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新国立劇場「オテロ」
配役等は、http://www.atre.jp/09otello/
10/3(sat)の公演を見ました。
まず舞台と演出について。舞台設定は、19世紀風のヴェネツィア。演出のマルトーネ氏は、プログラムノートで、「オペラを演出する際には、小道具や衣装のスタイルを台本の時代設定に合わせるよりも、『作曲された年代』に合わせたい」と語り、また、「今回の舞台装置が表すのはヴェネツィアという街の空間ですが、それはオテロの心の中の都市であり、あたかも蜘蛛の巣が張っているかのような、迷宮としてのヴェネツィアなのです」とその意図を説明します。嫉妬と羨望が妄想と悪意を生み、そういう感情の連鎖がヤーゴからロデリーゴへ、そしてオテロへと感染し、周囲のパペットを巻き込んで、ついには信頼と従順と善意の権化であるデズデモナを含め、すべての人々に破滅をもたらしてしまうというテーマはそれ自体、時代や場所をこえて普遍的な悲劇であって、舞台設定を敢えて変更してそうした悲劇の普遍性を検証するというレギーテアターの試み自体には自分も多いに興味がありますが、もっと抽象的な時代/場所の設定ならまだしも、19世紀のヴェネツィアという必然性は自分には感じられませんでした。特に、原作の舞台である15世紀のキプロスといえば、ビザンチンが崩壊した直後、オスマンに対抗してヴェネツィアの制海権と生存を守る最前線として、今日の我々が想像もできないような緊張感に包まれていた場所であって、そこに生きる人間もまた、明日なき運命を日常としていたはず。そういう歴史的背景を切り捨てる必然性はあるのかな?
唯一印象に残ったのは、2幕のコーラス “Dove guardi splendono raggi, ...” の背景で、照明が舞台全体に波紋の動きを投影する中でデズデモナが太もももあらわにセダクティヴな情婦のパントマイムを演じ、ヤーゴの言葉によるオテロの妄想が表象される場面。
次に音楽について。デズデモナのイヴェーリさんは、フォーカスのしっかりした美しい声でした。アヴェマリアの最後の弱音はすばらしかった。オテロのグールド氏も、破綻なく堂々と聴かせました。ちょっとスケールが小さいかなと思いますが、後に述べるように、ヤーゴのキャラクターを中心に据えた演出だから、等身大のヒーロー、しかもヤーゴの奸計にからめとられる神ならぬ身、生身の人間ということで、これでいいのでしょう。この夜の主役だったヤーゴについては、後に述べます。エミリアを加えた2幕のクワルテットやファルスタッフを思わせる3幕の速いアンサンブルはお見事でした。
フリッツァ氏率いる東フィルは、好演だったと思います。圧倒的な雄弁さというわけではないけれども、堅実な伴奏で、立派なヴェルディの音楽自体が十分に語っていたんじゃないでしょうか。あちこちで東フィルの演奏がまずかったといった評を目にしましたが、「新国の法則」というのがあって、プレミエがだめでも、公演を重ねるごとにアンサンブルはしまってくるように感じます。だから自分は事情が許す限り後ろの方の日付を買うようにしています。合唱はあいかわらず立派でした。プロセニアムの前でかたまって歌っていたこともあり、冒頭の合唱は圧倒的な迫力だったし、いくつかのコンチェルタートはソロとのバランスがばっちりでした。
非常に興味深かったのはヤーゴの役づくり。悪役のイメージとは違う、折り目正しく端然とした歌唱でしたが、ここがマルトーネ氏がいちばん訴えたかったポイントじゃないでしょうか。
19世紀のニューヨークで活躍したシェイクスピア俳優であるエドウィン・ブース(http://en.wikipedia.org/wiki/Edwin_Booth)はヤーゴの役づくりについて次のようにに語ったそうです。(手元にあるPenguin版シェイクスピア全集にケネス・ミュアー氏が書いている解題からの受け売り孫引きですが。。。)
"... try to impress even the audience with your sincerity ... Iago should appear to
be what all but the audience believe he is.“
そうなんです。ヤーゴが”scellerato“であると知っているのは、観客だけなんですよ。舞台にいるほかの主役たちにとってヤーゴが明らかにscelleratoであったならば、そんなのにだまされるわけはありませんね。こういう演劇的パラドックスをどう処理するか、どう演出するか、どう演じるかが舞台の面白さなのかもしれません。よく考えてみると、ドン・ジョヴァンニは”galant’uomo“(レポレッロの証言)なんです。だからこそ、エルヴィーラは彼に首ったけになり、ツェルリーナがほろっと心動かさ、アンナも貞節をぐらっとさせてしまう。さらにいえば、スカルピアはほとんどのローマ市民にとっては立派な紳士なんですよ。
もう一つ、さらにことをややこしくするパラドックスが。。。ヤーゴ自身は、”Son scellerato perche son uomo“ (直訳すると、"I am villain because I am a man."「自分は人間であるが故に悪者だ」)と語ります。しかし、彼自身が語るように劣悪な遺伝子から発生した生まれながらのscelleratoだとすれば、彼は自分自身を相対化/客体化した言葉でそのことを語ることはできないはず。さらに、彼は、”Credo in un Dio crudel... “と語りますが、クレドという強い信仰を告白することばを使わなければ自分のscelleratoなアイデンティティを語れないこと、あるいは残されたひとかけらの善意を否定できないこと自体、彼が生まれながらのscelleratoではないことの証左ではないでしょうか。
このドラマは主要な登場人物すべてに破局をもたらすわけですが、その中でも最も悲劇的なのはヤーゴではないでしょうか。嫉妬と羨望が悪意を生み、その悪意を自分でコントロールできなくなる。ひとかけらでも善意が残っている人間にとっては耐えられない自己分裂です。そこで彼はクレドまで持ち出し、自分自身を欺瞞する。それこそが、悲劇です。
マルトーネ氏とルチオ・ガッロ氏によるヤーゴのプロジェクションは、ヤーゴが本来は普通の人間であったこと、普通の人間の人格を分裂させるような悲劇が彼の人格の中でおこっていることを我々に訴えているような気がします。ここは切ないなと感じました。
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楽日に観ましたが、フリッツァが肩を故障し、後半は指揮者が交代するというアクシデントが…。代打は健闘したものの、テンポ感の違いは否めず、ちょっと残念でした。3日をお選びになったのは正解です。
ルチオ・ガッロは素晴らしい歌唱と演技で、クールで知的なイヤーゴ像をつくりだし、拙者も素晴らしかったと思います。彼に焦点をあてたマルトーネの演出も興味深いものでした。2幕の「クレード」は見せ場でしたね。
2009/10/8(木) 午前 0:16 [ dsch1963 ]
dsch1963さん
フリッツァの途中降板は残念でしたね。
今回のハイライトは何と言っても知的でクールで分析的で、それがゆえに自己分裂に苦しむヤーゴ像だったんだろうなと思います。
クレドからクワルテットがこの演出のハイライトだったと思います。
2009/10/8(木) 午後 11:03 [ kamata60 ]