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NHK交響楽団第1634回定期公演 Aプログラム
12月6日 | 土 | 開演 6:00 PM NHKホール
ストラヴィンスキー / バレエ音楽「ミューズの神を率いるアポロ」
ストラヴィンスキー / オペラ・オラトリオ「エディプス王」
指揮|シャルル・デュトワ
出演|エディプス王: ポール・グローヴズ
出演|ヨカスタ: ペトラ・ラング
出演|クレオン/伝令: ロベルト・ギェルラフ
出演|ティレシアス: デーヴィッド・ウィルソン・ジョンソン
出演|羊飼い: 大槻 孝志
出演|語り: 平 幹二朗
合唱|東京混声合唱団
今年のAプロは聴き応えある重量級が揃っていますが、中でも楽しみにしていたのがこれです。決してポピュラーなレパートリーではないので、営業的には大変だろうによく載せてくれたと思います。さすがNHK。超人気演目のCプロに振り替えた会員も多いのか、少し空席がありました。
「アポロ」は、やや薄いかと思うくらい透明感あるテクスチュア、抑制気味の表現で、上品な演奏だったと思います。神話が題材のバレエなので、ごてごてと濃厚なスタイルよりも、新古典的な様式美の中に、ところどころ美しい歌い回しにはっとするようなこういう演奏が自分は好きです。カリオペのヴァリアシオンでの木越さんのソロ(Boosey&Hawkes総譜のfig.41-42)が少しトゥッティとずれた他は、非常に精緻なアンサンブルでした。
第二景(アポロンのヴァリアシオン)、篠崎さんの気品あるカデンツァの後、大宮さんとのデュオ(fig.21-22)、二度音程とその解決がつくりだす衣擦れのようなサウンドが美しかったです。全体にやや速めのテンポの中で、テルプシコレとのパ・ド・ドゥの嫋々とした歌が静かなクライマックスでした。こういう、こけおどしが一切なくて清楚に上品に聴かせる演奏、いいですね。
「エディプス」は、グローヴズの立派な歌に圧倒されました。正確な音程、正確なイントネーション、折り目正しい表現といった様式美の中から悲劇性が巧まずして立ち上ってくるすばらしい歌唱でした。”Liberi, vos liberabo“ (B&H fig.16) での自信あふれる王の威厳と、”Natus sum quo nefastum est,“(fig.168)、そして”Lux facta est!“(fig.169)の静かな悲しみとのコントラストが見事。
ちょっと能楽の様式美を思いました。仮面の表情は変わらない。変わらないが故に、鑑賞する者のファンタジーの中で自由にその表情を変えていく。そういう逆説的な表現方法がここにあります。ひとつだけ気になったのは、ここでの弦楽三連符と木管二つ割りとの音価の違いが曖昧だったこと。あえて慟哭を避けて、端正な様式の中でドラマを表現しようとするのなら、ここは正確に弾いてほしいと思いました。
ヨカスタのラングさんは、"Nonn' erubeascite, reges,"のしっとりした深い音色はさすがですね。fig.103の"Oracula, Oracula,"は、オーケストラとちょっとずれましたが、禍々しい雰囲気は出ていました。fig.121 アジタートの"Oracla mentitur"はややもたつきましたか。ここは難しいですね。津堅さんチームの上行パッセージ、ぴたっと決まっていました。
クレオンのギェルラフさんは、もう少し声が通ればと思います。ティレシアスのウィルソン・ジョンソンさん、さすがですね。ドラマが大きく展開する場面での重みのある歌唱でした。大槻さんのシェファードは立派。はじめて聴きましたが、あとほんの少し母音と次の子音のつながりをスムーズにしてレガートに歌えれば、ものすごく立派な歌になると思います。大槻さんのお名前はよくよく覚えておきます。
全体的に歌を聴かせるために、デュトワ氏は、オーケストラをかなり抑えていたようですが、最後の”Ecce! Regem Oedipoda,“(fig.197)の合唱ではしっかりとクライマックスをつくるのはさすが。東京混声合唱団は、終始立派な歌でした。
みなさんBraviでした。
細かいところですが、エディプスの"Clarissimus Oedipus, polliceor divinabo"の後、コントラバスがes音を伸ばし続ける上にかぶさるナレーション、ジャン・コクトーのオリジナルでは、"L'assassin du roi est un roi"の最後の4つのシラブル"roi est un roi"が9/8拍子八分音符4つにリズムを割り当てられていて、語りのリズムがそのまま次のコントラバス上行音型のリズムにつながって劇的緊張を高めますが、さすがに日本語訳ではシラブルを合わせられないようですね。平幹二朗さんの語りはとても雰囲気がありました。
ところで、今月の「フィルハーモニー」で永野純子さんが述べておられますが、 ストラヴィンスキーは、聴衆はラテン語の歌詞を理解できないことを前提にこの曲を書いているようです。反対に、ドラマの進行を説明する語り手は、上演される場所の現地語で話すのが演奏慣習(performing convention)になっているようです。確かに、昔ロンドンで聴いた時には英語でした。Boosey&Hawkesの総譜でも、冒頭にフランス語、英語、ドイツ語の3つの言語で語り手のセリフが印刷されています。 ストラヴィンスキーは、語りで物語の進行を聴衆に理解させつつ、歌詞をラテン語にすることによって、聴衆が歌詞よりも音楽の力に集中してくれることを希望したようです。
私は、歌詞をラテン語にしたもうひとつの理由として、非常にグロテスクな内容を描写をラテン語という非日常化された言語で語ることで、古典の様式美を守り、ヴェリズモ的な扇情に墜することを避ける意図もあったんじゃないかと想像します。
ということは、舞台両袖の字幕電光掲示は、作曲者の意図には反するのでしょうか?歌っている内容が詳細に理解できた方がいいというお客さんもたくさんいらっしゃるだろうから一概には言えませんね。
コクトーの語りの中に、次のようなセリフがあります。
"Laius a e'te' assassine' par des voleurs au carrefour des trois routes de Daulie
et de Delphes. Trivium! Carrefour! Retenez bien ce mot. "
「ライウスは、ドーリスからデルフィに至る道の三叉路で盗賊に殺されました。
トリヴィウム、三叉路。この言葉をよく心に留めて下さい。」(私訳)
このようにTrivium(三叉路)というラテン語の単語がキーワードになることについて、聴衆に注意を喚起しています。そして続く音楽では、エディプスがもしやと不安に駆られていく歌のバックでコーラスが"Trivium, Trivium"と印象的なこの言葉を繰り返します。こういう風に、語りが音楽を聴く上でのポイントも解説してくれているので、もしかしたら、字幕に気を取られるよりも、わけのわからない言葉で歌う声を含めた音楽で悲劇の雰囲気を味わうのが作曲者の意図に沿っているのかもしれません。
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