世間に流れ伝わり
いまだに聞こえてありし日の栄えがしのばれることだなあ
・・・・・・・・・・・・・・・・・

【語句・文法】

* 滝・流れ  音・聞こえ  たき・流れ  はそれぞれ縁語。
「た」音と「な」音の重ね。(技巧的、形式的) 

* 滝の音は たえて久しく なりぬれど;

「滝」は京都市右京区嵯峨大覚寺の滝。この寺は元嵯峨天皇の離宮で、大沢の池もその遺跡で、滝もあり、後世この歌によって「名こその滝」と呼ばれる。
「は」は強調の係助詞。水の涸れ、音が絶えた滝の跡を。
「たえ」は下二段活用動詞「たゆ」の連用形。
「て」は順接の接続助詞。
「久しく」は形容詞「久」の連用形。
「なり」は四段活用動詞連用形。
「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」の已然形で、逆接の接続助詞「ど」が接して確定条件。

*  名こそ流れて なほ聞こえけれ;

「名流る」は評判が伝わる意。 
「名」は評判・名声。
「こそ」は強意の係助詞で、結びは詠嘆の助動詞「けり」の已然形「けれ」。
「流れ」は下二段活用動詞「流る」の連用形、しだいに伝わる意。
「なほ」は副詞。
「聞こえ」は下二段活用動詞「聞こゆ」の連用形。

【作者や背景】

大納言公任・本名藤原公任(966〜1041)太政大臣藤原頼忠の子。三船の才を称されるほどの、博学多才で、当代歌界に指導者として君臨。『和漢朗詠集』を編纂したほか『新撰髄脳』『和歌九品』『深窓秘抄』『諸国歌枕』『北山抄』『金玉集』などの編著がある。勅撰集入集歌八十八首。中古三十六歌仙の一人。
王朝の全盛時代に活躍した花形貴族の一人である。歌人・歌論家として有名。博学多才で、出自もよい。

三船の才、とうたわれている。これはある年、道長が大井川で遊んだとき、漢詩の船、音楽の船、和歌の船と分けて、それぞれの道にすぐれた人をのせた。この公任大納言はどれにもすぐれていたので、道長は
「どの船にお乗りになられるか」と聞いたという。そう聞かれるだけでも身の栄誉であろう。

公任は、「では和歌の船にしますかな」といって詠んだ歌。

「をぐら山 嵐の風の 寒ければ もみじの錦 着ぬ人ぞなき」

さすがはと人々が感じ入ると、公任は、
「いや漢詩の船に乗ればよかった、そしてこの歌ぐらいの詩を作っていれば、名声はいっそう上がっただろうに惜しいことをした」とうそぶいた。

妹の醇子が円融帝の中宮となって入内するとき、その行列が兼家の邸の前を通った。兼家の娘も円融帝の女御の一人で、さぞ醇子の立后をうらやましくもせつなくも思って見送ったであろう。
公任は得意のあまり、馬を控えて、「こちらの女御はいつ立后なさるのかね」と放言、兼家側の怨みをかった。

ところが醇子には、お子はできず、兼家の娘の詮子に生まれられた皇子が一条帝として皇位に即かれ、立場は逆転する。
詮子が皇太后として意気揚々と入内するとき、詮子側の女房に公任は、「お妹さんの素腹の后はお元気なの?」とやられてしまった。
素腹の后、というのは「うまずめ」というよりも更に物凄い悪口である。

さて、この歌は、才知の勝った技巧的な歌で、当意即妙の所が取り柄で内容は特にない。
ただ調べの上で「た」「と」「な」「ぬ」「な」「な」「な」と同音が繰り返されるなめらかな試みは、この作歌の目的の、むしろ大半だといってよい。
この歌は、魅力ない歌として、古来から評判が悪い。
公任なら、もっといい歌がたくさんあるだろうに、という。
なぜ定家がこんな駄作を入れたのであろうと、諸家あたまを絞って「た」音がつづくから良いだの「な」音の響きが良いだのと必死に良いところを探したようである。


【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>
等から。
わすれじの ゆくすゑまでは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな 
儀同三司母 高内侍 
<新古今集巻十三(恋三)「中関白かよひそめ侍りけるころ 儀同三司母」>

【歌意】
・・・・・・・・・
あなたは
「いつまでもおまえを忘れまい」
と言うけれど
先々まではそれも難しいので
いっそ 
この上なく幸せな
今日を限りの命であってほしい
・・・・・・・・・

【語句・文法】

◇中関白(なかのかんぱく) 作者の夫、藤原道隆(953-995)。兼家の子で、道長の兄。正暦元年(990)、関白となる。
◇わすれじの 私を忘れまいとのあなたの約束が。
「忘る」は恋歌では「気にかけなくなる」「捨てる」といった意味で用いられる。
◇かたければ (約束が守られることは)難しいので。
◇今日をかぎりの 今日を最後とする。
◇命ともがな 命であってほしい。
「もがな」は願望をあらわす助辞。奈良時代「もがも」であったのが、「もがな」に変じ、「も・がな」という二語として意識されるようになった。

*  わすれじの ゆくすゑまでは かたければ;
「わすれじのゆくすゑ」は、あなたが私をけっして忘れまいとのその将来。
「忘れ」は下二段活用動詞「忘る」の未然形。
「じ」は打消しの意を表す助動詞終止形。
「の」は「忘れじ」を句として受けて連体修飾語とする格助詞。
「ゆくすゑ」は名詞。
「まで」は物事の及ぶ限度を示す副助詞。
「は」は係助詞。
「かたけれ」は形容詞「難し」の已然形、順接の接続助詞「ば」を接して確定条件。維持されるのは難しいから。

*  今日をかぎりの 命ともがな;
「を」は動作の対象を示す格助詞。
「かぎり」は名詞。最終・最後の意。
「の」は連体修飾語作る格助詞。
「と」は状態を示す格助詞。・・・ありたいと願望する状態を示す。
「もがな」は願望の終助詞。

【作者や背景】

高階貴子 たかしなのきし(-たかこ) 生年未詳〜長徳二(996) 
通称:儀同三司母 高内侍 ぎどうさんしのはは 

作者は式部大輔従三位高階成忠の娘。円融天皇の内侍となり、高内侍(こうのないし)と呼ばれる。 
百人一首では時代順となって53道綱母の次に来る。

高階氏は長屋王の末裔と伝わる。式部大輔従三位高階成忠の娘。中関白藤原道隆の妻。伊周(これちか)・隆家・定子らの母。伊周の号「儀同三司」から、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)と称される。

円融天皇の内侍となり、高内侍(こうのないし)と呼ばれる。
その後、藤原道隆の妻となる。

正暦三年(990)、正三位。長徳元年(995)に夫が死去し、同二年伊周・隆家が左遷されるに及び、中関白家は没落。同年十月、失意の内に没した。

女房三十六歌仙。
和歌を能くし、女ながらに詩文に長けた由、『大鏡』など諸書に見える。

円融朝に内侍として宮中に出仕し、漢才を愛でられ殿上の詩宴に招かれるほどであった。
おなじ頃、中関白藤原道隆の妻となり、内大臣伊周・中納言隆家・僧都隆円の兄弟及び長女定子を含む三男四女を生んだ。

定子が一条天皇の中宮に立てられたため、正暦元年10月26日、従五位上から正三位に昇叙。
一方、貴子腹の嫡男伊周も急速に昇進し、正暦三年十九歳にして権大納言に任ぜられ、翌々年さらに内大臣に昇ったため、貴子は末流貴族の出身ながら関白の嫡妻、かつ中宮の生母として栄達し、高階成忠は従二位と朝臣の姓を賜った。

ところが、(995)4月10日に夫・道隆が病死すると、息子の伊周と隆家は叔父道長との政争に敗れ、権勢は瞬く間に道長側に移った。翌年になって、伊周と隆家は、花山院に矢を射掛けた罪によって大宰権帥・出雲権守にそれぞれ左降・配流。

貴子は出立の車に取り付いて同行を願ったが、許されなかった。
その後まもなく病を得て、息子の身の上を念じながら、同年10月末に薨去した。四十代であったと推定される。

【他の代表歌】
夜のつる 都のうちに こめられて 子を恋ひつつも なきあかすかな  (詞花集)

【主な派生歌】
あすならば 忘らるる身に なりぬべし 今日をすぐさぬ 命ともがな 
(赤染衛門[後拾遺])
忘れじの ゆく末かはる けふまでも あればあふよを 猶たのみつつ
(藤原家隆)
春霞 かすみし空の 名残さへ けふをかぎりの 別れなりけり
(九条良経[新古今])
忘れじの ゆくすゑかたき 世の中に むそぢなれぬる 袖の月かげ
(源家長[新勅撰])
逢ひみむの 行末までは かた糸の よりよりかこつ 中のうきふし
(堯孝)


出典・転載元は千人万首・遊びをせんとや 等。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kisi_t.html
嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る 

<入道摂政まかりたるけるに、門(かど)を遅くあけければ 立ちわずらいひぬといひ入れて侍りければ 右大将道綱の母 拾遺集・巻十四・恋四>
拾遺集・巻十四・恋四(912)に「入道摂政まかりたるけるに、門(かど)を遅くあけければ、立ちわずらいひぬといひ入れて侍りければ、右大将道綱の母」とあるのが出典。
夫が訪れてきたときに、妻である作者がなかなか戸を開けなかったので
「長い間、立っていて疲れた」と皮肉を言った夫に対して答えた歌。
行き場のない夫への怒りと悲しみを強い口調でなじるしかない想いの歌。

【歌意】
今夜もいらっしゃらなかった・・・
ため息をつくひとり寝の床の夜の長さ
夜明けまでの長さを
あなたご存知・・・?
ごぞんじないでしょうね
あぁ〜にくらしい

【語句・文法】

* 嘆きつつ;
「なげき」は四段活用動詞「なげく」の連用形。
「つつ」は継続を示す接続助詞。

* ひとり寝る夜の 明くる間は;
「ぬる」は下二段活用動詞「ぬ」の連体形で、「いぬ」と同意。
「の」は修飾句内の主語を示す格助詞。
「あくる」は下二段活用動詞「あく 明く」の連体形。
『あくる』=『夜が明ける』は「門を開ける」の掛詞。
更に 門を『開ける』間さえ待ち切れないという貴方には,お分かりにならないでしょうという嫌味も含まれている。
「あくるまは」は、夜が明けるまでの間はの意。
「ま」は名詞、間・経過時間の意。
「は」は係助詞。
「遅く+する(動詞)」は、「そのときになっても・・・しなかった」、の意。時間の長さで比べれば物の数ではない。
* いかに久しき ものとかは知る;
「いかに」は形容動詞「いかなり」の連用形。
「久しき」は形容詞「久し」の連体形。
「もの」ことである。
「と」は引用の格助詞。
「かは」は反語の係助詞、結びは動詞連体形「しる」。
この反語は「・・・と知っているか」、「知らない」、が原意。
恨みを述べつつも機知を効かせた当意即妙の歌となる。


【作者や背景】

承平七年(937)頃〜長徳元年(995)陸奥守藤原倫寧(ともやす)のむすめで、天暦八年(954)藤原兼家と結婚し、翌年道綱を生んだ。本朝三美人のひとりとされるほどの美人であったと伝えられる。家集に『道綱母集』日記に有名な『蜻蛉日記』が残されている。

藤原兼家との結婚が成立したのは天暦八年(954)秋、作者は十八、九歳、夫は二十六歳であった。新婚間もない九月末、兼家が二夜続けて来ないことがあり、手紙ばかりが送られて来たのに対し、返事とした歌である。晩秋の朝方から降り始めた時雨に言寄せて、泣き濡れた我が身の心細さを訴えている。兼家はすぐに返して「思ひやる心の空になりぬればけさはしぐると見ゆるなるらむ」、あなたを思いやる余り心は上の空なので、私の涙が時雨と降ってそちらにまで見えたのだろう、と弁解しつつ心遣いを見せている。

この歌は彼女の若かった時代の歌で、結婚後すぐの頃頼りにする父は遠い陸奥の任地にあり、彼女は道綱を生んだばかりの心細いときだった。さすがに兼家はやさしい心づかいみせて、よく彼女の面倒を見てくれた。
 
いうまでもなく『蜻蛉日記』の作者。この作者は残念なことに名がわからない。それ故に生んだ子の名を持って「その母」として伝えられている。

藤原倫寧(ともやす)という中流貴族の娘、姪に『更級日記』の作者がいるから文学的才能のあった一族であろう。また 縁戚に清少納言などもいるが血はつながっていない。もっともこの時代の狭い貴族社会のこと、引きずり引っぱってみれば、たいてい縁戚になるのかもしれない。この人は美人だったという伝説がある。『大鏡』には「きわめたる歌の上手」と書かれているので、才能が容色を輝かすといった才女だったのかもしれない。

『蜻蛉日記』は女性の好む本である。世には「いやなもの見たさ」ということがある。『蜻蛉日記』が千年の歳月、読みつがれてきたのは、この「いやなもの見たさ」の精神であろう。人はそこに「いやらしさ」の真実をかいま見て感動する。『蜻蛉日記』の作者「右大将道綱の母」は、冒頭にこんなことを書いている。 
「年月ははかなく過ぎてしまった平凡な私、役にもたたぬ人間だけれど、つれづれに世間にはやっている小説を見ると、つまらぬ作り話が多い。それよりありのままの私の身の上を書いてみようかしら。」

高い身分の男と結婚して玉の輿といわれるけどその実態はどんなものか、知ってほしいわ。・・・・作者はそう思ってわが夫婦生活を書くのである。
彼女の結婚した相手は歴史に残るような政界の大物、藤原兼家である。
当時の貴族の習わしで、すでに時姫という妻がいて長男も生まれいる。 
 
しかし「蜻蛉」 (と、仮によぶ)が側室というわけではない。上流貴族の男は何人でも妻をもてるので、妻の地位は対等である。兼家は生涯、正室というものを持たなかった人だった。自分の邸に誰一人、妻を入れていない。兼家が妻たちの邸をまわり歩いている。

「蜻蛉」はむろん、そういう社会習慣をよくわきまえている。しかも兼家は当時の最高の家柄で、彼女の実家とは格段に身分がちがう。実家の権威をあてにすることもできない。それやこれやの物思いが彼女のプライドを刺激する。彼女はひたすら夫の訪れを待つ不安な妻の地位に耐えられない。

「三十日三十夜はわがもとに」と念ずるような独占欲の強い女だった。
ほかの妻に嫉妬し、愛人を呪ってはばからない。あるいは尼になろうとしてみたり(兼家はいそいで彼女を取り戻し家へ連れ帰っている)夫の手紙に拗ねたり、せっかく夫が訪れてもプンとふくれて背中を向けたままだったり。

しかも都合の悪いことに、彼女は、実は夫を愛していたのだ。夫の愛を独占するということに絶望しながらも、夫の一語一句に一喜一憂する。それは地獄のような歳月であった。現代の私たちが『蜻蛉日記』を読めば、兼家なりに彼女を愛していたというのがわかるのだが、彼女はそこまで省察できなかったらしい。

あまりにも自分本位である。しかしそれなりに掘り下げていって真実に到達した。皮肉にも兼家の性格はじつにあざやかにいきいきと描かれている。兼家という男は中々まめな男で、上は内親王から下は「町の小路の女」まで、幅広くつきあっている好色家であった。

「蜻蛉日記」によると、天暦九年(955)冬のある日、兼家は作者のもとを訪れるが、やがてそそくさと出て行ってしまう。夫が出て行ってからほかの女に当てた彼の恋文を発見する。またあら手ができたのだわと思い、彼女が後をつけさせると「町の小路の女」という愛人のもとに泊まったのであった。彼女は嫉妬と憤怒に煮えくりかえる。

「二、三日ばかりありて、暁がたに、門をたたくときあり、さなめりと思ふに、憂くてあけさせねば、何の家とおぼしきところものにしたり。つとめて、なほあらじと思ひて・・・・・」とあり、いくら気の強い彼女といえども、「なほもあらじ」、このままにしてもおかれまい、というので、この歌を
「うつろいたる菊」につけて贈るのである。

ここで兼家は返した。
げにやげに 冬の夜ならぬ 真木の戸も 遅くあくるは わびしかりけり

・・・いやほんとうにいわれる通りです冬の夜の長さもつらいが、木の戸でもあくのが遅いのはもっとつらいものです・・・。

盛りを過ぎた菊は、むしろ当時はほめ味わうべきものであったがここではもちろん皮肉である。
彼女は夫がしれしれとそ知らぬ風にあしらうといって怒っている。
とにかくまあ、何をしても怒る女なのである。

作者は、おそらく晩年に自己の生涯を振りかえって、失われた人生を、日記にすることによって、創造的によみがえらせようとしたのであろう。
歌人小町(9の作者)から伊勢(19の作者)をへて、悲しい女の愛は、このようにしっかりと日記文学によって書きとどめられるようになったのである。

平明な表現の背後に、切実な感情がある。ただし、「蜻蛉日記」から独立させて、一首の歌として味わうと、一夫多妻の婚姻形態の中で、不実な男の愛を嘆く女の気持ちの表白であろう。
閨怨(女性がひとり寝のわびしさを嘆くこと)の姿が浮かび上がってくる物語的な歌であり、定家の好きなところでもあった。

つごもりがたに、しきりて二夜ばかり見えぬほど、文ばかりある返りごとに
きえかへり露もまだひぬ袖のうへに今朝はしぐるる空もわりなし(蜻蛉日記)
・・・・・・・・・・・・
消え入るような思いで夜を過ごし、涙もまだ乾かない袖の上に、今朝は時雨を降らせるとは、空も遣る瀬ない。
・・・・・・・・・・・・
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tunahaha.html
しかし詞書を持たない百人一首の歌として見れば、「あくる」は「夜が明ける」以外の意味を帯びず、ひたすら独り寝の嘆きを訴える哀韻が深い。永夜の孤閨は3柿本人麿の「あしびきの山鳥の尾の…」、85俊恵法師の「夜もすがら物思ふ頃は…」とも共通するところで、王朝恋歌を貫流するメイン・テーマであった。
この歌は『深窓秘抄』『前十五番歌合』など藤原公任撰の秀歌選に採られており、早くから名歌の誉れが高かった。
王朝貴族社会を生きた女性の哀しみを切々と歌い上げて『蜻蛉日記』の主題を集約するような歌であり、また怨みがましくも優艷さは失わない日記の文体を髣髴とさせる歌でもあり、作者の代表歌と言えば本作以外あり得ないだろう。


【主な派生歌】

岩の上の たねにまかせて まつ程は いかに久しき 物とかはしる
(和泉式部)
まどろまで あかすとおもへば みじか夜も いかにくるしき 物とかはしる
(〃)
うらみつつ ひとりぬる夜の 秋風に 身にしむものと いかでしらせむ
(藤原秀能)
秋の田の 庵もるよはの あくるまは いかに露けき 月とかはしる
(弁内侍)
ね覚して 松のとぼその あくるまは 花にひさしき をはつせの山
(木下長嘯子)
高砂の 尾上ならでも 時鳥 まつは久しき 物とかはしる
(後水尾院)
暮るるまの いかに久しき 影ならん 独ぬるよに あらぬ春日も
(武者小路実陰)


【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>
等から。
明けぬれば 暮るるものとは しりながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな 
藤原道信朝臣 

<後拾遺集巻十二(恋二)「女のもとより雪ふり侍りける日かへりてつかはしける 藤原道信」>

【歌意】
・・・・・・・・・・
夜が明けてしまうと
いずれ日は暮れるもの
そして再びあなたと逢えるのだと
分かってはいるのだけれども
それでもやはり
恨みに思える朝ぼらけですよ
・・・・・・・・・・


【語句・文法】

* 明けぬれば 暮るるものとは しりながら;
「あけ」は下二段活用動詞「あく」の連用形。夜が明ける意。
「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」の已然形で、順接の接続助詞「ば」が接して、恒常的関係を示す確定条件を示す。
「暮るる」は下二段活用動詞「暮る」の連体形。
「もの」は名詞。
「と」は引用を示す格助詞。
「は」は強意の係助詞。
「しり」は動詞連用形。
「ながら」は逆説の接続助詞。
「暮るるものとは」とは、再び逢えるその日の宵のことをいう。

* なほ恨めしき 朝ぼらけかな;
「なほ」は副詞。それでもやはりの意。
「恨めしき」は形容詞「恨めし」の連体形。
「朝ぼらけ」は夜のほのぼのと明けるころ。
「かな」は詠嘆の終助詞。

◇明けぬれば暮るる; 夜が明けてしまえば、いずれ日は暮れる。
◇朝ぼらけ; 夜が明けてまだ物がぼんやり見える頃。恋人たちが別れる時刻。

【作者や背景】

作者は太政大臣為光の三男。母は一条摂政伊尹女。すなわち45謙徳公の外孫。
右兵衛佐・左近少将・左近中将などを歴任。
正暦三年(992)六月、父為光が薨去し、多くの哀傷歌を詠む。
同五年正月、従四位下に叙されたが、同年七月十一日、二十三歳で夭折した。

51藤原実方・55公任と特に親しく、頻繁に歌の贈答をしている。
拾遺集初出。勅撰入集四十八首。
家集『道信朝臣集』がある。中古三十六歌仙。

やさしい「後朝(きぬぎぬ)」の歌。
薄命の青年詩人であった。


この年は、九州から流行してきた「天然痘」が猛威をふるった年で 道信もかかったのであろう。
上流階級の人々さえバタバタ死んだのだから、一般の人々の死者はまして・・・

道信は 太政大臣・為光の三男。
彼の次兄が 藤原斉信(ただのぶ)
斉信は『枕草子』にも登場し、男に点の辛い清少納言が
「すてき!」と思わせたような美男。
その弟・道信も美男であった。
しかし、社会人になってこれから・・・という時、父を亡くした。
一年間“喪”に服し、忌明けに詠んだ歌

「限りあればけふ脱ぎすてつ藤衣 はてなきものは涙なりけり」 
   
年若くして、父の庇護を失うと立身は難しい。
しかし、見込まれたのか、内大臣・道兼(従兄にあたる)の養子になった。
そして 道兼夫人の妹姫と結婚した。
   
道信には結婚より前か後かわからないが、悲恋物語がある。
十四歳で花山天皇の女御になられた婉子姫。
有名な美人で、父は為平親王(村上帝皇子)、母は源高明(醍醐帝皇子)の娘という名門の姫君。
ところが 花山さんは二年後譲位して仏門に入ってしまわれる。

女御はお子もなく、十六歳であったが、宮中を出られた。この姫に言い寄ったのが、道信と実資。
実資は道信より十五も年長社会的地位もあり大金持ち。
姫は実資夫人となった・・・・

青年はうちひしがれて、今はせめてと姫のもとへ歌を贈った。

「うれしきはいかばかりかはおもふらむ 憂きは身にしむ心地こそすれ」 

(恋を得た人はどんなに嬉しいでしょうね。
それにひきかえ、私の辛さは身にしむ心地がいたします)


『§姥ざかり§』より。
 
夜明けになれば暮れる
それはわかっていることだけれども
やはり明ければ帰らねばならぬ
その恨めしさ恨めしい夜明けよ


【他の代表歌】

限りあれば けふぬぎすてつ 藤衣 はてなきものは 涙なりけり
 (拾遺集)
あさがほを 何はかなしと 思ひけん 人をも花は さこそみるらめ
 (拾遺集)

【主な派生歌】

ありし夜を 見はてぬ夢の 枕にも 猶うらめしき 鐘の音かな
(源通親[新続古今])
明けぬれば くるるはやすく しぐるれど なほうらめしき 神無月かな
(藤原家隆)
おほかたの 月もつれなき 鐘の音に 猶うらめしき 在明の空
(藤原定家)
秋すぎて 猶うらめしき 朝ぼらけ 空行く雲も うち時雨れつつ 
(〃)
花の色も くるるものとは しら雲の 嶺のわかれは 猶恨みつつ
(藤原隆祐)
待ちかぬる さ夜のねざめの 床にさへ なほうらめしき 風の音かな 
(後鳥羽院)
咲きぬれば かつちる花と 知りながら 猶うらめしき 春の山風
(藤原忠家[続後撰])


【特選サイト】
《yoshy》伊勢物語と仁勢物語-2
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshy12201220
『百人一首 52番 藤原道信朝臣』
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshy12201220/40449229.html


【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>等から。

イメージ 1

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを 
藤原実方  

<女にはじめてつかはしける 後拾遺集・恋一>

【歌意】
・・・・・・・・・・・・・・
これ程あなたを恋しお慕いしていると
そのことだけでも打ち明けたいのですが
どうして言うことなどできましょう
伊吹山の「さしも草」ではないけれど
それ程だとは知らないでしょう
艾(もぐさ)のようにじりじりと燃える私の思いを
・・・・・・・・・・・・・・
 

【語句・文法】

* かくとだに;
「かく」は副詞。敬意をこめて「あなたを恋い慕っている」をさす。
「と」は引用の格助詞。
「だに」は言外に激しい恋情を含む程度を示す副助詞。

* えやはいぶきの さしも草;
「「いぶき」は「言う」と「伊吹」の掛詞。
「えやはいふ」は、言うことができようか、できはしない意。
「え」は可能の副詞。否定・反語で応じる。
「やは」は反語の係助詞。
「いぶき」は栃木県、モグサの産地伊吹山。
「さしも草」は蓬(よもぎ)の別名。モグサで、同音の「さしも」を導く。葉を干して、もぐさにする。させもぐさ。伊吹・伊吹の山に続けて用い、同音の「さしも(=それほどにも)」を導くことが多い。
「いぶきの さしも草」は序詞。

* さしも知らじな 燃ゆる思ひを;

 倒置法で強調。
「さ」は指示性副詞。
「しも」は強調の副助詞。それ程だとは・・。
「知ら」動詞「知る」の未然形。
「じ」は打消の推量の助動詞終止形。
「な」は詠嘆の終助詞。なあ。
「思ひ」は「ひ」に「火」を掛ける掛詞。
「もゆる」「火」は「さしも草」の縁語。
「を」は「しら(じ)」の対象を示す格助詞。
◇かくとだに こうであるとだけでも。これほどあなたをお慕いしていることだけでも(打ち明けたいのですが)。
◇えやはいぶきの 「えやは言ふ」を掛ける。「どうして言うことなどできましょう」の意。
◇いぶき 伊吹山。近江・美濃国境の山とする説と、下野国(今の栃木県)の山とする説とある。『八雲御抄』は美濃・近江の歌枕とするが、『歌枕名寄』は近江・下野両方に載せている。
◇さしも草 艾(もぐさ)とするのが通説。伊吹山の名産であったらしい。次句の「さしも」を導くと共に、結句の「燃ゆる思ひ」を比喩してもいる。なお「さしも草」「もゆる」は縁語。
◇さしも知らじな (あなたは私の思いが)それ程だとは知らないでしょう。
◇思ひ ヒに火を掛ける。


【主な派生歌】

けふも又 かくや伊吹の さしも草 さらば我のみ 燃えや渡らむ
(和泉式部[新古今])
さしも草 さしもしのびぬ 中ならば 思ひありとも 言はましものを
(藤原俊成)
あさましや などか思ひの さしも草 つゆもおきあへず 果ては燃ゆらむ
(寂蓮)
逢ふことは いつと伊吹の 峰におふる さしもたえせぬ 思ひなりけり
(藤原家房[新古今])
知られじな 霞の下に こがれつつ 君にいぶきの さしもしのぶと
(藤原定家)
秋をへて 色にぞみゆる い吹山 もえて久しき 下の思ひも
(〃)
色にいでて うつろふ春を とまれとも えやはいぶきの 山吹の花
(〃)
さしも草 もゆる伊吹の 山の端の いつともわかぬ 思ひなりけり
(藤原頼氏[新勅撰])
さしも草 さしもひまなき 五月雨に 伊吹のたけの 猶や燃ゆらむ
(藤原家良[新拾遺])
さしも草 さしも燃ゆてふ 春にあひて えやはいぶきの 山のしら雪
(藤原為家)
・・・・・・・・・・・・・・・

『遊びをせんとや』さんの通釈

こんなにわたしが恋慕っていることだけでも
あなたにせめて言いたいのだけれど言うことができない。
伊吹山のさしも草ではないが、
わたしの思いがそれほどまでということはわからないでしょう。
燃えるようなわたしの思いを・・・


【作者や背景】

藤原 実方(生年不詳 − 999年)
平安時代中期の公家・歌人。
父は侍従藤原定時。母は源雅信の娘。
父定時は藤原忠平の孫にあたり、実方は忠平の曾孫にあたる。
父が早世したため、叔父藤原済時の養子となる。
寛和二年(986)六月の内裏歌合に出詠するなど、若くして歌才をあらわし、円融・花山両院の寵を受けた。
藤原公任・源重之・藤原道信などと親しかった。
風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。
他にも20人以上の女性との交際があったと言われ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされることもある。
花山・一条両天皇に仕え、従四位上左中将に至った。
しかし、995年に天皇の面前で藤原行成と歌について口論になり、
怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生する。
行成は取り乱さず、主殿司に冠を拾わせ事を荒立てなかった。
これが原因で実方は陸奥守に左遷され現地に下向。
行成は蔵人頭に抜擢された。
3年後、実方がその地で馬に乗り笠島道祖神前を通った時、
馬が突然倒れ、下敷きになって没した。
年齢は40歳ほどだったという。
その死後、賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没すると言う噂が流れたことが枕草子に見える。

拾遺集初出。勅撰入集六十七首。家集『実方朝臣集』がある(以下「実方集」と略)。中古三十六歌仙。


【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・
<小倉百人一首 注釈>等から。

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