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<題しらず 続後撰集・雑中> 【歌意】 ・・・・・・・・・・
ある時には人をいとおしく思い またある時には人を恨めしく思う 意にそわずつまらないと世の中を思うゆえに あれこれと思い悩むわたしであることよ ・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * 人もをし 人もうらめし; ある時は人もいとおしい。またある時は人も恨めしい。 「人」を特別な忠臣・逆臣ととる考えもあるが、それに限らず、いとおしくなる人もあるし、恨めしくなる人もあるという、愛憎の心の変わるものとして、かかわりのある人々と考えておく。
「も」は並列を表わす係助詞。
初句切・二句切。「をし」は、いとしい・かわいい。 「をし・うらめし」ともに形容詞終止形で、 * あぢきなく 世を思ふゆゑに;
「あぢきなく」は形容詞「あぢきなし」の連用形、意にそわず、つまらない、おもしろくないの意で、「思う」を修飾。
* 物思ふ身は; 「を」は動作の対象を示す格助詞。 「に」は原因・理由を示す格助詞。
「物思ふ」は四段活用動詞「物思ふ」の連体形、心にかかることがあって思い悩む意。
この一首は、倒置法として考えると歌意が理解しやすい。「身」はこの身、私自身。 「は」は係助詞。 * とうち‐ほう〔タウチハフ〕【倒置法】 「とうちほう」を大辞林でも検索 文などにおいてその成分をなす語や文節を、普通の順序とは逆にする表現法。語勢を強めたり、語調をととのえたりするために用いられる。 「どこに行くのか、君は」「起きろよ、早く」など。 【作者や背景】 世の人への愛憎の交錯ゆえに思い悩みつつ乱世に生きる帝王の嘆き。 鎌倉幕府との抗争が、ようやく激しくなった後鳥羽院の晩年の心境を嘆かれた一首である。 院政をしいていた院には、幕府の横暴に対して、単に憂き世とばかり言っておられない世情が、身にしみて感じとられていたにちがいない。 「あぢきなく世を思ふゆゑに」と、院みずからの口から洩らさざるをえない嘆きの内容は、院としての公的な面と個人的な面との二つが絡み合ってのことであろうから、容易にうかがい知ることはできないとしても、少なくとも歌として「あぢきなく」と表現されたとき、人間的な苦悩としてうけとることができる。 「人もをし 人もうらめし」と、わが心さえとらえかね、ことごとに思うにまかせない悲しみは、帝王の心の中にもある人間の悲しみとしてひびいてくる。 【逸話】 交野八郎という強盗がいました。今津にいると聞いては武士たちが捕らえようと出立していくのですが、院もこれをご覧になりたい、と船を仕立ててしまわれるのですよ。 それだけでも驚天動地の出来事ですが、さらにとんでもないことが待っています。 八郎は何しろ豪胆にして技量も素晴らしいものですから中々武士たちに捕まえることは出来ません。船を飛び交っては逃れているうちに院はなんと、ご自身で櫂を取ってははっしとご命令になりました。それで八郎はたちまち捕らえられた、と言うことです。 その後、捕らえた八郎に院はお訊ねになります。 お前ほど名の聞こえた者がなぜああも易々と捕まったのか、と。八郎の答えがまたふるっています。 「武士の捕り手など何ほどの事もございません。が、行幸なされまして御自ら櫂を取ってのご命令。それだけでも畏れ多いことでございますのに、船の櫂などというあのように重たい物をまるで扇でもお持ちになるかに軽々と片手に取られましては、とてもとても。これで我が運尽きたり、とへなへな力も抜けましてございまする」 こう聞けば院も中々ご機嫌悪しくはならなかったようで、八郎を許し以後、召し使ったと言うことです。(水野琥珀著一節) 【配流されても】 われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波かぜ心してふけ なびかずは又やは神に手向くべき思へば悲し和歌の浦浪 【後鳥羽院 ごとばのいん】 治承四〜延応一(1180〜1239) 諱:尊成(たかひら) 治承四年七月十四日(一説に十五日)、源平争乱のさなか、高倉天皇の第四皇子として生まれる。 母は藤原信隆女、七条院殖子。 子に昇子内親王・為仁親王(土御門天皇)・道助法親王・守成親王(順徳天皇)・覚仁親王・雅成親王・礼子内親王・道覚法親王・尊快法親王。 寿永二年(1183)、平氏は安徳天皇を奉じて西国へ下り、玉座が空白となると、祖父後白河院の院宣により践祚。 翌元暦元年(1184)七月二十八日、五歳にして即位(第八十二代後鳥羽天皇)。 翌文治元年三月、安徳天皇は西海に入水し、平氏は滅亡。 文治二年(1186)、九条兼実を摂政太政大臣とする。 建久元年(1190)、元服。兼実の息女任子が入内し、中宮となる(のち宜秋門院を号す)。 同三年三月、後白河院は崩御。 七月、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた。 建久九年(十九歳)一月、為仁親王に譲位し、以後は院政を布く。 同年八月、最初の熊野御幸。 翌正治元年(1199)、源頼朝が死去すると、鎌倉の実権は北条氏に移り、幕府との関係は次第に軋轢を増してゆく。またこの頃から和歌に執心し、たびたび歌会や歌合を催す。 正治二年(1200)七月、初度百首和歌を召す(作者は院のほか式子内親王・良経・俊成・慈円・寂蓮・定家・家隆ら)。 同年八月以降には第二度百首和歌を召す(作者は院のほか雅経・具親・家長・長明・宮内卿ら)。 建仁元年(1201)七月、院御所に和歌所を再興。またこれ以前に「千五百番歌合」の百首歌を召し、詠進が始まる。 同年十一月、藤原定家・同有家・源通具・藤原家隆・同雅経・寂蓮を選者とし、『新古今和歌集』撰進を命ずる。 同歌集の編纂には自ら深く関与し、 四年後の元久二年(1205)に一応の完成をみたのちも、「切継」と呼ばれる改訂作業を続けた。 同二年十二月、良経を摂政とする。 元久二年(1205)、白河に最勝四天王院を造営する。 承久元年(1219)、三代将軍源実朝が暗殺され、幕府との対立は荘園をめぐる紛争などを契機として尖鋭化し、承久三年五月、院はついに北条義時追討の兵を挙げるに至るが(承久の変)、上京した鎌倉軍に敗北、七月に出家して隠岐に配流された。以後、崩御までの十九年間を配所に過ごす。この間、隠岐本新古今集を選定し、「詠五百首和歌」「遠島御百首」「時代不同歌合」などを残した。 また嘉禄二年(1226)には自歌合を編み、家隆に判を請う。 嘉禎二年(1236)、遠島御歌合を催し、在京の歌人の歌を召して自ら判詞を書く。 延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。六十歳。刈田山中で火葬に付された。御骨は藤原能茂が京都に持ち帰り、大原西林院に安置した。 同年五月顕徳院の号が奉られたが、仁治三年(1242)七月、後鳥羽院に改められた。 歌論書に「後鳥羽院御口伝」がある。新古今集初出。(千人万首) 歌人としては、和歌所を再興、『新古今和歌集』撰進の勅を下し、また自らも実質的に関与した。 西行は……生得の歌人とおぼゆ。これによりて、おぼろげの人のまねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり。--『後鳥羽院御口伝』 寂蓮は、なほざりならず歌詠みしものなり。 --『後鳥羽院御口伝』 定家はさうなきものなり。--『後鳥羽院御口伝』 俊頼が後には、釈阿・西行なり。--『後鳥羽院御口伝』 俊頼は源俊頼、釈阿は藤原俊成。 釈阿・西行などが最上の秀歌は、詞も優にやさしきうへ、心ことにふかくいはれもある故に、人の口にある歌勝計(しょうけい)すべからず。--『後鳥羽院御口伝』 * 承久の乱 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。 治承・寿永の乱の過程で鎌倉を本拠に源頼朝を棟梁として東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府では、東国を中心として諸国に守護、地頭を設置し警察権を掌握していた。しかし西国への支配は充分ではなかったため依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二頭政治の状態にあった。 後鳥羽上皇は多芸多才で『新古今和歌集』を自ら撰するなど学芸に優れるだけでなく、武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であり、それまでの北面武士に加えて西面武士を設置し軍事力の強化を行っていた。後鳥羽上皇の財源は長講堂領、八条女院領などの諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。 承久元年(1219年)1月、3代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺された。 『承久記』など旧来の説では、これは「官打ち」(身分不相応な位にのぼると不幸になるという考え)などの呪詛調伏の効果であり、後鳥羽上皇は実朝の死を聞いて喜悦したとしている。これに対して、近年では後鳥羽上皇は武家政権との対立ではなく、当初は公武融和による政治を図っており、そのために実朝の位を進め優遇していたとの見方が強い。実朝の急死により、鎌倉殿の政務は頼朝正室の北条政子が代行し、執権である弟の義時がこれを補佐することとなった。また、新たな京都守護として北条氏の外戚に当たる伊賀光季と、源通親の猶子として朝廷と深いつながりのあった大江親広を派遣した。 幕府は新しい鎌倉殿として雅成親王を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出る。 これに対し、後鳥羽上皇は近臣藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾亀菊の所領である摂津国長江荘、倉橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠(西面武士)への処分の撤回を条件として提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否する。義時は弟の時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みるが、朝廷の態度は強硬で不調に終わる。このため義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となる。将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも、義時にもしこりが残る結果となった。 ここで、将軍継嗣問題について語る上で問題とされているのは、実朝の生前から既に自己の後継者として皇族将軍の迎え入れを検討していたとする説である。上横手雅敬が唱えたもので、建保4年(1216年)の9月に実朝が大江広元に語ったとされる「源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」(『吾妻鏡』)をしかるべき家柄(皇室)から後継を求め、それ(皇族将軍の父)に相応しい官位を求めたとし、後鳥羽上皇もこれを承諾したために実朝を昇進させたという説である。 この説の弱点として実朝暗殺後に後鳥羽上皇が皇族将軍を拒絶したことが説明付かなくなることが挙げられる。これについて河内祥輔は現職将軍である実朝が暗殺されたことで、実朝が皇子を猶子などの形で後継指名をして将軍の地位を譲り実朝はその後見となる構想が破綻してしまったことと、新将軍に反対する勢力による皇子の暗殺が危惧される状況となったために、後鳥羽上皇が皇子の安全を図る更なる保障(河内はこれを幕府機構及び北条氏以下主要御家人の鎌倉から京都への移転とみる)を求めて幕府側が拒絶したとしている。 逆にこの時に皇族将軍のみならず、摂家将軍の擁立も後鳥羽上皇が拒絶すれば、追い込まれるのは主の目処を失ってしまう幕府側である。 河内は、後鳥羽上皇が必ずしも倒幕を目指していた訳ではなかったため三寅の鎌倉下向を容認したのであり、承久の乱における最終目的も「鎌倉における現行の幕府体制」の打倒であって、後鳥羽上皇影響下の京都において「幕府」が存続することまでは反対していなかった、と説く。 また、これらとは別に白根靖大は、後鳥羽上皇は治天としての政治力を背景として家格上昇を望む中級公家層を自己の支配下に置き、更に後鳥羽院政の元で摂関家に準じた家格上昇を手に入れていた(公家社会的な見方からすれば軍事を家職とする新興公家である)鎌倉将軍家=源氏将軍への影響力強化を図ったとする。 だが、後鳥羽上皇が将軍後継問題において、北条氏(公家社会の認識では、鎌倉将軍家の家司筆頭で諸大夫・名家級の中級公家に過ぎないとみなされる者)によってその介入を果たせなかったことにより、北条氏の排除を考えるようになったとする。 同年7月、内裏守護の源頼茂(源頼政の孫)が西面武士に攻め殺される事件が起きた。理由は頼茂が将軍に就こうと図ったためとされているが、幕府の問題のために後鳥羽上皇が朝廷の兵力を動かすのは不自然であり、頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を行っていた動きを知ったためと考えられている。そのためか、事件の直後に後鳥羽上皇が祈願に使っていた最勝四天王院が取り壊されている。また頼茂が内裏の仁寿殿に籠って西面武士を迎え撃ったために仁寿殿だけでなく、宜陽殿・校書殿など多くの内裏の施設が焼失している。 朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり、後鳥羽上皇は討幕の意志を固めたが、土御門上皇はこれに反対し、摂政近衛家実やその父基通をはじめ多くの公卿達も反対、または消極的であった。順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221年)に懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、自由な立場になって協力する。また、近衛家実が退けられて、新帝外戚の九条道家が摂政となった。密に寺社に命じて義時調伏の加持祈祷が行われた。討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となった。 承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まった。その中には有力御家人の尾張守護小野盛綱、近江守護佐々木広綱、検非違使判官三浦胤義も含まれていた。幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の子)は上皇に強要されやむなく京方に加わり、同じく京都守護の伊賀光季は招聘を拒んだ。同時に親幕派の大納言西園寺公経は幽閉された。翌15日に京方の藤原秀康・近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃。光季は僅かな兵で奮戦して討死したが、下人を落ち延びさせ変事を鎌倉に知らせた。 後鳥羽上皇は諸国の御家人、守護、地頭らに義時追討の院宣を発する。同時に備えとして近国の関所を固めさせた。京方の士気は大いに上がり、「朝敵となった以上は、義時に参じる者は千人もいないだろう」と楽観的だった。これに対して東国武士の庄家定は「義時方の武士は万を下るまい。自分も関東にあったなら義時に味方していた」と楽観論を戒め、後鳥羽上皇の不興を買った。 京方は院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって味方すると確信していた。後鳥羽上皇は三浦義村をはじめ幕府の有力御家人には格別の院宣を添えて使者を鎌倉に送った。特に三浦義村については弟の胤義が「(実朝の後継の)日本総追捕使に任じられるなら必ず御味方しましょう」と約束しており、大いに期待されていた。 鎌倉へは、西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が19日に届けられた。京方の使者はその少し後に到着し、警戒していた幕府方に捕らえられてしまった。胤義からの密書を受けた三浦義村は使者を追い返し、直ちに密書を幕府に届けた。21日には院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきた。 上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子が御家人たちに対して鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、「讒言に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとしている上皇方をいち早く討伐して、実朝の遺業を引き継いでゆく」よう命じたことで、動揺は鎮まった。 『承久記』には、政子が館の庭先にまで溢れるばかりの御家人たちを前に涙ながらの大演説を行ったことで彼らの心が動かされ、義時を中心に鎌倉武士を結集させることに成功した記述がある。 一方『吾妻鏡』では、御家人の前に進み出た政子の傍らで安達景盛が政子の声明文を代読したと記されている。- Wikipedia 【出典・引用・転載元】 <三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
百人一首91〜100
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<寛喜元年 女御入内の屏風に 新勅撰集・夏> 【歌意】 ・・・・・・・・・・・・ 風がそよそよと楢の葉に吹きそよぐ ならの小川の夕ぐれは すっかり秋の気配ではあるが この小川で行われている禊の行事だけが いまだ夏であることのしるしであるのだなあ ・・・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * 風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは;
「そよぐ」はそよそよと音をたてる意、動詞連体形。
* みそぎぞ夏の しるしなりける; 「風」と「そよぐ」は主述関係。 「ならの小川」は、京都府北区の上賀茂神社の中を流れる御手洗川。 「なら」は樹木の「楢」と川の名の「なら」とを掛ける掛詞。 「は」は他と区別してとりたてていう係助詞。
秋の訪れる気配の中で、ただ夏越しの禊だけが夏の証拠であるよの心。
「みそぎ」はこの場合夏の終わりの日(陰暦六月三十日)夏越しの祓い(六月祓みなづきはらえ)。第五句の主語。
「しるし」は証拠。
係助詞「ぞ」の結びは、詠嘆の助動詞「けり」の連体形「ける」。「なり」は断定の助動詞「なり」の連用形、 【参考歌】 源経信「経信集」 のどかなる 風のけしきに 青柳の なびくぞ春の しるしなりける 藤原教長「教長集」 風そよぐ ならの葉かげの こけむしろ 夏を忘るる まとゐをぞする 【主な派生歌】 年月を すつるしるしは みそぎ川 夏こそなけれ 水のしら波 (松永貞徳) 風わたる ならの小河の 夕すずみ みそぎもあへず なつぞながるる (小沢蘆庵) 【作者や背景】 初夏とはまだ言えない、ややもすると肌寒い季節の変わり目。秋の気温のようだ、と すでに秋を感じとっている陰暦の夏の終わりの夕暮れの情感をうたう。 * 「掛詞」と「本歌取り」に注目。 夏越しの祓えは、夏の果ての日、六月三十日(みなづきみそか)の行事である。 だから、「みそぎぞ夏の しるしなりける」と、ことわらねばならないほどに、あたりは秋色を感じさせる。 「風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは」は、楢の葉をそよがせる夕暮れに清浄な神事をとけこむように配して、清澄な美を感じさせよう。 上賀茂神社の夏越の祓は毎年六月三十日に行われ、人々は茅の輪をくぐり人形(ひとがた)に名前歳を書き納めお祓いをしてもらう。ならの小川に懸かる橋殿が神事を待つ。松明に導かれて茅の輪をくぐる。平安の昔、神職がみそぎを修していた情景を詠んでいる。 * 二十四の季節のある国、日本。 春は、
立春・雨水(睦月)啓蟄・春分(如月)清明・穀雨(弥生)
夏は、
夏・小満(卯月)芒種・夏至(皐月)小暑・大暑(水無月)
秋は、
立秋・処暑(文月)白露・秋分(葉月)甘露・霜降(長月)
冬は、
立冬・小雪(神無月)大雪・冬至(霜月)小寒・大寒(師走)
* この作は本歌取りで(古今六帖・一・夏越の祓) みそぎする ならの小川の川風に いのりぞわたる 下に絶えじと 八代女王 (後拾遺集・夏) 夏山の ならの葉そよぐ 夕ぐれは ことしも秋の ここちこそすれ 源頼綱 の二首をふまえているが、秀でた作歌力をみせて、気品のある一首としている。 藤原家隆 ふじわらのいえたか(-かりゅう) 保元三〜嘉禎三(1158-1237) 号:壬生二品(みぶのにほん)・壬生二位
良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。
母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。 兄に雅隆がいる。 子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。
安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。
藤原俊成を師とし、藤原定家と並び称された。後鳥羽院は「秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり」と賞讃し(御口伝)、九条良経は「末代の人丸」と称揚したと伝わる(古今著聞集)。千載集初出。新勅撰集では最多入集歌人。自撰の『家隆卿百番自歌合』、他撰の家集『壬二集』(『玉吟集』とも)がある。新三十六歌仙。百人一首にも歌を採られている。『京極中納言相語』などに歌論が断片的に窺える。また『古今著聞集』などに多くの逸話が伝わる。治承四年(1180)、阿波介。 寿永二年(1183)、従五位上。 文治元年(1185)十二月、越中守(兼侍従)。 建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下。同九年正月、上総介に遷る。 正治三年(1201)正月、従四位下。 元久二年(1205)正月、従四位上。 同三年正月、宮内卿。 建永二年(1207)正月、正四位下。 建保四年(1216)正月、従三位。 承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。 嘉禎元年(1235)九月、従二位。 同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。 翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。 文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」、 同三年「殷富門院大輔百首」「閑居百首」を詠む。 同四年の千載集には四首の歌が入集した。 建久二年(1191)頃の『玄玉和歌集』には二十一首が撰入されている。 建久四年(1193)の「六百番歌合」、 同六年の「経房卿家歌合」、同八年の「堀河題百首」、 同九年頃の「守覚法親王家五十首」などに出詠した後、後鳥羽院歌壇にも迎えられ、 正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」「仙洞十人歌合」、 建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」、「新宮撰歌合」などに出詠した。 同年七月、新古今集撰修のための和歌所が設置されると寄人となり、 同年十一月には撰者に任ぜられる。 同二年、「三体和歌」「水無瀬恋十五首歌合」「千五百番歌合」などに出詠。 元久元年(1204)の「春日者歌合」「北野宮歌合」、 同二年の「元久詩歌合」、 建永二年(1207)の「卿相侍臣歌合」、「最勝四天王院障子和歌」を詠む。 建暦二年(1212)、順徳院主催の「内裏詩歌合」、同年の「五人百首」、 建保二年(1214)の「秋十五首乱歌合」、同三年の「内大臣道家家百首」「内裏名所百首」、 承久元年(1219)の「内裏百番歌合」、 同二年の「道助法親王家五十首歌合」に出詠。承 久三年(1221)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、 嘉禄二年(1226)には「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者をつとめた。 寛喜元年(1229)の「女御入内屏風和歌」「為家卿家百首」を詠む。 貞永元年(1232)、「光明峯寺摂政家歌合」「洞院摂政家百首」「九条前関白内大臣家百首」を詠む。 嘉禎二年(1236)、隠岐の後鳥羽院主催「遠島御歌合」に詠進した。 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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<健保六年(1218年)内裏の歌合の恋の歌 新勅撰集・恋三> 定家の家集『十遺愚草』下には、「建保四年六月内裏の歌合の恋」だとある。 【歌意】 ・・・・・・・・・・
待っても来ないあの人を 私は心待ちする まつほの浦の夕凪のなか 藻塩焼く火に さながらわが身もじりじりと 恋に悶えながら 恋い慕いつづけている ・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * こぬ人を; この歌は女性の心を詠んだもので、
「人」は恋人の男性。
* まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの;「こ」はカ行変格活用動詞「来(く)」の未然形。 「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連用形。 「を」は動作の対象を示す格助詞。 この三句は「こがれ」を導く比喩の序詞。
「まつ」の部分が、「待つ」と松帆の浦(淡路島の北辺の海)の「松」との「掛詞」。
松帆の浦は淡路島北端の歌枕。「夕なぎ」は夕方の凪(無風状態のこと)の時の意。 「に」は時を示す格助詞。 「焼く」は連体形。 「や」は語調を整える間投助詞。詠嘆。 「もしほ」は海藻に塩分を付着乾燥させて焼き、水を混ぜて煮詰めてとる塩。 「の」はたとえの格助詞。・・・ノヨウニ、本来は主語を示す。 「まつほの浦」は、淡路島の北端、岩屋の海岸である。 * 身もこがれつつ;
「も」は並列とともに感動も加わる係助詞。
藻塩焼くと、恋に焦がれるをダブらせるのも、古来からの常套語。「こがれ」は下二段活用動詞「焦がる」の連用形、胸もこげるほどに恋い慕う意で、「焼く」の「縁語」。
「つつ」は継続の意の接続助詞。
【作者や背景】<直喩・序詞・掛詞・縁語・本歌取り あり>。 この集の原典選者といわれる定家自身の作。 この一首の「本歌」 (万葉集・巻六・笠金村の長歌) ・・・淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ あまおとめ・・・ 「こぬ人を まつ」心を「身もこがれつつ」という状態表現でとらえ、その環境を思わせるように「序詞」で表現している。 夕なぎのたえがたいようなむし暑さ、息苦しさのなか、藻塩を焼く夕暮れは実景だけにとどまらぬ、詩的なイメージにまで高められていると言えよう。 刻々に変わる夕なぎの海辺に立ちのぼる煙は幻想的でさえあり、恋にみをこがす女性を描いて妖艶と言える。 藤原定家 ふじわらのさだいえ(-ていか) 通称:京極中納言 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/teika.html#KS 1162年(応保2年) - 1241年9月26日(仁治2年8月20日)) 鎌倉初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。 藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。 最終官位は正二位権中納言。京極中納言と呼ばれた。 法名は明静(みょうじょう)。 九条家に近く、土御門通親らと政治的には激しく対立した。 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、 歌道の家としての地位を不動にした。 代表的な新古今調の歌人であり、俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、後世の歌に極めて大きな影響を残した。 二つの勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。 ほかにも秀歌撰に『定家八代抄』がある。 歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、 本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。 歌集に『拾遺愚草』がある。拾遺愚草は六家集のひとつに数えられる。 18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(2000年(平成12年)、国宝に指定)を残した。 明月記にはおうし座で超新星爆発が起こったこと(現在のかに星雲)に関する記述があり、天文学上、重要な資料となっている。 日記は他に、1201年(建仁元年)後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した『熊野御幸記』(国宝)。 また、宇都宮頼綱に依頼され撰じた「小倉百人一首」が有名である。
春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峯に別るる 横雲の空
☆ 古い川柳に大空は 梅のにほひに かすみつつ 曇りも果てぬ 春の夜の月 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとま屋の 秋の夕暮れ 「九十九は撰み一首は考へる」というのがある。 この考えられた一首が、この「こぬ人」の歌であるというわけだ。 百人一首の撰者である藤原定家が自ら撰んだ自分の歌である。 古来、百人一首は謎の歌集と言われて来た。 必ずしも名歌を撰んでいるわけではないようだし、有名でない歌人がはいっており、著名な歌人が落ちていたりする。 また、撰ばれた歌がその歌人の代表作とはいいがたいものであったりする。 宇都宮頼綱の依頼で山荘の襖を飾る色紙和歌を百首撰んだということが「明月記」に書かれており、これが百人一首成立の背景といえるが、撰考の基準はわからない。 こんなわけで、何か隠された意味のある歌集なのだという憶測を呼ぶ。定家自身も「用捨在心」といっている。歌の撰考は定家の心次第というわけ だ。 『源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった。この際に用いた仮名遣いが定家仮名遣のもととなった。 また、「松浦宮物語」の作者は藤原定家とする説が有力である。 1166年(仁安元)12月30日、従五位下に叙位。 1167年(仁安2)12月30日、紀伊守に任官。 1175年(安元元)12月8日、侍従に遷任。 1180年(治承4)1月5日、従五位上に昇叙。侍従如元。 1183年(寿永2)12月19日、正五位下に昇叙。侍従如元。 1189年(文治5)11月13日、左近衛少将に転任。 1190年(文治6)1月5日、従四位下に昇叙し、左近衛少将如元。 1191年(建久2)2月10日、因幡権介を兼任。 1195年(建久6)1月5日、従四位上に昇叙し、左近衛少将・因幡権介如元。 1199年(建久10)1月30日、安芸権介を兼任。因幡権介を去る。 1200年(正治2)10月26日、正四位下に昇叙し、左近衛少将・安芸権介如元。 1202年(建仁2)閏10月24日、左近衛中将に転任。 1203年(建仁3)1月13日、美濃介を兼任。 1210年(承元4)1月14日、淡路権介を兼任。美濃介を去る。 1月21日、左近衛中将を辞任。 12月17日、内蔵頭に任官。 1212年(建暦2)9月8日、従三位に昇叙し、侍従に遷任。 1214年(建保2)2月11日、参議に補任。侍従如元。 1215年(建保3)1月13日、伊予権守を兼任。 1216年(建保4)1月13日、治部卿を兼任。 3月28日、侍従を辞任。 12月14日、正三位に昇叙し、参議・治部卿・伊予権守如元。 1218年(建保6)7月9日、民部卿を兼任。治部卿を去る。 1219年(建保7)、伊予権守を去る。 1220年(承久2)1月22日、播磨権守を兼任。 1222年(承久4)8月16日、参議を辞す。治部卿・播磨権守如元。 1224年(元仁元)、播磨権守を去る。 1227年(嘉禄3)10月21日、正二位に昇叙し、民部卿に遷任。 1232年(寛喜4)1月30日、権中納言に転任。
時、既に貞永元年と改元しており12月18日、権中納言を辞任。
1233年(天福元)10月11日、出家(法名:明静)。 1241年(仁治2)8月20日、薨去(享年80)。 【主な派生歌】 須磨の蜑は心とくもる月ぞ見るやくやもしほのなびく煙に
(作者不詳[菊葉集])
藻塩やくけぶりもすずし昨日までまつほの浦の秋の初風
(松永貞徳)
逢ひみては願ひもみつの浦に焼く今ひとしほに身もこがれつつ
(〃)
思ひとふ人のなさけの色に出でて焚きし紅葉の身もこがれつつ
(藤原惺窩)
来ぬ人をまつの梢に月は入りて恋をせめくる風のおとかな
(*蓮月)
【出典・引用・転載元】<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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<落花をよみ侍りける 新勅撰集・雑一> 【歌意】 ・・・・・・・・・
桜の花を誘っては散らす 嵐の庭の花吹雪 ふりゆくものは 本当に旧(ふ)りゆくものは 私自身であることだよ ・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで;
「花」は桜の花。
* ふりゆくものは;「さそふ」は動詞連体形で、誘い散らす意。「嵐」を擬人化した語。 「嵐の庭」は嵐の吹く庭を言いつづめたもの。 「庭の雪」は庭に散る花吹雪を雪に見立てて表現したもの。 「なら」は断定の助動詞「なり」の未然形。 「で」は打消しの接続助詞。
「ふりゆく」は、「雪」の「降りゆく」と、「身」の「旧りゆく」を掛ける掛詞で、四段活用動詞「ふりゆく」の連体形。
* わが身なりけり;「は」は強意の係助詞。
「わが身」は私自身。
【作者や背景】「なり」は断定の助動詞「なり」の連用形。 「けり」は詠嘆の助動詞終止形。 入道前太政大臣(1171〜1244)本名、藤原公経。内大臣藤原実宗の子。 鎌倉幕府と結んでいた為権勢を誇った。将軍・源頼経は孫にあたる。 勅撰集入集歌百十二首 『新勅撰集』は、定家が若き後堀川帝の仰せで撰進した家集である。 天福二年(1234)の成立。 この歌はその巻十六の雑に出ている。 入道前太政大臣とは、藤原公経(きんつね)のことである。 公経は鎌倉期の動乱時代に生きながら、最後の王朝栄華を一身に具現して、思うことならざるはなく、七十四歳の長寿を保ったという幸運児である。 この時代、京都の貴族が時めくというのは、もちろん鎌倉幕府の庇護と支援があるからである。 公経は鎌倉側と閨閥関係から親しかった。彼の妻は、源頼朝の妹婿、一条能保(よしやす)の女である。 反鎌倉派の後鳥羽院には疎まれたが、承久の乱では鎌倉方に通じたので、乱の後には大いに権勢を振るうことになった。 西園寺を北山に造営し、自身その寝殿に住んだ。(西園寺家というのは彼から始まる)善美をつくした寺で、その宏壮華美なさまは『増鏡』の内野の雪の条にくわしく載っている。
公経は歌を詠む
山ざくら 峯にも尾にも 植ゑおかん みぬ世の春を 人や忍ぶと・・・山桜を峯にもふもとにも植えておこう、後世の人が昔の春をなつかしくしのぶだろうとおもうから・・・ 紅葉葉を さこそ嵐の 払ふらめ この山本も 雨と降るなり ちなみに定家は妻が公経の姉であったから義兄に当たる。 太政大臣に昇り、娘の婿の道家は関白、孫娘は後堀河帝の中宮、鎌倉の将軍に据えられていた頼経も彼の孫であった。 公経は婿の九条道家と並んで、政界の大立者となった。承久の乱ののちの京都政界は、公経によって再編成、統一されたということができる。 ただしそれは、昔の道長のように、全天下の富と権力を一身にあつめた、文字通り、望月の欠けたることなき、というものではなかった。 公経の勢威は、背後の、鎌倉幕府あってこそのものだった。 この時代を境に、京の天皇と貴族は、シンボルとしての存在になってゆく。 軍事力なき、権威の象徴である。 だからこそ、その後も、何百年も生き残れた。 日本の皇室のユニークなあり方は、日本が国際的緊張の中で生き残ってゆく際の、ひとつの示唆である。 さて、この西園寺だが、いま京都の上京区高徳寺町にあるのは、公経の建てたそれではない。公経の創立した寺は、衣笠山のふもとであったという。 今の金閣の地である。この寺は、のち西園寺家の衰微とともにおとろえ、市中へ移転した。 その跡地を、足利義満が譲り受け、鹿苑寺を立てたのであって、金閣の地は由緒ある地なのである。定家は、妻が公経の姉だったため、大いに西園寺家の庇護を受けた。 後鳥羽院の勘気にふれて逼塞窮乏していた定家が、承久の乱以後、めきめきと家運を盛り返して、羽振りがよくなるのも、西園寺家や九条家という彼のパトロンが、威勢よくなったためである。その縁で鎌倉方とも交渉があり、将軍実朝の歌の先生ともなったのである。 【本歌】よみ人しらず「古今集」 世の中にふりぬる物は津の国のながらの橋と我となりけり 【主な派生歌】 吹きさそふ嵐の庭の花よりもわが身世にふる春ぞつもれる (正徹) 一とせの残る日数は雪ならでつもりもあへず年ぞくれける (後柏原天皇) <三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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【歌意】 ・・・・・・・・・・・・・
つたない我が身ながら 世の民のうえに 法服の袖を覆いかけることかな 私の墨染(住み初め)の袖ではあるが (伝教大師が「我が立つ杣」とおっしゃった比叡山に) ・・・・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * 「おほけなく」 身分不相応に。身の程もわきまえず。大胆に。 形容詞「おほけなし」の連用形。 * 「かな」 助詞「か」に詠嘆の助詞「な」が付いたもの。詠嘆・感動をあらわす。体言または活用語の連体形を承ける。 「〜であろうか」とか「〜ている」などの意味にも。 切れ字は意訳するものではなく「〜かな」そのもので味わうものとされている。 因みに、切れ字は「かな」以外に「けり」「や」が三大切れ字とも呼ばれている。 * 「うき世」 憂いことの多い世。 * 「民」はここでは世間の人々。 * 「に」順接条件を示す。「〜につけて」などの意。 * 「おほう」は動詞「おほう」の連体形。 * 「かな」は詠嘆の終助詞。 * 「おほふかな」 法服の袖で民を覆うとは、仏のご加護を人々の上にあるように祈念すること。 仏法によって万民を保護すること。 天下泰平の祈祷は、慈円が若き日に決意し、生涯にわたり打ち込んだことであった。 * 「わが立つ杣(そま)」 比叡山のこと。 * 「に」は動作の対象を示す格助詞。 * 「杣」は杣山で、植林した木を切り出す山の意が原意。 伝教大師がこの山を選び根本中堂を建立した。 * 「墨染の袖」 僧衣の袖。墨染(すみぞめ)に「住み初め」を掛ける掛詞。 この掛詞には
あしひきの 山べに今は すみぞめの 衣の袖は ひる時もなし
などの先例がある。(古今集、読人不知) 【作者や背景】 前大僧正慈円(1155〜1225)諡号:慈鎮和尚 通称:吉水僧正 法性寺入道忠通(摂政関白藤原忠通)の子。 若年にして出家し天台座主大僧正になる。 史書『愚管抄』を著したほか、歌人としても優れ、 家集に『拾玉集』があり、四千六百十三首もの莫大な歌が収められている。 勅撰集入集歌二百二十五首。 僧職にある人の歌にふさわしい、堂々たる気概の歌である。宗教家の信念や抱負が、凛として示されているが、この歌の背後には、伝教大師・最澄の歌があり、それが借景となって歌もすがたがいっそう巨きくなり、格調高くなっている。 『慈鎮和尚自歌合』ではこの歌を俊成が評して「はじめの五文字より心おほきにこもりて、末の匂ひまでいみじくおかしく侍る」といっている。 伝教大師の歌というのは、これも昔から名高い歌、
「あのくたら さんみゃくさんぼだいの 仏たち わが立つそまに 冥加あらせたまへ」 というもの
伝教大師は、比叡山延暦寺の根本中堂を建立するとき、この歌を詠んだという。「あのくたら さんみゃくさんぼだい」というのは、梵語で、最高の真理知恵ということだそうである。大師は中堂を建立しょうとして材木を切り出す山に立ち、仏の加護を念じている。力強い情熱のみなぎる、意思的な歌である。 慈円はそれをふまえて、衆生を救おうという理想に燃えているのである。 この人もまた乱世に生きた人である。 関白藤原忠通(76番「わたのはら・・・」の作者)の晩年の子で、十歳の時父と死別、十一歳で仏門に入った。 この歌はまだ若いころ、三十代の作である。 『千載集』・巻十七・雑に「法印慈円」として見える。 彼の一族の九条家の人々は、歌をよくする。 慈円もまた『新古今集』の代表的歌人の一人であった。 若いころ西行に私淑したが、西行は慈円に「密教を学ばれるなら、和歌をお習いなさい。和歌をよまなければ、密教の奥深いことわりは会得できませぬぞ」とさとしたという。のちに大僧正となり、天台座主の座に昇ったが、政変にまきこまれて辞し、のちにまた復座し、四たび座主になったという。 九条家は親幕派であったので、倒幕の志しあった後鳥羽院のもとで当主兼実は失脚する。しかし後鳥羽院は慈円の歌才と飾りけのない剛直の人柄を愛されたようである。慈円も政治的な立場はともあれ、後鳥羽院にまことを捧げた。院の無謀な倒幕の志を知って慈円は、どんなに心をいためたであろう。 鎌倉幕府の情報が豊富に入手しやすく、かつ、独自の史観と見識を持っていた慈円は、世の流れ、人の心の動きから将来を見据え、皇室のあるべきすがたを『愚管抄』にまとめた。その書はそれとなく、後鳥羽院の叡覧に入れ、倒幕の企てを放棄していただきたい、という慈円の熱意から書かれたものであった。 こんにち、『愚管抄』の著者が慈円であること、その忌憚ない内容も、世間にはよく知られ、学生たちも遠慮することなく学校で教わっている。しかし戦前の教育では『愚管抄』の紹介など、とんでもないことであったのである。 皇国史観一本槍の時代であるから、後鳥羽院の討幕の志をほめそやし、悪玉は鎌倉幕府であると庶民は叩きこまれてきたのであった。『愚管抄』では率直に皇室批判をやっている。戦時中に声高に『愚管抄』なんか読み上げていたら、特高(特別高等警察)にたちまち引っ張られたであろう。 慈円は源平の騒乱で、三種の神器も安徳帝と共に壇ノ浦の海底に沈んだこと、神鏡神璽はのちに拾い上げられたが、神剣はついに入手できなかったことを明快に記す。なぜ、天(運命)は剣を皇室に返さなかったのか、今は武士が武力で国を治めるようになった時代、天皇は武を放棄し文で治められるべき時世のまわりあわせ、「今ハ宝剣モ無益ニナリヌルナリ」剣は武の象徴であれば。 この慈円は(坊さんのくせに歌に熱中しすぎる)と咎められて「たしかにそうだが、まあ、大目にみてくれ」と、歌を詠んだ。
「みな人の 一つの癖は あるぞとよ 我には許せ 敷島の道」
【ほかに】「わが恋は 松を時雨の 染めかねて 真葛が原に 風さわぐなり」 「有明の 月のゆくへを ながめてぞ 野寺の鐘は 聞くべかりける」
七十一歳で生涯を閉じた。「慈鎮」というのは死後のおくり名である。
【主な派生歌】今も猶 わが立つ杣の 朝がすみ 世におほふべき 袖かとぞみる
(尊円親王[新千載])
ちればとて 木の葉の衣 袖なくは うき世の民に おほひやはせん
(正徹)
おほけなく 思ひあがれる 心かな さてもぞ袖は 染色のかげ
(正広)
今宵なほ 飽かず向ひて おほけなく うき身の友と たのむ月かな
(元政)
墨染の わが衣手の ゆたならば うき世の民に おほはましものを
(良寛)
【出典・引用・転載元】<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |


