ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

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万葉集・980

6 980;雑歌,作者:安倍虫麻呂

[題詞]安倍朝臣蟲麻呂月歌一首

雨隠  三笠乃山乎  高御香裳  月乃不出来  夜者更降管

雨隠り 御笠の山を 高みかも 月の出で来ぬ 夜はくたちつつ 

[あまごもり] みかさのやまを たかみかも つきのいでこぬ よはくたちつつ
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三笠の山が高いからだろうか

月はなかなか出て来ないなあ

夜がますます更けてゆくというのに
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* 「雨隠り」あま‐ごもり。枕詞。
雨に降られて隠(こも)る笠の意から、「三笠(みかさ)」にかかる。
* 「を〜み」 山が高いので
* 「かも」は係助詞「か」に終助詞「も」で、疑問の意。・・・ダロウか。
* 「くたつ 降つ」は(自タ四)で「夜が更ける」「月がかたむく」かたむく、すえになる、など。
* 「つつ」、ここでは「夜が更ける」ことの重複、深まる意。ますます。

万葉集・979

6 979;雑歌,作者:坂上郎女,大伴家持、佐保,恋情,相聞的,贈答

[題詞]大伴坂上郎女<与>姪家持従佐保還歸西宅歌一首

吾背子我  著衣薄  佐保風者  疾莫吹  及<家>左右

我が背子が 着る衣薄し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで 
わがせこが けるきぬうすし さほかぜは いたくなふきそ いへにいたるまで
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私のあの人の着ている衣は薄いから

佐保の風はきつく吹かないでね

家にあの人が帰りつくまでは
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* 「佐保」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/saho.html
* 「大伴坂上郎女 おおとものさかのうえのいらつめ」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/sakanoue.html
 * 「大嬢(おおいらつめ)」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/ootome.html
* 大伴坂上郎女の家を、甥の家持が訪ねた。帰り際に家持にあたえた歌か。

* 「我が背子」は、一般には「わたしの夫」とか「わたしの恋人」ということになるが、若き甥にもそう呼んだか。

* 「佐保風」は、佐保に吹く風という意味。
佐保は、平城京の北に広がる地のうち、その東側の地。
ここに大伴氏の邸宅があった。上記「佐保」参照。

万葉集・978

サ6 978;雑歌,作者:山上憶良、辞世,大夫,天平5年

[題詞]山上臣憶良沈痾之時歌一首

士也母  空應有  萬代尓  語續可  名者不立之而

士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして 

をのこやも むなしくあるべき よろづよに かたりつぐべき なはたてずして

[左注]右一首山上憶良臣沈痾之時 藤原<朝>臣八束使河邊朝臣東人 令問所疾之状 於是憶良臣報語已畢 有須拭涕悲嘆口吟此歌
(山上憶良が重病となった時、藤原朝臣八束が河辺朝臣東人を使者として容態を尋ねに来させた。憶良は返事を終え、しばらくして涙をぬぐい、悲しみ嘆いて、この歌を口ずさんだ)
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男子たるものこのまま無駄に世を去ってよいものか

いつの代までも語り継がれるほどの名声をあげもしないで
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* 「やも」助詞「や」に詠嘆の助詞「も」が結び付いたもの。連体形で結ぶ。反語をあらわす。「〜か、いや〜ない」の意。
* 憶良は大伴旅人に後れて奈良に帰京し、天平5年、74歳で没したと推定されている。この歌は天平5年の作、つまり彼の死の直前の歌。
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 <以下「いろは」の暗号「山上憶良」より記事転載>
http://www.geocities.jp/yasuko8787/z143.htm

「名は立てずして」の意味

倭国が従来の「倭」という呼ぴ名を拒否して、中国に対し自ら「日本」と名乗ったときの遣唐使の一員=山上憶良の名が、字母歌に暗号として組み込まれている。そのことと、憶良の絶唱として知られる次の歌は、何の関係もないであろうか。

  山上臣憶良の痾に沈みし時の歌一首
士やも 空しくあるぺき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして
 (巻6、978)

右の一首は山上臣憶良が重病におちいった時に、藤原朝臣八束が河辺朝臣東人を遣わして病状を見舞わせた。そこで憶良臣は返礼の言葉を述ぺおえ、ややあってて涙をふき悲しみ嘆いて、この歌を口ずさんだ。
(『万葉集』全訳注原文付 中西進著 講談社)


この歌は、733年(天平5)、憶良74歳のときの作である。
考えてみると不思議な気がする。
74歳の老人が、病気見舞の使者の前で、涙ながらに口ずさんだこの歌が、名声が得られなかった我が身を嘆き悲しんだ歌だと解釈されているのである。

74歳にもなりながら、憶良はなお名誉欲の亡者だったというのであろうか。
『万葉集』にある憶良の他の作品を見れば、それとは正反対の答が出てくるはずである。
この歌には、従来の解釈とは全く別の意味があるのではなかろうか。

真の史官は、真実を記録するために死を恐れてはならない。けれども、自己の使命を全うするためには、死にまさる恥辱に耐えて生き永らえなければならないときもある。前漢の歴史家=司馬遷は、無実の罪で死刑を宣告されたとき、宮刑(男性としての機能を奪う刑)を選び、死よりも苦痛な生き恥をさらしながら、人間の真実の姿を伝える『史記』を完成させた。

史官はこうであらねばならない。それにもかかわらず、史官稗田阿礼の後身である憶良は、かつて自ら倭王の名を抹殺してしまう修史事業に従事したのである。憶良は士でも真の史官でもなかったのだろうか。

もしそうなら、字母歌の暗号が憶良の名を示したりしないはずである。

すると、溢れる涙を拭って、「士やも空しくあるべき」と強い口調で歌う憶良は、国号を日本と改める際、倭王の名を歴史から抹殺してしまったことに対する自責の念に駆られて、そのままでは死んでも死にきれない気持ちを味わっていたのではなかろうか。

そこで、「名を立てず」を「名を伏せる」という意味に取れぱ、「士やも」歌は、男子たるものが空しく朽ちはててしまってよいものだろうか。万代にも語り継がれるような立派な(倭王の)名を伏せたままにして。
と解釈できる。

「記紀」がその名を抹殺してしまったために、今日の日本がある上で倭王の果した役割がどれだけ大きかったかを我々は痛切に感じない。

だが、その業績は、巨大古墳が示唆する通り、万代に語り継ぐべきものだったのである。
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士(おのこ)やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして

が、「男子=士(おのこ)」「伏せ→立てず」とともにクローズアップされることになります。

中西進氏は「万葉集入門 その歴史と文学」で、この歌について、次のように解説しています。

この一首は、後々万代に語り継がれるような名声も立てずに、士たるものは空しく死んでいってよいはずはない、という意味である。
憶良は藤原八束(やつか)が見舞いに遣わした河辺朝臣東人(あずまひと)に向って、八束への返事を述べ、「須(しばらく)ありて涕(なみだ)を拭ひ悲しび嘆きて、この歌を口吟(うた)へり」という。

もはや死を覚悟した憶良の「須ありて」という、しばらくの沈黙は、、その生涯への回想の無限の感慨を物語っているが、その物思いの後に口吟した一首であれば、これは空しく死んでいく士われへの、悔恨の一首だったであろう。


しかし、暗号という観点に立てば、「口吟=口遊(くちずさみ)」なので、この歌の作者は憶良ではなく、「口遊」の著者=源為憲らということになりそうです。

そうなると、歌の意味も変わり、古事記と日本書紀(古日・記紀)において、倭王の名を伏せたこと、すなわち、万代に語り継ぐべき名を伏せたことに対する悔恨の歌ということになります。

6 976;雑歌,作者:神社老麻呂

[題詞]五年癸酉超草香山時神社忌寸老麻呂作歌二首

難波方  潮干乃奈凝  委曲見  在家妹之  待将問多米

難波潟 潮干のなごり よく見てむ 家なる妹が 待ち問はむため 

なにはがた しほひのなごり よくみてむ いへなるいもが まちとはむため

難波,望郷,羈旅,土地讃美,天平5年(733)。
大和国から難波へ向かって草香山を越える時、眼下の難波潟を眺めての作。
山に囲まれた平城京の人々にとって海の景色は珍しいもので、旅行者は土産話をせがまれたのであろう。

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難波潟の潮の引いた後のなごり

水たまりやそこに漂う藻などを

よく見ておこう

家で待っている妻に尋ねられるだろうから
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* 「なごり」《「なみのこり」の音変化》
波が打ち寄せたあと、渚のあちこちに残っている海水や海藻など。
* 草香山 生駒山西部の山々。「くさか」の地名は東大阪市日下町に残る。
* 難波潟 難波地方の遠浅の海。今の大阪市中心部あたりには、水深の浅い海や、葦におおわれた低湿地が広がっていた。その辺りを難波潟と呼んだ。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33219562.html



6 977;雑歌,作者:神社老麻呂、難波,土地讃美,羈旅,天平5年,枕詞

[題詞](五年癸酉超草香山時神社忌寸老麻呂作歌二首)


[原文]直超乃 此徑尓<弖師> 押照哉 難波乃<海>跡 名附家良思<蒙>

直越の この道にして おしてるや 難波の海と 名付けけらしも 

[ただこえの] このみちにして [おしてるや] なにはのうみと なづけけらしも
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「直越のこの道」のその道から見ると

陽光が難波の海いちめんに照りつけて

なるほど昔の人はこれを見て

「押し照るや難波の海」と名付けたのだなあ
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* 難波にかかる枕詞「おしてるや(いちめん光を照り返す)」を、難波の海の実景を表したものと見ている。
* 「直越のこの道」は「日下(くさか)の直越」。平城京と難波をほぼ直線状に結ぶ大道。
* 万葉集の地名事典などには、「難波の海」を大阪湾としているものが多いが、ここを山越えする旅人の眼下に大きく広がるのは、大阪湾よりもまず草香江だった。老麻呂のよんだ難波潟・難波の海がいずれも草香江を指していることは明らか。

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神社老麻呂 (かみこそのおゆまろ) 生没年未詳。伝未詳。
天平五年(733)に詠んだ歌二首が万葉集に載る。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33219543.html

万葉集 975

6 975;雑歌,作者:安倍広庭、宴席,大夫,枕詞

[題詞]中納言安倍廣庭卿歌一首

如是為管  在久乎好叙  霊剋  短命乎  長欲為流

かくしつつ あらくをよみぞ たまきはる 短き命を 長く欲りする 

かくしつつ あらくをよみぞ [たまきはる] みじかきいのちを ながくほりする
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なにもかも変化して止まない

散りぢりになる身で

志を成し遂げるには

この命みじか過ぎる
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* 「かくしつつ」は 季節も人生も移ろっていくのかと感じることか。
*  選んだんだ道を真摯にしかも心から楽しみつつ究めるには・・・。

安倍広庭 あべのひろにわ 斉明五〜天平四(659-732)
右大臣御主人(みうし)の子。安倍は阿倍とも。
慶雲元年(704)七月、従五位上。伊予守・宮内卿・左大弁などを歴任し、
養老六年(722)二月、参議に就任する。
神亀四年(727)十月、中納言。
天平四年(732)二月、薨ず(七十四歳)。この時従三位中納言。
懐風藻に詩二首、万葉に歌四首がある。勅撰入集は拾遺集に一首のみ。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33219739.html

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