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サ6 1016;雑歌,巨勢宿奈麻呂,宴席,風流,神仙,遊び,天平9年2月 [題詞]春二月諸大夫等集左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家宴歌一首 (春二月 天平9年のこと 巨勢宿奈麻呂朝臣 天平5年従五位上。姓を名前の後に書くのは敬称) [左注]右一首書白紙懸著屋壁也 題云 蓬莱仙媛所<化>嚢蘰 為風流秀才之士矣 斯凡客不所望見哉 (右一首、白き紙に書きて屋の壁に懸著(か)く。題して云く、蓬莱の仙媛の化(な)れる嚢蘰(ふくろかづら)は、風流秀才の士(をのこ)の為なり。これ凡客の望み見る所ならじか、といふ。) 宴の席で、白い紙に次のようなことを書いて壁に貼った。 蓬莱の仙女が化けた嚢のかづらは、風雅で教養のある優れた男が着用するためである。これは平凡な客が見ようとしても見えないだろう。) 海原之 遠渡乎 遊士之 遊乎将見登 莫津左比曽来之 うなはらの とほきわたりを みやびをの あそぶをみむと なづさひぞこし ・・・・・・・・・・・・・・・・
* 風流士; みやびを 教養があり、風雅を好む男 海原の遠い道のりを 風流の男が遊ぶのを見ようとして 難渋してやってきたことだ ・・・・・・・・・・・・・・・・ * 蓬莱; 中国の神仙思想で、東の海にあるという理想郷。 中国からは日本の位置にある。 かぐや姫の命を受けて玉の枝を取りに行った、 くらもちの皇子の話が竹取物語にある。 * 仙媛 仙女 * 嚢蘰 日用品を入れる袋のような形をした鬘(かづら)で、髻(もとどり)を束ねるためのものか。) サ6 1017;雑歌,作者:坂上郎女,京都,羈旅,黒人,旅愁,天平9年4月 [題詞]夏四月大伴坂上郎女奉拝賀茂神社之時便超相坂山望見近江海而晩頭還来作歌一首 (夏の四月に大伴坂上郎女、賀茂神社を拝み奉る時に、すなはち逢う坂山を越え、琵琶湖を遙かに望んで見て、晩頭(ひのぐれ)に帰り来て作る歌一首 ) 木綿疊 手向乃山乎 今日<越>而 何野邊尓 廬将為<吾>等 [ゆふたたみ] たむけのやまを けふこえて いづれののへに いほりせむわれ ・・・・・・・・・・・・・・・
* 手向けの山:相坂山。相坂山を今日にも越えて どこの野に庵を作り 我は泊まろう ・・・・・・・・・・・・・・・ 夕暮れの浜木綿が 畳のように咲き広がる琵琶湖畔を後に 逢坂山を今日越えて さて いづれの野辺に仮宿りすることになろうか ・・・・・・・・・・・・・・・・ |
●●万葉集全索引
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サ6 1015; [題詞]榎井王後追和歌一首 [志貴親王之子也]、雑歌,作者:榎井王,追和,門部王,宴席 玉敷而 待益欲利者 多鷄蘇香仁 来有今夜四 樂所念 たましきて またましよりは たけそかに きたるこよひし たのしくおもほゆ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「たけそか‐に」〔副〕語義未詳。不意に、突然の意か。または、たまたま、偶然などの意か。玉を敷いて待ってくださったより 無遠慮に参上した今夜こそ 楽しく思われます ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ * 主人の気持をおもんばかって 「これで十分、何の不足があろうか」との挨拶。 * <言葉遊びその高度な万葉人の風流>より転載。 この歌の訓読みで「欲寸君香聞」は「欲(ほ)しき君かも」と読むのが大勢ですが、私は日付の言葉遊びを優先して字足らずですが、「欲(ほ)しきかも」と読んでいます。普段の読みの「欲(ほ)しき君かも」ですと、「君」は歌人である橘宿禰文成の父親の橘少卿佐為を示しますが、それですと改まった席での歌の感覚です。「欲(ほ)しき君かも」の意味合いを承知の上で、「欲寸君香聞」を「欲(ほ)しきかも」と読む方が、宴はくつろいだ感覚がします。歌はその意味合いを踏まえての日付の遊びではないでしょうか。また、門部王が自分の屋敷を謙遜した歌の答歌としても、「毎日、貴方の屋敷を見ていますが明日も見てみたいような屋敷ですね」との内容になるので、似つかわしいと思います。 参考に集歌1014 の歌の前後の歌を以下に示しますが、「欲寸君香聞」を「欲(ほ)しき君かも」と読むと三首の歌の意味が通じないようになります。連歌とすると「欲(ほ)しきかも」と読まなければいけませんが、古来、万葉集の時代には一つの言葉を二重に読むようなそんな高度な技法は無いことになっていますし、連歌はまだありません。そこで、専門家は、詞書からは連歌ですが、歌の解釈を個々に無関係にするのが伝統です。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33118206.html |
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6 1013;雑歌,作者:門部王,宴席,歓迎,天平9年1月 [題詞]九年丁丑春正月橘少卿并諸大夫等集弾正尹門部王家宴歌二首 豫 公来座武跡 知麻世婆 門尓屋戸尓毛 珠敷益乎 あらかじめ きみきまさむと しらませば かどにやどにも たましかましを [左注]右一首主人門部王 [後賜姓大原真人氏也] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「来」は、カ行変格動詞「来」の連用形。前もって貴方が来ると知っていたのなら 門にも戸口にも美しい玉を飾りつけていましたのに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ * 「まさ」は、丁寧の動詞「ます」の未然形。 * 「む」は、推量の助動詞。 * 「玉」は玉石。 * 「ませ」は、推量の助動詞「まし」の未然形。 * 「ば」は、仮定の接続助詞。〜ませば…ましの形。〜だったら…だろうに * 門部王 かどべのおおきみ 生年未詳〜天平十七(745) 父母等は未詳。『新撰姓氏録』によれば敏達天皇の孫である百済王の後裔。 『皇胤紹運録』は長親王の孫とするが、これは疑わしい(高安王参照)。 同じく紹運録によれば、川内王の子、高安王・桜井王の弟。 なお、和銅六年(713)に無位より従四位下に叙された同名の王がいて、略歴の一部は判別し難い。 和銅三年(710)正月、無位より従五位下。養老元年(717)正月、従五位上。養老三年七月、伊勢守に伊賀・志摩按察使を兼ねる。養老五年正月、正五位下。神亀元年(724)二月、正五位上。神亀五年(728)五月、従四位下。 この頃、「風流侍従」として長田王・佐為王・桜井王ら十余人と共に聖武天皇に仕える(『藤氏家伝』武智麻呂伝)。 天平六年(734)二月、朱雀門で歌垣が催された際、長田王・栗栖王らと共に頭をつとめる。 天平九年一月、橘少卿(佐為)らを家に招き宴(万葉6-1013・1014)。この時弾正尹。同年十二月、右京大夫。天平十一年四月、高安王と共に大原真人を賜姓される。 天平十四(742)四月、従四位上。 天平十七年(745)四月二十三日、卒。大蔵卿従四位上。 万葉には五首。歌からは養老末年頃出雲守として赴任していたことが知られる。<千人万首より> <個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33119035.html サ6 1014;雑歌,作者:橘文成,宴席,主人讃美,天平9年 [題詞](九年丁丑春正月橘少卿并諸大夫等集弾正尹門部王家宴歌二首) 前日毛 昨日毛<今>日毛 雖見 明日左倍見巻 欲寸君香聞 をとつひも きのふもけふも みつれども あすさへみまく ほしききみかも [左注]右一首橘宿祢文成 [即少卿之子也] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<転載記事>おとといも昨日も今日も君に会ったけど 明日も君に会いたい ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ [月岡道晴]万葉恋の歌(13) 今回も防人の歌から恋歌を紹介します。 前回GPS付き携帯電話のお話をしたので、今回も携帯電話つながりの歌を。 (天平勝宝七歳乙未の二月に相替りて筑紫に遣はさるる諸国の防人等が歌) わがつまも畫にかきとらむいつまもがたびゆくあれはみつつしのはむ (巻20・4327) 我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く吾れは見つつ偲はむ 右の一首、長下郡の物部古麻呂(二月六日に防人部領使遠江国史生坂本朝臣人上が進る歌の数十八首。但し、拙劣の歌十一首有るは取り載せず。) これは前々回に紹介した歌と同じ一連にある一首です。やはり同じように家持の厳しい選をくぐっていますから、秀歌であることは疑いがありません。歌の内容は、妻を絵に描きとる時間があったらなあ――旅先でそれを取り出しては妻を偲ぶよすがにしようというもの。昔話にも「絵姿女房」という話があって、美人のお嫁さんから離れられなくなった聟がやはり同じように女房を絵に描き取り、農作業の合間にそれを見てはまた仕事に励んだということが話の発端になっています。 これは現代のわれわれにもよくわかる心情です。携帯電話を取り出して待ち受け画面をごらんになってください。恋人やお子さんや家族、ペットなどがそこに写っているのではないですか? 集中には 「前日〔をとつひ〕も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも」 (巻6・1014橘宿祢文成)という歌もあります。いつも肌身離さず愛しい人を見ていたいと思う心情は、いまも昔も変わりありません。 ただ、万葉びとのことを充分に理解するためには、このような捉えかたでは不充分です。 前回、誓いの紐を結ぶのは、「結び目を保っておくことで、それを結んでくれた妻や家族に旅の安全を守ってもらえると考えてい」たからだと述べました。このような旅人と妻や家族との呪術的関係について、神野志隆光氏は新羅に使わされた使節とその妻の作、 「大船をあるみにいだしいます君つつむことなくはやかへりませ」 (巻15・3592) 「真幸くていもがいははばおきつなみちへにたつともさはりあらめやも」 (3583)を引用しながら次のように述べています。 「「つつむことなく早帰りませ」という家人に対して旅人は「妹がいははば(略)障りあらめやも」と応ずる。 旅人の無事な早い帰着の為に家人(妻)は〈いはふ〉のである。……家人の〈いはふ〉ことは旅する者の安全につながる不可欠のものなのであった。……その家人と旅人との共感関係は呪術的である。……「類感呪術」的と云えよう。」 このような〈斎い〉を旅人が怠ったならば、どうなると考えられていたのでしょうか? 「壱岐島に至りて、雪連宅満が忽ちに鬼病に遇ひて死去せし時に作る歌一首并せて短歌」と題する歌の冒頭では、 「すめろきのとほの朝庭と から國にわたるわがせは いへびとのいはひまたねか ただみかもあやまちしけむ……」(巻15・3688)とうたわれています。急な病に遇って死んでしまった原因は、何か誤りがあって家びとの斎いを充分に受けなかったことに求められたのでした。防人も実際、 あしがらのみさかたまはり かへりみずあれはくえゆく あらしをもたしやはばかる 不破のせきくえてわはゆく むまのつめつくしのさきに ちまりゐてあれはいははむ もろもろはさけくとまをす かへりくまでに (足柄のみ坂賜はり かへり見ず我は越え行く 荒し男も立しやはばかる 不破の関越えて我は行く 馬の爪筑紫の崎に 留まり居て我は斎はむ 諸々は幸くと申す 帰り来までに)(巻20・4372倭文部可良麻呂) のようにうたって、家びととの斎いを確認し自らの安全を祈っています。 防人はやたらと歌に妻や父母を詠みこんでおり、それは防人自身の人間性の豊かさの表われだとして理解されることが専らなのですが、冒頭に掲げた今回の恋歌も、
いへにしてこひつつあらずはながはけるたちになりてもいはひてしかも (家にして恋ひつつあらずは汝が佩ける大刀になりても斎ひてしかも) (巻20・4347國造丁日下部使主三中之父) のような作とともに読むと、やはり〈家びとの斎い〉を背景にする一首だと考えざるを得ません。防人がひたすら家族を思って歌に詠むのは、彼らがみな心弱かったからだとみるべきなのではなく、彼らが共通してもっていた信仰や習慣によるものだったと考えるのが適当なのです。 <個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33119029.html |
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サ6 1011;雑歌,古歌,唱和,伝誦,葛井広成,風流,天平8年12月12日 [題詞]冬十二月十二日歌N所之諸王臣子等集葛井連廣成家宴歌二首 / 比来古N盛興 古歳漸晩 理宜共盡古情同唱<古>歌 故擬此趣<輙>獻古曲二節 風流意氣之士儻有此集之中 争發念心々和古體 我屋戸之 梅咲有跡 告遣者 来云似有 散去十方吉 わがやどの うめさきたりと つげやらば こといふににたり ちりぬともよし ・・・・・・・・・・・・・・
* 月夜よし 夜よしと人に 告げやらば 来てふににたり 待たずしもあらず(古今)「家のお庭の梅が咲きましたよ」と告げ遣ったら 「いらして」と言うのと同じですよ 梅の花を堪能した後は もう散ってもよいよ ・・・・・・・・・・・・・・ * 「咲き」は、カ行四段活用動詞「咲く」の連用形。 * 「たり」は、完了の助動詞。 咲いた。 * 「告げ遣らば」は、ラ行四段活用動詞「告げ遣る」の未然形。 * 「ば」は、仮定条件の接続助詞。 * 「来てふ」の「てふ」は、「と言う」の縮んだもの。 * 「似」は、ナ行上一段活用動詞「似る」の連用形。 * 「たり」は、断定の助動詞。 * 「散りぬ」は、ラ行四段活用動詞「散る」の連用形に、完了の助動詞「ぬ」 散ってしまった。 * 「とも」は、逆接の接続助詞で仮定条件。たとえ〜であっても <個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33119292.html 6 1012;雑歌,古歌,唱和,伝誦,葛井広成,風流,天平8年12月12日 [題詞](冬十二月十二日歌○所之諸王臣子等集葛井連廣成家宴歌二首 / 比来古N盛興 古歳漸晩 理宜共盡古情同唱<古>歌 故擬此趣<輙>獻古曲二節 風流意氣之士儻有此集之中 争發念心々和古體) 春去者 乎呼理尓乎呼里 鴬<之 鳴>吾嶋曽 不息通為 はるされば ををりにををり うぐひすの なくわがしまぞ やまずかよはせ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「ををり」は、花が多く咲いて枝のたわむこと。春が来て 枝もたわわな梅の花に 鶯が鳴く我が家の庭で 風流を楽しみましょうよ 途切れることなくお出でくださいませ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 葛井広成(ふじいひろなり); 最初、白猪史(しらいのふひと)広成という名前で登場します。養老3年(719)7月21日に遣新羅使に任ぜられています。翌年、姓を葛井連(ふじいのむらじ)に改めたようです。その後いくつかの記事の後、天平20年(748)8月21日には、聖武天皇が葛井連広成の家に行幸され、群臣を招いて酒宴を催し、その晩は宿泊されています。 この行幸は、広成の家というよりも、自らの勅願寺である葛井寺への参拝ではないでしょうか。 とにかく葛井寺が草創された時期に、広成が葛井氏の中心人物であったことは確かです。 河内国は古くから文化が開け、飛鳥時代から奈良時代にかけて、百済系の渡来人が定住、発展した。百済の王族、王仁(わに)一族の葛井(ふじい)氏も河内に住み、建立した氏寺が葛井寺の始まりと考えられ、境内には古代の塔跡礎石が現存する。
縁起によると、稽文会(けいぶんえ)、稽首勲(けいしゅくん)の父子に、聖武天皇が脱活乾漆造の千手観音の造像を命じ、行基菩薩を導師として、神亀2年(725)3月18日に開眼法要が行われた。このとき、勅使をつとめたのは藤原房前(ふじわらのふささき)である。 大同元年(806)には阿保(あぼ)親王(平城天皇の皇子)が勅命で伽藍の整備をし、ついでその子の歌人、在原業平は奥の院を造営してしばらく住んでいたという。 <個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33119278.html |
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6 1010;雑歌,作者:橘奈良麻呂,応詔,寿歌,祝い,天平8年11月 [題詞]橘宿祢奈良麻呂應詔歌一首 奥山之 真木葉凌 零雪乃 零者雖益 地尓落目八方 おくやまの まきのはしのぎ ふるゆきの ふりはますとも つちにおちめやも ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 京都御所の中心に紫宸殿がある。前庭の右には橘、左には桜が植えられている。橘は、垂仁天皇が田道間守(たじまもり)を常世の国に派遣して求めさせた樹木だとか。奥山の真木の葉をなびかせて降る雪が いっそう降るとも たちばなの実は地に落ちることがありましょうか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 橘は常住不変すなわち皇室の永続を願っている。桜は、人の命などのはかなさを象徴する意味がある。 * 橘奈良麻呂; 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/07/04 14:50 UTC 版) 橘 奈良麻呂(たちばな の ならまろ、養老7年(721年)? - 天平宝字元年(757年)7月)は、奈良時代の公家、政治家である。父は橘諸兄、母は藤原不比等の娘の多比能。 父・諸兄は聖武天皇の信任を得て政権を担い、天平15年(743年)には従一位左大臣にまで昇進している。 天平12年(740年)、奈良麻呂は従五位下に任じられ、同年中に従五位上に昇進。天平13年(741年)、大学頭になる。天平15年(743年)、正五位上。天平17年(745年)、摂津大夫。天平18年(746年)、民部大輔になる。天平19年(747年)、従四位下。 天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位すると(孝謙天皇)、光明皇后の信任厚く、また孝謙天皇に寵愛される藤原仲麻呂が急速に台頭して、諸兄と対立するようになった。同年、奈良麻呂は従四位上にのぼり侍従、参議となる。天平勝宝4年(752年)、但馬因幡按察使となる。天平勝宝6年(754年)、正四位下。 天平勝宝7歳(755年)、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとのの密告があり、恥じた諸兄は隠居。2年後、諸兄は失意のうちに死去した。 天平勝宝8歳(756年)、聖武太上天皇が崩御し、遺言により道祖王が立太子された。だが天平宝字元年(757年)3月、孝謙天皇は道祖王に不行跡があるとして皇太子を解き、5月、仲麻呂が推す大炊王が立太子される。 同年6月、奈良麻呂は右大弁になる。奈良麻呂は仲麻呂の専横に強い不満を持ち、大伴古麻呂、小野東人らと語らい仲麻呂の排除を画策した。奈良麻呂は会合を重ね密かに同志を募ったが、そこから密謀が漏れてしまう。山背王が仲麻呂に「奈良麻呂らが兵器を準備している」と密告した。 7月2日(7月26日)、上道斐太都が小野東人から奈良麻呂らの謀反への参加を呼びかけられたと密告があり、東人らが捕らえられ訊問された。東人は訊杖による拷問を受けて全てを白状した。計画は、奈良麻呂らが兵を起こして仲麻呂を殺して皇太子を退け、次いで駅鈴と玉璽(ぎょくじ)を奪い、右大臣・藤原豊成を奉じて天下に号令し、天皇を廃して塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。 東人の供述に基づき翌3日(27日)、奈良麻呂、道祖王、黄文王、古麻呂、多治比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)等、名前を挙げられた人々は一斉に逮捕された。奈良麻呂は中納言・藤原永手の訊問に対して「政治が無道だから兵を起こして、その上で陳情しようとした」と答えた。永手が「何ゆえ政治が無道なのか」と問うと、奈良麻呂は「東大寺などを造り人民が辛苦している」と答えた。永手が「東大寺はお前の父の時代に造ったものだ。お前の言うべきことではない」と問い詰めると奈良麻呂は答えに窮した。 佐伯全成(さえきのまたなり)の自白によると、奈良麻呂が謀反を考え始めたのは天平17年(745年)に聖武天皇が難波に行幸したときのことで、その時に初めて謀反に誘われたと答えた。訊問後、佐伯全成は自殺した。 孝謙天皇は逮捕された人々を本来は死罪に処すところ、死一等を減じて流罪に処すると詔した。しかし、政治の粛正を図りたい仲麻呂は断固として手を緩めなかった。翌日、謀反に関わった道祖王、黄文王、古麻呂、犢養らに対し、永手、百済王敬福、船王らの監督のもと、全身を訊杖で何度も打つ拷問が行われた(先に拷問された東人も含め)。これらの加担者は長時間にわたる拷問の末、次々と獄死した。首謀者の奈良麻呂については続日本紀に記録が残っていないが、同様に獄死したと思われる。後に奈良麻呂の孫の嘉智子が嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)となったために記録から消されたと考えられている(橘奈良麻呂の乱)。 皮肉なことに、奈良麻呂の死後に生まれた息子・清友の娘・嘉智子が嵯峨天皇の妃となって後の仁明天皇を生んだことから、承和14年(847年)に政敵・仲麻呂が後に謀反を起こして失うこととなった太政大臣の位を贈られている。 * 「橘」はつながっている。(聖は真人とも書く。)
橘寺で生まれた聖徳太子。弟橘媛(日本武尊の妃)も橘。天智天皇、天武天皇・・・ <六巻個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33119677.html |

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