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挑戦心がなくなったとき人は朽ちていくと思う。何か新しいことに挑戦することで視野が広がり人間としての魅力が増す。1つのことのみをするだけでもキラリと光るものは生み出せるとは思う。しかしその光はただの単色光であり、時間と共に見ていて飽きがくる。飽きがこない本当にきれいな光とは、数々の光が1つとなって現れる白色光ではなかろうか。
白色光に必要な要素は挑戦心だろう。何か新しいことに挑戦する心。しかし、挑戦心はしばしば論理的思考によって阻害される。これはこうだからやらない。あれはこうだからやらない。グダグダグダグダと言い訳じみた文句をならべ、結果的に何もしない。そして、挑戦して失敗した人間を「うまくいかないってことは最初から分かっていたでしょ」と笑い、挑戦して成功した人間に対しては無関心もしくは嫉妬する。そんな人間をおもしろいともなんとも思わない。
はたして論理的思考能力をもつことはすばらいいことなのだろうか?論理をきわめて人間としてつまらなくなっていくくらいならいっそうのこと、バカのまま夢を追いかけ続けていられた方がよっぽろ幸せだと思うのは自分だけだろうか?
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東大大学院生記 11月 2010
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人は環境順応型動物である。環境が人の精神を変化させる。育った環境により人格が形成される。そう言ってしまえば、子供のときに身を置いていた環境が成人になったときの人格に影響を及ぼすように聞こえるが、成人になった後でも環境による影響は少なからず受けるものだ。
社会は数多くの集団により構成されている。1つの集団によってのみ構成される社会などありえない。集団はなぜ形成されるのか。個人的には引き寄せの法則(→http://blogs.yahoo.co.jp/kamakura2008/9103217.html)がドライビングフォースとなって集団というものが形成されると思っている。小説に興味をもつ人々が書店に入ると自然と小説が置かれている棚の方へと足を運ぶように、小説好きは小説好きの集団を形成する。科学が好きな人間は自然と理系の道へと進み、理工系大学院へ進学し、研究室に所属し、科学好きが集う学会へと参加していく。
所属する集団が醸し出す空気に染まれるか染まれないかで自分の居場所は変わってくる。小説が好きなら小説好の集団へと溶け込めばいい。しかし、小説好きの人間が集ってはいるからと言って、その集団の空気が自分自身に合っているとは限らない。小説は好きだが、その集団を形成する人間が自分の性格と合わなかったとき、人はその集団を拒絶する。集団が作り出す環境が自分本来の人格を曲げる恐れがあるためだ。自分の人格を変えてまで、集団に執着する必要性はどこにもない。
そしてまた人は、居心地のよい集団を探し、さまよい歩いていく。
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今日は、指導教官のとても大切な発表の日でした。
いや〜、やってしまいました。会場に到着したのは10時20分。入口には「○○研究室 9:00〜」の張り紙が貼ってありました。「10:30からの発表だというのに、律儀にも9:00から会場を予約してあるのか」と思いつつドアを開くと、私のすぐ隣で指導教官がマイクをもって立っている。目の前にはざっと80名ほど、イスに座っている人たちがいました。もうすでに発表は終盤に差し掛かっている模様。このとき初めて、発表開始時刻が9:00だったということに気がつきました。
自己中心的な解釈といえばそれまで。しかし、私は時間に遅れないことを信条としており、自分が時間に遅れることなどまず自分自身で認められないのだ。「自分が時間に遅れる。そんなことあるわけがない」と信じ切っている。この自信は、時間厳守を貫いてきた過去の実績に裏打ちされている。
2006年7月〜2010年4月にかけて、私は時間遅れたことが一切なかった。授業開始時刻にも、友達との待ち合わせ時間にも一切遅れなかった。時間にルーズなアメリカ社会に身を置いていたときでさえ、私は時間に遅れたことがなかった。『ただの一度も』時間に遅れたことがない。2006年7月にいったい何があったのか。そのとき私は長い間つきあっていた彼女にふられた。ふられた理由は、
「だって、和馬は時間を守らないじゃないか」
だった。その当時が一番、私が遊びに遊びまくっていた時期だった。平気で約束を破った。22時に彼女の家にいくと言いつつ、深夜まで友達と遊び呆け、帰宅は午前2時すぎになるのはザラだった。時間を守らないこと(まー他にもいろいろありましたが・・・)がつもりにつもり、不満が一気に爆発したのが2006年7月でした。別れた後は本当にショックで、ガッツリ泣いた。そして心に誓った。
「俺はもう決して、約束の時間を破らない」
それから、2010年4月まで時間を破ったことは一度もなかった。連続記録は3年9カ月で終了してしまったが、ここまでくると、私が時間に遅れることなどほとんどありえない。いや、信じられない。彼女を失って一番得たものは、時間に間に合わせる習慣だ。
この話を友達にしたら、
「お前は、なんて時間に縛られた窮屈な世界に生きているんだ」
と言われた。いや、大切なものを失うくらいなら、私は窮屈な世界で生き続ける。もうすでに、窮屈な世界を窮屈であると認識できない感覚に陥っているけれども。
『本当に大切なものは失った後にはじめて、それが大切なものであることに気づく』
身をもって知った。だったら失う前に、失わないようにするための行動をおこす。
まー、てっとりばやい話が、自分にとって当たり前の存在を当たり前のように大切にすればいい。
ただそれだけなのだけれども・・・
今、昔の彼女に会うことになったら、私は謝る。ごめんなさいと言い続ける。そして最後にありがとうと言う。
今の自分がいるのは、彼女のおかげである。 |
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研究室内のミーティングで発表した。私が提示した研究結果は2つ。2011年7月20日の中間発表以降から研究結果を2つ出した。自分なりには満足していたが、はたしてこれらの結果がどれほど他人ウケするのかは分からずにいた。しかし、今日の発表で確信した。私の実験結果はイケている。
当初1本の論文(→http://blogs.yahoo.co.jp/kamakura2008/25962408.html)を執筆する予定であったが、路線を変更する。2本書く。もう決めた。2月中旬〜3月中旬に1本仕上げる。これは、サイエンスの世界に自分の名前を刻みこむための論文とする。2本目の論文は、社会人となった後に書く。休日にコツコツと執筆し、Skypeで先生方とディスカッションすることになるだろう。2本目の論文は、先生方への感謝の気持ちで書く。できの悪い学生である私がここまでイケてるデータを出せたのは、先生方からの手厚いサポートがあったからだ。
就職してしまえば、サイエンスとは無縁な生活を送るようになる。すなわち、書いた論文は私のこれからの人生にほとんど影響を与えないだろう。論文を書くこと自体、無意味と言ってしまえば無意味。しかしなんでだろう?そんな無意味さに対してワクワクしている自分がいる。
『オレ今、こんな仕事しているけど、論文2つも書いたことあるんだぜ。しかも物理の分野で!』
と言えることが、人生のネタとしておもしろいと感じる。
そんな私は狂っているのだろうか?
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スマートフォンが就職活動生の必須アイテムとなってきている。日本経済新聞(2010年11月3日朝刊)でも取り上げられているが、スマートフォンの利便性と就職活動生のニーズは明らかにマッチしている。
スマートフォンでなら、説明会の予約も簡単である。
就職活動生にとってやっかいになっているのが、説明会の予約がしづらいことである。大手企業の説明会の予約は、説明会開催告知1時間後には満席となっている。説明会告知のメールを携帯電話で受信した後いかにすばやく、ネット利用可能なパソコンへと向かい予約できるかが勝負となる。しかし、スマートフォンでならパソコンに向かうことなくその場で予約できる。パソコン用のサイトを閲覧しやすいためである。私自身は就職活動期間に、説明会告知メールを外出中に受信し、すぐさま近くのネットカフェへと入り、説明会の予約をした経験がある。あの時、「スマートフォンがあったらな〜」としみじみ感じたものだ。
説明会の場所へ向かうのに便利である。
説明会会場への移動が容易になる。スマートフォンを持っていれば、Google Mapを閲覧しながら会場へと移動できる。スマートフォンを持っていなければ、説明会会場をパソコンで検索し、Mapをいちいちプリントアウトする破目になる。スマートフォンでGoogle Mapを使用できれば、ピンチイン・ピンチアウトでMapを縮小・拡大できる。また、iPhoneでなら『マップ』で現在地から目的地までの経路を示してくれる。
カフェの検索ができる。
就職活動中、頻繁に出入りするのがカフェである。面接に遅れまいとするあまり、面接会場付近に予定より早く到着し、面接前に企業情報・エントリーシートのコピーなどに目を通したくなるのは当たり前の心理である。そのためにカフェを利用する就職活動生は多い。そんな面接会場近辺のカフェの検索にも、スマートフォンは役にたつ。おすすめは、『AroundMe』という無料アプリケーションです。チェーン店(マクドナルド・スターバックスなど)の検索が非常に楽です。
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