ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

百人一首81〜90

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見せばやな 雄島の海人の 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず 
殷富門院大輔

<歌合し侍りけるとき 恋の歌とてよめる 千載集・恋四>

【歌意】
・・・・・・・・・・
見せたいものよ私の袖を
雄島の海女の袖も濡れるでしょうが
それさえ色が変わることはないのに
私の袖は涙でびしょ濡れになったばかりか
血の涙で色が変わってしまったのを
・・・・・・・・・・

【語句・文法】

* 見せばやな;(魅せたい意)
「見せ」は下二段活用動詞「見す」の未然形。
「ばや」は願望の終助詞。
「な」は詠嘆の終助詞。
初句切。

* 雄島の海人の 袖だにも;
「雄島」は宮城県松島湾内の島の一つで、本歌取りのために用いている。
「雄島」は 陸奥国の歌枕。
「の」はともに連体修飾語をつくる格助詞。
「あま」は漁夫。
「だに」は軽いものを挙げて、重いものを類推強調させる副助詞。 袖でさえも。
「も」は強意の係り助詞。

* ぬれにぞぬれし 色はかはらず; 
「ぬれ」は下二段活用動詞「ぬる」の連用形。
「に」は同じ動詞を重ねた間に用いて意味を強める格助詞。 
濡れた上にもさらに濡れた。
「ぞ」は強意の係り助詞で、
結びは過去の助動詞「き」の連体形「し」。
「は」は係助詞。
「かわら」は動詞未然形。
「ず」は打消の助動詞終止形。
文法上は四句目も切れているが、連体形で
・・・だが、と意味を続ける。 
第三句は第四句を飛び越して「色はかはらず」に掛かっている。
海女の袖は濡れても色までは変わらなかったが、わたしの袖は血の涙で色が変わってしまった・・・。


花もまた わかれん春は 思ひ出でよ 咲きちるたびの 心づくしを
『新古今和歌集』。詞書は「花歌とて詠める」

あすしらぬ 命をぞ思ふ おのづから あらば逢ふよを 待つにつけても
『新古今和歌集』

なほざりの 空だのめとて 待ちし夜の くるしかりしぞ 今は恋しき
『千載和歌集』


【主な派生歌】

心ある 雄島のあまの たもと哉 月宿れとは ぬれぬ物から 
(宮内卿)

秋の夜の 月やをじまの あまの原 明方ちかき 沖の釣舟 
(藤原家隆朝臣)

行く年を 小島のあまの ぬれ衣 かさねて袖に 浪やかくらん 
(有家 朝臣)

立ちかへり 叉もきてみん 松嶋や をじまのとまや 浪にあらすな 
(皇后宮大夫俊成)

松がねの をじまがいその さ夜枕 いたくなぬれそ あまの袖かは 
(式子内親王)

松島や 雄島のあまに 尋ねみん 濡れては袖の 色やかはると  
 (藤原知家[続千載])

限りあれば 五月の田子の 袖だにも 降り立たぬより かくはしぼらじ
 (小倉公雄[続千載])

思ひやれ なれたる海士の 袖だにも 波のうき寝は ぬるる習ひを  
 (藤原忠基[新拾遺])

夕かけて 帰る小島の あま衣 ぬれにぞぬれし 月やどれとは  
 (藤原苫雄)


【作者や背景】

歌枕  陸奥(雄島)
http://www.mgu.ac.jp/~sawai/96D27page.html
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/88/8801/880143frame.htm
雄島は宮城県松島の一島、というが、歌枕としてよく使われている。

彼女が旅してみたわけではないのかもしれない。
この人は、恋の歌を作らせると、時として激越で感覚がするどい。
人知れぬ悲恋を経験した女性だったのかもしれない。

なにかいとふ よも長らへじ さのみやは 憂きにたへたる 命なるべき
(あなた、どうしてそう、あたしを嫌うの?あたし、とても長くは生きていないでしょうよ、だっていつまでもこんな辛さに堪えていられないんだもの)

さながら閨怨のためいきを耳もとで聞くようである。
古来歌の伝統では、恋や哀傷に心を破られると、血の涙が流れることになっている。
この歌は袖の色を強調するため、「見せばやな」と強く歌い出しているところが面白い。

【本歌】源重之「後拾遺集」

松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくは濡れしか

本歌より誇張があって、より技巧的である。


【作者や背景】

殷富門院大輔 いんぷもんいんのたいふ 生没年未詳 (1130頃-1200頃)
藤原北家出身。三条右大臣定方の末裔。散位従五位下藤原信成の娘。
母は菅原在良の娘。小侍従は母方の従姉にあたる。
若くして後白河天皇の第一皇女、亮子内親王(のちの殷富門院(安徳天皇・後鳥羽天皇の准母)に仕える。
建久三年(1192)、殷富門院の落飾に従い出家したらしい

彼女の仕えた殷富門院(いんぷもんいん)は後白河天皇の皇女亮子(りょうし)内親王のことで、かの、式子内親王の姉君である。
伊勢の斎宮となり、のちに安徳・後鳥羽両帝の准母として院号を宣下され、殷富門院と称せられるようになった。

この門院、女院という称号は、皇族女性の誰にでも与えられるものでないのは、無論である。天皇の生母であるとかそれに準ずる准母、三后、内親王などに、朝廷から与えられるもので、門院となられると待遇が違う、すべて上皇に準じ、院司が設けられる。お手当ても昇級して経済的にも安定する。



【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・<Wikipedia>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。
玉のをよ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする 
式子内親王

<百首の歌の中に 忍恋を 新古今集・恋一>

【歌意】
・・・・・・・・・・
わたしのいのちをつなぐ緒よ
切れるものなら切れてしまえ
このまま生きながらえていれば
耐え忍ばねばならない覚悟が
弱ってしまうかもしれない
・・・・・・・・・・

<激しい口調で、自身に対して「忍ぶ恋」を詠う>

【語句・文法】

* 玉のをよ たえなばたえね; 
「玉のを」は身体と魂を結ぶ緒、いのち。
「よ」は呼びかけの間投助詞。
第一句は成分上は独立語で、初句切れ。
「たえなばたえね」は絶えるなら絶えよ。
「たえ」は下二段活用動詞「たゆ」の連用形。
「な」完了の助動詞「ぬ」の未然形で、順接の接続助詞「ば」を接して仮定条件。
「たえ」は「ね」に接して「たゆ」の連用形。
「ね」は「ぬ」の命令形で、勝手にしろの意。
二句切れ。

* ながらへば; 
「ながらへ」は下二段活用動詞「ながらふ」の未然形。
「ば」..活用語の未然形に付くと、接続助詞の順接の仮定条件、〜(する)なら。「ば」は、仮定条件・既定条件の接続助詞だが、文語の「ば」は仮定条件(もし〜ならば)・既定条件(すでに〜なので)の両方に用いられる。仮定条件にのみ用いる現代口語とはこの点大きく異なる。

* 忍ぶることの 弱りもぞする;
「忍ぶる」は上二段活用動詞「忍ぶ」の連体形で、人に隠しこらえる。
「の」は主語表示。
「弱り」は四段活用動詞「弱る」の連用形。強意の係助詞「も」に、同じく「ぞ」を接して、「もぞ」は「もこそ」と同じで、困る意。
「する」はサ変動詞「す」の連体形で、「ぞ」の結び。

「たえ・たえ・ながらへ・弱り」は「緒」の縁語。


【参考歌】

 作者未詳「万葉集」
息の緒に 思へば苦し 玉の緒の 絶えて乱れな 知らば知るとも
(『古今和歌六帖』には第四句「絶えて乱るな」として載る) 

 曾禰好忠『好忠集』
乱れつつ 絶えなば悲し 冬の夜を わがひとりぬる 玉の緒よわみ


【主な派生歌】

いかにせむ 絶えなば絶えね 玉の緒は 長き恨みに 結ぼほれつつ  
 藤原範宗
ひたすらに 絶えなば絶えね 憂き中の 忘れ形見に 残る面影  
 花山院師兼
いかのぼり えなば絶えね なかぞらの 父ひきしぼる 春のすさのを  
 山中智恵子


【作者や背景】

式子内親王 しょくしないしんのう 久安五〜建仁一(1149〜1201)
通称:萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院
式子は「しきし」とも(正しくは「のりこ」であろうという)。
御所に因み、萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院などと称された。

後白河天皇の皇女。
母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。
亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。
高倉天皇は異母兄。

生涯独身を通した。

平治元年(1159)、賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕。
嘉応元年(1169)、病のため退下(『兵範記』断簡によればこの時二十一歳)。
治承元年(1177)、母が死去。同四年には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死した。
元暦二年(1185)、准三后の宣下を受ける。
建久元年(1190)頃、出家。法名は承如法。
同三年(1192)、父後白河院が崩御。
この後、橘兼仲の妻の妖言事件に捲き込まれ、一時は洛外追放を受けるが、その後処分は沙汰やみになった。
建久七年(1196)、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。
正治二年(1200)、春宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子に迎える話が持ち上がったが、この頃すでに病に冒されており、翌年正月二十五日、薨去した。五十三歳。

藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、
養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。
正治二年(1200)の後鳥羽院主催初度百首の作者となったが、それ以外に歌会・歌合などの歌壇的活動は見られない。
他撰の家集『式子内親王集』に三種の百首歌を伝える。
千載集初出。勅撰入集157首。


【定家との関係】
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

俊成の息子藤原定家は養和元年(1181年)以後、折々に内親王のもとへ伺候した。一説によれば内親王のもとで家司のような仕事を行っていたのではないかとも言われているが詳細ははっきりしない。
定家の日記『明月記』にはしばしば内親王に関する記事が登場し、特に薨去の前後にはその詳細な病状が記されていることから、両者の関係が相当に深いものであったことは事実である。
おそらくは定家から九条家歌壇の動向や所謂新儀非拠達磨歌などの情報を得たことなどもあったであろう。
後に中世後期になって、定家と内親王は秘かな恋愛関係にあったのだとする説があらわれ、これが能『定家』などを生む契機となった。
一般にこの説は中世歌学特有の伝説の類として否定されているが、文献学的に言えば内親王に関する資料があまりにも少ないがために、これを積極的に肯定することも、或いは否定することもできないというのが実情である(定家が内親王より十三歳年下であるというのが否定説の唯一の根拠)。
また近年法然とのあいだに消息の往来があったことが判明し、彼が密かな思慕の対象であったとする説もあるが、これも定家説同様に決定的な根拠は何一つないといっていい。



【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・<Wikipedia>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。
難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき 
皇嘉門院別当 

<右大臣の時の家の歌合いに「旅情逢恋」といへる心をよめる千載集・恋三>


【歌意】
・・・・・・・・・
かりそめの
旅の仮寝の一夜の恋なのに
難波江の契りのあかしか
あのみをつくし

難波の入江にはえている
芦の根の一節のように
短い旅のただひと夜を
あなたとすごしたばかりに
わたしは一生この身をささげつくして
あなたを恋しつづけなければ
ならなくなってしまった
・・・・・・・・・・・・

【語句・文法】

序詞  「難波江の芦」は−「かりねのひとよ」の。
掛詞  「かりね・ひとよ」、刈り根(切り株)の一節(ひとよ)と、仮寝(旅寝)の「ひとよ」との。
掛詞 舟の水路を示す標識の「澪標」と「みをつくし」(命を捨てる意)の。
縁語  「澪標」「わたる」と「難波江」。

* 難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ; 
「難波江」は難波(今の大阪)の入江。
「の」は三つとも連体修飾語をつくる格助詞。
「芦」は「みをつくし」とともに難波の名物。
「ゆゑ」は理由の意の名詞。


* みをつくしてや 恋ひわたるべき; 
「つくし」は四段活用動詞「尽くす」の連用形。
「て」は順接の接続助詞。
「や」は疑問の係り助詞。結びは推量の助動詞「べし」の連体形。
「恋ひわたる」は四段活用動詞終止形。(恋つづける。)


【本歌】

 元良親王「後撰」
わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はんとぞ思ふ  

 伊勢「新古今」
難波潟 みじかき葦の ふしのまも 逢はで此の世を 過ぐしてよとや


【主な派生歌】

志賀のうみ やれ行く春も ふかきえに 身をつくしてや 又も相ひみん
(藤原家隆)
難波なる 身をつくしても かひぞなき 短き葦の 一夜ばかりは  
(藤原定家[続後拾遺])
思ひ侘び 身をつくしてや 同じ江に  又立ち返り 恋ひわたりなん   (藤原成実[続後撰])
いかさまに 身をつくしてか  難波江に 深き思ひの しるしみすべき
(京極為兼[新後撰])
夢にても みつとないひそ 難波なる 芦のかりねの 一よばかりは  
(藤原為道女[続後拾遺])
忘るなよ さらぬちぎりぞ 我も旅 人もかりねの 一夜なりとも  
(飛鳥井雅親)


【作者や背景】

皇嘉門院別当(長官) こうかもんいんのべっとう 生没年未詳
村上源氏。
大納言師忠の曾孫。正五位下太皇太后宮亮源俊隆の娘。
崇徳院皇后聖子(皇嘉門院)に仕える。
安元元年(1175)・治承三年(1179)の右大臣兼実家歌合、治承二年(1178)の右大臣兼実家百首などに出詠。
養和元年(1181)、皇嘉門院崩御の折、すでに出家の身であった。

千載集初出。小倉百人一首に「難波江の…」の歌が選ばれている。


難波の入り江に生える芦の刈り根の一節は短いもの。それほどまでに短かく感じられたあなたとの仮寝の一夜を過ごした私は、難波江の「みをつくし」のようにこの身を尽くしてあなたを恋い続けることになるのでしょうか。

「澪(みお)」は川の浅瀬と深みの境のことだそうで、「標(つくし)」はしるしのこと。
つまり「澪標(みおつくし)」というのは、船が浅瀬などに乗り上げないよう安全に航行するために、ココを通れば大丈夫ですよと立てられた指標のこと。それが、「身を尽くす」という言葉と同じよみから、「真心を込め、身を尽くして、これから進むべき道を示す」という意味に重ねて用いられるようになったという。


【古代日本の通い婚と正式の妻】
日本人の祖先は性に対しては割合に開放的で、男女間の交際は大変におおらかであった。
いわゆる乱婚とか雑婚という状態が長々と続いた。これは日本に仏教や儒教などの道徳規範が到来していなかったことが理由の一つである。
また掠奪結婚というのもあり、相手を肩に担いで連れ去るので、俗に「かたげ」といった。
それが一変すると、購買結婚といって娘を米俵、牛などで買うこととなり、これも後世までも残っていた。
贈与結婚というのは娘を高貴の方に献ずることで、中古の采女という陪膳の女官はこれであった。
結婚方式では同意結婚、即ち男女ともに合意の上で結婚するものが穏当であるが、わが国でも太古から貴族の間にはこれが行われていたようである。(略)
【参照】
http://hiwa.sarashi.com/chiyoji/kaisetsu.html



【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・<Wikipedia>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。
村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ 
寂連法師

<五十首の歌奉りし時 新古今集・秋下>
<真木の葉の雫を見、同時に霧たち上る大自然の秋の夕ぐれを描きあげる>

◇五十首歌 
建仁元年(1201)二月、後鳥羽院主催の老若五十首歌合。作者を左方老・右方若とに分けた、未曾有の歌合であった。
作者は慈円・定家・家隆らと共に「老」の方人。掲出歌は百二十五番左勝。
建久九年(1198)、仁和寺の僧侶歌人グループに御子左家歌人(俊成・定家・寂蓮)や 六条藤家歌人(顕昭・季経・藤原有家)ら十七名を加えて五十首歌を詠進させ(守覚 法親王家五十首)、建仁元年(1201)にはこの五十首より選んで『御室撰歌合』を結番 した。

【歌意】
・・・・・・・・・・
秋の夕暮れどきに
俄雨が通り過ぎていった
木の葉にしずくがまだ見えるのを
隠してしまうかのように
山かげ一面の木々の間から
雲のような霧が
またたちのぼってゆくことよ
・・・・・・・・・・

【語句・文法】

* 村雨の 露もまだひぬ まきの葉に; 
「村雨」は秋から冬にかけて降る通り雨。にわか雨。
「の」は二つともに連体修飾語を作る格助詞。
「霧」は雨のしずく。
「も」は強意の係助詞。
「まだ」は副詞。
「ひぬ」の「ひ」は「自然に水分が蒸発する」意の上一段動詞。
「ひる」の未然形、乾く意。
「ぬ」は打消しの助動詞「ず」の連体形。
「まき」は真木で、杉・檜など良材の総称で柴の対語。
「に」は動作・作用の場所を示す格助詞。

* 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ; 
「たちのぼる」は連体形として「夕ぐれ」を修飾し、終止形の四句切れ。
詠嘆的に終わる体言止め。 
自然と高いところへ上がってゆく 月・雲・煙などについて言うことが多い。
霧に用いる例は万葉集に見えるが、王朝和歌では稀。

【句切れ例】
《bannkohukyuuさん》

「鳳仙花ちりておつれば小き蟹鋏ささげて驚き走る 窪田空穂」句切れなし
「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにもそまずただよふ 若山牧水」二句切れ,擬人法
「街をゆき子供の傍を通るとき蜜柑の香せり冬がまた来る 木下利玄」
四句切れ
「桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命かけてわが眺めたり 岡本かの子」
句切れなし,擬人法
「ぞろぞろと鳥けだものを引きつれて秋晴の街に遊びいきたし 前川佐美雄」句切れなし
「はとばまであんずの花が散つて来て船といふ船は白く塗られぬ 斎藤史」
句切れなし
「新しき年のひかりの檻に射し象や駱駝はなに思ふらむ 宮柊二」
句切れなし,擬人法
「ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ 佐々木幸綱」句切れなし,または,四句切れ
「白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり 高野公彦」句切れなし,隠喩
「土鳩はどどつぽどどつぽ茨咲く野はねむたくてどどつぽどどつぽ 河野裕子」句切れなし,擬音語,反復法
「観覧車回れよ回れ思ひ出は君には一日我には一生 栗木京子」
二句切れ,反復法,対句,体言止め


【参考歌】

 作者未詳「万葉集」
天の川 霧たちのぼる たなばたの 雲の衣の かへる袖かも
 道綱母「蜻蛉日記」「後拾遺集」
消えかへり 露もまだひぬ 袖のうへに 今朝は時雨るる 空もわりなし
 藤原俊成「続古今集」
いつしかと ふりそふ今朝の 時雨かな 露もまだひぬ 秋のなごりに
 良暹法師(りやうぜんほふし)
淋しさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕ぐれ  
 藤原定家
見わたせば 花ももみじも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕ぐれ
 西行法師
心なき 身にもあわれは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕ぐれ



【主な派生歌】

春雨の 露もまだひぬ 梅が枝に うは毛しをれて 鶯ぞなく  
(源実朝)
五月雨の 露もまだひぬ 奥山の 槙の葉がくれ なくほととぎす  
(〃)
夕ぐれの 山もまがきと なりにけり 霧たちのぼる 峰の遠かた  
(飛鳥井雅世)


【作者や背景】

寂蓮 じゃくれん
生年未詳〜建仁二(1202)-1202年8月9日(建仁2年7月20日))
俗名:藤原定長 通称:少輔入道、
幼少に俊成の養子となり、中務少輔に至ったが、俊成に子定家が生まれたので、三十余歳で出家した。
「新古今集」の選者の一
平安時代末から鎌倉時代初期にかけての歌僧である。
僧俊海の子として生まれ、1150年(久安6年)頃叔父である藤原俊成の養子となり、長じて従五位下中務少輔となる。
しかし、俊成に実子定家が生まれたことから、それを機に30歳代で出家、歌道に精進した。御子左家の中心歌人として活躍し、「六百番歌合」での顕昭との「独鈷鎌首論争」は有名である。1201年(建仁元年)和歌所寄人となり、新古今和歌集の選者となるが、完成を待たず翌1202年(建仁2年)没した。
「千載和歌集」以下の勅撰和歌集などに、117首入集。家集に「寂蓮法師集」がある。



【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・<Wikipedia>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。
なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな 
西行法師

<月前恋と「いへる心をよめる 千載集・恋五>


【歌意】
・・・・・・・・・・
恋人の冷たさが恨めしいか
もっと嘆け悲しめと 
あの月がいうわけではないのだが
月にかこつけがましく流れ出る
おろかなわが涙であることよ
月はただ無心に照っているのに
・・・・・・・・・・

【語句・文法】

* なげけとて; 
悲しめと言って。
「なげけ」は四段活用動詞「なげく」の命令形、主語は作者。
「とて」は「と言って」の意の格助詞。

* 月やは物を 思はする;
月はわたしに物思い(悩む)をさせるのだろうか、いや月がさせるのではない。
「やは」は反語の係助詞、結びは使役の助動詞「す」の連体形「する」。
三句切。
古来「月の顔見るは忌むこと」といわれる。
「を」は動作の対象を示す格助詞。
「思は」は動詞未然形。
擬人法。

* かこち顔なる わが涙かな; 
「かこち顔なる」は形容動詞「かこち顔なり」の連体形、かこつけがましい意。月に罪を着せる様子。
「かこち顔なる」は「涙」を修飾する。
「わが」は自称代名詞「わ」と、連体修飾語を作る格助詞「が」。
「かな」は詠嘆の終助詞。


【作者や背景】

西行;
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C


西行法師;西行 さいぎょう 元永一〜建久一(1118〜1190)
元永元年(1118)、生まれる。俗名は佐藤義清(のりきよ)。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。弟に仲清がいる(『尊卑分脈』では兄とある)。
保延元年(1135)、18歳で兵衛尉に任ぜられ、二年後、鳥羽院北面として安楽寿院御幸に随う。
崇徳天皇の保延六年(1140)二十三歳で出家。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。

富裕な家の、ほまれある武門の生まれの青年が、なぜ、青春のまっただなかで世を捨てたのか、なぞである。
友人の死に無常を感じたとも、さる高貴な女人にむくわれぬ愛を捧げた結果とも、また政争にあけくれる現世に厭離の念をおこしたとも言われているが、おそらくさまざまな原因が重なって、この多情多感な青年に世を捨てさせたのであろう。

そのとき青年には妻と二人の子がいた。そのうちの一人は、四つばかりの女の子で、彼が日頃、心から可愛がっていた娘であった。その子が慕い寄ってまつわりつくのを、心を鬼にして縁から蹴落とし、家を出ていったと伝えられている。あちこちに草庵を結び、旅をすみかとして放浪した。

世は保元・平治の兵乱で騒がしく、西行が心を寄せた人々も、次々に死んでいった。西行は徳大寺家と親しかったから、その一門の待賢門院、お子の崇徳院の悲運に心をいためたのであった。崇徳院が配流の地の讃岐で亡くなられた後、西行は四国に渡って院の霊を慰め

「よしや君 昔の玉の ゆかとても かからむ後は 何にかはせむ」

という歌を捧げている。

西行は月と花を、こよなく愛した人だった。彼の半生はちょうど平氏が勃興し、栄華を誇り、やがて没落していった時代にあたっている。
また鳥羽・崇徳院両帝の宿命的な肉親憎悪の地獄をも、目のあたり見た人である。地獄を見た人の目に、慕わしくも美しいのは、ただ月と花であった。
私に嘆けと言って、月は物思いをさせるのだろうか。いや、そんなことのあるはずはないのに、まるで月のせいにしているかのように流れ落ちる私の涙であるよ。

恋心とはいいつつ、それ以上に、人間西行の「人間」への人恋しさを、「物思わせる」という観念的な「月」に託して詠いあげている、そうした心に思いがはせる一句だろうか。年老いてから遠い昔のことを歌にした、ということではある。

「円位」というのは、西行の昔の法名であり「西行」というのは、歌号である。この歌も、西行の歌としてはおよそ魅力ない歌で、古来からいぶかしがられている。
天成の詩人である彼の歌は、歳月を越えて人々を酔わせる。自然を愛し、旅を愛した彼は、世捨て人といいながら、生きることの滋味を詠わずにはいられない人であった。


現在の淀川と神崎川の交わる所にあった江口と(東淀川区内)いう港で舟遊女と歌合せをしている。
西行は天王寺詣での途中、この遊里で一夜の宿をと望んだが、女主人にすげなく断られるやりとりの様子を詠った問答歌である。(新古今和歌集)

世の中を 厭ふまでこそ 難からめ かりのやどりを 惜しむ君かな    (西行法師)
  
世を厭ふ 人とし聞けば かりの宿に 心とむなと 思ふばかりぞ    (江口の君/遊女妙)

また、この歌が後に伝説化して創作された『江口』と題する謡曲がある。
江口の遊里の跡地を訪れた旅僧の前に遊女・江口の君が亡霊となって現れ、かつての西行とのやりとりの話に及び、女の宿に出家の方を泊めるわけにいかなかったことを説明したのち、夜舟での歌舞する様子を再現、そして仮の世での汚れた身であったことを嘆くが、最後には、仏の救いの手が差しのべられて、普賢菩薩と化して白雲に乗り西の空に消え去るという。

天養元年(1144)頃、陸奥・出羽旅行。各地の歌枕を訪れ、歌を詠む。
久安五年(1145)頃、高野山に入る。
仁安三年(1168)、中国・四国を旅行。讃岐で崇徳院を慰霊する。善通寺に庵居。
治承元年(1177)、源平争乱のさなか、高野山を出て伊勢に移住。二見浦の山中に庵居。
文治二年(1186)、東大寺再建をめざす重源より砂金勧進を依頼され、再び東国へ旅立つ。途中、鎌倉で源頼朝と会見。
翌年、自歌合『御裳濯河歌合』を完成、判詞は藤原俊成。伊勢内宮に奉納する。同じく『宮河歌合』を編み、藤原定家に判詞を依頼する。同歌合は文治五年に完成し、外宮に奉納される。この頃、河内の弘川寺に草庵を結び、翌建久元年(1190)二月十六日、同寺にて入寂。七十三歳。かつて「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と詠んだ願望をそのまま実現するかの如き大往生であった。


【芭蕉が引用した西行作品】

とふ人も 思ひ絶えたる 山里の さびしさなくば 住み憂からまし  
(嵯峨日記)

山里に こはまた誰を 呼子鳥 ひとり住まむと 思ひしものを  
(嵯峨日記)

年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山  
(野ざらし紀行)

象潟の 桜は波に 埋れて 花の上漕ぐ 海士の釣り舟  
(奥の細道)

【西行の歌】

願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ
ゆくへなく 月に心の すみすみて 果はいかにか ならんとすらん
心なき 身にも哀は しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮
なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
古畑の 岨(そば)のたつ木に ゐる鳩の 友呼ぶこゑのす ごき夕暮
み熊野の 浜木綿おふる うらさびて 人なみなみに 年ぞ重なる
津の国の 難波の春は 夢なれや 蘆の枯葉に 風わたるなり
吉野山 去年のしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねむ
庵にもる 月の影こそ さびしけれ 山田は引板の 音ばかりして



【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・<Wikipedia>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。

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