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東日本大震災から2週間が経とうとしています。被災地で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
被災地・首都圏を中心に、大学の卒業式中止が相次いでいます。今年私が卒業する東京大学大学院の学位記授与式では、修了生としては総代(各研究科の博士課程、専門職学位過程及び修士課程代表1名)のみが出席する運びとなりました。授与式後には各専攻に分かれて集合し、各修了生に学位が渡されます。
私自身、専攻別の学位記授与式には参加しませんでした。学部時代も卒業式に参加していませんので、その延長のようなものです。特に明確な理由はありません。だったらいけよという話なのですが、人間の行動のすべてが論理的に説明できるわけではありません。大事なことなので2度書きます。人間の行動のすべてが論理的に説明できるわけではありません。100%論理的に解釈しようとする行為は科学に対して適用するべきであって、人間に対して適用するべきではありません。いや、適用できません。
科学というのは、物事を客観的にとらえてそこから新しい事柄を発見することである。分からない何かがあって、それを理解するために実験や計算をして客観的なデータを取得していく。データをもとに論理的に考え、分からなかったことを分かるようにする。科学とはそういうものだ。ただ、それは科学だという認識を強くしていなければいけないと思う。それは科学であって人間ではない。
ある人間に関して分からないことがあったとする。その人間を理解するために、その人の過去の言動や行動などを分析して、論理的に考え、その人がどういった人なのかを結論する。それで本当に人を理解できるのだろうか?できないと思う。例えばその人が過去に発した言動が世間一般で言うところの『冗談』だったとしよう。その場を湧かせるためのただの冗談、一時的な発言だったとしよう。ここで、その人間を理解しようとしている側の人間がその一時的な発言を冗談と捉えられなかったらどうだろう。冗談とその他の要因(言動・行動)を分析にかけ、論理的に考え、その人がどういった人なのかを結論する。そんな結論になんの信憑性もない。根源が冗談なのだから。
ここに、人間のことを論理的に理解しようとすることの限界があるように思える。だいたい、人間には感情があり、日に日に発言・心情が大きく変わることもあれば小さく変わることもある。だから、人間の感情の客観的なデータはとれない。客観的なデータがとれなければ論理を構築しても意味がない。たとえ何らかの結論が出せたとしても、そんなものはまったく当てにならない。それで、1人の人間を理解できたと思い込むのも大概にしてほしい。
なんでもかんでも論理的に説明がつくと思うな。
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