ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

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万葉集6 1038・1039

サ6 1038;雑歌,作者:高丘河内,望郷, 天平十五年(743

[題詞]高丘河内連歌二首

故郷者  遠毛不有  一重山  越我可良尓  念曽吾世思

故郷は 遠くもあらず 一重山 越ゆるがからに 思ひぞ我がせし 

ふるさとは とほくもあらず ひとへやま こゆるがからに おもひぞわがせし
・・・・・・・・・・・・・・・・
故郷は遠いわけではない

山を一つ隔てるばかりなのに

恋しくてならなかったよ
・・・・・・・・・・・・・・・・
* 当時の都は恭仁京。「一重山」は普通名詞で、奈良旧京と恭仁京を隔てる山を指す。
* 「がからに」は、「ただ〜しただけで」の意。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33110129.html



サ6 1039;雑歌,作者:高丘河内,恋情,相聞

[題詞](高丘河内連歌二首)

吾背子與  二人之居者  山高  里尓者月波  不曜十方余思

我が背子と ふたりし居らば 山高み 里には月は 照らずともよし 

わがせこと ふたりしをらば やまたかみ さとにはつきは てらずともよし
・・・・・・・・・・・・・・
あなたと二人でいるので

山が高いので

この里に月が照らなくても

かまいはしない
・・・・・・・・・・・・・・
高丘河内 たかおかのかわち 生没年未詳 
百済系渡来人沙門詠の子。比良麻呂の父。はじめ楽浪(ささなみ)河内を名乗ったが、神亀元年(724)、高丘連を賜姓された。
元正・聖武・孝謙朝に仕えた官人。学者でもあり、聖武天皇が皇太子であった時、侍講に任命され、学問に優れた人物として褒賞されている。
天平十三年(741)には恭仁京における庶民の宅地班給・左右京の設定に従事し、翌年の紫香楽村行幸に際しては造離宮司に任じられる等、宮都の造営に活躍した。
天平十八年には伯耆守に任じられている。
天平勝宝六年(754)、正五位下に至る。この頃大学頭を務めた。
万葉集に二首の歌を残している。(千人万首)
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33109964.html
6 1029;雑歌,作者:大伴家持,羈旅,行幸従駕,聖武天皇,伊勢,三重,天平12年10月,望郷


[題詞]十二年庚辰冬十月依<大>宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首

河口之 野邊尓廬而  夜乃歴者  妹之手本師  所念鴨

河口の 野辺に廬りて 夜の経れば 妹が手本し 思ほゆるかも 

かはぐちの のへにいほりて よのふれば いもがたもとし おもほゆるかも
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
河口の野のほとりに仮の宿りをとっていると

夜が更けるにつれて妻の手枕が思い出される
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33112512.html



6 1030;雑歌,作者:聖武天皇,望郷,行幸,羈旅,三重,天平12年10月,叙景

[題詞](十二年庚辰冬十月依<大>宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時)天皇御製歌一首

妹尓戀  吾乃松原  見渡者  潮干乃滷尓  多頭鳴渡

妹に恋ひ 吾の松原 見わたせば 潮干の潟に 鶴鳴き渡る 

[いもにこひ] あがのまつばら みわたせば しほひのかたに たづなきわたる

[左注]右一首今案 吾松原在三重郡 相去河口行宮遠矣 若疑御在朝明行宮之時 所製御歌 傳者誤之歟
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[妹に恋ひ]あがの松原から見渡すと

潮干の潟に鶴が鳴きながら渡って行く
・・・・・
都に残してきた皇后を恋しく

逢いたいと待ち望みながら

吾の松原を見渡していると

干潟に私の心を表すように鶴が鳴いている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「吾の松原」は三重県四日市、市付近の海岸と推測される。「妹に恋ひ」はその地名から「私が待つ」の意を読み取った枕詞。
* 聖武天皇−恭仁京、紫香楽宮、難波京−
740(天平12)年9月、藤原広嗣が、大宰府で反乱。
10月、聖武天皇は、突然東国に行幸を開始、天武天皇の足跡を習うように、
伊賀、伊勢、美濃、近江を巡り、山背・恭仁郷に到着し、そのままここを都とした。
742年、紫香楽宮が営まれ、行幸がしばしば繰返された。
744年には、難波を皇都と定めたが、745年、平城に帰着し、平城京が再び都となった。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33112502.html



6 1031;雑歌,作者:丹比屋主,行幸従駕,望郷,羈旅,三重,天平12年10月

[題詞](十二年庚辰冬十月依<大>宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時)丹比屋主真人歌一首

後尓之  <人>乎思久  四泥能埼  木綿取之泥而  <好>住跡其念

後れにし 人を思はく 思泥の崎 木綿取り垂でて 幸くとぞ思ふ 

おくれにし ひとをおもはく しでのさき ゆふとりしでて さきくとぞおもふ

[左注]右案此歌者不有此<行>之作乎 所以然言 勅大夫従河口行宮還京勿令従駕焉 何有詠思泥埼作歌哉
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
残してきた人のことを思って

四泥(しで)の崎で木綿(ゆふ)をさげて無事を祈ります
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 天平12年(740)10月に藤原廣嗣(ひろつぐ)が九州で謀反を起こした時、聖武天皇が伊勢の国に行幸し、河口の仮宮に10日間滞在しました。そのとき、同行した丹比屋主(たじひのやぬし)が詠んだ歌とされています。ただし、注意書きには、「丹比屋主(たじひのやぬし)は、河口の仮宮から都に帰ったので、四泥(しで)の崎で歌を詠んだはずはない。」と書かれています。<[たのしい万葉集]より転載。>
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33112456.html




6 1032;雑歌,作者:大伴家持,行幸従駕,望郷,羈旅,三重,天平12年10月

[題詞](十二年庚辰冬十月依<大>宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時)狭殘<行宮>大伴宿祢家持作歌二首

天皇之  行幸之随  吾妹子之  手枕不巻  月曽歴去家留

大君の 行幸のまにま 我妹子が 手枕まかず 月ぞ経にける 

おほきみの みゆきのまにま わぎもこが たまくらまかず つきぞへにける
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天皇の行幸につき従って

いとしい妻の手枕をすることもなく月日が経ってしまった
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33112421.html



6 1033;雑歌,作者:大伴家持,叙景,羈旅,天平12年10月,三重,属目

[題詞]((十二年庚辰冬十月依<大>宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時)狭殘<行宮>大伴宿祢家持作歌二首)

御食國  志麻乃海部有之  真熊野之  小船尓乗而  奥部榜所見

御食つ国 志摩の海人ならし ま熊野の 小舟に乗りて 沖へ漕ぐ見ゆ 

みけつくに しまのあまならし まくまのの をぶねにのりて おきへこぐみゆ
・・・・・・・・・・・・・・・・
天皇に御食を奉る国

志摩の国の海人であろうか

真熊野の小船に乗って

沖の方へと漕いで行くのが見える
・・・・・・・・・・・・・・・・
聖武天皇は、伊賀、伊勢、美濃、近江、山背、そして恭仁京へと行幸と遷都を繰り返した。この歌は、狭残((さざ)の行幸の折に詠んだ歌。狭残は三重県多気郡明和町大淀。<[万葉集に親しむ]より転載。>
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33112265.html



サ6 1034;雑歌,作者:大伴東人,岐阜,羈旅,土地讃美,天平12年10月,養老瀧

[題詞](十二年庚辰冬十月依<大>宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時)美濃國多藝行宮大伴宿祢東人作歌一首
(天平12年10月、聖武天皇が東国に行幸されたおり、多芸(たぎ)の行宮(かりみや)で、大伴東人(おおとものあずまと)が詠んだ歌。)

従古  人之言来流  老人之  <變>若云水曽  名尓負瀧之瀬

いにしへゆ 人の言ひ来る 老人の 変若つといふ水ぞ 名に負ふ瀧の瀬 

いにしへゆ ひとのいひける おいひとの をつといふみづぞ なにおふたきのせ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昔から言い伝えられてきた

老人が若返ると言われている水ですぞ

その名高い滝の瀬の

をつといふ水をさあ汲みましょう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「ゆ」は助詞。〜から
* 「言い」は、言い伝え、
* 「ける」は「来る」で「来た」。 完了の助動詞。
* 「ちふ」は「といふ」。
* 「変若つといふ」は、「をつ(ち)」は動詞で、若返る。若やぐ意。
 「若水」の語は万葉時代にはなく、「変若水(をつ(ち)みず)」として詠われている。後に「若水」という言葉になり、邪気を払い、不老長寿の水の意とされた。
* 「名に負う」は「名としてもつ・名高い」意。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33112213.html



6 1035;雑歌,作者:大伴家持,岐阜,羈旅,宮廷讃美,大夫,天平12年10月,養老瀧

[題詞](十二年庚辰冬十月依<大>宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時)大伴宿祢家持作歌一首

田跡河之  瀧乎清美香  従古  <官>仕兼  多藝乃野之上尓

田跡川の 瀧を清みか いにしへゆ 宮仕へけむ 多芸の野の上に 

たどかはの たきをきよみか いにしへゆ みやつかへけむ たぎのののへに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
田跡川(たどかは)の滝が清らかだからでしょうか

昔から宮仕えしてきたのでしょう

多芸(たぎ)の野に。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 田跡川(たどかは)は、養老の滝を源とする川で、現在は「養老川」と呼ばれている。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33112197.html


6 1036;雑歌,作者:大伴家持,羈旅,行幸従駕,望郷,天平12年10月,岐阜

[題詞](十二年庚辰冬十月依<大>宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時)不破行宮大伴宿祢家持作歌一首
(聖武天皇の「不破の行宮にして作る歌」)

關無者  還尓谷藻  打行而  妹之手枕  巻手宿益乎

関なくは 帰りにだにも うち行きて 妹が手枕 まきて寝ましを 

せきなくは かへりにだにも うちゆきて いもがたまくら まきてねましを
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
関が無ければちょっとだけでも家に帰って

恋人の腕を枕にして寝たいものだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「関」は不破の関。
このあと天皇は近江国を経て山背国の恭仁(京都南部の木津川あたり)に至り、ここで突如、遷都の宣言をした。しかし、造営は途中で中止された。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33112149.html


6 1037;雑歌,作者:大伴家持,宮廷讃美,京都,天平15年8月16日

[題詞]十五年癸未秋八月十六日内舎人大伴宿祢家持讃久邇京作歌一首

今造  久<邇>乃王都者  山河之  清見者  宇倍所知良之

今造る 久迩の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし 

いまつくる くにのみやこは やまかはの さやけきみれば うべしらすらし
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
新しく造られる久邇の都は

山川の清らかさを見れば

ここに君臨なさることはもっともなことだと思われます
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<以下[たのしい万葉集]より転載。>
「養老の滝」の故事
奈良朝2代目の女帝・第44代元正天皇の御代、岐阜県南西部、濃尾平野西端の養老で、孝行息子が滝の水を汲んで帰り、年老いた父に飲ませた所、水はいつの間にか美味しいお酒に変わっていて、老父は大変喜びました。そこで、この滝を誰言うとなく、「養老の滝」と名付けましたが、この孝行話が女帝の耳にも達して、その年の年号・霊亀を、11月17日に養老元年(717年)と改めたということです。

[十訓抄]、古今著聞集より
霊亀3年(717年)9月某日元正天皇がこの地に行幸され、男の至孝に感じ天地の神が神徳を現したものと感動され、孝子を美濃守に任じ、滝の名を「養老の滝」と名付け、年号を養老に改めた。

[続日本紀]より
朕今年九月を以て美濃国不破の行宮に到り、留連数日、因りて当耆郡(たぎノこほり)多度山の美泉を覧て自ら手面を盥(あらひ)しに、皮膚滑なるがごとし。・・・又就きて之を飲み浴する者は或は白髪黒に反り、或は頽髪更(あらた)に生じ、或は闇目明なるがごとし。自余の痼疾ことごとく皆平癒す。昔聞く、後漢の光武の時に醴泉出づ。これを飲む者は痼疾皆癒ゆと。符瑞書に曰く、醴泉は美泉なり、以て老を養ふべしと。蓋し水の精なればなり。寔に惟(おもんみ)るに美泉は即ち大瑞に合へり。朕庸虚なりと雖も、何ぞ天呪に違はむ。天下に大赦すべし。霊亀三年を改めて養老元年となし
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33111815.html
6 1024 雑歌,作者:巨曽倍對馬,橘諸兄,主人讃美,宴席,山口,長門,長寿

[題詞]秋八月廿日宴右大臣橘家歌四首

長門有  奥津借嶋  奥真經而  吾念君者  千歳尓母我毛

長門なる 沖つ借島 奥まへて 吾が思ふ君は 千年にもがも 

ながとなる おきつかりしま おくまへて あがもふきみは ちとせにもがも
・・・・・・・・・・
長門の国にある沖つ借島の名のように

心の奥に深く思っているあなた様は

千年も長生きしてほしいものです
・・・・・・・・・・
* 自分の任国の地名を巧に使い、長寿を願った歌。この地より西方五キロの海上に浮かぶ 蓋井島こそ、天平の昔の 「 沖つ借島 」 であろうとする伝承がある。古来大陸航路の要衝であった。 無人島で、神官だけが駐在し、「海の正倉院」 といわれる。
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6 1025 雑歌,作者:橘諸兄,宴席,長寿

[題詞](秋八月廿日宴右大臣橘家歌四首)

奥真經而  吾乎念流  吾背子者  千<年>五百歳  有巨勢奴香聞

奥まへて 吾れを思へる 吾が背子は 千年五百年 ありこせぬかも 

おくまへて われをおもへる わがせこは ちとせいほとせ ありこせぬかも
・・・・・・・・・・
心の奥に深く思っているあなた様は

千年五百年も長生きしてほしいものです
・・・・・・・・・・
* 「ありこせ」=有りこせ。そうあってほしい。
 「こせ」は「こす」の未然形で・・してほしいの意。
 「ぬかも」・・してくれないかなあ。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33114681.html



6 1026 雑歌,作者:豊島采女,伝誦,橘諸兄,宴席

[題詞](秋八月廿日宴右大臣橘家歌四首)

百礒城乃  大宮人者  今日毛鴨  暇<无>跡  里尓不<出>将有

ももしきの 大宮人は 今日もかも 暇をなみと 里に出でずあらむ 

[ももしきの] おほみやひとは けふもかも いとまをなみと さとにいでずあらむ
・・・・・・・・・・
朝廷にお仕えの官人は

今日もまたお忙しくて

里にもお出かけになられないでしょう
・・・・・・・・・・
* 「里」…女…さ門」
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06/1026 ももしきの 大宮人は 今日もかも 暇をなみと 里に出でずあらむ  豊島采女
新古今104 ももしきの 大宮人は 暇あれや 桜かざして 今日も暮らしつ  山部赤人
10/1883 ももしきの 大宮人は 暇あれや 梅をかざして ここに集へる   作者未詳



6 1027 雑歌,作者:豊島采女,三方沙弥,伝誦,高橋安麻呂,宴席,古歌

[題詞](秋八月廿日宴右大臣橘家歌四首)

橘  本尓道履  八衢尓  物乎曽念  人尓不所知

橘の 本に道踏む 八衢に 物をぞ思ふ 人に知らえず 

たちばなの もとにみちふむ やちまたに ものをぞおもふ ひとにしらえず
・・・・・・・・・・
橘の生える道が八方に分かれるように

多くの道を歩いて多くのことを思っていることだ

思う人に自分の気持ちを知って貰うこともなく
・・・・・・・・・・
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33114541.html



サ6 1028;雑歌,作者:坂上郎女,聖武天皇,遊猟,不奏,天平11年,奈良

[題詞]十一年己卯 天皇遊猟高圓野之時小獣<泄>走<都>里之中 於是適値勇士生而見獲即以此獣獻上御在所<副>歌一首 [獣名俗曰牟射佐妣]
(739(天平11)年・己卯。(聖武)天皇が高円野に遊猟する時。小獣が、都里の中を逃走する。ここに、たまたま勇士に出会い、(獣を)生け捕りした。即ち、此(こ)の歌を(聖武天皇が)御在する所に、献上するに副(そな)えた歌1首 [獣の名は俗にムササビという])

大夫之 高圓山尓 迫有者 里尓下来流 牟射佐i曽此

ますらをの 高円山に 迫めたれば 里に下り来る むざさびぞこれ 

[ますらをの] たかまとやまに せめたれば さとにおりける むざさびぞこれ

[左注]右一首大伴坂上郎女作之也 但未逕奏而小獣死斃 因此獻歌停之
(右の一首は、大伴坂上郎女が作る。但し、未だ奏を経ず(天皇に献上する前)に、小さな獣は斃死(突然死)した。これに因って、歌を献上することは中止した。)
・・・・・・・・・・・・
勇士が高円山で小獣を追い

捕獲して里に下りてきた

それは小さなムササビでした
・・・・・・・・・・・・
* 「せめ」は、追い立てる、追いつめる」の意。
* 「たれば」は、完了の助動詞「たり」の已然形。
* 「ば」は、原因理由の接続助詞  〜たので
* 「ぞ」は強調の係助詞。
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6 1020・6 1021;雑歌,石上乙麻呂,流罪,久米若賣,密通,天平11年,土佐,歌語り

[題詞](石上乙麻呂卿配土佐國之時歌三首[并短歌])
夫の石上乙麿(いそのかみのおとまろ)が天皇の怒りに触れ、土佐に配流された(巻六-1019)。その原因が浮気であったにもかかわらず、妻は夫の無事を、住吉の神様に必死にお願いしている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1020)
王ー大君のーおほきみのー天皇の 
命恐見ー命畏みーみことかしこみーご命令を謹んでお受けし
刺<並>ーさし並ぶー[さしならぶ]ー
國尓出座ー国に出でますーくににいでますー遠い国へとお出かけになるのか
<愛>耶ー[はしきやし]ー
吾背乃公<矣>ー我が背の君をーわがせのきみをー私の愛しい夫
・・・・・・・・・・・・・
(1021)
繋巻裳ー[かけまくも]ー
湯々石恐石ーゆゆし畏しーゆゆしかしこしー口にするのも恐れ多い
住吉乃ー住吉のーすみのえのー住吉の
荒人神ー現人神ーあらひとがみー現人神さま     
<船>舳尓ー船舳にーふなのへにーどうか船の舳先に
牛吐賜ーうしはきたまひー鎮座なさり
付賜将ー着きたまはむーつきたまはむーお寄りになる
嶋之<埼>前ー島の崎々ーしまのさきざきー島の岬々や
依賜将ー寄りたまはむーよりたまはむー夫を遭わせず
礒乃埼前ー磯の崎々ーいそのさきざきー磯の岬々では
荒浪風尓不<令>ー荒き波風にあはせずーあらきなみかぜにあはせずー荒い波風に
遇 <莫>管見ー障みなくーつつみなくー恙無く
身疾不有ー病あらせずーやまひあらせずー病気をすることもなく
急ー速けくーすむやけくーすぐにも 
令變賜根ー帰したまはねーお帰しください
本國部尓ーもとの国辺にーもとのくにへにー元のこの大和の国に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33118155.html



6 1022;雑歌,石上乙麻呂,流罪,久米若賣,密通,天平11年,土佐,歌語り

[題詞](石上乙麻呂卿配土佐國之時歌三首[并短歌])
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
父公尓ー父君にーちちぎみにー父君にとっては 
吾者真名子叙ー我れは愛子ぞーわれはまなごぞー我はいとしい子
妣刀自尓ー母刀自にーははとじにー母君にとっては 
吾者愛兒叙ー我れは愛子ぞーわれはまなごぞー我はかけがえのない息子
参昇ー参ゐ上るーまゐのぼるー都へのぼる
八十氏人乃ー八十氏人のーやそうぢひとのー官人達が
手向<為>ー手向けするーたむけするー手向して行く
恐乃坂尓ー畏の坂にーかしこのさかにー我は前途の安全を祈って 
<幣>奉ー幣奉りーぬさまつりー幣(ぬさ)を奉って越える
吾者叙追ー我れはぞ追へるーわれはぞおへるー吾は都を離れて行く
遠杵土左道矣ー遠き土佐道をーとほきとさぢをー遠く土佐への道へ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33118136.html



サ6 1023;雑歌,石上乙麻呂,流罪,久米若賣,密通,天平11年,土佐,歌語り

[題詞](石上乙麻呂卿配土佐國之時歌三首[并短歌])反歌一首

大埼乃  神之小濱者  雖小  百船<純>毛  過迹云莫國

大崎の 神の小浜は 狭けども 百舟人も 過ぐと言はなくに 

おほさきの かみのをばまは せばけども ももふなびとも すぐといはなくに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここ大崎の神の小浜は狭い港だが

たくさんの船の人々が

素通りすることもなく集ってくるということだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<凛々と〜ことば・沖縄・教育〜>より転載。

石上朝臣乙麻呂は、名門の出身。『続日本紀』の天平11年(739)3月28日の条に「庚申、石上朝臣乙麻呂、久米連若売ヲ姧ストイフニ坐(つみ)セラレテ、土佐ノ国ニ配流セラル。若売ハ下総ノ国み配セラル。」とある。若売は、藤原宇合の未亡人であった。服喪期間中に親しくしていたことが罪となり、流罪となったようだ。
 しかし、伊藤博によれば、天平11年(739)3月は、宇合死後およそ1年半であることによって、「姧」の罪にはあたらないという。ゆえに「事件は、宇合生前に噂としてあり、その服喪期間中二人が親しくしていたことを通して年来のものとされ、天平10年の一周忌以前、大いに世間を騒がせたものか。それかあらぬか、歌群は、『万葉集』では、天平10年8月20日の歌に収められている」。
謎の多い歌である。
  ところで、小生の修論とも関わって、この歌には、興味深い用字がある。すなわち「純」字である。
「百船純毛 」は「ももふなひとも」と読み、「純」は「ひと」と読む。底本では、「純」字を「能」字にしてあるが、誤記である。「純」字は、「壹」の意で「人」に借りたもの。
「純」字は、混じりけのない、純一の意でヒト・ヒタにあたるので、人にあてた。(和歌文学大系2「万葉集(2)」稲岡耕二)
オモシロイけど、難解です。私は、てっきり「純」字は「糸」(イト)と読み、(イト)が「壱」字を呼び、(ヒト)と読むようになったと思っていた。
和歌文学大系2の脚注を読んでいると次のようなことも載っていました。 
 百船人―罪人の護送するは日程が定まっており、風光を賞する暇もなく目的地へ送られる。その点に注目しての作歌だが、乙麻呂の自作ではなかろう。長歌の末尾「吾はぞ追へる…」をうけての反歌。▽以上の乙麻呂土佐配流歌群の作者は不明。但し1019〜21を笠金村およびその周辺人物、1022〜23を田辺福麻呂の作とする説(村瀬憲夫)もある。
 この原文は「田辺福麻呂歌集」の用字と共通する面が多いことが明らかにされている。(古屋彰「田辺福麿之歌集と五つの歌群―その用字を中心として―」万葉第45号・原田貞義「万葉集の私歌集(1)」国語国文研究第41号)
 さて、難しいことばかりを書いているが、大崎の港から少し離れた場所から、入相桜ならぬ、入相菜の花が撮れた。2枚目の画像である。「日高川入相桜」は、所謂「道成寺もの」の浄瑠璃。「道成寺もの」といえば、小生の卒論。あのときあんな苦労をしていて良かったと思える今。修論で苦しんでも、楽しく思えたりするのは、我が身の成長なのだろうか。そして、数年後、あのとき「用字」「表記」「人麻呂」と苦労してよかったと思える……思いたい!!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<転載記事>[奈良県五条2] より。
        
石上乙麿(いそのかみのおとまろ)の卿(まへつきみ)の、土佐の国に配(はなた)えし時の歌三首、また短歌
「石上(いそのかみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は 手弱女(たわやめ)の 惑(さど)ひによりて 馬じもの 縄取り付け 獣(しし)じもの 弓矢囲(かく)みて 大王(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 天ざかる 夷辺(ひなへ)に罷(まか)る 古衣(ふるころも) 真土の山ゆ 帰り来ぬかも」
(1019番・不詳都人の歌)
超訳
布留(ふる)に隣りする 石上(いそのかみ)の古い殿様は
可憐な女の 色香に惑ったばっかりに
馬みたいに 縄をかけられ
獣みたいに 弓矢で囲まれて
天皇の命令を 懼れ畏(かしこ)んで
夷の土佐へ 下がって行く
古い衣をまた打つという 真土(まつち)の山から
また都へ 帰ってこないものか
たかが 女の色香に惑ったという だけなんだから
紀伊との国境から また都へ帰ってこないものか
☆     ☆
「大王の 命畏み さし並の 国に出でます はしきやし 我が背の君を かけまくも ゆゆし畏し 住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとかみ) 船の舳(へ)に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々 依りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風に遇はせず 障(つつ)みなく 病あらはず 速(すむや)けく 帰したまはね もとの国辺に」
(1020番・石上乙麿の妻の歌)
超訳
天皇の命令を 懼れ畏(かしこ)んで
海を隔てて並ぶ 土佐の国に出でます 愛しい我が夫を
声に出すのも畏れおおい 人の姿になって航海を守るという
住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとかみ)よ
我が夫の乗る船の 舳先(へさき)に鎮座したまいて
着きたまう 島の崎々で
寄りたまう 磯の崎々で
荒い波 荒風に遭わせず
障(さわ)りなく 病にも罹らせないで
どうか一日も早く もとの大和へ お帰しください
もとの国 大和へ
☆     ☆
「父君に 吾(あれ)は愛子(まなご)ぞ 母刀自(おもとじ)に 吾(あれ)は愛子ぞ 参上(まゐのぼ)る 八十氏人(やそうぢひと)の 手向する 畏(かしこ)の坂に 幣(ぬさ)奉(まつ)り 吾(あれ)はぞ退(まか)る 遠き土佐道を」
(1020番・石上乙麿の歌)
☆     ☆
反し歌一首
「大崎の 神の小浜(をはま)は 狭けども 百船人(ももふなひと)も 過ぐと言はなくに」
(1023番・石上乙麿の歌)
超訳
四国へ渡る 下津大崎の神のいます小浜は
狭い浜ではあるが どんな船人でも
素通りすることはないと 言われているのに
このわたしは 見ないで過ぎる
哀れにも 見ないで過ぎる
都を追われて 土佐の夷辺(ひなへ)へ罷(まか)る
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33118129.html
6 1018;雑歌,作者:元興寺僧,孤高,天平10年

[題詞]十年戊寅元興寺之僧自嘆歌一首
(十年戊寅に、元興寺の僧が自ら嘆く歌一首)

白珠者  人尓不所知  不知友縦  雖不知  吾之知有者  不知友任意

白玉は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我れし知れらば 知らずともよし 

しらたまは ひとにしらえず しらずともよし しらずと われししれらば
しらずともよし

[左注]右一首<或云> 元興寺之僧獨覺多智 未有顯聞 衆諸<狎>侮 因此僧作此歌 自嘆身才也
(右の一首は、或いは「元興寺の僧、独覚にして多智なり。いまだ顕聞あらねば、衆諸狎侮る。これによりて、僧この歌を作り、自ら身の才を嘆く」といふ。)

* 南都七大寺および十五大寺(延喜式)に数えられる元興寺は奈良県明日香村の飛鳥寺(法興寺・元興寺ともいう)が平城京遷都に伴って奈良に別院を建立したことに始まる。
『続日本紀』霊亀二年五月十六日に、初めて元興寺を左京六条四坊に移し建てた。とあるが、位置から考えるとこれは現在の大安寺のことのようである。
さらに、『続日本紀』養老二年九月二十三日に、法興寺を新京へ移転した、とあり、これが当寺のことと思われる。
・・・・・・・・
この歌は現在の私たちにも通じる歌で、「白玉」と自負して会社に入ったが、理解してくれる上司もなく、仲間と赤ちょうちんで会社や上司を肴に自棄酒を飲んでいるうちに、いつのまにか定年を迎えてしまった。

<奈良の明日香 奈良市・「ならまち」元興寺 奈良市中院町>
より記事転載。



サ6 1019;雑歌,石上乙麻呂,流罪,久米若賣,土佐,歌語り密通

[題詞]石上乙麻呂卿配土左國之時歌三首[并短歌]
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石上ーいそのかみー石上の
振乃尊者ー布留の命はーふるのみことはー布留の君は
弱女乃ー手弱女のーたわやめのー美しい女性への
或尓縁而ー惑ひによりてーまどひによりてー惑いによって
馬自物ー馬じものーうまじものーまるで馬のように
縄取附ー縄取り付けーなはとりつけー縄をくくりつけられ
肉自物ー獣じものーししじものー獣のように弓矢に囲まれて
弓笶圍而ー弓矢囲みてーゆみやかくみてー弓矢に囲まれて
王ー大君のーおほきみのー天皇の 
命恐ー命畏みーみことかしこみーご命令で
天離ー天離るー[あまざかる]ー
夷部尓退ー鄙辺に罷るーひなへにまかるー遠い辺地へ流されていく
古衣ーふるころもー古い衣を
又打山従ー真土の山ゆーまつちのやまゆー打つ待乳山(まつちやま)から旅立って
還来奴香聞ー帰り来ぬかもーかへりこぬかもーもう帰ってはこないだろう
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 石上乙麿(いそのかみのおとまろ)が服喪中の未亡人と恋に陥り、天皇の怒りに触れ、土佐に配流された時の歌。「又打山」は、奈良県五條市にある待乳山(まつちやま)。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33118171.html 

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