ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

百人一首71〜80

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ちぎりおきし させもが露を いのちにて あはれ今年の 秋もいぬめり 
藤原基俊

<僧都光覚 維摩会(ゆいまゑ)の講師(かうじ)の講(こひ)を申しけるを たびたびもれにければ 法性寺入道前太政大臣に恨み申しけるを しめぢの原のと侍りけれど 又その年も洩れにければ よみてつかはしける 千載集・雑上>

【歌意】
あなたがお約束してくださいました
させも草についた恵みの露のような
ありがたいお言葉を頼みにしておりましたのに
ああ それもむなしく
今年の秋も過ぎていくようです


【語句・文法】

* ちぎりおきし; 
約束しておいた・・・。主語は藤原忠道。
「し」は過去の助動詞「き」の連体形。

 おくー露。させも草ー露。露ーいのちー秋。 は縁語。

* させもが露を いのちにて; 
「させもが露」は「させも草・・・・」との恵みの露のようなあなた(忠道)のお言葉。
「させも」は忠道の歌「なほ頼めしめぢが原のさせも草わが世の中にあらむかぎりは」から引いた語で、「させも草」は「さしも草(もぐさ)」のこと。
「させも」はさせようの意、「させむ」の類を掛ける。
「が」は連体格。
「露」は草の縁語で、忠道の言葉を恵みの露にたとえる。
「おき」・草・露」は縁語。
「いのちにて」は生きる力としての異。
「いのち」は露の縁語。
「に」は断定の助動詞「なり」の連用形。
* モグサ;ヨモギの枯葉を叩いたり、揉んだりしていると、枯葉は落ちて、毛状のものが残る。黒っぽい粉を工夫して取り除く。残ったこれがモグサ、お灸に使われる。 

* あはれ今年の 秋もいぬめり; 
「あはれ」は感動詞、ああ。
「も」は強意の係助詞。
「いぬ」はナ変動詞終止形。
「めり」は婉曲推量の助動詞終止形。


【参考歌】清水観音御歌「新古今集」

なほ頼め しめぢが原の させも草 我が世の中に あらむかぎりは


【主な派生歌】

あはれことし 我が身の春も 末ぞとは しらで弥生の 花を見しかな  
(宗尊親王)
老が世は けふかあすかの 露の間を いそがしがほに 秋もいぬめり
(三条西実隆)
朝日影 させもが露を 命にて かきねの霜に 残る虫の音  
(松永貞徳)


【作者や背景】

藤原基俊 ふじわらのもととし 康平三〜永治二(1060-1142)
右大臣俊家の子。道長の曾孫にあたる。
母は高階順業女。
権大納言宗俊の弟、参議師兼・権大納言宗通の兄。
宮中の最勝会は特に「御斎会」といい、正月八日から十四日の七日間、護国の経典とされる「金光明最勝王経」を、諸宗の高僧に講説させる儀式で、国家安穏・五穀成就・天皇の息災延命を祈願する、宮廷年中行事中第一の法会である。
基俊は、(律師光覚は基俊の子)子の光覚を維摩会の講師にしたく、度々忠通に依頼していたが、その望みはかなえられていない。
(維摩会 興福寺の維摩経講読の法会。毎年陰暦十月に催された。
法性寺入道前太政大臣 藤原忠通。)
「なほ頼めしめぢが原のさせも草」と、あれほどはっきりお約束してくださったのに。「させも草」に置く露のようにあてにならないではありませんか。それでも私は命の綱と頼むしかないのです。ああ、こんなふうにして、今年の秋もむなしく過ぎてゆくようです。

* [契(ちぎ)り置きし] あなたが約束しておいてくれた。
作者が藤原忠通に対し、息子を維摩会の講師にしてほしいと頼んだのに対し、忠通が請け負ってくれたことを指す。
「置き」は「露」の縁語。
しめぢの原の 基俊の依頼に対し、忠通が「しめぢの原の」と答えたのである。清水観音の歌と伝わる「なほ頼めしめぢの原の…」(下記参考歌)を踏まえ、「まかせておきなさい」と請け合ったわけである。

名門の出身でありながら、官途には恵まれず、従五位上左衛門佐に終わった。
永保二年(1082)三月以前にその職を辞し、以後は散官。
長治元年(1104)成立の堀河百首の作者の一人。
永久四年(1116)、雲居寺結縁経後宴歌合で判者をつとめる。
この頃から藤原忠通に親近し、忠通主催の歌合に出詠したり判者を勤めたりするようになる。源俊頼と共に院政期歌壇の重鎮とされ、好敵手と目された。

永保二年(一〇八二)二十三歳で左衛門佐を辞して、それ以後は叙爵がなく、
保延四年(一一三八)七十九歳で出家し、法名を覚舜とし、金吾入道と称し、また同年、当時二十五歳の藤原俊成を入門させている(『無名抄』)。
康治元年(一一四二)正月十六日八十三歳で没した。

性質が驕慢で、才学を恃んだ、身勝手な性格であったという。
家集『基俊集』がある。金葉集初出。
千載集では俊頼・俊成に次ぎ入集歌数第三位。勅撰入集105首。
万葉集次点者の一人。
古今集を尊重し、伝統的な詠風は、当時にあってむしろ異色の印象がある。
漢詩にもすぐれ、『新撰朗詠集』を編纂し、『本朝無題詩』に作を残す。



【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・<Wikipedia>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。
憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを 
源俊頼朝臣 

<権中納言俊忠の家に 恋の十首の歌よみ侍りける時 いのれども不逢恋といへる心を 千載集・恋二>

【歌意】
・・・・・・・・・・
わたしにつれなかった人を
私の方になびかしてくれよと
初瀬観音様に祈ったのだが
一層激しく吹き降ろす山颪になって
私につらくあたるばかりではないか
・・・・・・・・・・

【語句・文法】

* 憂かりける 人を; 
自分に冷たく、なびかなかった人を。
(つれなかった人をどうか私になびかせてくださいと)
「憂かり」は形容詞「憂し」カリ活用連用形。
きもちが「憂し」は気持ちがふさいでいやになること。
「ける」は過去の助動詞「けり」の連体形。
「人」は相手の女性。
「を」は動作(祈る)の対象を示す格助詞。

* 初瀬の 山おろしよ; 
初瀬観音の祀られる初瀬の山の嵐よ、という呼びかけの表現で、成分上は独立語で挿入句。
祈りを暗示している。
初瀬(はせ)は、奈良県桜井市の東部長谷町で、(国道165号線沿い)に位置し、平安朝から観音信仰で有名な初瀬寺(長谷寺)がある。古くは「はつせ」と呼ばれ、雄略天皇が初瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)を置き、用明天皇の時代に飛鳥へ遷都するまで都でした。
「山おろし」は山から吹き降ろすはげしい風。
「よ」は呼びかけの間投序詞。

* はげしかれとは 祈らぬものを; 
「はげしかれ」は形容詞「はげし」のカリ活用命令形。冷たさが激しくなれ、の意。
「と」は引用を示す格助詞」。
「は」は強調を示す係助詞。
「祈ら」は四段活用動詞「祈る」の未然形。
「ぬ」は打消しの助動詞「ず」の連体形。
「ものを」は逆接意の詠嘆終助詞。・・・なのになあ。
「はげしかれとは」は 恋人の態度が険しくなれとは。
「山おろし」の縁で、恋人のつれなさを「はげし」と言っている。
(ますます薄情になれとはいのらなかったのに。)
「山おろしよはげしかれとは」は比喩。
「初瀬のやまおろしよ」は「はげしかれ」の序詞。
「やまおろし」・「はげし」は縁語。

第三句は字余り。

* 初瀬 
奈良県桜井市初瀬。長谷寺がある。
名高い十一面観音は、恋の成就にも効験があるとされた。

【作者や背景】


源俊頼 みなもとのとしより(-しゅんらい)
天喜三頃〜大治四(1055-1129)

宇多源氏。
大納言経信の三男。
母は土佐守源貞亮の娘。
一時期橘俊綱の養子となる。
子に俊重(千載集に入集)・俊恵・祐盛がいる。
権中納言俊忠は藤原俊成の父。
その二条の家で催された歌会での作。
恋の成就を祈った長谷観音のある山から吹き下ろす嵐に向かって訴えるという特異な趣向。

篳篥の才があり、はじめ堀河天皇近習の楽人となる。
のち和歌の才も顕わし、堀河院歌壇の中心歌人として活躍。また藤原忠通・顕季を中心としたサロンでも指導的な立場にあった。

右近衛少将・左京権大夫などを経て、
長治二年(1105)従四位上木工頭に至る。
天永二年(1111)以後は散位。官人としては、大納言に至った父にくらべ、著しく不遇であった。晩年、出家。
大治四年正月一日、卒。享年七十五と推定されている。

父から管絃と和歌をまなび、20代の初めから堀河天皇の宮廷で篳篥奏者として活動した。
1095年(嘉保2)、大宰権帥(だざいのごんのそち)に任じられた経信にしたがって九州にくだり、97年(永長2)の経信の死後、帰京。以後、歌人として本格的に活躍しはじめ、数々の歌合に作者、判者として参加。また「堀河百首」(1105〜06奏覧)の企画・推進などで歌壇の指導者的な役割をはたした。

「万葉集」を重視し、当時の和歌の行き詰まりを打開しようと、新奇な歌語、題材を開拓し、田園趣味をもとりいれて、革新をはかった。俊頼の歌論は「俊頼髄脳(としよりずいのう)」(1112頃)にしめされている。

定家は『近代秀歌』で掲出歌と「とへかしな玉串の…」の歌につき「これは心ふかく、詞心に任せて、学ぶともいひつづけがたく、まことに及ぶまじき姿也」と絶賛している。


【主な派生詩歌】

年もへぬ 祈る契りは 初瀬山 をのへの鐘の よその夕暮  
(定家[新古今])
けふこそは 秋のはつせの 山颪に すずしくひびく 鐘の音かな  
(定家)
冬もきぬ さこそはげしく しぐるらめ 哀はつせの 山おろしの風  
(宗尊親王)
けふといへば 入相の鐘に 木の葉ふり 秋ぞはつせの 山おろしの風 
(宗良親王)
初瀬路や 末吹きよわる 山颪 はげしかりしぞ 今は恋しき  
(正徹)
うかりける 我がみの程に はつせぢの くるしかれとて 祈りやはせし
(堯孝)
よしやふけ 月に初瀬の 山おろし はげしからずは 嶺のうき雲  
(正広)
うかりけり 祈るかひなく 散る花の 春もはつせの 山颪のかぜ 
(松永貞徳)
うかりける 秋よりもけに 淋しきは 冬のはつせの 山おろしの風  
(松平定信)
うかれける 人や初瀬の 山桜  
(芭蕉)


【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・<Wikipedia>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。
高砂の をのへの桜 咲きにけり 外山のかすみ たたずもあらなむ 
前中納言匡房

<内のおほいまうちぎみの家にて 人々酒たうべて歌よみ侍りけるに 遥かに山桜を望むといふ心をよめる 後拾遺集・巻一・春上>


【歌意】
・・・・・・・・・・・
高い山峰の桜が咲いたのだなあ
をのへの白雲とも見まごう
さても人里近い春霞よ
立ち込めないでいてほしいものだ
・・・・・・・・・・・

内大臣藤原師通(もろみち)邸の宴席で、景観の中、遥かに山桜を望み見て、うららかな春日をのびやかに惜しみ詠う。技巧にとらわれず、ゆるみない品位、格調の高さ、壮大さを感じさせる。

「内のおほいまうち君」とは、内大臣・藤原師道(もろみち)で、その家で酒宴を催し遠山の桜を望見するという題で詠んだもの。霞が桜をかくすという趣向は『古今集』に、

山ざくら わが見に来れば 春霞 峰にも尾にも 立ち隠しつつ 

詠み人しらず
があり、匡房はこの歌を下敷きにしたのであろう。

「高砂の」は、播磨(兵庫県)の歌枕。、
地名だと思いたくなるが、ここでは地名でなく、高い山、山の峰、というような意味である。


【語句・文法】

* 高砂の をのへの桜 咲きにけり; 

「高砂」は地名ではなく、高く重なった山の意。
播磨国の歌枕(今の兵庫県高砂市)ともいい、「高砂の」で「尾上」にかかる枕詞とも。
「の」は三語とも連体修飾語をつくる格助詞。
「をのへ」は「峰の上」の約。峰、山頂の意。
「桜」はここでは山桜で述語「咲きにけり」の主語。
「咲き」は四段活用動詞「咲く」の連用形。
「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形。
「けり」は詠嘆の助動詞終止形。
三句切。

* 外山のかすみ たたずもあらなむ;
「外山」は人里近い山。対語は「深山(みやま)」
「かすみ」は独立語で、呼びかけの意。深山の桜は遅咲きである。
「たた」は四段活用動詞b「たつ」の未然形。
「ず」は打消しの助動詞「ず」の連用形。
「も」は強意、感動の係助詞。
「あら」はラ変型の補助動詞「あり」の未然形。
未然形に接続する「なむ」は他に対する願望の終助詞。
・・・シテモライタイ。
第五句は字余り。
擬人比喩。


【作者や背景】

匡房が、十二歳ごろのこと、関白頼道が宇治の平等院を建てようとして、その四足の大門を北向きに建てる先例を求めて、権大納言・師房にたずねた。
師房は評判の匡房少年に下問したところ、匡房は
「天竺には那蘭陀寺戒賢論師の住所、震旦には西明寺円淵法師の道場、日本には六波羅蜜寺空也上人の建立どれもみな寺門が北に向いております」と答えた。頼道はたいそう喜び、その強記を褒め称えたという。
彼の生きた時代は、王朝文化の残照時代である。
後冷泉・後三条・白河・堀川、四代の天皇に仕えた軍学にもくわしく、有職故実おも究めたという、大変な学者であった。

大江家は代々碩学の家ではあるが、ことにこの匡房は傑出していたといわれている。
学者としては異例の昇進で権中納言正二位大蔵卿となった。
軍学の兵法も、八幡太郎義家が師と仰ぎ、学んだことは有名である。
勇武をうたわれた義家は、頼道の邸で、陸奥の国の戦の話をしていた。
匡房はそれを聞いて「好漢惜しむらくは兵法を知らず」と独りつぶやいて出た。義家の従者がそれを聞いて義家に告げたところ、義家はいそいで匡房 のもとへ行き、弟子の礼をとって、兵学を学んだという。
のち永保の合戦で、ひとつらの雁が苅田へ下りようとして、にわかに驚いて列を乱し飛び立った。
義家はこの時、匡房 の教えた兵学を思い出す。
伏兵のある時は、飛雁列を乱すという。
そこで野の伏兵を討ち取って勝利を得たというのである。

匡房はかたい学者というだけでなく、即妙の歌も詠める人だった。
若かったころ、宮中の女房たちにからかわれたことがある。
かたくるしい学者だから、きっと不風流にちがいないというので女房たちは、匡房 を御簾のそばへ呼び寄せ、これを弾いて下さいと、あずま琴を押し出した。
匡房はたちまち歌で応える。

逢坂の 関のこなたも まだ見ねば あづまのことも 知られざりけり

女房たちは返すことができなかったという。
もちろん事(こと)と琴をかけたもの、「大江山」の小式部内侍程の機知はないが、なかなかの才気である。



大江匡房 おおえのまさふさ 長久二〜天永二(1041-1111) 号:江師(ごうのそち)
匡衡・赤染衛門の曾孫。大学頭従四位上成衡の子。
母は宮内大輔橘孝親女。

神童の誉れ高く、
天喜四年(1056)、十六歳で文章得業生に補せられる。
治暦三年(1067)、東宮学士として尊仁親王(即位して後三条天皇)に仕えたのを始め、貞仁親王(白河)、善仁親王(堀河)と三代にわたり東宮学士を勤めた。左大弁・式部大輔などを経て、
寛治八年(1094)六月、権中納言に至り、同年十一月、従二位に進む。
永長二年(1097)、大宰権帥を兼任し、翌年筑紫に下向。
康和四年(1102)、正二位に至る。
長治三年(1106)、権中納言を辞し、大宰権帥に再任されたが、病を理由に赴任しなかった。
天永二年(1111)七月、大蔵卿に任ぜられ、
同年十一月五日、薨じた。


【主な派生歌】

たかさごの をのへの桜 たづぬれば 都の錦 いくへ霞みぬ  
(式子内親王[新勅撰])
ほのぼのと 花はと山に あらはれて 雲にかすみの あけはなれゆく
(藤原良経)
たちかへり と山ぞかすむ たかさごの 尾上のさくら 雲もまがはず
(藤原雅経[続拾遺])
またれつる 尾上の桜 色見えて 霞のまより にほふ白雲  
(藤原隆博[新後撰])
高砂の 尾上のはなの 雲井には 外山の霞 およぶものかは  
(後柏原院)
山鳥の をのへの桜 咲きにけり 長き日さらず 雲のかかれる  
(小沢蘆庵)

 歌枕「高砂」の一首

誰をかも しる人にせん 高砂の 松もむかしの 友ならなくに
(藤原興風)


【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・<Wikipedia>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。
音にきく たかしの浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ
裕子内親王家紀伊

<かへし 金葉集・恋下>  堀川院艶書合・えんじょあわせ・

人知れぬ 思ひありその 浦風に 浪のよるこそ いかまほしけれ  
中納言俊忠

海景に恋心を託した歌である。寄せる波は、わが心をしきりと襲う恋慕の情を暗喩し、「思いあり」は「ありそ」と掛け合う。対歌。

【本歌】源氏物語「若菜上」(北村季吟説)

身をなげん ふちもまことの ふちならで かけじやさらに こりずまの波

【歌意】
・・・・・・・・・
評判に名高いたかしの浜の
空しく寄せては返す波を
うっかり袖にかけますまい
袖が濡れると困りますもの

噂に高い浮気なあなたのことを
こころにかけてお慕いしてしまったら
あとできっと悲しみの涙で
袖を濡らすことになるので困ります
・・・・・・・・・

【語句・文法】

<音にきく・たかし、あだ波・かけ・ぬれ、などは縁語。
たかし・あだ波・かけじ・袖のぬれもこそすれは掛詞。 
ひとたびの恋の拒みとしていやみなくたくみである>

* 音にきく; 
うわさに高いの意。
「音」はうわさ・評判・風聞。
「に」は状態を示す格助詞。
「きく」は第二句に掛かる。

* たかしの浜の あだ波は; 
「たかしの浜」は大阪府堺市浜寺あたりにあった浜。
「たかし」はうわさの「高し」と地名の「高師」との掛詞。
「あだ波」は空しく打ち寄せる波の意。心変わりにたよえる。

* かけじや袖の ぬれもこそすれ; 

「かけじ」は「あだなみ」を袖にかけまいの意と、
浮気な人に思いをかけまいの意を掛ける掛詞。
「かけ」は下二段活用動詞「かく」の未然形。
「じ」は打消・意志の助動詞終止形。
「や」は詠嘆の間投序詞。
「の」は主語を示す格助詞。
「袖のぬれもこそすれ」は、波にぬれる意と涙にぬれる意の掛詞。
「も・こそ」はともに強意の係助詞で、困る意を表す。
「こそ」の結びはサ行変格活用動詞「す」の已然形「すれ」。


【作者や背景】

歌枕紀行 有磯海
―ありそうみ―
(抜粋)
有磯海は、北陸を代表する名所歌枕である。
ある意味で、これは最も典型的な歌枕のひとつと言えるだろう。
まず、これは実在しない海である。というか、もともとそういう名の海は無かった。それは歌の伝承の過程で生まれ、歌人たちの幻想の中で育まれてきた名所であり、風景であり、イメージであった。
「有磯海」のおおもとの出所ははっきりしている。
万葉集巻十七にある、大伴家持が越中で詠んだ歌である。

かからむと かねて知りせば 越の海の 荒磯の波も 見せましものを


祐子内親王家紀伊 ゆうしないしんのうけのき 生没年未詳 別称:一宮紀伊
父は散位平経重とも(作者部類)、従五位上民部大輔平経方とも(尊卑分脈)。
母は歌人として名高い小弁。
紀伊守藤原重経の妻(袋草紙)または妹(和歌色葉)。
母と同じく後朱雀天皇皇女高倉一宮祐子内親王家に出仕。
長久二年(1041)の祐子内親王家歌合、
康平四年(1061)の祐子内親王家名所合、
承暦二年(1078)の内裏後番歌合、
嘉保元年(1094)の藤原師実家歌合、
康和四年(1102)の堀河院艶書合、
永久元年(1113)の少納言定通歌合などに出詠。
また『堀河院百首』の作者。
家集『一宮紀伊集(祐子内親王家紀伊集)』がある。
後拾遺集初出。
勅撰入集は31首。
女房三十六歌仙。
小倉百人一首にも歌をとられている。

「金葉集」の詞書では、この歌は1102年5月に催された「堀川院艶書合(けそうぶみあわせ)」で詠まれた。
「艶書合」というのは、貴族が恋の歌を女房に贈り、それを受けた女房たち
が返歌をするという洒落た趣向の歌会であった。
           
この歌は、70歳の紀伊に贈られた29歳の藤原俊忠の歌。

「人知れぬ 思いありその 浦風に 波のよるこそ 言はまほしけれ」
 
「寄る」と「夜」、「(思い)ありその」と「荒磯(ありそ)」を掛けた技巧的な歌、これに対して答えたのが、紀伊の歌。
平安歌人たちの典雅な遊び。
             

【主な派生歌】

あだ波の高師の浜のそなれ松なれずはかけてわれ恋ひめやも
(藤原定家[続古今])
恋すてふ名のみ高師の浜千鳥なくなくかくる袖のあだ浪
(後鳥羽院)
いはつたふ花のあだ浪いくかへりこえて高師の春の山風
(藤原基家)
風ふけば高師の浜のあだ浪を翅にかけて千鳥なくなり
(頓阿)
あだ浪の高師の磯に遠ざかり身をうら風の沖つ舟人
(正徹)
あだ波の高師浜の夕千鳥思ひしつまもかよひたえつつ
(三条西実隆)
夕波の高師の浜の松とても思ふによらん舟もあらじを
(三条西実隆)


【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・<Wikipedia>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。
夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く 
大納言経信

<金葉集・巻三・秋・183(再奏本173)に「師賢(もろかた)の朝臣の梅津に人々まかりて、田家秋風といへることをよめる、大納言経信」とあるのが出典>


【歌意】
・・・・・・・・・
夕ぐれになれば家の前の田の
豊かに実った稲穂に風は吹き渡る
蘆ぶきの小屋をも風は吹き抜けてゆく
それよ
この涼しさは
おお早や秋風なのだ
・・・・・・・・・・
夕方になると
家先の田の稲波を
さわやかな音(ね)をかなでて
芦ぶきのこの仮屋の内にも
おとづれてくるのは
もはや秋の風であるなあ
・・・・・・・・・・

【語句・文法】

* 夕されば; 
「され」は四段活用動詞「さる」の已然形、おのずからめぐり来る意で、順接の接続助詞「ば」を接して確定条件。
「夕」と「され」は句内主述関係。
この歌の、「夕されば」の「夕さる」は、夕方になることで、「さる」を今はほとんど「去る」意に用いられているが、本来「来」の字義もある。
「夕されば」は「おとづれて」にかかり、七五調。

* 門田の稲葉 おとづれて; 
「門田」は家の前の田。
「おとづれ」は下二段活用動詞「おとづる」の連用形、音をさせてやってくる意。
「音づる」・「訪る」の掛詞。
「稲葉おとづれて」の「おとづる」も音をたてることで、訪問する意に解してはいけない。
「て」は順接の接続助詞。

* 芦のまろやに 秋風ぞ吹く; 
「芦のまろや」は芦でふいた仮小屋。
「まろや」はすべてを芦などでふいたものとも、屋根を草ぶきにした家ともいう。
「に」は場所を示す格助詞。
「秋風」と「吹く」とは一首の主語・述語の関係。
「秋風」の秋は陰暦七・八・九月。
「ぞ」は強調の係助詞で、結びは動詞「吹く」の連体形「吹く」。
「芦のまろや」の「まろ」も円形ではなく、全くの意味で、屋根も周りも全く芦のみでつくった小屋ということになる。
したがって、稲葉に音をたてさせる動的な風と、芦のまろやかに吹く、静けさを増す風という、対照的な表情を見事に用いて、秋の夕方の田舎の淋しさを、一層具体的に表現したこの歌は、『古今集』以来の、沈滞した古典的歌風を打ち破り、清新の趣を発揮したとして、評価されている。 (にぎわい草)


【主な派生歌】

いく世とも やどはこたへず 門田ふく いなばの風の 秋のおとづれ
(定家)
門田ふく 稲葉の風や 寒からん あしのまろやに 衣うつ也  
(藤原家隆[新後撰])
野中なる あしのまろやに 秋すぎて かたぶく軒に 雪おもるなり  
(藤原良経)
稲葉吹く あしの丸やの 秋風に ねぬ夜をさむみ すめる月かげ  
(藤原行家)
夜半の風 麦の穂だちに おとづれて 蛍とぶべく 野はなりにけり  
(香川景樹)


【作者や背景】

この歌は、出典のところでも説明したように『金葉集』秋に「師賢の朝臣梅津の山里に人々まかりて田家秋風といへることよめる」として出ている。題詠ではあるけれど、経信の歌は臨場感、実感がこもっていて実に好い。

人々に愛せられている秋の歌としては、『古今集』の藤原敏行の歌
「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風のおとにぞ おどろかれぬる」 が,あるが、それと共に経信の「夕されば」も、好もしい秋の歌の双璧といってよいであろう。


彼の生きた時代は、王朝前記に活躍した人々が長命を保ちつつも次々に死んでゆき、新しい次の時代(それは源平の争乱の混沌の底から異風の文化が生まれる時代)にうつる頃合いであった。紫式部は彼の生まれる二、三年前に死んでいる。(推定)

道長や頼道・教道ら藤原の実力者たちも死んだ。
頼道が天皇の後宮に納れた一族の姫たちは、その昔の姫たちのように、皇子を産むことはできなかった。
藤原一族の権勢に影が差しはじめている。しかし人々はそれに気付かないで、平安の夢にひたっていた。そんな時代に、詩人は次の新たな胎動を直感している。
従来の伝統的な「あわれ」にとらわれず、目前の景観をさわやかさと言う実感によって描写する。清新な叙景歌をかかげて登場した歌人である。
格調高く、かつ豊かな感性を備えた歌調は、新古今歌風の先鞭をつけたとも評価される。
この歌からも、自然と一体になった情景からか涼風さえ感じる。
経信の歌は臨場感、実感がこもっていて実に好い。

人々に愛せられている秋の歌としては、『古今集』の藤原敏行の歌

秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風のおとにぞ おどろかれぬる

があるが、共に好もしい秋の歌の双璧といってよいであろう。

十一世紀にはいると、貴族らは郊外の田園地域や丘陵に別荘をもうけて、いわゆる田園趣味、山荘趣味にひたることが多くなった。この歌も、一族の源師賢(資通の子で、音楽にすぐれた廷臣)の梅津(京の西郊いまの京都市右京区梅津)の別荘で詠じた歌である。

源経信、宇多源氏系の人で、民部卿・道方の六男。博学多芸で、やはり王朝の才人、藤原公任と並び称された。そういえば経信にも公任と同様のエピソードがある。承保三年(1076)秋、白河天皇が大井川に行幸された、詩・歌・管弦三つの船を浮かべて、それぞれの道に堪能の人々を乗せられた。

琵琶もよくし、別荘が桂にあったところから桂大納言と呼ばれ、琵琶の桂流の祖、と物の本にある。ところで、この「夕されば」の歌が詠まれたという「師賢の朝臣」の山荘、この師賢は、宇多源氏の一門であるが、音楽に炊けた才人、その父の資通も、琵琶をたしなむ風流貴公子だった。

この資通は、思いもかけず『更級日記』に出てくる。なかなかしっとりと、心にくい男ぶりが紹介されている。時雨の夜、更級日記の作者とふと物語をした。というだけのロマンスであるが、資通この時三十八歳( 更級日記の作者三十五歳共に中年 )落ちついた物腰の、しみじみした話しぶりの男だった。

世間の色男たちのように色めかしい話はせず、人の世のもののあわれなど、真率に話す。互いに身元も知らず、好もしい話し相手として、双方に意識しあう。

翌年、偶然また会い、男は(あの時雨の夜のこと、片時も忘れたことはありません、ずっと恋しく思っていました)という。女は、(あら、ほんの行きずりにお話しただけですのに)とこたえたが、そこへどやどやと人が来て、二人のあいだはへだてられてしまった。

のち 人を介して、男は(いっぺん琵琶でもお聞かせしたい)といい、女はその機会を心待ちにしていたが、ついにそれきりになってしまったという、はかないロマンス。経信が歌を詠んだ山荘で琵琶の音をひびかせることもあったろうか。

この経信より九歳年上の『更級日記』の作者は、十三のとし、父の任地上総から伴われて上京し、噂に高い『源氏物語』をやっと入手して驚喜して、夜も日も夢中で読みふけっていた。そうして自分も年頃になったら、浮舟のような美人になって、薫大将のような貴公子に愛されたいと夢みていた。・・・・・
更級の少女だけではなく、人々は王朝の夢がいつまでも続くことを信じていたことであろう。

そんな時代に、詩人は次の新たな胎動を直感している。経信のこの歌、いかにもフレッシュで、新しい時代の精神文化を示唆するようであろう、ひんやりとした秋風が撫でるのを感じさせられるような桂品である。

源経信 みなもとのつねのぶ 長和五〜永長二(1016-1097) 号:桂大納言宇多源氏系の人で、民部卿・道方の六男。博学多芸で、やはり王朝の才人、藤原公任と並び称された。
大納言経信は王朝後期の歌人で74番の歌を詠んだ、俊頼の父。
経信にも公任と同様のエピソードがある。
承保三年(1076)秋、白河天皇が大井川に行幸されて、詩・歌・管弦三つの船を浮かべ、それぞれの道に堪能の人々を乗せられた。
経信は遅れてやて来たものだから、舟はすでに離れていた。
経信は汀にひざまづき(「どの舟でもいいお寄せください 」と呼ばわったそうである。
歌人で漢詩文にも長じ、音楽家でもあれば、どの舟に乗っても自信があったということであろう。
公任にも同じ話があるのでこの両人を「三舟の才」といっている。

母は播磨守源国盛の娘で、家集『経信卿母集』(『帥大納言母集』とも)をもつ歌人である。
母方の先祖には公忠・信明がいる。経長・経親の弟。俊頼の父。
長元三年、十五歳で叙爵。三河権守・刑部少輔・左馬頭・少納言・右大弁などをへて、
治暦三年(1067)、参議。民部卿・皇后宮大夫などを兼任し、
承保四年(1077)、正二位。
寛治五年(1091)、大納言。
同八年、大宰権帥を兼ね、
翌年七月下向。
赴任三年目の永長二年閏正月六日、薨ず。八十二歳。

桂に別業を営んだことから、桂大納言と号される。
生前より歌人としての名声は高く、
永承四年(1049)の内裏歌合などに参加。
後冷泉朝歌壇において指導的立場にあったが、白河朝では冷遇され、後拾遺集の撰進は若い藤原通俊に命が下った。
晩年の堀河天皇代には歌壇の重鎮として、
嘉保元年(1094)の関白師実歌合などの判者をつとめた。
歌人の出羽弁は若い頃の年上の恋人。
また伊勢大輔や相模とも歌のやりとりがある。

歌論書『難後拾遺』の作者とされる。
他撰の家集『経信集』がある。
博学多才で、詩歌管弦、特に琵琶にすぐれ、有職故実にも通じた。
『本朝無題詩』『本朝文集』に漢詩文を残し、また日記『帥記』がある。
後拾遺集初出、勅撰入集八十六首。



【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・<Wikipedia>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。

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