ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

百人一首71〜80

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夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く

           大納言経信(71番) 『金葉集』秋・183

タイトル
引用


【歌の意味】
夕ぐれになれば家の前の田の、豊かに実った稲穂に風は吹き渡る。蘆ぶきの小屋をも風は吹き抜けてゆく、それよ、この涼しさは、おお、早や秋風なのだ。

金葉集・巻三・秋(再奏本173)に「師賢(もろかた)の朝臣の梅津に人々まかりて、田家秋風といへることをよめる、大納言経信」とあるのが出典。

十一世紀にはいると、貴族らは郊外の田園地域や丘陵に別荘をもうけて、いわゆる田園趣味、山荘趣味にひたることが多くなった。この歌も、一族の源師賢(資通の子で、音楽にすぐれた廷臣)の梅津(京の西郊いまの京都市右京区梅津)の別荘で詠じた歌である。

この歌は、出典のところでも説明したように『金葉集』秋に「師賢の朝臣梅津の山里に人々まかりて田家秋風といへることよめる」として出ている。題詠ではあるけれど、経信の歌は臨場感、実感がこもっていて実に好い。

人々に愛せられている秋の歌としては、『古今集』の藤原敏行の歌
「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風のおとにぞ おどろかれぬる」 が,あるが、それと共に経信の「夕されば」も、好もしい秋の歌の双璧といってよいであろう。

源経信、宇多源氏系の人で、民部卿・道方の六男。博学多芸で、やはり王朝の才人、藤原公任と並び称された。そういえば経信にも公任と同様のエピソードがある。承保三年(1076)秋、白河天皇が大井川に行幸された、詩・歌・管弦三つの船を浮かべて、それぞれの道に堪能の人々を乗せられた。

経信は遅れてやて来たものだから、舟はすでに離れていた。経信は汀にひざまづき( どの舟でもいいお寄せください )と呼ばわったそうである。歌人で漢詩文にも長じ、音楽家でもあれば、どの舟に乗っても自身があったということであろう。公任にも同じ話があるのでこの両人を「三舟の才」といっている。

琵琶もよくし、別荘が桂にあったところから桂大納言と呼ばれ、琵琶の桂流の祖、と物の本にある。ところで、この「夕されば」の歌が詠まれたという「師賢の朝臣」の山荘、この師賢は、宇多源氏の一門であるが、音楽に炊けた才人、その父の資通も、琵琶をたしなむ風流貴公子だった。

この資通は、思いもかけず『更級日記』に出てくる。なかなかしっとりと、心にくい男ぶりが紹介されている。時雨の夜、更級日記の作者とふと物語をした。というだけのロマンスであるが、資通この時三十八歳( 更級日記の作者三十五歳共に中年 )落ちついた物腰の、しみじみした話しぶりの男だった。

世間の色男たちのように色めかしい話はせず、人の世のもののあわれなど、真率に話す。互いに身元も知らず、好もしい話し相手として、双方に意識しあう。

翌年、偶然また会い、男は(あの時雨の夜のこと、片時も忘れたことはありません、ずっと恋しく思っていました)という。女は、(あら、ほんの行きずりにお話しただけですのに)とこたえたが、そこへどやどやと人が来て、二人のあいだはへだてられてしまった。

のち人を介して、男は(いっぺん琵琶でもお聞かせしたい)といい、女はその機会を心待ちにしていたが、ついにそれきりになってしまったという、はかないロマンス。経信が歌を詠んだ山荘で琵琶の音をひびかせることもあったろうか。

彼の生きた時代は、王朝前記に活躍した人々が長命を保ちつつも次々に死んでゆき、新しい次の時代(それは源平の争乱の混沌の底から異風の文化が生まれる時代)にうつる頃合いであった。紫式部は彼の生まれる二、三年前に死んでいる。(推定)

道長や頼道・教道ら藤原の実力者たちも死んだ。頼道が天皇の後宮に納れた一族の姫たちは、その昔の姫たちのように、皇子を産むことはできなかった。藤原一族の権勢に影が差しはじめている。しかし人々はそれに気付かないで、平安の夢にひたっていた。

この経信より九歳年上の『更級日記』の作者は、十三のとし、父の任地上総から伴われて上京し、噂に高い『源氏物語』をやっと入手して驚喜して、夜も日も夢中で読みふけっていた。そうして自分も年頃になったら、浮舟のような美人になって、薫大将のような貴公子に愛されたいと夢みていた。・・・・・
更級の少女だけではなく、人々は王朝の夢がいつまでも続くことを信じていたことであろう。

そんな時代に、詩人は次の新たな胎動を直感している。経信のこの歌、いかにもフレッシュで、新しい時代の精神文化を示唆するようであろう、ひんやりとした秋風が撫でるのを感じさせられるような桂品である。

大納言経信は王朝後期の歌人で74番の歌を詠んだ、俊頼の父。長和五年(1016)生まれ、
永長二年(1097)八十二歳で死んでいる。

【作者】
長和五年(1016)〜永長二年(1097)宇多源氏、道方の子。詩歌管絃にすぐれ、有職故実にも詳しかった。正二位大納言。歌壇で重きを成し、たびたび歌合せの判者となる。太宰権師(だざいごんのそち)として任地で没す。家集に『経信集』がある。


<出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。

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