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<永承六年(1051) 内裏歌合に 後拾遺集・恋四> 【歌意】 ・・・・・・・・・・
実りある恋ならば たとえどんな評判が立とうと 耐えられるものを ・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * うらみわび;
「うらみわび」 上二段活用動詞「うらみわぶ」の連用形。男の無情を恨み悲しむ意。「恨みあぐねて」と解する説もある。
* ほさぬ袖だに あるものを; 「わび」は気落ちする・嘆息するなどの意で、動詞の連用形につく場合、(…しきれない・…する気力もない)といった意味になること。
「ほさ」は四段活用動詞「干す」の未然形、乾かす意。
* 恋にくちなむ 名こそをしけれ; 「ぬ」は打消しの助動詞「ず」の連体形。 「袖」は涙を拭くたもと。 「だに」は、軽いものを(朽ちやすい袖)を挙げて、重いもの(身や名)を類推させる、程度を示す副助詞。 「ある」はラ行変格活用動詞「あり」の連体形。 「ものを」は逆接の接続助詞。
「に」は原因を示す格助詞。
袖・くちは縁語。(袖が朽ちるー<ー名が朽ちる)「くち」は上二段活用動詞「朽つ」の連用形。 「な」は確認の助動詞「ぬ」の未然形。 「む」は推量の助動詞「む」の連体形。 「名」は名と評判。 「こそ」は係助詞、結びは、形容詞「惜し(をし)」の已然形。
「だに・・・ものを」は逆説的な強い訴えへ展開。
【他の代表歌】見わたせば 波のしがらみ かけてけり 卯の花さける 玉川の里 (後拾遺集) 五月雨は みづの御牧の 真菰草 かりほす暇も あらじとぞ思ふ (〃) もろともに いつかとくべき 逢ふことの かたむすびなる 夜はの下紐 (〃) 【主な派生歌】 恨みわび 絶えぬ涙に そぼちつつ 色変はりゆく 袖を見せばや (肥後「新拾遺」) 思ひ侘び 絶ゆる命も あるものを あふ名のみやは 儚かるべき (小侍従) ちつかまで たつる錦木 いたづらに あはで朽ちなん 名こそ惜しけれ (藤原定家) 【作者や背景】 相模 さがみ 生没年未詳 生年は長徳年間(995〜999)か。 父は不詳。 母は能登守慶滋保章女(中古三十六歌仙伝)。 『勅撰作者部類』は父を源頼光とするが、養父とみる説もある。 (『俊頼髄脳』『金葉集』には、但馬守だった源頼光が「相模母」と交わした連歌が載る)。 『相模集』によれば、娘のあったことが知られる。 はじめ乙侍従(おとじじゅう)と称した。 大江公資(きみより)が相模守だった時妻となり、相模の通称で呼ばれるようになる。 寛仁四年(1020)、夫とともに相模国に下向。 治安三年(1023)正月、箱根権現に百首歌を奉納したが、憂悶を訴える歌が多く、また子を願う歌をさかんに詠んでおり、結婚生活には不如意が多かったようである。果して同年相模から帰京した後、公資との仲は破綻を迎えたらしく、藤原定頼(さだより)などからたびたび求愛を受けている。のち公資は遠江守として赴任する際、別の女性を伴った。 やがて一条天皇の第一皇女である脩子内親王(996-1049)のもとに出仕し、歌人としての名声も高まり、 長元八年(1035)の「関白左大臣頼通家歌合」、 長久二年(1041)の「弘徽殿女御生子歌合」、 永承四年(1049)・同六年の内裏歌合、 永承五年(1050)の「前麗景殿女御延子歌絵合」「祐子内親王歌合」、 天喜四年(1056)の「皇后宮寛子春秋歌合」など、多くの歌合に出詠。 和泉式部・能因法師・源経信ら歌人との幅広い交流をもった。 また藤原範永ら和歌六人党の指導者的な立場にあった。 永承四年(1049)脩子内親王の薨後は入道一品宮祐子内親王(1038-1105。 後朱雀天皇の第三皇女)の女房として仕える。 康平四年(1061)三月の「祐子内親王家名所歌合」への出詠を最後に消息は途絶える。 後拾遺集初出。勅撰入集は計108首(金葉集は二度本で計算)。中古三十六歌仙の一人。『物思ふ女の集』と名付けられた自撰家集があったことが知られるが、現在残る家集『相模集』(『玉藻集』『思女集』などの異称がある)との関係は明らかでない。 【相模 十首】 見わたせば 波のしがらみ かけてけり うのはな咲ける 玉川の里 五月雨の 空なつかしく 匂ふなり 花橘に 風やふくらむ 五月雨は みづの御牧の まこも草 かりほす程も あらじとぞ思ふ 都には 初雪ふれば 小野山に まきのすみがま たきまさるらん 難波がた あさみつしほに 立つ千鳥 浦伝ひする 声聞こゆなり 逢ふ事の なきよりかねて 辛ければ さぞあらましに ぬるる袖かな あやしくも 現れぬべき 袂かな 忍びねにのみ ぬらすと思ふに 眺めつつ 事ありがほに 暮しても かならず夢に みえばこそあらめ 昨日けふ 歎くばかりの 心地せば あすに我が身や あはじとすらん 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋にくちなむ 名こそをしけれ 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
百人一首61〜70
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<宇治にまかりて侍りける時よめる 『千載集』・巻六・冬> 【歌意】 ・・・・・・・・・・・・
ほのぼのと夜が明けて 宇治川の水面にたちこめる川霧が 風に吹きたてられて とぎれとぎれに晴れていくと ほら 幻想的な夢のようにあらわれてくるよ そこここの川瀬の網代木が ・・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * 朝ぼらけ; ほのぼのと夜の明けるころ。 * 宇治の川霧; 「宇治川」は琵琶湖から出る瀬田川が宇治辺を通って宇治川と呼ぶ。下 流は「淀川」。 「川霧」は修飾句内述語の「たえだえに」の主語。 * たえだえに あらはれわたる;
「たえだえに」は、形容動詞「たえだえなり」の連用形で、とぎれとぎれである意。
* 瀬々の網代木; 瀬々の網代木よ、という感動文。「あらはれわたる」の意を掛けた掛詞。 「あらはれわたる」は四段活用動詞「あらはれわたる」の連体形で、一方から他方へだんだん現れてゆく意。
「瀬々」は川のあちこちの浅瀬。
体言止めで、成分上は独立語。「網代木」は網代の杭。
「網代」は上記の通り。
【作者や背景】柿本人麻呂の歌が意識に。 「もののふの八十宇治川の網代木に いさよふ浪のゆくえ知らずも」 『万葉集』の柿本人麿の歌。 (行方も知らずただよい行く川浪。冬の朝、川霧の絶えま絶えまに現れる網代木・・・) 美しい叙景歌、墨絵のようという人もあり朝のすがすがしさが感じられる。 網代木というのは、網代(竹の簾)で小魚を取るために川面の流れに対し斜めにに打ち立てる杭をいう。網代には氷魚をはじめ鮎なども取れる。冬の宇治川の風景物である。(現代の言葉ではヤナといわれている) 藤原定頼は、長徳元年(995)生まれ、 寛徳二年(1045)五十一歳で死んでいる。 この定頼の父が55番の作者・藤原公任である。 宇治を舞台に、宇治十帖の物語の世界はくりひろげられる。 宇治十帖には、もはや光源氏は登場せず、驕奢は栄華も描かれない。 宇治の川霧に仄かに浮かぶ薄幸な恋、みたされぬ物思い、手にとれない幸せ、憂愁の世界の物語である。 定頼はその物語を踏まえつつ、川霧の絶えまに浮かぶ網代木を詠った。 この定頼 小式部内待(60番の作者)に、「お母さん(和泉式部)からまだ代作の歌は来ませんか?さぞ心細いでしょうね」とからかって、小式部内待に「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」と即座に切り返され、頭を抱えて逃げていった、かの軽々しい貴公子である。 しかし定頼は、小式部内待に惚れていたと思われるふしがある。伊達男だったとみえ、大弐三位(58番の作者)ほか、いろんな女と交際があって浮名を流している。父の公任は歌人・歌論家として在世中はもちろん、死後何世紀にもわたって歌壇の指標的存在であったが、定頼の歌の方が好ましく思える。 一条天皇の大井川御幸に供奉して歌を詠進したとき、父の公任は、まだほんの少年の定頼が心ともなくて、どうぞよい歌を詠んでくれと内心、冷や汗を流していた。講師が次第に詠みすすんでついに定頼の番になる。公任は耳を引っ立てて聞くと、 「水もなく 見え渡るかな 大井川・・・」 満々たる大井川を前にして「水もなく」とはどういうつもりだろう。なんという不調法な、と公任は顔色も変わる思いであったが、 「・・・峰の紅葉は 雨と降れども」 と 朗々と下の句が詠み上げられる。どっと上がる感嘆の声。 公任は親の身として嬉しさをこらえきれず、思わず会心の微笑みを洩らしてしまったという。 少年のころから定頼は才気あふれる歌詠みであったようである。 権中納言定頼・藤原定頼(995〜1045)大納言公任の子。小式部内待にやられるなど軽薄な一面も伝えられる。 家集に『権中納言定頼集』があり、勅撰集入集歌四十六首。中古三十六歌仙の一人。 【主な派生歌】 霧はるる浜名の橋のたえだえにあらはれわたる松のしき浪 (藤原定家) 隔てつるまきのを山もたえだえに霞ながるる宇治の川なみ (源家長) 時雨れつる峰の村雲たえだえにあらはれわたる冬の夜の月 (藤原信実) 朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人 (*衣笠家良[続後撰]) 窓ちかきむかひの山に霧晴れてあらはれわたる檜原槙原 (土御門院[玉葉]) 日影さす嶺のかけ橋たえだえにあらはれわたる秋の夕霧 (二条為氏) たえだえにたなびく雲のあらはれてまがひもはてぬ山桜かな (中宮少将[新勅撰]) 朝ぼらけ霧のはれまのたえだえに幾つらすぎぬ天つ雁がね (伏見院[風雅]) 津の国の猪名野の霧のたえだえにあらはれやらぬ昆陽の松原 (邦省親王[風雅]) たえだえにあまの家島あらはれて浦わの霧に浪のよるみゆ (正徹) つつまれし野中の水のたえだえにかげあらはれてのこる冬草 (烏丸光弘) つつみこし思ひの霧のたえだえに身をうぢ川の瀬瀬の網代木 (後水尾院) 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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<伊勢の斎宮わたりより まかりのぼりて侍りける人に しのびて逢ひけることを おほやけもきこしめして 守り女などつけさせ給いて しのびにもかよはずなりにければ よみ侍りける 後拾遺集・恋三> 春宮亮(とうぐうのすけ)左中将は、伊勢の斎宮であった三条院皇女当子親王との密通事件で、監視目付けまでつけられ、三条院の厳しい咎めを受けて左京権大夫に左遷された。二人の恋は悲恋に終わったわけだ。禁じられた、この盲目一途な恋のいきさつは「栄華物語」に詳しい。 【歌意】 ・・・・・・・・・
逢う瀬を断ち切られて 今はただ あなたをあきらめる という一言を 直接話すためだけでさえも ああ 逢えないものなのか ・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * いまはただ;
「いま」は逢うことを禁じられた今。名詞。
初句切で七五調。「は」は係助詞。 「ただ」は副詞、だだもうの意で、第五句の「言う」かかる。 * 思ひ絶えなむ とばかりを;
「思ひ絶え」は下二段活用動詞「思い絶ゆ」の連用形で、あきらめる・思い切る意。
* 人づてならで 言ふよしもがな;「な」は確認の助動詞「ぬ」の未然形。 「む」は意志の助動詞終止形。 「と」は引用「思ひ絶えなむ」を示す格助詞。 「ばかり」は限定(・・だけ)の副助詞。 「を」は動作(言う)の対象相手を示す格助詞。
「人づて」他人を通じて言葉を伝えることの意。
【参考歌】「なら」は断定の助動詞「ない」の未然形。 「で」は打消の接続助詞(・・でなくて)。 「言う」は動詞連体形。 「よし」は方法の意の名詞。 「もがな」は願望の終助詞。・・・があればよい 藤原敦忠「後撰集」 如何して かく思ふてふ 事をだに 人づてならで 君にかたらん 同上「拾遺集」 いかでかは かく思ふてふ 事をだに 人づてならで 君にしらせむ 【主な派生歌】 わすれねよ これはかぎりぞ とばかりの 人づてならぬ 思ひ出でもうし (藤原定家) おなじくは 思ひ絶えなむ 言の葉を 人づてならで いふにかへばや (藤原助連) 遥かなる 生駒の山の ほととぎす 人伝ならで 聞くよしもなし (熊谷直好) 【特選サイト】 《yoshy》伊勢物語と仁勢物語-2 http://blogs.yahoo.co.jp/yoshy12201220 『小倉百人一首 六十三番 左京大夫 道雅』 http://blogs.yahoo.co.jp/yoshy12201220/40000861.html 【作者や背景】 藤原道雅 ふじわらのみちまさ 正暦三〜天喜二(992-1054) 通称:道雅三位・荒三位 中関白道隆の孫。 父は儀同三司伊周。 母は大納言源重光女。 高階貴子の孫、定子の甥にあたる。 山城守藤原宣孝の娘を妻とし、上東門院中将をもうける(中古歌仙伝)。 妻にはほかに平惟仲女がいたが、離婚して皇太后宮妍子に仕え、大和宣旨と号したという(大鏡)。 幼名を松君といい、祖父道隆に溺愛されて育った。 しかし長徳元年(995)道隆は死去し、翌年父伊周が花山院に対する不敬事件で大宰権帥に左遷されて、中関白家は没落へ向かう。この時道雅は五歳であった。
長保六年(1004)、従五位下に叙せられ、
ところが、同年九月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王と密通し、これを知った三条院の怒りに触れて寛弘二年(1005)、侍従に任ぜられる。以後、右兵衛佐・左近少将と進み、 寛弘六年(1009)、従四位下に至る。同八年には春宮権亮となって敦成親王(のちの後一条天皇)に仕え、のち左権中将となる。 長和五年(1016)正月、後一条天皇践祚の際には蔵人頭に補せられ、翌月従三位に叙せられた。 寛仁元年(1017)勅勘を被った。
万寿三年(1026)、中将を罷免され、右京権大夫に遷される。
晩年は西八条邸に閑居し、歌会を催すなどして、藤原範永・同経衡ら和歌六人党や、藤原家経・同兼房ら風流士との雅交を楽しんだ。寛徳二年(1045)、左京大夫。 永承六年(1051)、備中権守。 天喜二年七月二十日、出家の直後、薨ず。六十三歳。 『小右記』によれば、法師隆範を用いて花山院女王を殺させたり、敦明親王雑色長を凌辱したり、博打の場で乱暴を働いたりと、乱行の噂が絶えなかったようである。「悪三位」とも称された。 後拾遺集初出。勅撰入集は6首。中古三十六歌仙。小倉百人一首に歌をとられている。 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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<一条院の御時 ならの八重桜を人の奉りけるを そのをり御前に侍りければ その花を題にて歌よめとおほせごとありければ 詞花集・春> 一条天皇の時、古都奈良の僧都の奉った桜を、今年の「とり入れ人」は「今参り」(新参者)の作者にと、紫式部が役を譲ったので、それを聞いた道長が、だまって受け取るものではないと、詠ませたものとある。 含むべき挨拶の装飾性を完備し、理知的に処理した一首、即吟の名歌。 <華麗な内裏を映し出している。> 【歌意】 ・・・・・・・・・・・
(はなやかな)昔をしのぶ奈良の都の八重桜が 献上された今日(この平安の)九重の宮中で たしかに照り映えて 色美しく咲き匂うことです ・・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * いにしへの 奈良の都の 八重桜; 「いにしへの 奈良の都」は元明天皇(707−)から光仁天皇(−781、長岡遷都は784年)に至る七代の都、平城京。
「の」は三つとも連体修飾語を作る格助詞。
* けふ九重に にほひぬるかな;「八重桜」は、述語「にほい(ぬるかな)」の主語。
「けふ」は「今日」、(この時期すでにキョウと発音。「京」と掛詞。
けふ=京・今日、 「九重」は宮中の意で「ここの辺」との掛詞。 「に」は場所を示す格助詞。 「にほひ」は四段活用動詞「にほふ」の連用形で、香りではなく、美しく咲くことをいう視覚性の意の語。 「ぬる」は確認の助動詞「ぬ」の連体形。タシカニ・・・。 「かな」は詠嘆の終助詞。 (掛詞) 九重=八重の対句として多く重なる意・宮中の意・ここの辺り (対照法) いにしへ・けふ、八重・九重、「平城」と「平安」 (数の配列) 七(奈良)・八重・九重、 【主な派生詩歌】 ここのへに ひさしくにほへ 八重桜 のどけき春の 風としらずや (藤原実行[金葉]) 春を惜しみ 折る一枝の 八重桜 ここのへにもと 思ふばかりぞ (飛鳥井雅経) 限りあれば 深きみ山も いかならん けふ九重に つもる白雪 (亀山院[新後撰]) もろ人の けふ九重に 匂ふてふ 菊にみがける 露のことのは (藤原為家[新拾遺]) 形見とは ならの都の 八重ざくら 昔もとほく ふりぬ色かな (木下長嘯子) 八重桜 色はむかしに かよへども 奈良の都ぞ 荒れまさりゆく (契沖) 世に似ずよ けふ九重に 咲く菊の 花にやどれる 露の光は (冷泉為村) 九重を 一重散らせし 八重桜 けふこの里に 匂ひぬるかな (遊女玉つる) 奈良七重 七堂伽藍 八重桜 (芭蕉) 【作者や背景】 伊勢大輔 いせのたいふ 生没年未詳 伊勢の祭主神祇伯正三位大中臣輔親の娘。 能宣は祖父、頼基は曾祖父にあたり、大中臣家重代歌人の系譜に連なる。 子の康資王母(やすすけおうのはは)・筑前乳母・源兼俊母も勅撰集歌人。 父が神祇大副でもあったので伊勢大輔と呼ぶ。 寛弘四年(1007)または翌年頃から上東門院彰子に仕える。 新参の頃、「いにしへの奈良の都の八重桜…」の歌を奉って人々の賞讃を得た(『伊勢大輔集』『三十六人伝』『袋草紙』など)。その後、高階成順(たかしなのなりのぶ)と結婚。 長元五年(1032)十月の「上東門院彰子菊合」 長久二年(1041)二月の「弘徽殿女御生子歌合」 永承四年(1049)十一月の「内裏歌合」 同五年(1050)六月の「祐子内親王家歌合」 天喜四年(1056)の「皇后宮春秋歌合」などに出詠。 康保三年(1060)頼通主催の志賀僧正明尊の九十賀に歌を詠んだ(『袋草紙』)のが最後の記録になる。 後拾遺集初出。同集に27首、新古今集に7首など、代々の勅撰集に計51首入集している。 家集『伊勢大輔集』がある。中古三十六歌仙。女房三十六歌仙。 |



