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無礼な国書 遣隋使(607)
大化の改新 無理仕事(645)
ロクロク見ないで 白村江(663)
南にむくよ藤原京 持統天皇(694)
鳴くよウグイス平安京 桓武天皇(794)
人を闇討ち 後3年の役(1083)
入れ歯老人 白河さん院政(1086)
等々、高校時代の日本史年号暗記の残骸がまだオツムに残っていますよ。凄いな!
歴史は決して年号暗記の科目ではありませんが、歴史の流れを考えるとき今も結構有効なのです。
何故か中国の王朝変遷名も全てまだ覚えております。これは日本古代史本を読んでるとき非常に役に立ち
ます。殷・周・春秋戦国・・・というやつね。オイオイ今日は自慢話かよって言わないでね。何事も好き
こそものの・・・っていうやつですから。
中大兄は663年3月に武器や軍需物資とともに二万七千余の大軍を半島に送ります。現地では倭の
救援軍と百済側が対立してしまう。余豊璋と鬼室福信が意見を異にし6月に余豊璋が福信を殺害してしま
います。この百済側の混乱に乗じて唐・新羅の連合軍が一気に攻勢に出ます。唐の水軍は白村江の河口に
集結します。ここに倭の水軍が無謀な攻撃をしかけ大敗をしてしまう、というのが世に云う白村江の戦い
です。「倭国の軍船400艘は焼き払われその煙は天を覆い隠し海水は赤に染まった」と旧唐書には書か
れています。倭軍は統制のない豪族たちの率いる寄せ集めの軍でしかなかったのに対し、唐軍は組織的で
かつ戦略にも勝っていたということらしい。この大敗により大勢は決し9月に周留城は唐軍に降伏しま
す。余豊璋は高句麗に逃亡してしまう。倭軍は大量の百済の亡命者を連れて撤退することになりました。
この敗戦により百済の復興は絶望となります。唐・新羅の追撃という脅威にも備えねばならず、大宰府防
衛のために水城がつくられ、九州から大和にかけての各所に朝鮮式山城(やまじろ)が築造されます。
都も飛鳥から近江の大津に遷都されました。、667年旧暦3月19日、中大兄皇子は都を近江大津へ移
し、その翌年(688年)1月、中大兄皇子は即位して天智天皇となります。「白村江の戦い」の敗戦に
より倭国は国としての体制の未熟さを近隣諸国に露呈してしまいました。以後、倭国は唐の体制を見習い
律令制度等を取り入れて国家体制を整える作業に邁進することになります。
白村江は朝鮮半島南西部を流れる錦江(きんこう)の古称で「はくすきのえ」とも読みます。私どもの
世代ではそのように習いましたが、現在は「はくそんこう」と読んでいるようですね。
○写真は生駒山系にある高安城跡地、朝鮮式山城が築かれたとされています。(Wikipedeaより)
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朝鮮半島と日本との関係は、663年の白村江の戦いころまでは、兄弟同様だった思います。
白村江の戦いで日本は百済を応援しましたが、新羅と中国の連合軍に惨敗しました。
敗戦後、日本は追撃を恐れ山城や水城、狼煙台を各地に建設しました。
それで、日本は元寇からも国を守ったのです。
白村江の戦いは日本の歴史上、重要なポイントです。
韓国や北朝鮮は、中国の属国となり、搾取され続けましたが、日本は平和で繁栄しました。
朝鮮半島と日本列島の差が大きくなりすぎたので、属国根性から発展した朝鮮半島の人はタカリ根性から逃れられないのです。
日本人は島国根性です。
2011/11/27(日) 午前 11:56 [ 今里から美しい日本 ]
7世紀の日本の主要人物
蘇我馬子(551年? - 626年) - 飛鳥時代の豪族・大臣(嶋大臣)
推古天皇(554年 - 628年) - 第33代天皇(在位592年 - 628年)・敏達天皇の皇后・日本最初の女帝
聖徳太子(厩戸皇子)(574年 - 622年) - 推古天皇の摂政・用明天皇の皇子・遣隋使の派遣や法隆寺の建立を行う
小野妹子(生没年不詳) - 飛鳥時代の政治家・遣隋使として隋に赴く
鞍作止利(生没年不詳) - 飛鳥時代の渡来系の仏師・法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像が代表作
藤原鎌足(中臣鎌足)(614年 - 669年) - 飛鳥時代の政治家・内大臣大織冠・藤原氏の祖
天智天皇(中大兄皇子)(626年 - 671年) - 第38代天皇(在位668年 - 671年)・蘇我氏を滅ぼし大化の改新を進める
弘文天皇(大友皇子)(648年 - 672年) - 第39代天皇(在位672年 - 672年)・天智天皇の皇子・壬申の乱に敗北
天武天皇(大海人皇子)(631年? - 686年) - 第40代天皇(在位673年 - 686年)・
2012/5/27(日) 午後 8:40 [ 中国韓国の原発リスク ]
羅済同盟(らさいどうめい)は、新羅と百済の同盟である。
第1次羅済同盟(366年 - 4世紀末)
366年、百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が、高句麗に対抗するため同盟を結んだ。
371年には、近肖古王が平壌で高句麗の故国原王を戦死させるなどの戦果を挙げた。しかし、4世紀末には、新羅が高句麗に接近し同盟は壊れた。
第2次羅済同盟(433年 - 553年)
433年に、百済の毘有王と新羅の訥祇麻立干が、高句麗の南進政策に脅威を感じ、軍事的攻守同盟を結んだ。
475年に高句麗の長寿王の攻撃を受けて、百済の首都漢城が陥落し蓋鹵王も戦死したが、文周王は新羅の助けにより熊津に遷都し、百済は存続した。同盟は以後も続き、493年、百済の東城王は新羅と婚姻関係を結んだ。
551年、百済の聖王は、百済、新羅、伽耶の連合軍により、高句麗から漢江流域を取り戻した。
しかし、553年に新羅の真興王は百済から漢江流域を奪い、同盟関係は壊れた。554年には、聖王が新羅との戦いで戦死し、以後、百済の滅亡まで両国は敵対関係を続けた。
2012/6/27(水) 午後 8:59 [ 環境歴史観光防災カメラマン ]
詳細な解説をありがとうございます。感謝です。
話は違いますが、「倭寇」と言われている海賊のその正体は実は中国人が多かったとという説もあるそうです。実際のところはどうだったのでしょうか?
2012/9/3(月) 午後 9:00 [ kaku ]