ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

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万葉集 1003

サ6 1003;雑歌,作者:葛井大成、羈旅,佐賀,叙景,漁夫

[題詞]筑後守外従五位下葛井連大成遥見海人釣船作歌一首

海○嬬  玉求良之  奥浪  恐海尓  船出為利所見

海女娘子 玉求むらし 沖つ波  畏き海に 舟出せり見ゆ 

あまをとめ たまもとむらし おきつなみ かしこきうみに ふなでせりみゆ
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神々しい雄大な海に船を浮かべている

海がすごく透明で

あそこの若い海女さんはとても長い間潜っているよ

一体なにを獲っているのかなあ
・・・・・・  
あれこれ見ているときりがない  
胸のすくような景色で時を忘れてしまうよ
小枝や葦で囲った海女囲いの中から大鍋で雑炊でも煮ているのかしら
おいしそうな匂いがただよってくる
冷えた海女娘子のからだを温めるんだなあ
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「好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之」 末盧国(佐賀松浦地域)の住人は)好んで魚や鰒(あわび)を捕る、水の深浅に関係なく、皆、潜ってこれを取る。
「倭水人好沈没捕魚蛤」 倭の水人(海人)は好んで海中に潜り、魚や蛤貝を捕獲する。

壱岐や島を伝いにさらに対馬、朝鮮へとつながる古代からの「道」でもある海。
漁へ出向く漁船、ザザーッという岩にぶつかる波音…。
大らかな風景に身をゆだねていると思い出す。
いつしか暮れて茜色の浜辺、一人幼子の頃。
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サ6 997;雑歌;作者未詳、行幸,羈旅,望郷,恋情,難波,天平6年3月

[題詞]春三月幸于難波宮之時歌六首
天平六年(734)三月、聖武天皇の難波行幸での作。

住吉乃  粉濱之四時美  開藻不見  隠耳哉  戀度南

住吉の 粉浜のしじみ 開けもみず 隠りてのみや 恋ひわたりなむ 

すみのえの こはまのしじみ あけもみず こもりてのみや こひわたりなむ

[左注]右一首作者未詳
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私は住吉の粉浜のしじみのように

しっかりと蓋を閉じて胸の思いを打ち明けないで

心の奥に隠したまま恋し続けるのだろうなぁ
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大阪府大阪市住之江区粉浜
元は木浜という字であり、住吉大社の式年遷宮の時の木材を置く浜だったことに由来する。
また、この付近は染色に使用する黄土で有名で、その粉土が取れたからという説もある。
天平六年(734)春3月に難波の宮へ行幸途中、伴として、住吉の浜に遊覧した官人が大和の家族を思って読んだ羇旅歌。
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サ6 998;雑歌,作者:船王、行幸,羈旅,難波,黒人,不安,恋情,天平6年3月

[題詞](春三月幸于難波宮之時歌六首)

如眉  雲居尓所見  阿波乃山  懸而榜舟  泊不知毛

眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟 泊り知らずも 

まよのごと くもゐにみゆる あはのやま かけてこぐふね とまりしらずも

[左注]右一首船王作
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眉のように雲間に見える阿波の山をめざし

漕いでいく舟が見える

今日どこに泊まるか

決めてもいないのだなあ
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* 「阿波の山」は、淡路島をふくむ阿波方面の山々。
* 「かけ」は「目指す」の意。
* 「ずも」 終止形「ず」+詠嘆の助詞「も」。打消の詠嘆。
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サ6 999;雑歌,作者:守部王、行幸,羈旅,天平6年3月,応詔

[題詞](春三月幸于難波宮之時歌六首)

従千<沼>廻  雨曽零来  四八津之白水郎  <綱手>乾有  沾将堪香聞

茅渟廻より 雨ぞ降り来る 四極の海人 綱手干したり 濡れもあへむかも 

ちぬみより あめぞふりくる しはつのあま つなでほしたり ぬれもあへむかも

[左注]右一首遊覧住吉濱還宮之時道上守部王應詔作歌
右の一首は、住吉の浜に遊覧(あそ)びて、宮に還りたまへる時の道にて、守部王の詔を応(うけたまは)りて作りし歌。(住吉の浜遊覧の後、難波宮への帰途において守部王が聖武天皇の仰せに応じて作った歌。)

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茅渟の方から雨が降ってくる

四極の海人が綱手を干している

濡れてしまうのではないか
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* 「茅渟廻」 茅渟あたりの意。茅渟(血沼とも書く)は和泉国の古名、また大阪湾をも言う。
* 「四極」 今の住吉区から東住吉区・平野区あたりの地名という。
* {綱手」 船を引くための綱。
* 守部王 もりべのおおきみ 生没年未詳
舎人親王の子。三原王の弟。天平六年(734)三月の聖武天皇の難波行幸に従駕し、万葉集に歌を残している(巻6−999・1000)。
天平十二年(740)正月、無位より従四位下に叙され、同年冬の関東行幸に従駕して従四位上に昇叙されている。
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6 1000;雑歌,作者:守部王、行幸,恋情,望郷,天平6年3月

[題詞](春三月幸于難波宮之時歌六首)

兒等之有者  二人将聞乎  奥渚尓  鳴成多頭乃  暁之聲

子らしあらば ふたり聞かむを 沖つ洲に 鳴くなる鶴の 暁の声 

こらしあらば ふたりきかむを おきつすに なくなるたづの あかときのこゑ

[左注]右一首守部王作
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家で待つ妻がいたら二人で聞こうものを

沖の洲で鳴いている鶴の暁の声よ
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6 1001;雑歌,作者:山部赤人、行幸,難波,従駕,宮廷歌人,天平6年3月

[題詞](春三月幸于難波宮之時歌六首)

大夫者  御<猟>尓立之  未通女等者  赤裳須素引  清濱備乎

大夫は 御狩に立たし 娘子らは 赤裳裾引く 清き浜びを 

ますらをは みかりにたたし をとめらは あかもすそひく きよきはまびを

[左注]右一首山部宿祢赤人作
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男士は狩に出かけ

少女たちは赤い服の裾を引いて

澄んだ浜辺を歩いている

・男は狩に、少女は綺麗な服で歩いている
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サ6 1002;雑歌,作者:安倍豊継、行幸,羈旅,土地讃美,難波,天平6年3月

[題詞](春三月幸于難波宮之時歌六首)

馬之歩  押止駐余  住吉之  岸乃黄土  尓保比而将去

馬の歩み 抑へ留めよ 住吉の 岸の埴生に にほひて行かむ 

うまのあゆみ おさへとどめよ すみのえの きしのはにふに にほひてゆかむ

[左注]右一首安<倍>朝臣豊継作
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さあ手綱を引いて

馬のあゆみを留めよ

ここ住之江の 

岸の黄土(はにう)で

衣を 染めて行こう
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<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33121074.html

万葉集996

6 996;雑歌,作者:海犬養岡麻呂(あまのいぬかひのおかまろ)、応詔,天平6年

[題詞]六年甲戌海犬養宿祢岡麻呂應詔歌一首

御民吾  生有驗在  天地之  榮時尓  相樂念者

御民我れ 生ける験あり 天地の 栄ゆる時に あへらく思へば 

みたみわれ いけるしるしあり あめつちの さかゆるときに あへらくおもへば
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天皇の御民である私は
まことに生きがいを感じております
天地一体となって栄えているこの御代に
生まれ合わせたことを思いますと
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* 「らく」は動詞に接尾して体言化する。
* 斉藤茂吉によれば、「応詔歌であるから、謹んで歌い、荘厳の気を漲らしめている。そして斯く思想的大観的に歌うのは、この時代の歌には時々見当たるのであって、その思想を統一して一首の声調を完(まっと)うするだけの力量がまだこの時代の歌人にはあった。それが万葉を離れるともはやその力量と熱意が無くなってしまって、弱々しい歌のみを作るにとどまる状態となった。この歌などは、万葉としては後期に属するのだが、聖武の盛世にあって、歌人等も競い勤めたために、人麿調の復活ともなり、かかる歌も作らるるに至った」。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33125513.html

万葉集995

6 995;雑歌,作者:坂上郎女、宴席

[題詞]大伴坂上郎女宴親族歌一首
親族(うがら)を宴(うたげ)する歌

如是為乍  遊飲與  草木尚  春者生管  秋者落去

かくしつつ 遊び飲みこそ 草木すら 春は咲きつつ 秋は散りゆく 
かくしつつ あそびのみこそ くさきすら はるはさきつつ あきはちりゆく
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うがら楽しくお酒を交わせるひとときね

草木ですら春には花を咲かせながら

秋には葉までも散らしてしまうのだから
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* 「すら」は、副助詞。体言または体言に準ずる語を承け、それを最低限の例、あるいは極端な例として提示する。「〜でさえも」の意。

* 新旧暦法の誤差
http://perch.at.infoseek.co.jp/manyo/data/manyocal02.htm
<転載>
太陰暦と太陽暦
現在の暦は地球が太陽の周りを一周する公転周期を基準にしています。ところが、明治5年以前は、月の満ち欠けを基準にした太陰暦が用いられていたため、両者には誤差が生じます。

 太陽暦では1年は365日であり、閏年は1日追加して実際の太陽年との誤差を調整しています。また大の月は31日であり、1・3・5・8・10・12月であることが固定されています。小の月は30日ですが、2月だけは28日とし、閏年は29日にしています。

 太陰暦では月の満ち欠けが基準です。月の地球に対する公転周期は29.53日という中途半端な数のため、誤差が非常に生じやすいのですが、大の月は30日、小の月は29日としています(旧暦には31日は存在しません)。大の月、小の月は固定しておらず年によって変わります。また、この方法だと1年は354〜335日になってしまい、地球の太陽に対する公転周期の約365日から大きくかかけ離れてしまいます。そこで定期的に閏月を挿入します。その年は1年が13ヶ月あることになり、日数では383日もしくは384日であることになります。

 このように調整しても、実際の太陽年からはどうしてもずれてしまいます。太陰暦の時代でも、節季という太陽年を基準とした季節区分を併用していました。春分とか、秋分といったものです。その意味で太陰太陽暦というのが正確な表現と言われています。基準のちがう両者を併用していたため、現在では考えられないような現象がありました。
 たとえば立春は今日ではほぼ2月4〜5日ごろに訪れます。2月3日を節分というのはそのためです。ところが旧暦の世界では、月日は固定しません。場合によっては12月中に来ることもありました。1月を春の初めと考えていた人々にとって、 年内に立春が来てしまうのは、ちょっとした矛盾でした。また 1月1日がちょうど立春にあたる年も特別視されたようです。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33125685.html

万葉集994

6 994;雑歌,作者:大伴家持、恋情,相聞,題詠,練習

[題詞]大伴宿祢家持初月歌一首

振仰而  若月見者  一目見之  人乃眉引  所念可聞

振り放けて 三日月見れば 一目見し 人の眉引き 思ほゆるかも 

ふりさけて みかづきみれば ひとめみし ひとのまよびき おもほゆるかも
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空を仰いで三日月を見ると

一目見たあの女(ひと)を思い出す
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* 大伴家持16歳。
* 「一目見し」は、一度だけちらっと見たということのほか、見つめあう親密な関係も。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33126625.html

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