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絶対に裏切ってはいけないのに、大切な人に失礼なことをしてしまった。これほど、自分を大馬鹿野郎だと思ったことはない。 |
東大大学院生記 1月 2011
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映画『ソーシャル・ネットワーク』を見ました。現在5億人のユーザー登録を記録している『Facebook』の誕生経緯を映画化したものです。Facebook創設の感動ストーリーを期待していたのですが、あまりおもしろくありませんでした。
まず構成が映画をつまらなくしていたように思います。Facebookをめぐる2つの訴訟をベースとして物語が構成されていました。訴訟シーン(現在)→回想シーン(過去)→訴訟シーン(現在)→回想シーン(過去)・・・・という流れの繰り返しで、聴衆に臨場感を伝えているようにみえました。しかし、見方を変えれば、結果→裏付け→結果→裏付け・・・・というただ単に『事実確認』を映像化しているだけで、非常に退屈な内容でした。映画にする必要があるのでしょうか?マーク・ザッカーバーグ(Facebook創設者の1人)の伝記として書籍化される程度でよかったと思います。
事実確認ムービーと化していて、意外性も何もありませんでした。映画の導入部分のマークとエリカの会話から、マークの性格のほとんどを知ることができます。その性格を踏まえたうえでムービーを眺めてしまえば、マークが起こりうる問題に対してどのような反応を示すかはある程度予想がついてしまいます。そうなってしまうと、映画の全てが全て『想定の範囲内』で収まります。映画の序盤では考えられなかったマークの心情の変化が映画の終盤でみられたなら、何か心に残るものがあったと思います。
Facebookの成り立ちは理解できました。で、何を私達に訴えているのでしょうか?
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優しさをもって人のために尽くしたことない人間は、人からの優しさを感受することができない。それは、人は他人のために何らかの貢献をして初めて、優しさというものがどういったものなのかを知ることができるからだ。他人のために尽くし、その人から「ありがとう」と言われたときの清々しさを知っていれば、次に他人が自分に対して何かをしてくれたとき、なぜその人は自分のためにやさしくしてくれたのかを理解できるはずだ。
「これをしてあげよう」という提案に対して、「絶対にそんなことをしてくれるはずがない」ときっぱり断言する人間がいる。見ていて悲しくなる。優しさをもって提案しているのに、即却下。断言した側の人間は、人のために何かをしたことがないのだろうか?人の博愛的な行動をおそらく理解できないのだろう。「その優しさの裏には絶対に何かある」と、疑っているかのようだ。
どんなに優しいことをしたとしても、相手がその優しさを感受できるだけの心を持ち合わせていなければ、清々しさなど訪れはしない。逆に空しさが心に残るだけだ。そんな間柄に、信頼関係など生まれはしない。
燦々たる日の光の下で、種をまき、水を与えたとしても、肥沃な土地が存在しなければ、美しい花を咲かせることはできない。
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でっかいことを言うのはそんなに悪いことなのだろうか?でっかいことを言って、それを成し遂げるために努力する。高い目標を掲げ、それを公言することで自分自身にプレッシャーをかけていく。格闘家によく見られる傾向であると思う。しかし、そのでっかいことを頭ごなしに「無理だろう」と、ネガティブな言葉をかけられてしまうと、「できる」と思っていた潜在意識に「無理かもしれない」という一抹の不安が植えつけられてしまう。そのほんのわずかな不安をもってしまうのか、もつことを拒否できるかが、普通の人間と一流と呼ばれる人間の差だと思っている。
人の意識は、他人の言動によって簡単に影響されてしまう。自分では体調がいいと思っていても、3人から立て続けに「顔色わるいですよ」と言われてしまうと、「自分、ホントは体調が悪いのではないだろうか?」と不安になる。そんな意識から本当に体調が悪くなってしまうこともある。夢をもっている人でも、意思が弱い人だと、「本当にそれがしたいのですか?」と10回立て続けに聞かれれば、「私は本当にそれがしたいのだろうか?」と自分自身を疑ってしまうものである。
要するに、精神的に弱い部分のある人間は、ネガティブな言動に対して聞く耳を持たなければいい。ネガティブな人間に近づかなければいい。それらが無理なら、ネガティブを一度受け入れてしまって、そこから「よかった」を探し出す陽転思考(→http://blogs.yahoo.co.jp/kamakura2008/24855840.html)がとても役立つ思考ツールだと思う。
「こうだからできない。あーだからできない」と、理屈ばかりを並べられてもつまらない。常に現状維持発言しているだけでは、おもしろくない。かえって、ポジティブに生きる人間の妨げになっているだけだ。逆に、でっかいことを言う人間を応援できるぐらい心を広く保ちたい。
夢語れる人間でありたいものである。
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2011年1月1日。修士論文を仕上げるためにパソコンに向かい、ふとパソコン上の時計に目をやると0:02と表示されていました。こうして私は新年を迎えた。
上記のこと自体あまりにも特殊なのですが、今年の正月は例年とはまったく違う過ごし方をしている。人生で初めて、正月を実家で迎えなかった。修士論文執筆が忙しかったからと言えばそれまでなのだが、親から『明けましておめでとう・・・』のメールを受け取った時、自分の親不孝っぷりに嫌気がさした。実家で修論を書けばよかったのだが、確実に集中できないのが目に見えていた。自分の能力の無さを空しく感じる。
実家に帰らなかったという事実に対して、『大人になったな』というコメントをいただいた。実家に帰らず親を心配させることが、大人の振る舞いだとは全く思わない。世間と隔離された世界に身を置いていると、人に対する感謝の気持ちも薄れ、人の感情に対して徐々に鈍感になっていく。その結果が、正月は実家で過ごすという人間としての当たり前の動作を私から奪ったのかもしれない。
この世界から飛び出せるまで、あと数カ月。2011年という年は、身を置く世界のお引っ越しが主な仕事となりそうだ。
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