ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

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サ6 1050;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,久邇京,新都讃美,京都

[題詞]讃久邇新京歌二首[并短歌]

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)

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↓[原文]ー[訓読]ー[仮名]ー
明津神ー現つ神ーあきつかみー現神にあらせられる
吾皇之ー我が大君のーわがおほきみのー我が大君の
天下ー天の下ーあめのしたー天の下
八嶋之中尓ー八島の内にーやしまのうちにー大八島の内には
國者霜 ー国はしもーくにはしもー國々は 
多雖有ーさはにあれどもー沢山あるけれど
里者霜ー里はしもーさとはしもー里は 
澤尓雖有ーさはにあれどもー沢山あるけれど
山並之ー山なみのーやまなみのー山なみの 
宜國跡ーよろしき国とーよろしきくにとー結構な國として
川次之ー川なみのーかはなみのー川の流れの 
立合郷跡ーたち合ふ里とーたちあふさととー集まる里として
山代乃ー山背のーやましろのー山背の國の
鹿脊山際尓ー鹿背山の際にーかせやまのまにー鹿背山のほとりに
宮柱ーみやばしらー宮柱を
太敷奉ー太敷きまつりーふとしきまつりー太いしっかりと建てまわし
高知為ー高知らすー[たかしらす]ー天皇が高々とお造りなった
布當乃宮者ー布当の宮はーふたぎのみやはー恭仁の京は
河近見ー川近みーかはちかみー川が近いので
湍音叙清ー瀬の音ぞ清きーせのおとぞきよきー瀬音はまことに清らかである
山近見ー山近みーやまちかみー山が近いので 
鳥賀鳴慟ー鳥が音響むーとりがねとよむー鳥の鳴き声あ響きわたる
秋去者ー秋さればーあきさればー秋になれば 
山裳動響尓ー山もとどろにーやまもとどろにー山も轟くばかりに
左男鹿者ーさを鹿はーさをしかはー牡鹿は 
妻呼令響ー妻呼び響めーつまよびとよめー妻をよび鳴き
春去者ー春さればーはるさればー春ともなれば
岡邊裳繁尓ー 岡辺も繁にーをかへもしじにー岡辺に若草茂り
巌者ー巌にはーいはほにはー岩を覆って
花開乎呼理ー花咲きををりーはなさきををりー花はたわわに咲きそろい
痛○怜ーあなあはれーああ素晴らしい
布當乃原ー布当の原ーふたぎのはらーふたぎの原よ
甚貴ーいと貴ーいとたふとーいと貴い 
大宮處ー大宮所ーおほみやところー大宮の地は
諾己曽ーうべしこそーだからこそ
吾大王者ー吾が大君はーわがおほきみはー 
君之随ー君ながらーきみながらーいかにも大君らしく
所聞賜而ー聞かしたまひてーきかしたまひてー臣下の勧めをよしとせられて
刺竹乃ーさす竹のー[さすたけの]ー
大宮此跡ー大宮こことーおほみやこことー大宮をここと
定異等霜ー定めけらしもーさだめけらしもー定められたのだ
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<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33099738.html
 
 
 
サ6 1051;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,久邇京,新都讃美,京都

[題詞](讃久邇新京歌二首[并短歌])反歌二首

三日原  布當乃野邊  清見社  大宮處 [一云 此跡標刺]  定異等霜

三香の原 布当の野辺を 清みこそ 大宮所 [一云 ここと標刺し]  定めけらしも 

みかのはら ふたぎののへを きよみこそ おほみやところ[こことしめさし] さだめけらしも

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
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三日の原の布当の野辺あたりが清清しかったから

この地を大宮所に定めたのであろう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33099736.html


* 標(しめ);<[たのしい万葉集]より記事転載。>
大きく言って次の二つの意味があります。
‐貊蠅領琉茲鮗┐掘⇔ち入りを禁止するためのしるし。縄を張ったり木をたてたりする。
∋各擦覆匹瞭擦靴襪戮箸垢襪燭瓩里靴襪掘A陲陵佞簗擇了泙魄き結んだりする。
 
神社や木などに見られる注連縄(しめなわ)は、特別で神聖な場所や物であることを人に示す役目をしています。そしてみだりにふれさせないようにしていますね。
* 「三日原」=「三香の原」=「甕の原」=「みかのはら」(京都府・加茂町瓶原) 「みかのはら(甕の原)」は、聖武天皇が遷都して恭仁京(くにのみやこ)おいた場所である。遷都の理由は定かではない。「みかのはら」は、「クニ」の象徴だったか。
* <以下[近畿風雲抄]より記事転載。>
恭仁京(山城国国分寺址)−京都府木津川市加茂町瓶原−
 淀川の支流泉川の右岸に瓶原(みかのはら)というところがある。
泉川は木津川の別称。布当(ふたぎ)の野辺を流れる川。
天平12(740)年10月、平城京を離れ伊勢に出立した聖武天皇は、なぜか都へは戻らず、伊勢、美濃、近江を転々として、山城国の恭仁郷に入ったのは同年12月。伊勢に向かってから2月余、聖武天皇は、ようやく恭仁(くに)郷を都と定める。
聖武天皇の彷徨はさらに続いた。天平14(742)年2月、紫香楽に行宮が営まれると、しばしば行幸が繰り返され、翌15(743)年の調庸は紫香楽あてとなり、同年末には未だ完成をみていなかった恭仁京の造営工事が中止された。
さらに、天平16(744)年、天皇は難波への行幸を企図し、同年2月に勅を発し、難波宮が都となった。
彷徨はさらに続く。天平17(745)年6月、官人らの意見に従って再び平城京が都とされたのである。
猫の目のように変わる行宮と遷都。尋常でない朝廷の動揺と混乱はいったい何を物語るのか。
藤原広嗣の乱を背景に橘諸兄と藤原氏一族との確執と謀略によって編まれた政変劇と思えてならない。動揺し身の置き場を失ってひたすら政治の安定を願った聖武天皇。筑紫から報ぜられた広嗣逮捕、斬殺の報をえてもなおとどまらなかった彷徨は、政権内部の対立や天変地変も重なってしばしば遷都を決意させることになったのだろう。
 恭仁は諸兄の本拠地で別荘があったところ。恭仁宮址に大極殿の基壇が残り、遺址に石碑が立っている。天平18(746)年、大極殿は山城国国分寺に施入され、金堂に転用された。




サ6 1052;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,久邇京,新都讃美,京都

[題詞]((讃久邇新京歌二首[并短歌])反歌二首)

<山>高来  川乃湍清石  百世左右  神之味将<徃>  大宮所

山高く 川の瀬清し 百代まで 神しみゆかむ 大宮所 

やまたかく かはのせきよし ももよまで かむしみゆかむ おほみやところ

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
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山は高川の瀬音はまことに清らか

ももよ(百代)の後まで 神々しく

栄えていくに違いないこの大宮ところ
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<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33099718.html
サ6 1047;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,哀惜,平城京,荒都歌,奈良

[題詞]悲寧樂故郷作歌一首[并短歌]
奈良平城京の荒廃を悲しむ歌。

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)

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[原文]ー[訓読]ー[仮名]ー
八隅知之ー[やすみしし]ー
吾大王乃ー我が大君のーわがおほきみのー
高敷為ー高敷かすーたかしかすーあまねく天下を支配なさる天皇が
日本國者ー大和の国はーやまとのくにはー大和の国は
皇祖乃ーすめろきのー
神之御代自ー神の御代よりーかみのみよよりー皇祖の神の御代より
敷座流ー敷きませるーしきませるーお治めになる
國尓之有者ー国にしあればーくににしあればー国であれば
阿礼将座ー生れまさむーあれまさむーこの世に現れたまう
御子之嗣継ー御子の継ぎ継ぎーみこのつぎつぎー代々の皇子が
天下 ー天の下ーあめのしたー天下を
所知座跡ー知らしまさむとーしらしまさむとー治められるものとして
八百萬ー八百万ーやほよろづー
千年矣兼而ー千年を兼ねてーちとせをかねてー千年万年にわたる
定家牟ー定めけむーさだめけむー都として定められた
平城京師者 ー奈良の都はーならのみやこはーこの奈良の都は
炎乃ー[かぎろひの]ー
春尓之成者ー春にしなればーはるにしなればー陽炎の立つ 春になれば
春日山ーかすがやまー春日の山 
御笠之野邊尓ー御笠の野辺にーみかさののへにー三笠の野辺に
櫻花ー桜花ーさくらばなー桜の花の咲く
木晩牢ー木の暗隠りーこのくれがくりー木陰に 
皃鳥者ー貌鳥はーかほどりはー カッコウが
間無數鳴ー間なくしば鳴くーまなくしばなくー絶え間なく鳴き
露霜乃 ー露霜のー[つゆしもの]ー露が冷たく置く 
秋去来者ー秋さり来ればーあきさりくればー秋が来れば
射駒山ー生駒山ーいこまやまー生駒の  
飛火賀<す>丹ー飛火が岳にーとぶひがたけにー飛火が岳では
芽乃枝乎ー萩の枝をーはぎのえをー萩の枝を
石辛見散之ーしがらみ散らしーしがらみちらしー絡みつかせて
狭男<壮>鹿者ーさを鹿はーさをしかはー牡鹿は
妻呼令動ー妻呼び響むーつまよびとよむー妻を呼び響(とよ)み
山見者ー山見ればーやまみればー山を見れば 
山裳見皃石ー山も見が欲しーやまもみがほしー山は美しく
里見者ー里見ればーさとみればー里を見れば 
里裳住吉ー里も住みよしーさともすみよしー里は豊かで住み良い
物負之ー[もののふの]ー 
八十伴緒乃 ー八十伴の男のーやそとものをのー大勢の宮人達が
打經而ーうちはへてー常々
思<煎>敷者ー思へりしくはーおもへりしくはー思っていたこは
天地乃ー天地のーあめつちのー天地の
依會限ー寄り合ひの極みーよりあひのきはみー寄り合う果て極まりなく 
萬世丹ー万代にーよろづよにーいついつまでも 
榮将徃迹 ー栄えゆかむとーさかえゆかむとー栄えゆくものと
思煎石ー思へりしーおもへりしーそう思っていた
大宮尚矣ー大宮すらをーおほみやすらをー大宮なのに
恃有之ー頼めりしーたのめりしーそのように頼りにしていた
名良乃京矣ー奈良の都をーならのみやこをー奈良の都だったのに
新世乃ー新代のーあらたよのー新しい時代になったとの
事尓之有者ーことにしあればーことであったので
皇之ー大君のーおほきみのー天皇の 
引乃真尓真荷ー引きのまにまにーひきのまにまにーお導きのまま
春花乃ー春花のーはるはなのー春花が  
遷日易ーうつろひ変りーうつろひかはりー移ろい変ように
村鳥乃ー 群鳥のーむらとりのー群鳥が
旦立徃者ー朝立ち行けばーあさだちゆけばー朝立ちするように
     あわただしく行ってしまった
刺竹之 ーさす竹のー[さすたけの]ー
大宮人能ー大宮人のーおほみやひとのー大宮人が
踏平之ー踏み平しーふみならしー踏みならし
通之道者ー通ひし道はーかよひしみちはー通った道を
馬裳不行 ー馬も行かずーうまもゆかずー馬も行かず
人裳徃莫者 ー人も行かねばーひともゆかねばー人も通わないので
荒尓異類香聞ー荒れにけるかもーあれにけるかもー荒れはててしまったことだなあ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33105565.html



サ6 1048;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,哀惜,平城京,荒都歌

[題詞](悲寧樂故郷作歌一首[并短歌])反歌二首

立易  古京跡  成者  道之志婆草  長生尓異<煎>

たち変り 古き都と なりぬれば 道の芝草 長く生ひにけり 

たちかはり ふるきみやこと なりぬれば みちのしばくさ ながくおひにけり

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
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都が移っていってしまったので

道端の芝草が生い茂ってしまったことだ
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<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33105554.html



サ6 1049;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,哀惜,平城京,荒都歌

[題詞]((悲寧樂故郷作歌一首[并短歌])反歌二首)

名付西  奈良乃京之  荒行者  出立毎尓  嘆思益

なつきにし 奈良の都の 荒れゆけば 出で立つごとに 嘆きし増さる 

なつきにし ならのみやこの あれゆけば いでたつごとに なげきしまさる

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
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慣れ親しんだ奈良の都が荒れてゆく

道に出てそのありさまを見るたびに

嘆きはますますつのるばかりだよ
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<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33105525.html
サ6 1044;雑歌,哀惜,平城京,荒都歌,奈良

[題詞]傷惜寧樂京荒墟作歌三首 [作者不審]

紅尓  深染西  情可母  寧樂乃京師尓  年之歴去倍吉

紅に 深く染みにし 心かも 奈良の都に 年の経ぬべき 

くれなゐに ふかくしみにし こころかも ならのみやこに としのへぬべき
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
紅色に深く染まるように

なじんだ気持のためなのか 

奈良の都に時が過ぎて

面影やいずこ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「染みにし」は、マ行四段活用動詞「染む」の連用形。
* 「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。
* 「し」は、過去助動詞「き」の連体形。 (紅に)色づいた。
* 「かも」は、係助詞「か」に疑問・詠嘆の終助詞「も」が付いて、 〜か 〜なのか
* 「経」は、ハ行下二段活用動詞「経(ふ)」の連用形。
* 「ぬ」は、完了の助動詞。
* 「べき」は、推量の助動詞「べし」の連体形。 時が過ぎたのだろう
* 寧樂と平城、傷惜寧樂京、ヤマトの奈良を指して倭国を歌う。京師は、都と同意。




サ6 1045;雑歌,哀惜,平城京,荒都歌,無常,奈良

[題詞](傷惜寧樂京荒墟作歌三首 [作者不審])

世間乎  常無物跡  今曽知  平城京師之  移徙見者

世間を 常なきものと 今ぞ知る 奈良の都の うつろふ見れば 

よのなかを つねなきものと いまぞしる ならのみやこの うつろふみれば
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この世の中を無情なものだと

今こそ思い知ったことだ

あの立派だった奈良の都が

荒れ果てて行くのを見ると
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「今」は、名詞。* 「ぞ」は、強調の係助詞。
* 「知る」は、ラ行四段活用動詞の連体形。 今分かりました
* 「移ろふ」は、移り変る。時世が変化していく。色があせていく
* 「見れ」は、マ行上一段活用動詞「見る」の已然形。
* 「ば」は、原因理由の接続助詞。   見ているので

* 藤原京遷都から74年つづいた平城京は、あまりにも仏教を重んじたためついに政治に口だしする道鏡のような僧があらわれるにいたった。
そこで桓武天皇は人心を一新すると同時に蝦夷への出兵の便を計るため784年山城國長岡の地へ遷都を決意された。
桓武天皇は、平安京の建設にあたって平城京からの寺院の移築をゆるさなかった。
明日香京、藤原京、平城京と延々と培われて来た政治文化、芸術等々は、すっかり平安京にもちさられた。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33105597.html


6 1046;雑歌,哀惜,平城京,荒都歌,奈良

[題詞](傷惜寧樂京荒墟作歌三首 [作者不審])

石綱乃  又變若反  青丹吉  奈良乃都乎  又将見鴨

岩綱の また変若ちかへり あをによし 奈良の都を またも見むかも 

いはつなの またをちかへり あをによし ならのみやこを またもみむかも
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
岩綱のようにまた若返って

奈良の都が栄えるのを

再び見ることができるでしょうか
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 岩綱(いはつな)は蔦(つた)のこと。
* 元明天皇の和同3年(710)3月に藤原京から平城京への遷都がなされた。以降、桓武天皇の延暦3年(784)年の間都であった。ただし、天平12年〜17年は、恭仁(くに)・紫香楽(しがらき)・難波(なにわ)に都が移された。
この時代は、元明天皇・元正天皇・聖武天皇・孝謙天皇・淳仁天皇・称徳天皇(孝謙天皇に同じ)・光仁天皇・桓武天皇と続いた。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33105582.html
サ6 1041;雑歌,安倍虫麻呂,宴席,京都,久邇京,天平16年1月5日

[題詞]十六年甲申春正月五日諸卿大夫集安倍蟲麻呂朝臣家宴歌一首 [作者不審]

吾屋戸乃  君松樹尓  零雪<乃>  行者不去  待西将待

我がやどの 君松の木に 降る雪の 行きには行かじ 待にし待たむ 

わがやどの きみまつのきに ふるゆきの ゆきにはゆかじ まちにしまたむ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の家の君を待つという

その松の木に降る雪のように

行き(雪)はいたしません

ひたすら待つ(松)ことにしましょう
・・・・・・・・・・・・・・・・・
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33106101.html



サ6 1042;雑歌,作者:市原王,宴席,天平16年1月11日,寿,京都,久邇京

[題詞]同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首

一松  幾代可歴流  吹風乃  聲之清者  年深香聞

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の音の清きは 年深みかも 
 
ひとつまつ いくよかへぬる ふくかぜの おとのきよきは としふかみかも

[左注]右一首市原王作
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この一本松は幾代を経てきたのだろう

松に吹く風の音が清らかなのは

年輪を深く重ねたからだろう
・・・・・・・・・・・・・・・・・:
* 市原王は志貴皇子の曾孫。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33106039.html



サ6 1043;雑歌,作者:大伴家持,宴席,天平16年1月11日,永遠,寿,京都,久邇京

[題詞](同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首)

霊剋  壽者不知  松之枝  結情者  長等曽念

たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞ思ふ 

[たまきはる] いのちはしらず まつがえを むすぶこころは ながくとぞおもふ

[左注]右一首大伴宿祢家持作
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
命の長さは知らないが

ただこうして松の枝を結ぶ私の心は

長く続いて欲しいと願う
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「松が枝を結ぶ」のは身の安全や長命を祈るまじない。
安積皇子の長命を祈る歌。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33105689.html

万葉集6 1040

サ6 1040;雑歌,作者:大伴家持,安積皇子,藤原八束,宴席,京都,久邇京

[題詞]安積親王宴左少辨藤原八束朝臣家之日内舎人大伴宿祢家持作歌一首

久堅乃  雨者零敷  念子之  屋戸尓今夜者  明而将去

ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ子が やどに今夜は 明かして行かむ 

[ひさかたの] あめはふりしけ おもふこが やどにこよひは あかしてゆかむ
雨は降り続けるがよい

思いをかける娘の家で

この夜を明かしてゆこう

安積皇子は、17才の若さで亡くなった。

 恭仁京の左少弁藤原八束の家に招かれた安積親王。近侍する内舎人大伴家持もいた。安積親王は聖武天皇の第2子。母は夫人県犬養広刀自である。光明皇后を母とした第1子基親王は生後まもなく薨じ、安積親王は将来を嘱望された皇子だった。このとき、親王16歳、八束29歳、家持28歳ころかと思われる。
 八束邸に集まった3人は、建設が進む新都恭仁京に降る雨を感じながら夜更けまで狩のことなど語りあったことであろう。「ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ児が 宿に今夜は 明かして行かむ」と詠った家持だった。その5年前、光明皇后の娘阿倍内親王が立太子していたが、藤原氏の専制に倦んでいた氏族にはやがてはと安積親王に期待するところもあったろう。それはまた、八束邸に集まった3人の若き諸氏のおもいとも異なるところはなかったであろう。
 しかし、翌天平16(744)年1月、難波宮に向かった安積親王が途中、体調を崩しまもなく薨去。親王の突然の薨去に揺れる心を必死に抑えつつ、・・・かけまくも あやに恐し 我が大君 皇子の命 ・・・と歌う家持。長歌2首、反歌をそれぞれ2首奉った家持。「我が大君 天知らさむと 思はねば おほにそ見みける 和束(わづか)そま山」と別れを悼んだ家持だった。安積親王の墓は恭仁京にほど近い、木津川の支流和束川のほとりの小高い丘陵上にある(写真上)。和束町はお茶の生産で名のあるところ。茶畑が天に至る。その盆地の中央部で非業の皇子が眠っている。
 安積親王の突然の薨去をめぐって諸説がある。九州で藤原弘嗣の乱が勃発し、長屋王、橘諸兄(葛城王)が次々と失脚してゆく。彷徨する聖武天皇。臣下から立后した藤原一族の安宿媛(光明子)。遠い昔に先例がないわけはなかったが、当時皇后はみな皇族であったから、聖武天皇は特に詔書を発して仁徳天皇が葛城襲津彦の娘磐之媛を皇后に立てた先例を紹介したのだった。光明子の娘阿倍内親王が立太子し、やがて帝位につき孝謙天皇となる。当時としては異例の立后、立太子であり、背後に藤原一族の影が見え隠れする。安積親王もまた長屋王、橘諸兄と同様に反藤原とみられた皇子であったのかもしれない。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33109957.html

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