|
10月17日、NHKホールで、トリスタンとイゾルデを観る。
席は3階Rの3列目。ピットの明かりが少し気になったが、舞台全体を見渡せる席で、19,000円にしてはコストパフォーマンスは高いと思う。
クプファー演出の舞台は、壊れた天使像を配しただけの簡素なもの。息絶えつつも天に向けられるその翼は、作品全体のオスティナート的テーマであり、トリスタン自身が語る言葉を借りれば、"Im Sterben mich zu sehnen" (死につつ憧れる)を表象するのか。また、王を裏切った臣下として、友を裏切った友として、恋人を裏切った恋人として、それぞれの立場で登場人物が懊悩するルシフェル的心理を表象するのか。とりあえず、音楽がすべてを物語るこの作品では、少なくとも観る者の集中を妨げることはなく、私は好感をもった。
さて肝心の音楽。バレンボイム率いるStaatskapelle Berlinは、練り上げられ、振幅が大きく、表情も豊かな音楽づくり。決して技術的に最上のオーケストラであるとは思わないが、シェフの表現意図を十分に実現していると感じる。大音量のtuttiでは、しばしば歌手の声をかき消すが、そんなことにあまり頓着していない様子が潔い。この作品、特に2幕2場の歌詞は観念的な会話が多く、外的事象を聴衆に伝えるのに歌詞の力を借りる必要はほとんどないのだから、少々歌詞が聞き取れない部分があっても、音楽全体のうねりに身を任せていれば、まことに気持ちがよい。2幕1場、"wie hoert' ich sie, tosten noch Hoerner?"の直後、オーボエが何小節か落ちましたが、ご愛嬌でしょう。
歌手のほうは朗々とした声で、マルケの悲しみを抑制した品格の中に表現したパーペ氏が一番大きな喝采を浴びたのは妥当だろう。イゾルデのマイヤーは、まずまず。今日は残念ながら、2幕2場冒頭"O Wonne der Seele"のトップCは、うまく逃げていた。この人、もともとメッツォで、胸声を上にのばしたドラマチックな声と表現が持ち味だが、この日は、トップレジスターはちょっと伸びなかったなと感じた。とはいえ、持前の表現力で十分ドラマチックなイゾルデを聞かせてくれたと思う。
残念だったのは、トリスタンを唄ったフランツ。3幕では完全に息切れしてしまって、本当に死にそうなトリスタンそのものだった。"Muss ich dich so verstehn"の歌い出しを間違ってしまって、"du alte, ernste Weise, mit diner Klage Klang?"まで落ちてしまった。その後もリズムが不安定なので、バレンボイム氏は、オーボエ、クラリネットの小節頭の三連符をやたらアクセントをつけて吹かせて、フランツ氏にリズムを取り戻させようと努め、やっと"durch Morgengrauen bang unt baenger"あたりで事なきを得た。一流のオペラハウス、一流の指揮者、一流の歌手でも、こういう小さなアクシデントはある。そこで落ち着いて修復できるバレンボイム氏は、流石劇場経験豊富で手慣れたものだと改めて感心する。
さて、そもそも調子が悪かったのに、このアクシデントで動揺したのか、その後のフランツ氏は、はずしまくりで、"den Gifttrank gab sie mir zu"から"Verflucht, wer dich gebraut"まで、モノローグのクライマックスにあたる部分は、ほとんど音程を失い、絶叫になってしまった。テンポも走り気味で、しばしばバレンボイム氏は、左手を大きく前に突き出して舞台上のフランツ氏を制止して、次のキューを大きく出しているような始末で、聴いている私にとっては、ある意味スリリングな体験だった。
大小いくつかの傷は、こういう大作の上演にはつきもの。全体を通じて、柄の大きな、しかも表情が繊細な音楽づくり、とくにバレンボイム流の大きくうねるオーケストラの充実を満喫できた一夜だった。バイロイトでのポネル、ミュラーとの舞台の頃と比べても、表現の振幅はより大きくなったと思う。
|
書き忘れましたが、2幕では、常套的なカットが行われました。
具体的には、"Dem tage!"から"Doch es raechte sich der verscheuchte Tag"の直前までがカットされました。
聞くところによると、神奈川とNHKホール1回目ではノーカットだったとか。自分の聴いた日だけカットがあったのなら、非常に残念です。
カットされた部分は、聴きごたえあるアンサンブルの部分ですから。
しかし、フランツ氏の出来を見る限り、ノーカットなら、2幕終了前に既にダウンしていたかもしれないと思うと、これは、相談の上での判断だったのかもしれません。
2007/10/18(木) 午前 11:43 [ kamata60 ]
ぼくはNHKホールで観ました。
こちらのブログではずいぶん専門的な感想が書かれていておどろきました。
なるほど、ドイツ語の歌詞までよく聴き取り、音楽の細部まで追える人もいるんだと感心しました。
ぼくは、詩のほうが専門ですが、日本語の字幕を追うのがせいいっぱいでした。
第二幕の観念的なせりふはドイツ語ではどうなのかわかりませんが、日本語訳ではそれなりに説得力があったと思いました。ワーグナーについて、かなりプラスの評価がぼくの中では定着しました。
またいろいろ専門的な分析を読ませてください。
2007/10/18(木) 午後 1:55 [ nam*ara*7 ]
nambara27さん、コメントありがとうございます。
詩がご専門ですか。
2幕2場の「おお降り来よ、愛の夜」の詩、本当に美しいですね。
下にちょっと引用しましたが、詩節ごとの脚韻の音が、やさしい音であったり、鋭い音であったり、意味を超えて音楽と寄り添って、私たちの感覚に直接訴えかけるように感じます。
まさに、デュオニュソスの芸術ですね。
ISOLDE.
Barg im Busen uns sich die Sonne,
leuchten lachend Sterne der Wonne.
TRISTAN.
Von deinem Zauber sanft umsponnen,
vor deinen Augen süß zerronnen;
ISOLDE.
Herz an Herz dir, Mund an Mund;
TRISTAN.
eines Atems ein'ger Bund;
2007/10/18(木) 午後 2:57 [ kamata60 ]
早速ドイツ語の詩の引用をありがとうございます。
脚韻とかがいいですね!
日本語では、韻を踏むことがあまりないので、欧米の詩を読むと脚韻とか頭韻とか韻を踏むことが詩やオペラの台本の基本となっていることに気づかされます。
ワーグナーは、詩人であり音楽家であるという類まれな才能の持ち主だったのでしょうね?
はじめは退屈な音楽家と思っていましたが、先日のトリスタンとイゾルデですっかりワーグナーが気に入ってしまいました。
それにしても驚いたのは、マルケ役のパペの評価が高かったことです。主役より喝采を浴びるなんて信じられませんのでね。
ぼくにはkamata60さんのような精密な聴き取りはできませんでしたが、マイヤーがいちばん印象的でした。フランツはなんども失敗があったようですが、ぼくには十分ハイレベルの歌唱力に思えました。しろうとの雑駁な感想だとは思いますが。
またいろいろ楽しいお話をさせてください!
よろしくお願いします。
2007/10/18(木) 午後 3:40 [ nam*ara*7 ]
大変勉強になりました。第2幕が予定時間より早く終わってしまったのはそういうことだったのですか!3幕の死にそうなトリスタンは「演技」でそういう風に歌っているのかと思っておりました。
クプファーとシャーヴァーノホのコンビを期待していたのですが、あの演目ではしょうがないと思いつつちょっとがっかりでした。
ヴェーゼンドンク歌曲集と比べていたり、牧童が実演ではどんな出番なのかなどなど、非常に散漫な楽しみ方をしておりました。
ルネ・パーぺは映画の「魔笛」ザラストロがいまいちだったのですが、マルケ王ははまり役ですね。また楽しみに読ませていただきます。
2007/10/18(木) 午後 8:29 [ - ]
euridice2604さん、ようこそ。Orpheus様?にもよろしく。
クプファー&シャーヴァーノホといえば、代表作は、88-92のバイロイトリングでしょうか。舞台裏から奥の倉庫へのスペースをぶち抜いて、奥行40m近くのハイウェイみたいな装置を作って、奥行きのある舞台上で、歌手たちを走り回らせていましたね。ヴァルキューレ1幕の幕切れでは、ジークリンデとジークムントが30mダッシュをしました。ジークムントを演じたペーターホフマンは、さすが元体操選手、舞台上にせりあがるフンディンクの家の屋根から、3メートル近いダイビングを披露しました。
今回のトリスタンは、舞台上の所作が非常にアスレティックなクプファーのテイストとは打って変わって、動きの少ない演出だったと思います。やはり、作品の性格でしょうか。音楽がすべてを語る作品なので、そういう意味では、よい演出だったと思います。ハイナ・ミュラーのバイロイトプロダクションも、我が国の能樂のような衣装、所作がとても静かで、悲しみが立ち上ってくるような舞台だったことを思い出します。
2007/10/18(木) 午後 9:46 [ kamata60 ]
早速ありがとうございました。バイロイトリングと前回のベルリン国立劇場のリングは同じような演出だったのでしょうか?あの「ジークフリート」のジェットエンジンのようなふいごが気に入っておりました。ミーメ役(名前失念)がやはり体育の先生出身だったかと。
ドイツ語が不自由なもので字幕を頼りにしていたのに、今回はとても見にくくて視力検査を強要されているようでした(席はやはり3階のkamata60様のちょっと後ろあたり?)。ご近所の方々もオペラグラスで字幕を見ておられました。原語で味わえるとそういう余分な作業なしでうらやましいです。また時々お邪魔させてくださいませ。ありがとうございました。
2007/10/18(木) 午後 10:56 [ euridice2604 ]