HKの音楽夜話

在京オーケストラの定期公演を中心に、コンサート、オペラのレビューを掲載します。

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読売日本交響楽団 芸劇名曲2009/11/28
指揮:ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー
ヴァイオリン=サーシャ・ロジェストヴェンスキー
メゾ・ソプラノ=坂本 朱
合唱=新国立劇場合唱団
シュニトケ:
リヴァプールのために【日本初演】
ヴァイオリン協奏曲第4番
オラトリオ〈長崎〉【日本初演】

かつてシェーンベルクが次のように語ったそうです。「グレの歌」が聴衆に歓ばれることは分かっていたと。また、ヴィーンの当時の興行主たちは、なぜ「浄夜」のような音楽をもっと書かないのかと彼に求めたと。真のクリエイターは、常に新しい独自のスタイルを求める。そういう野心が新しい芸術を生み出す原動力なのでしょう。

今日本邦初演された「長崎」は、シュニトケにとっての「グレの歌」。難解なところはない、リムスキー=コルサコフの著名なテキストブックから学んだのであろう輝かしいオーケストレーション、ストラヴィンスキーのリズム、プッチーニやラヴェルに見られるオリエンティシズム、c-mollとAs-durを中心とする分かりやすい調性感ではじめて聴いてもすっと入って来る音楽。「演奏効果」が非常に高い曲で、これからいろんな合唱団がレパートリーとして取り上げるんじゃないかな。新国コーラスは立派な演奏でした。途中変拍子が交錯するところでちょっとトラブルがありましたが、読響もすばらしかった。

サーシャ・ロジェストヴェンスキーがソロをつとめたコンチェルトは、作曲家がそういうスタイルの進化を求めた作品ですが、なかなかセクシーです。冒頭のg-c-d-eではじまる鐘のようなモチーフとそれに続くAs-durのコラールを中心に曲が組み立てられているようですが、チェンバロが入って、バロックコンチェルトのテイストを再構成した雰囲気。サーシャのソロが美しかった。

そして、シュニトケの最後の作品になるリヴァプール。これも日本初演。聴いたところ、冒頭のダイアトニックな金管コラールとその直後のホルンの短二度+跳躍音程という2つのモチーフを交互に変装していくというダブルヴァリエーションのスタイルで、ベートーヴェン第九のアダージョ楽章の様式ですね。病床で書いたとのことですが、もしシュニトケが元気なら、おそらくもっと手を入れていたであろうスケルトンのような作品。

さて、シュニトケは20th century classicsとなりうるか?クラシックとはその時々の聴衆の支持を得て、時代を越えて残っていく芸術作品。メンデルスゾーンはバッハを19世紀の聴衆に問い、その支持を得てバッハはクラシックとなったわけです。21世紀を生きる我々も、後世に残すクラシックが何であるかについて審判を下す立場。20世紀の作品では、すでにドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ショスタコヴィッチ、プロコフィエフ、バルトーク、コダーイ、ヤナーチェク、ブリテンあたりは20th century classicsとしての地位を確固たるものにしています。今日ロジェストヴェンスキーが紹介してくれたシュニトケは、ソ連崩壊前後からBISが積極的に録音し、クレーメルが各地で演奏してその名を広めていますが、我々はどう評価するか。ニューヨークの聴衆はちょっと保守的だから、クラシックを残すとすれば東京やロンドンの聴衆は大きな役割を担っていると思います。ぼくはそういうクラシックを後世に伝える役割を果たす能動的な聴衆の一人でありたいと思います。

月曜日のサントリーはさらに洗練された演奏になるでしょう。

東京都交響楽団第688回定期演奏会 Bシリーズ
2009年11月19日(木)サントリーホール
指揮:エリアフ・インバル
ソプラノ:半田美和子
ラヴェル:シェエラザード
マーラー:交響曲第4番ト長調

半田さん、とても美しい声で、所々にコケットを交えた素敵な歌ですが、歌詞が聴き取れません。サントリーホールは決して歌手に優しいホールではないと思いますが、例えば、マーラーの終楽章なんか、とても薄い伴奏のテクスチュアで決して歌がマスクされるわけではないんだけど、やはり聴き取れない。おそらく目の前で歌っていただいたら、うっとりするような歌なんだろうと思いますが、客席(ぼくはLCで聴いています)では、何を歌っているのか分からない。辛口ですみません。

で、シェエラザードは少々がっかりしました。「魔法の笛」でのすばらしいフルートソロ、クラリネットやコンマスのソロ、「アジア」での見事な木管アンサンブルなど、美しいと感じる瞬間はあるのだけれど、バックデスクまで含め、オケの皆さんがこの曲に心から共感して弾いているようには聴こえない。全体に淡白で、この曲が持っているセクシーな美しさが感じられなかった。ぼくの耳がおかしいのかもしれません。しかし、マーラーのシンフォニーであれほど濃厚な表現を聴かせるのだから、やはり演奏機会が少ないこの曲の場合は、音楽がオーケストラのものにまだなっていないのだろうかと感じた。

メインのマーラーは、これぞ「都響節」という、ねっとりした美しい、温度感の高い表現を堪能しました。少なくともオケについては。今夜の白眉はアダージョの弦楽だった。こういうバックデスクまで一体となった濃厚な表現が聴きたいから、ぼくは都響に通う。ただ、最初に書いたように、歌は自分のテイストでは淡白すぎると感じてしまう。

いつも拙い感想文を読んでいただいているプレイヤーの方々、失礼なことを書いてすみません。我が愛する都響への率直な思いです。お許しください。

新国立劇場「ヴォツェック」初日を見ました。出演者などはこちら: http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000189_2_opera.html

実によく考えられて、訴えるものが大きく、しかも視覚的にも美しい舞台だった。舞台とはいえ人の不幸を美しいというのは不謹慎かもしれないが、悲劇は美しい。正方形の舞台上は、全面にわたり、浅い水で覆われている。その上にヴォツェックの部屋であろう直方体の空間が宙に浮いていて、前後に動くという舞台構成。先々週のセミナーでのクリーゲンブルク氏の解説によると、舞台上の表象はヴォツェックの視点から見たものであるとのことなので、この空中を浮遊するヴォツェックの家は、同時にヴォツェックの内心を我々に見せてくれる窓でもあるのだろう。奥の壁に十字架上のイエスが描かれた小さな絵。その他にはいくつかの椅子と上方の小窓だけのシンプルな構成。

登場人物は、マリーと息子以外はすべてモンスターのように醜悪な外貌。大尉は超メタボリック。軍医は、ムキムキマンで変態SM風ボンデージ衣装。鼓手長、マルグレットなどを含め、みな白塗りの顔。これらすべてヴォツェックの視点からの主観を表現したものだろう。

注目すべきは、ヴォツェックの息子の扱い。冒頭、兵営で大尉の髭を剃る場面から最後まで、息子は出づっぱり。1幕2場から3場への移行は面白かった。ヴォツェックが"Ein Feuer! Ein Feuer!"と野火の幻影に怯えるところ(285-291小節あたり)で空中に漂うヴォツェックの部屋の暗闇からリチウムの炎色反応みたいな深紅の花火を手にしたマリーが現れ、そのまま3場に移行。ここは、ヴォツェックに取り憑く強迫観念(台本では軍医が"Idee Fixé"と呼ぶもの)についての演出家の解釈を示唆する重要な見せ場。社会的抑圧と貧困の中でヴォツェックが唯一愛情の対象、自分の存在意義の証とするものがマリーと息子であり、マリーの愛情を失うのではないかという恐れこそが彼のIdee Fixéだという解釈なのだろう。非常に説得力がある。

それから、黒いスーツの「黒子」たちの存在も面白い。1幕3場では、鼓手長は黒子たちがかつぐ板の上でポーズをとって軍隊行進。2幕4場の酒場のバンドが載るステージも黒子がかつぐ。池の鯉に餌づけするように、舞台進行のところどころでバケツに入った残飯が水面に撒かれると一斉に黒子がよってきて奪い合い、また四散する。クリーゲンブルク氏によると舞台設定は1820年代とのこと。ナポレオン戦争、ウィーン会議の直後。反動体制。ブルシェンシャフト運動の弾圧。戦争で疲弊しきった民衆。貧困。そうした時代背景の中での無名の民衆たちということなんだろう。

子供がヴォツェックの部屋の壁に黒ペンキで大書する文字、Geld(金)。ヴォツェックの部屋を下から支えている黒子たちの頭にも"Geld"のプレート。子供は、すべての場面に登場。鼓手長とマリーの不倫現場も、軍医にいたぶられるヴォツェックも目撃。やがて、両親と自分の置かれた状況を子供ながらに理解していき、3幕1場(マリーの祈り)では、壁に"Hure"(売女)と大書して、母親に対してこの忌むべきう言葉を浴びせる。貧困と抑圧が敬虔な人間の人格を歪め、悲劇が世代間で再生産されていく。

2幕4場。沼で溺れ死ぬヴォツェック。その後のニ短調の間奏曲の間中、舞台は暗転し、ヴォツェックの遺骸だけが沼の水の色のような青緑のスポットライトに照らし出される。息子がペンライトを持って登場し、父親の遺骸を検分する。暗転して最終場、暗闇からまた黒子が出てきたと思ったら、なんと黒子がみんな子供になっている。両親がいなくなった部屋、空中に漂う心もとない部屋。守ってくれる者がいない部屋に一人残された息子に子供の黒子たちが物を投げつける。貧困が人間性を損ね、世代を超えて受け継がれていくという、やるせない状況。だが、冒頭でも述べたように、ひたすら美しい。

待てよ、、、どこかで見たことがある。20年前にハリー・クプファーがバイロイトでやったリングの陰画(ネガティブ)じゃないか、これ。ジークフリートの葬送の場面、舞台上には英雄の遺骸だけが残されてスポットライト。幕切れは、悲劇の永劫回帰からの脱出を暗示するように、子供がペンライトで足下を照らしながらプロセニアムから飛び出て客席の方に去っていく。当時の新聞では、"Optimistische Tragödie"(楽観的なる悲劇)と評された。これの全く正反対が今回の演出。世代が変わっても悲劇の連鎖から抜け出せない社会状況。メッテルニヒ体制のヨーロッパだけに限ったことじゃない。我々が生きている今のこの国だって、同じ状況じゃないだろうか。暗澹たる思い。しかし、やはり悲劇は美しい。

それから、クリーゲンブルク氏も指摘されているのですが、母子とヴォツェックの関係、これは、聖マリアと主イエスの母子に対するヨゼフ(マリアの世俗の夫)の関係の陰画。新約聖書では、ヨゼフは自分の運命を粛々と受け入れるわけだが、そこで語られない「ヨゼフの葛藤」というのも興味深いモチーフだ。

音楽について。新国の初日はいつもこんなものだ。冒頭はどうなるんだろうかと心配になった。いきなりはずす管楽器。オケはみな不安そう。2幕1場の60小節あたり、マリーの" 'sist gewiss Gold"が出てこない。伴奏は1小節先に進んでしまう。別に合わせるのが難しいところでもないと思うが、初日はやはりこういう事故が起こる。ああこんなもんかと思っていたら、3幕は気合いが入っていて美しい。聖書のパリサイ人のくだりを朗読する場面とか、マリーの殺害直前の伴奏の美しさ、ニ短調のインターリュードのエモーショナルな盛り上がり。ぼくの想像だが、限りあるリハーサル時間を3幕に集中したんじゃないだろうか。明らかに前半と音楽の完成度が違う。2幕の合唱は立派。560小節からの"Ein Jäger aus der Pfalz..."のぶつかる音程(des-es-ges-as)の美しさ。さすが新国コーラス。これから見に行く方々、新国はいつもそうですが、日を追ってよくなっていくと思います。

最後にもう一度。悲劇は美しい。よい舞台だった。

さきほどN響アワーでリサ・バティアシュヴィリのショスタコが放送されました。改めてすごい。1月の日記( http://blogs.yahoo.co.jp/kamata60/archive/2009/01/10 )で絶賛したが、印象は全く変わらない。彼女のあの広いNHKホールに響き渡る鈴が鳴るようなハイトーンはテレビでは再現できないが、厳しくも美しい、電気が走るような音楽は十分に楽しめた。西村さんもたまげておられたが、そうだろう。あの日の会場ではほとんどの人がたまげた。

年明けに始まる2009年ベストソリスト投票の最右翼だろう。ひっぱりだこで忙しいんだろうが、来年も呼んでほしい。もう何年も先までエンゲージメントがつまってるんだろうなあ。。。

昨日、新国立劇場のオペラトーク「ヴォツェック」を聴いてきた。お話は、指揮のハルトムート・ヘンヒェン氏、演出のアンドレアス・クリーゲンブルク、進行は東京大学の長木誠司氏。

クリーゲンンブルク氏は、今回の演出意図について、舞台上にある人、物、できごとはすべてヴォツェックの視点から見たものだと説明した。ヴォツェックにとって美しく見えるのはマリーと子供だけで、他の人物はすべて醜悪で怪物のように見えるらしい。それから舞台前面には水が配置されるとのこと。最近、新国立劇場では水を使った演出が多いのでまたかといわれそうですが、、、と前置きしたところで会場から笑い。そういえば、オテロもそうだった。そして、舞台進行には「黒子」が活躍するらしい。彼の話を総合すると、貧困と社会階層による悲劇の再生産と“No Exit”というのがテーマのようだ。ちょっとペシミスティックだがまあしょうがないか。今回のプロダクションはバイエルン州立オペラとの共同制作で、すでにミュンヒェンでは公開されている。その映像を見る限り、非常におもしろそうだ。

ヘンヒェン氏は、作品の音楽的特徴について解説。おもしろかったのは、アトーナルな音楽が支配する中で、2幕1場で全曲を通じただ一度だけC-durの主和音が出てくる箇所、ヴォツェックがマリーに給料を渡す場面(116-124小節)だが、ここについて、ヴォツェックは、家族に貧乏で不自由な思いをさせていることに常々罪悪感を感じており、お金を渡す瞬間だけ彼はそういうストレスから開放されるんだという解釈を述べておられたところ。なるほど、そういう見方もあるわけだ。

ベートーヴェンの第6シンフォニー、シューマンのガイベルによる3つの歌op.30、シュトラウスのサロメなどからの引用についても解説があった。ベートーヴェンとサロメはすぐ分かるが、シューマンはこれまで気づいたことがなかった。どこなんだろう??

バロックの舞踊組曲、パッサカリア、フーガ、ソナタなど厳格な楽式が、断片的なエピソードを並べたような台本にドラマとしての一体感を与えているというのは、いろんな研究者が指摘し、また我々聴き手も直感するところ。歌唱法については、シェーンベルクが創始したSprechgesangをさらに発展させ、ヘンヒェン氏によると、語りと歌との間に4段階の表現があるという。彼の言葉をそのまま使うと、1 sprechen, 2 etwas gesungen, 3 halb gesungen, 4 ganz gesungen ということらしい。こうしたsprechenのテクニークを使うのは登場人物の中でもいわゆる下層階級に属するキャラクターだけだという指摘はおもしろい。恥ずかしながら今まで見過ごしていた。

音楽の例示として、1幕3場のヴォツェックとマリーの場面(363-483小節)、1幕5場の鼓手長とマリーの場面(666小節から幕切まで)、3幕2場のマリー殺害場面(73-108小節)が演奏された。演奏は、今回アンダースタディに入っている萩原潤、並河寿美、成田勝美の3氏、ピアノは小埜寺美樹さん。ほんの数メートルの距離で聴くと、みなさんすごい声だ。プロフェッショナルというのは、我々の想像をちょっと超えるところで仕事をしている。これだけのメンバーをアンダースタディにしているのはすごくないだろうか。新国は、呼ぶ歌手についてはすごいと思う。その本番歌手たちも後ろの方の席で興味深そうに聴いておられた。

最後にヘンヒェン氏から、いかがでしょう、美しい音楽ですね、シュトラウスやヴァーグナーなど後期ロマン派の音楽をお聴きになるつもりでお越し下さい(のような意味)の発言があった。賛成。むずかしく構えなくても、この音楽、直感的に美しいと思う。

いつものようにホワイエで行われたが、ほぼ満席。200人くらいの人が来ていただろうか。

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