ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

●●万葉集全索引

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万葉集第巻六(907-1067)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33287529.html

万葉集巻第七(1068〜1417)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33096068.html

万葉集巻第八(1418〜1663)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34190675.html

万葉集巻第九(1664〜1811)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34186727.html

万葉集巻第十(1812〜2350)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34185063.html

万葉集巻第十一(2351−2840)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34179388.html

万葉集第巻十二(2841-3220)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34173230.html

万葉集第巻十三(3221-3347S)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34170384.html

万葉集第巻十四(3348-3577)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34167087.html

万葉集第巻十五(3578-3785)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34162696.html

万葉集第巻十六(3786-3889)
https://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34159380.html

万葉集第巻十七(3890-4031)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34151787.html

万葉集第巻十八(4032-4138)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34147404.html

万葉集第巻十九(4139-4292)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34142668.html

万葉集第巻二十(4293-4516)
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34131880.html

・・・・・・・・・・

<出典・記事転載元>
以下全巻の基本的な構成は著作、Title: Manyoshu [Book 1]
http://etext.lib.virginia.edu/japanese/manyoshu/AnoMany.html
〜Title: Manyoshu [Book 20]
http://etext.virginia.edu/japanese/manyoshu/Man20Yo.html
を教科書として作成しました。


ブログ[[万葉集 柿本人麻呂と高市皇子 ]]
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/21417109.html

和歌入門附録 和歌のための文語文法
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/intro/josiitiran.html

・・・・・・・・・・

<転載元YouTube>


三輪山をしかも隠すか・・・巻一・一八 額田王
https://www.youtube.com/watch?v=xRoTK195GOQ


100分de名著  万葉集 其の1
https://www.youtube.com/watch?v=JHP1cImHbSI

100分de名著  万葉集 其の2
https://www.youtube.com/watch?v=lzo2dj07HbU

君待つと・・・・・巻四・四八八 額田王
https://www.youtube.com/watch?v=qfekxwMn36g

万葉集の七夕歌/池田三枝子
https://www.youtube.com/watch?v=a2fy6ysNi0w

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サ6 1065;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,羈旅,土地讃美,兵庫

[題詞]過敏馬浦時作歌一首[并短歌]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[原文]ー[訓読]ー[仮名]ー
八千桙之ー八千桙のー[やちほこの]ー大国主の 
神乃御世自ー神の御代よりーかみのみよよりー神の御代より
百船之ー百舟のーももふねのー船の群れ集い 
泊停跡ー泊つる泊りとーはつるとまりとー泊る港と
八嶋國ー八島国ーやしまくにーこの国の 
百船純乃ー百舟人のーももふなびとのーすべての船人が
定而師ー定めてしーさだめてしー定めてきた
三犬女乃浦者ー敏馬の浦はーみぬめのうらはー敏馬の浦は
朝風尓ー朝風にーあさかぜにー朝風に 
浦浪左和寸ー浦波騒きーうらなみさわきー浦波たち騒ぎ
夕浪尓ー夕波にーゆふなみにー夕波に 
玉藻者来依ー玉藻は来寄るーたまもはきよるー玉藻は寄り来る
白沙ー白真砂ーしらまなごー白き真砂の
清濱部者ー清き浜辺はーきよきはまへはー清い浜辺は
去還ー行き帰りーゆきかへりー往きつ戻りつして 
雖見不飽ー見れども飽かずーみれどもあかずーいくら見ても見飽きはしない
諾石社ーうべしこそーだからこそ
見人毎尓ー見る人ごとにーみるひとごとにー見る人は皆
語嗣ー語り継ぎーかたりつぎーこの浦の美しさを
偲家良思吉ー偲ひけらしきーしのひけらしきー褒めたたえた
百世歴而ー百代経てーももよへてー もも代の後までも
所偲将徃ー偲はえゆかむーしのはえゆかむー褒めたたえてゆこう
清白濱ー清き白浜ーきよきしらはまーこの清き白浜を
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
 


サ6 1066;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,羈旅,土地讃美,兵庫

[題詞](過敏馬浦時作歌一首[并短歌])反歌二首

[原文]
真十鏡 見宿女乃浦者 百船 過而可徃 濱有<七>國

[訓読]
まそ鏡 敏馬の浦は 百舟の 過ぎて行くべき 浜ならなくに 

[仮名],
[まそかがみ],みぬめのうらは,ももふねの,すぎてゆくべき,はまならなくに

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)

まそ鏡の敏馬の浦を
行き交う多くの船は
ただ素通りするが
それはないだろう
この魅力に気付かないのかなあ

* 「まそ鏡」は「ますみのかがみ」と同義とも、「まそ」は十分整った意ともいう。
* 兵庫津の歴史 ――清盛たちが愛した町「兵庫津」
神戸港は、現在、日本を代表する港であるが、幕末の鎖国政策が解けた開港以前は、兵庫港がその地位にあった。
古代には「務古(むこ)の水門(みなと)」、「敏馬(みぬめ)の浦」と呼ばれ、朝鮮半島の港と交流をしていたことで知られる。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~yamamura/hyougotsu_rekishi.htm
* 「ならなくに」は、断定の助動詞「なり」の未然形+打消の助動詞「ず」の古い未然形「な」+体言化する接尾語「く」ク語法+助詞「に」
詠嘆的な打消しを表す。…ないことだなあ。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33096272.html



サ6 1067;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,羈旅,土地讃美

[題詞]((過敏馬浦時作歌一首[并短歌])反歌二首)

濱清  浦愛見  神世自  千船湊  大和太乃濱

浜清み 浦うるはしみ 神代より 千舟の泊つる 大和太の浜 

はまきよみ うらうるはしみ かむよより ちふねのはつる おほわだのはま
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
浜は清らかで浦は麗しく

神代の昔よりなべての船の泊る湊

ここ大輪田の浜は
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[左注]右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也
          
田邊福麻呂(さきまろ)
740年諸兄政権のブレーンである僧玄(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)を除こうとする藤原広嗣(ひろつぐ)が九州で叛乱した。
この一連の西下の歌は田邊福麻呂(さきまろ)が広嗣乱の平定に参画した途次の歌のようにも思える。
福麻呂は天平20年ころから突然宮廷歌を詠んでいるので、乱の平定の功績が契機となったのかも知れない。
福麻呂は天平20年(748年)橘諸兄(たちばなのもろえ)の使者として用向きは不明であるが越中(えつちゆう)の大伴家持を訪ねている。
ここに福麻呂の歌が登載されているのは、家持の編集部分とも思われるので、橘諸兄派閥者への好意的配慮とも思える。

* 難波宮跡<[歴史ロマン探検隊]より記事転載。>
大化改新(645)にともなう難波遷都以来8世紀末まで約150年間、難波宮は日本の首都として、また副都として、日本の古代史上に大きな役割を果たした。昭和29年(1954)以降長年にわたる発掘調査の結果、前期・後期二時期の難波宮跡が、中央区法円坂一帯の地に残っていることが明らかになった。現在内裏・朝堂院部分90.677屬、国の史跡に指定されている。
遺構の概要
前期難波宮跡はすべての建物が掘立柱で、屋根に瓦を葺かない建物であった。7世紀の中頃、飛鳥で蘇我氏が亡されて後、都が難波に遷されてつくられた難波長柄豊崎宮がこれにあたると考えられている。天武天皇朱鳥元年(686)に、火災で全焼するまで続いたと考えられる。この宮殿は最初の本格的な中国風の都といわれる大和の藤原宮に先行するもので、古代国家の成立期の貴重な遺構である。

後期難波宮跡は、奈良時代の神亀3年(726)聖武天皇の時に造営された宮殿である。大極殿や朝堂院の中心建物には礎石が用いられ、屋根には蓮華文・唐草文・重圏文軒瓦などの瓦が葺かれていた。天平16年(744)にはここ難波宮が首都と定められたが、翌年再び平城宮へと遷された。
(大阪市教育委員会による説明版より抜粋)

大化元年(645年)、蘇我入鹿を誅したという「乙巳の変」により新しく即位した孝徳天皇は、 同年12月に都を飛鳥から難波長柄豊碕宮へ遷都した。
 大化2年(646年)1月に、公地・公民、班田収授の法、国郡制度、租・庸・調の税制度などからなる改新の詔が出されたとされている。
 額田女王が大海人皇子との愛を育み、十市皇女を生んだのはこの頃のことと考えられる。孝徳天皇が亡くなりまもなく、都は再び大和飛鳥、平城京へと移り変わるが大陸との玄関口である難波は副都として栄えた。

「乙巳の変」とは皇極天皇のとき中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我石川麻呂・佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田らによって蘇我入鹿を殺害したことに始まる事件です。
この事件により年号を「大化」と改めて皇極天皇は弟の軽皇子を天皇としました。この天皇が孝徳天皇で飛鳥で即位しました。そして中大兄皇子が皇太子となったのです。
孝徳天皇はこの年の12月に都を難波に移し、難波宮を建設したのでした。
遷都したときから都は発展して行ったのでしょう。
冠位十二階から七色十三階のちに十九階に変更しているのは官人の増加と制度の矛盾点とかが出てきたからなのだろう。
確実に進展している様子が窺える。
このころの大阪は難波津という港があり、大陸との交流の表玄関でもあった。ここに都を移すことはそれなりに意味のあることだったのでしょう。
650年、年号を白雉と改め難波長柄豊崎宮の造営を始めました。そして652年9月、難波長柄豊崎宮は完成したのでした。

ところがである。653年、お坊ちゃま育ちの孝徳天皇と強行で強引な中大兄皇子が対立してしまった。中大兄皇子は都を飛鳥に戻すといい、孝徳天皇をおいてさっさと奈良に戻ってしまったのでした。
中大兄皇子に付いていったのは母である皇極上皇、弟の大海人皇子。それになんと孝徳天皇の皇后である間人皇女も飛鳥川辺の行宮へ行ってしまったのです。
そして654年孝徳天皇は病に倒れ10月10日寂しく難波長柄豊崎宮でこの世から去ったのでした。

そうなると次期天皇は中大兄皇子となるはずだったのですが、ところが次期天皇は皇極上皇が再び斉明天皇として飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で即位重祚したのです。
斉明天皇の時代飛鳥には多くの百済の人がやってきました。その人々をもてなす為だったのでしょうか、多くの土木工事がなされ石と水を利用した施設が大規模に造られています。
この作業に駆り出された人の苦労は大変なもので不満タラタラだったということです。
斉明天皇は661年、唐・新羅の連合軍が百済を攻めたため、その百済救済に出兵したが筑紫まで行ったところで急逝したのでした。
この後は中大兄皇子が天智天皇として即位し、滋賀県大津市に遷都したが、死亡後壬申の乱が起こり大海人皇子(天武天皇)が再び飛鳥を都とした。
都城としたのが飛鳥浄御原令を発布した飛鳥浄御原(きよみはら)だったのです。
斉明天皇の板蓋宮と浄御原はほぼ同じ場所です。
時は流れて奈良時代。天皇は聖武天皇に代わっていました。
740年、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都する事にしたのです。
そして翌741年には恭仁京造営に力が注がれるのです。さらに国分二寺の造営の詔も発せられています。
ところが、744(天平16)年閏1月、聖武天皇は恭仁京から難波京に都を移してしまうのです。
そして1年でまた滋賀県紫香楽に遷都しているのです。それなのに半年で再び平城京に遷都しているのです。
この遷都の意味は不明ながら再び難波が一時的とはいえ都となったのです。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33096131.html




巻6 終わり。

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サ6 1059;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,荒都歌,久邇京,京都

[題詞]春日悲傷三香原荒墟作歌一首[并短歌]

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)

↓[原文]ー[訓読]ー[仮名]ー
三香原ー三香の原ーみかのはらー三香の原の 
久邇乃京師者ー久迩の都はーくにのみやこはー久邇の都は
山高ー山高みーやまたかみー山高く 
河之瀬清ー川の瀬清みーかはのせきよみー川の瀬は清らかで
在吉迹ー住みよしとーすみよしとー住みよい処だと 
人者雖云ー人は言へどもーひとはいへどもー人は言うが
在吉跡ーありよしとー居よい所だと 
吾者雖念ー我れは思へどーわれはおもへどーわたしは思うが
故去之ー古りにしーふりにしー今では廃都となった
里尓四有者ー里にしあればーさとにしあればー里であるので
國見跡ー国見れどーくにみれどー見渡すかぎり 
人毛不通ー人も通はずーひともかよはずー人の往来もなく
里見者ー里見ればーさとみればー里を見ても 
家裳荒有ー家も荒れたりーいへもあれたりー家も荒れ果てている
波之異耶ーはしけやしーああ せつない
如此在家留可ーかくありけるかーかくありけるかーなんと儚い定めだったのか
三諸著ー[みもろつく]ー神の祭壇であるみもろの社の
鹿脊山際尓ー鹿背山の際にーかせやまのまにー鹿背山のあたりに
開花之ー咲く花のーさくはなのー咲く花の 
色目列敷ー色めづらしくーいろめづらしくー珍しさに心ひかれ
百鳥之ー百鳥のーももとりのーさまざまの鳥の
音名束敷ー声なつかしくーこゑなつかしくー鳴き声が心にしみて
在<杲>石ーありが欲しー「ありがほし」ーいつまでも
住吉里乃ー住みよき里のーすみよきさとのー住みたいと思えるこの佳き里の
荒樂苦惜哭ー荒るらく惜しもーあるらくをしもーさびれるのが惜しまれる
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33097653.html



サ6 1060;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,荒都歌,久邇京,京都

[題詞](春日悲傷三香原荒墟作歌一首[并短歌])反歌二首

三香原  久邇乃京者  荒去家里  大宮人乃  遷去礼者

三香の原 久迩の都は 荒れにけり 大宮人の うつろひぬれば 

みかのはら くにのみやこは あれにけり おほみやひとの うつろひぬれば
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三香の原の久邇の都は荒れ果ててしまった

大宮人たちが移り去ってしまったから
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
* 天平12年(740年)、聖武天皇は京都南部・木津川あたりに恭仁宮(久邇宮)の造営に着手、和銅3年から30年余り続いた平城の都からの、唐突な遷都だった。その理由は諸説あるが、大仏建立のための適地を求めた天皇の意思と、自らの勢力圏に都を移したい右大臣・橘諸兄の思惑が一致したからともいわれる。計画では平城京をしのぐ大規模な京域を設定していたらしいが、途中で中止された。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33097644.html



サ6 1061;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,荒都歌,久邇京,京都

[題詞]((春日悲傷三香原荒墟作歌一首[并短歌])反歌二首)

咲花乃  色者不易  百石城乃  大宮人叙  立易<奚>流

咲く花の 色は変らず ももしきの 大宮人ぞ たち変りける 

さくはなの いろはかはらず ももしきの おほみやひとぞ たちかはりける
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
咲く花の色は昔にかわらない

ここを行き来した大宮人の姿は今はない

大宮人の心のうつろいやすさよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
* 政治の中心地が明日香(飛鳥)にあったことから、飛鳥時代と名づけた。最近は、飛鳥板蓋宮一帯を飛鳥京と呼ぶらしい。しかし、飛鳥時代のおよそ100年余に、何度も飛鳥の地を離れている。孝徳天皇は難波に遷都、天智天皇は大津宮、持統天皇は藤原京を造営した。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33097636.html



サ6 1062;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,難波,新都讃美

[題詞]難波宮作歌一首[并短歌]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
↓[原文]ー[訓読]ー[仮名]ー   []は枕詞。
安見知之ー[やすみしし]ー
吾大王乃ー我が大君のーわがおほきみのー我らの大君が
在通ーあり通ふーありがよふーいつもお通いになる
名庭乃宮者ー難波の宮はーなにはのみやはー難波の宮は
不知魚取ー鯨魚取りー[いさなとり]ー
海片就而ー海片付きてーうみかたづきてー海に面していて
玉拾ー玉拾ふーたまひりふー玉を拾う
濱邊乎近見ー浜辺を清みーはまへをきよみー浜辺が清いので
朝羽振ー朝羽振るーあさはふるー朝には鳥が羽を振るわせるように
浪之聲せー波の音騒きーなみのおとさわくー波の音が騒ぎ
夕薙丹ー夕なぎにーゆふなぎにー夕凪には
櫂合之聲所聆ー楫の音聞こゆーかぢのおときこゆー船の楫の音が聞える
暁之ー暁のーあかときのー暁の
寐覺尓聞者ー寝覚に聞けばーねざめにきけばー寝覚に耳を澄ませれば
海石之ー海石のーいくりのー暗礁が
塩干乃共ー潮干の共ーしほひのむたー引潮と共に現れる
<*>渚尓波ー浦洲にはーうらすにはーその浦洲で
千鳥妻呼ー千鳥妻呼びーちどりつまよびー千鳥が妻を呼んで鳴き
葭部尓波ー葦辺にはーあしへにはー葦の生える岸辺では
鶴鳴動ー鶴が音響むーたづがねとよむー鶴が鳴き声を響かせる
視人乃ー見る人のーみるひとのー見る人が
語丹為者ー語りにすればーかたりにすればー語り草にすると
聞人之ー聞く人のーきくひとのー聞く人も
視巻欲為ー見まく欲りするーみまくほりするー見たくなる
御食向ー御食向ふー[みけむかふ]ー
味原宮者ー味経の宮はーあぢふのみやはーこの味経の宮は
雖見不飽香聞ー見れど飽かぬかもーみれどあかぬかもーいくら見ても飽きることがないことよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33097546.html



サ6 1063;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,難波,新都讃美

[題詞](難波宮作歌一首[并短歌])反歌二首

有通  難波乃宮者  海近見 <漁> 童女等之  乗船所見

あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人娘子らが 乗れる舟見ゆ 

ありがよふ なにはのみやは うみちかみ あまをとめらが のれるふねみゆ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大君のいつも通われる難波宮は

海が近いので海人の娘たちの乗る船が見える
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33097454.html



サ6 1064;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,難波,新都讃美

[題詞]((難波宮作歌一首[并短歌])反歌二首)

塩干者  葦邊尓せ  白鶴乃  妻呼音者  宮毛動響二

潮干れば 葦辺に騒く 白鶴の 妻呼ぶ声は 宮もとどろに 

しほふれば あしへにさわく しらたづの つまよぶこゑは みやもとどろに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
潮が引いたので葦の茂る岸辺に

白鶴がつれあいを呼ぶ声で

大宮も鳴り響くばかりだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33097429.html

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サ6 1056;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,久邇京,新都讃美

[題詞]((讃久邇新京歌二首[并短歌])反歌五首)

○嬬等之  續麻繁云  鹿脊之山  時之徃<者>  京師跡成宿

娘子らが 続麻懸くといふ 鹿背の山 時しゆければ 都となりぬ 

[をとめらが うみをかくといふ] かせのやま ときしゆければ みやことなりぬ

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
乙女らが麻糸に紡いで懸けておいたという桛(かせ)

その名のちなむ鹿背の山が

時移って都となったことだなあ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「績麻」は、麻の枝皮を細く裂いて紡いだ麻糸。(つむいだ麻糸)
* 「とふ」は「といふ」。
* 「鹿背」は万葉仮名表記で、「桛」のこと。紡いだ糸を巻く道具。また、それに懸けた糸のこと。
〈乙女らが績麻懸くとふ〉が「鹿背」の序。
* 「時の往ければ」は、「時」名詞。
* 「往け」は、カ行四段活用動詞「往く」の已然形。
* 「れ」は、完了の助動詞「り」の已然形。「ば」は、単純接続助詞。
 (時が)経過すると。
* 「ぬ」は完了の助動詞。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33097720.html



サ6 1057;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,久邇京,新都讃美

[題詞]((讃久邇新京歌二首[并短歌])反歌五首)

鹿脊之山  樹立矣繁三  朝不去  寸鳴響為  鴬之音

鹿背の山 木立を茂み 朝さらず 来鳴き響もす 鴬の声 

かせのやま こだちをしげみ あささらず きなきとよもす うぐひすのこゑ

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鹿背山の木立が深く生い茂っているので

日ごと朝を待ちかねたようにやって来て

鶯が鳴き声を響かせていることだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「鹿背の山」は、京都相楽郡北東部にある山。
* 「繁」は形容詞語幹。
* 「み」理由。生い茂っているので
* 「去らず」は「去る」(季節や時間を表す語に付いて、「やって来る。〜になる」)の未然形「去ら」+打消「ず」で「朝がやってこない。朝にならない」の意だが、ここでは「あさを待ちかねて」くらいの意味とする。
* 「とよ(響)もす」は、音を響かせる 騒がせる
* 体言止。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33097675.html



サ6 1058;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,久邇京,新都讃美

[題詞]((讃久邇新京歌二首[并短歌])反歌五首)

狛山尓  鳴霍公鳥  泉河  渡乎遠見  此間尓不通 [一云 渡遠哉 不通<有>武]

狛山に 鳴く霍公鳥 泉川 渡りを遠み ここに通はず [一云 渡り遠みか通はずあるらむ] 

こまやまに なくほととぎす いづみがは わたりをとほみ ここにかよはず[わたりとほみか,かよはずあるらむ]

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
対岸の狛山に鳴くホトトギスは

泉川の川幅があまりに広いので

こちらには通ってこないことだなあ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33097666.html






 

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サ6 1053;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,久邇京,新都讃美

[題詞](讃久邇新京歌二首[并短歌])

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[原文]ー[訓読]ー[仮名]ー
吾皇ー吾が大君ーわがおほきみー
神乃命乃ー神の命のーかみのみことのー 明きつ神わが大君が
高所知ー高知らすー「たかしらす」ー
布當乃宮者ー布当の宮はーふたぎのみやはー天の下をお治めになる布当の宮は
百樹成ー 百木盛りー「ももきもり」ー
山者木高之ー山は木高しーやまはこだかしー豊かに木々が栄えて
落多藝都ー落ちたぎつー[おちたぎつ]ー
湍音毛清之ー瀬の音も清しーせのおともきよしー瀬音の清き響きよ
鴬乃ー鴬のーうぐひすの
来鳴春部者ー来鳴く春へはーきなくはるへはー鶯鳴く春には
巌者ー巌にはーいはほには
山下耀ー山下光りーやましたひかり
錦成ー錦なすーにしきなす
花咲乎呼里ー花咲きををりーはなさきををりーやまの辺一面に花々が咲き誇り
左<壮>鹿乃ーさを鹿のーさをしかのー牡鹿の
妻呼秋者ー妻呼ぶ秋はーつまよぶあきはー妻呼ぶ秋は
天霧合ー天霧らふー[あまぎらふ]ー空が一面に霧でかすみ霧が掛ったように曇っている状態。
之具礼乎疾ーしぐれをいたみーしぐれをいたみーしぐれにつれて
狭丹頬歴ーさ丹つらふー[さにつらふ]ー 『「さ丹頬ふ」の意。赤みのある顔をしていることから美しいものを形容する』「妹」「君」「紐」「色」「紅葉」などにかかる枕詞。
黄葉散乍ー黄葉散りつつーもみちちりつつー美しさを増した紅葉が舞い散る
八千年尓ー八千年にーやちとせに
安礼衝之乍ー生れ付かしつつーあれつかしつつー生まれながらにしてその身に備わっている。
天下ー 天の下ーあめのした
所知食跡ー知らしめさむとーしらしめさむとー天の下隈なくお治めになる
百代尓母ー百代にもーももよにも
不可易ー変るましじきーかはるましじきーいついつまでも栄える
大宮處ー 大宮所ーおほみやところーみやこ
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[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33099685.html



* 38番歌でも、自然界の変化は天皇のための貢ぎ物として喩えている。
「畳はる 青垣山」が目出度いこと、山神が自然を季節の変化をさせたこと、と言う考え方、天皇の国見の歌として、山々が垣のように宮廷の周りを巡らしていることが目出度い、と言う思想がある。その中に含まれてあるのは、一つは天皇が普通の人間ではなくて、「神ながら」「遠つ神」「明つ神」で示しているように、神の存在であるということ、もう一つは「山」という神の所在している環境に身を置くことで、そこにある自然現象、事物が象徴する力を得ることが出来る、と言うことが考えられる。
 1050番の歌の初めに、「明つ神 わご大君」と言う句が言うように、天皇は「明きつ神」である。宮を立てる理想の地として、数々周りの景色を描いている。「山並みの 宜しき国と 川次の たち合う郷と」であり、「川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音とよむ 春されば 山もとどろに さ男鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺もしじに 巖には 花咲きををり」する所である。 
 1053番の歌にも同様に、宮の周りの山の景色を丹念に描いている。

* 恭仁京は聖武天皇が都としたところである。天平12年(740)に藤原広嗣の乱が起きると、天皇は不可解な彷徨を始める。伊勢、不破、近江を転々とした後、ここ恭仁京を定め、右大臣橘諸兄に命じて京の造営を行い、天平13年(741)遷都した。しかし、3年後にはまた難波京に遷都している。わずか3年間の都であった。

* 聖武天皇の思いつきとも思える矢継ぎ早の諸政策、−「遷都」「国分寺・尼寺の建設」「大仏建立」−は、当然国家予算の窮乏をもたらす。膨大な人員が動員され、民にとってはそれは農作業とは異なった不毛な生産労働であった事だろう。「民は憂い苦しんでいる。都が転々とするために住まいも定まらず、道路には生活に苦しむ者の泣きさけぶ声がたえず、恨みなげく声はまことに多い」と「続日本紀(橘奈良麻呂)」も記す。地方の人民は都へ無理矢理労役にかり出され、造営作業に動員されて自分自身の生活どころではなく、労役から脱走する人々も多く、帰郷の道中に餓死した者の死体が氾濫していたという。また、巨大宮城、大仏殿の造営は巨木を伐採するので、今日と同様に森林破壊に至り、結果それは河川の氾濫、山崩れなどの「自然災害」をもたらし、飢饉をつくりだすという悪循環ももたらした。<京都府相楽郡加茂町瓶原編 >
* 奈良朝で初めての男性天皇、聖武帝のこと
http://urano.org/kankou/topics/shoumu/index.html


サ6 1054;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,久邇京,新都讃美

[題詞](讃久邇新京歌二首[并短歌])反歌五首

泉<川>  徃瀬乃水之  絶者許曽  大宮地  遷徃目

泉川 行く瀬の水の 絶えばこそ 大宮所 移ろひ行かめ 

いづみがは ゆくせのみづの たえばこそ おほみやところ うつろひゆかめ

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
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泉川を流れる瀬の水がもし絶えるようなことがあったなら

大宮所は遷都がすることでしょう

泉川の川瀬の水の絶えることがないように

この都は磐石である
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「泉川」は木津川のこと。
「絶えば」;
「絶え」はヤ行下二段活用動詞「絶ゆ」の未然形。
「ば」は仮定条件接続助詞=絶えるならば。
「大宮所」は「皇居のある所。皇居」のこと。
「移ろひ」は「場所を変える」こと。
「め」は推量「む」の已然形で係助詞「こそ」の結び。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33099679.html



サ6 1055;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,久邇京,新都讃美

[題詞]((讃久邇新京歌二首[并短歌])反歌五首)

布當山  山並見者  百代尓毛  不可易  大宮處

布当山 山なみ見れば 百代にも 変るましじき 大宮所 

ふたぎやま やまなみみれば ももよにも かはるましじき おほみやところ

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
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布当山の山並を見ると 

万代にも変わりそうにもない大宮所だ
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<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33099652.html



田辺福麻呂(たなべのさきまろ)
生没年未詳。『万葉集』末期の代表歌人。748年(天平20)橘諸兄(たちばなのもろえ)の使者として越中(えっちゅう)(富山県)の大伴家持(おおとものやかもち)のもとに下っている。ときに造酒司(さけのつかさ)の令史(そうかん)(大初位(だいそい)上相当官)。福麻呂作とあるのは短歌13首だが、ほかに『田辺福麻呂歌集』に長歌10、短歌21首があって福麻呂の作と認められる。政権担当者橘諸兄のもとで宮廷賛歌などを歌い、宴席に奉仕している点からして、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や山部赤人(やまべのあかひと)の系統を継ぐ最後の宮廷歌人であった。作風は軽快で装飾美に富み、巧妙・華麗だが、概して平板で迫力に乏しい。

* 『万葉集』とは、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集である。
天皇、貴族から下級官人、防人など様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3)以後と見られる。歌集。20巻。
 数次にわたって編纂されたとみられ、大伴家持が編纂に携わったことが推定されるが、最終的に現在の形にまとめた人物は不明。
 巻1〜16までは基本的に雑歌(ぞうか)相聞歌(そうもんか)挽歌などの部立てによる編纂方針によって貫かれるが、巻一七以降は年月日順で編まれ、部立てはみられない。
 作者は皇族貴族から遊女乞食まで広い階層にわたるが、その中心が皇族貴族官人であったことは無視できない。
特に、額田王・柿本人麻呂・山部赤人・山上憶良・大伴旅人・大伴家持などは著名。
 歌体は、短歌のほか長歌旋頭歌(せどうか)などを含む。初期の集団的な歌謡から大伴家持に代表される繊細優美な歌まで、上代歌謡の進展に伴うさまざまな歌を含む。

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