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元の記事は太閤・秀吉の朝鮮出兵でアチラの感情がどうのって話だけどそんな事はここでは 省く、向こうが恨み続けようと私はずっと恨んでいてくれていて結構だと思っているから。 それにしても「申し訳ない事の一つ」みたいな風潮はいい加減にしてほしい。 朝鮮出兵を秀吉の『妄想』とする根拠を明らかにしてほしい」「朝鮮人・韓国人の主張のみを一方的に展示している」 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592〜98年)の拠点となった名護屋(なごや)城跡(佐賀県唐津市)にある県立名護屋城博物館への意見が、県のホームページに寄せられている 中略 キリスト教布教で訪れたポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは著書『日本史』で、「織田信長は日本全土を統一後、一大艦隊を編成して中国を征服する考えだった」と記す。朝鮮半島を足がかりに中国を支配する構想は、信長が立て、秀吉は遺志を継承したのだという。 卑弥呼の時代以来、日本にとって東アジアの盟主は常に中国王朝。その世界観を変えたのが、1543年の鉄砲伝来で始まるポルトガルなどのアジア進出で、西洋の技術や文化に接した日本人は衝撃を受けた。 西洋というもう一つの世界があることを認識した上で、東洋の盟主になろうとしたのが信長と秀吉の外交戦略ともいえる。北川氏は「秀吉は、かつての元(げん)やのちの清(しん)のように、周辺異民族が中華帝国の主宰者になってもおかしくないと考えた。国内統一はあくまでそのステップ」という。 引用 ここまで ↓ここから本題 ↓ それにしても歴史を紐解けば、秀吉の半島への出兵・・・その後明朝に攻め込むつもりだった訳です 朝鮮を保護国にしていた明はそれに対抗する為に半島に兵を送りました・・。 その頃 ずっと北方では・・後の清国の太祖となるヌルハチによる女真統一が行われようとしていたのです。 明が何時頃滅んだのか・・どうやって?そして清が興ったのは? 案外知らない。 明は女真やモンゴル系の北方民族を纏めさせまいと色々とやって居た様なのですが・・・ この秀吉の出兵にかまけている間に着々とヌルハチによる統一が行われていたのです。 秀吉の出兵も只「申し訳ない事をした」とか言う話では無く、元々信長が考えていた。 それは西洋世界が大航海時代を迎え、アジアに手を伸ばしてきている事を見据えたうえでの事かも知れません。様々な国内事情も有ったのでしょうけど・・向こうに慮ってディスるのはどうなんだろうなと思う。 あーだこうだと貶めて何になるのか? 明治時代になって日本は強大な欧米列強に追いつこうともがく訳ですが・・もしかすると既にこのころに 分かっていた人達が居たのかも知れません。 清朝は日本が徳川の世になった1636年からベルサイユ条約の数年前1912年まで続く訳ですが (島原の乱が1637年) その初めの頃・・そして当然日清戦争も有りその終焉に日本がそれなりに関わっていると言う 中々興味深い王朝に思います。 無論関わりがあるからわだかまりも有るのかも知れませんね。 中国ではこの清朝の「国志(三国志とか見たいのね、後の王朝が前の王朝の歴史を書にする訳です)」をそろそろ作り終えたのだとか言う話です。 どういう風に編集されているのか・・日本版は出るのだろうか? ああ ちなみに明を征服した女真の清国は半島も攻めて冊封下に置いてますね。
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歴史教育を考える
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朝鮮出兵は豊臣秀吉がスペイン大帝国の侵略に備えた世界観から行われました。
まず、キリシタンの禁止は宣教師を尖兵としたスペイン大帝国の侵略の常套手段を封じるため、あるいはスペイン大帝国との手切れのため追放したとも言われています。
秀吉は当初はキリスト教を禁止しておらず、交流を深めていました。
スペインが明を侵略するとそれは日本にとっての脅威となるため、先に日本が占領してしまおうと秀吉は考えました。それで朝鮮半島経由で明を攻めることになったというものです。
1594年4月マニラ総督宛に秀吉が書状を送っておりその書状は残っています。内容はほとんど恫喝であり、既に朝鮮を占領したぞ、マニラに攻めることもできるぞ、スペイン国王に日本と友好関係を結ぶように進言しろ、というものです。
もし、秀吉の朝鮮出兵がなければ、中国や朝鮮は、1600年代前半にスペインやポルトガルの植民地になっていたことでしょう。
2013/1/3(木) 午後 8:54 [ 底質汚染 ]
コメントありがとう、日本ほど歴史を公平に伝えている国は無いとも言われていますね、歴史はその国のアイデンティティに直結しますからどこの国も手前の国の事を歴史で熱く分厚く、語る訳です。
この話は最初と最後が言いたいことで、『何故失敗した方を責め成功した清朝の事は言わないんだろうね?』と言う事なんです。
2013/1/4(金) 午後 1:37 [ kakitu_xd ]