Gladius Dei

落ち着いたら、能登半島に旅行しようとおもう。大したお金は落とせないけど。

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11月4日(土) 18時開演


アーノンクール指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ブルックナー 《交響曲第五番》

兵庫県立芸術文化センター 二階2RA


これまで何回かウィーン・フィルの演奏会に足をはこんだが、アーノンクールの指揮で聴いたことはなかった。アーノンクールの指揮には何度か接したが、モーツァルトの作品がほとんどだった。などという言い訳を考えながら、もし今回の来日公演にいくとすれば、八日のサントリーホールがいちばんいいとおもっていたけれど、残念、その日は夕方まで京都にいなければならない。では、西宮公演のブルックナーか。わるくない。そういえば、信頼できる友人が、アーノンクールのブルックナーを褒めていた、なんてことをおもいだすと、もうとまらない・・・。気がついたら、チケット購入ボタンを押していた。

ウィーン・フィルはやはり素晴らしい。いうまでもないことだが、弦のしなやかさ、つややかさは、極上の絹かベルベットのよう。みずみずしい木管に、輝かしい金管。それらが一体となって、透明な響きを奏でる。厳密にいうと、透き通っていながら、わずかに金色がかったような高貴な光を発している。極上のシャンパンのような色といえばいいだろうか。そして、どんな大音量になろうとも、にごることがない。

アーノンクールのブルックナー。もっと攻撃的なものを予想していたけれど、嫌味がなく、爽快な演奏だった。歯切れのよいリズムとスピード感によって、颯爽としたブルックナーになっている。一言でいうと、風通しがよい。現代からブルックナーを見ると、ああなるのだろうか。といっても、スポーティーという意味ではない。作品全体がすこしの曖昧さもなく見通されている心地よさといえばいいか。無理がないから颯爽としているのだ。アーノンクールらしく「無機質な感じを出そうとしているのかな」とおもう場面もあったが、歌うべきところは深い響きで朗々と歌いあげるから、それほどドライな感じもしなかった。

第二楽章の途中からは、ほんとうにもう、なにもいうことがなかった。ああいう演奏にふれると、「ヨッフムがどうの、ヴァントはこうの、チェリビダッケはやはり・・・」などという話が、バカバカしくなってしまう。いま聴こえてくるこれこそがブルックナー、それでよいではないか。

第二楽章の寂寥感、ザンクト・フローリアンの小径だろうか、それともウィーンの森か。夕刻の鐘が鳴っている。そんなことを連想していると、繊細な音がどんどんふくらんでいく。揺れ動きながらふくらみ、爆発する。なんという持続力だろう。どの楽章についてもいえることだが、いくら荒っぽいリズムを刻んでも、決して粗野になることはない。ゆったりとした弦のうえで、木管が絶妙のニュアンスで歌い、金管が咆哮する。力の入れ方と抜き方、あの自発性は、おそらく、オケが本来もっているものだろう。「歌」、洒脱さ、どこかメランコリックな感じ、そういう風情は、もう、ウィーン・フィルの独壇場というしかない。

アーノンクールという人は、挑発的な演奏をすることもあるけれど、基本的には、作品に付着した澱(というと語弊があって、その澱が、名手にかかると、かけがえのない魅力になったりする)をはがす名人なのではないか。今回のブルックナーにしても、エキセントリックなことをやっているわけではなく、素直に、作品を再構築している気がした。そうした指揮者が、極上の響きをもち、デリケート極まりないニュアンスを表現できるオーケストラに出会ったとき、説得力のあるブルックナーが姿を現したのだとおもう。

* * * * *

あとほんの一秒か二秒、拍手とブラボーを我慢するわけにはいかないのだろうか。できれば、指揮者が腕をあげているあいだは・・・。ブルックナーはとくに残響が大事なだけに、最後の音が消えるかどうかというところで拍手が入るのは、なんだか演奏者にも申し訳ないことのようにおもうのです。

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