HKの音楽夜話

在京オーケストラの定期公演を中心に、コンサート、オペラのレビューを掲載します。

新国立劇場

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新国立劇場「ヴォツェック」初日を見ました。出演者などはこちら: http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000189_2_opera.html

実によく考えられて、訴えるものが大きく、しかも視覚的にも美しい舞台だった。舞台とはいえ人の不幸を美しいというのは不謹慎かもしれないが、悲劇は美しい。正方形の舞台上は、全面にわたり、浅い水で覆われている。その上にヴォツェックの部屋であろう直方体の空間が宙に浮いていて、前後に動くという舞台構成。先々週のセミナーでのクリーゲンブルク氏の解説によると、舞台上の表象はヴォツェックの視点から見たものであるとのことなので、この空中を浮遊するヴォツェックの家は、同時にヴォツェックの内心を我々に見せてくれる窓でもあるのだろう。奥の壁に十字架上のイエスが描かれた小さな絵。その他にはいくつかの椅子と上方の小窓だけのシンプルな構成。

登場人物は、マリーと息子以外はすべてモンスターのように醜悪な外貌。大尉は超メタボリック。軍医は、ムキムキマンで変態SM風ボンデージ衣装。鼓手長、マルグレットなどを含め、みな白塗りの顔。これらすべてヴォツェックの視点からの主観を表現したものだろう。

注目すべきは、ヴォツェックの息子の扱い。冒頭、兵営で大尉の髭を剃る場面から最後まで、息子は出づっぱり。1幕2場から3場への移行は面白かった。ヴォツェックが"Ein Feuer! Ein Feuer!"と野火の幻影に怯えるところ(285-291小節あたり)で空中に漂うヴォツェックの部屋の暗闇からリチウムの炎色反応みたいな深紅の花火を手にしたマリーが現れ、そのまま3場に移行。ここは、ヴォツェックに取り憑く強迫観念(台本では軍医が"Idee Fixé"と呼ぶもの)についての演出家の解釈を示唆する重要な見せ場。社会的抑圧と貧困の中でヴォツェックが唯一愛情の対象、自分の存在意義の証とするものがマリーと息子であり、マリーの愛情を失うのではないかという恐れこそが彼のIdee Fixéだという解釈なのだろう。非常に説得力がある。

それから、黒いスーツの「黒子」たちの存在も面白い。1幕3場では、鼓手長は黒子たちがかつぐ板の上でポーズをとって軍隊行進。2幕4場の酒場のバンドが載るステージも黒子がかつぐ。池の鯉に餌づけするように、舞台進行のところどころでバケツに入った残飯が水面に撒かれると一斉に黒子がよってきて奪い合い、また四散する。クリーゲンブルク氏によると舞台設定は1820年代とのこと。ナポレオン戦争、ウィーン会議の直後。反動体制。ブルシェンシャフト運動の弾圧。戦争で疲弊しきった民衆。貧困。そうした時代背景の中での無名の民衆たちということなんだろう。

子供がヴォツェックの部屋の壁に黒ペンキで大書する文字、Geld(金)。ヴォツェックの部屋を下から支えている黒子たちの頭にも"Geld"のプレート。子供は、すべての場面に登場。鼓手長とマリーの不倫現場も、軍医にいたぶられるヴォツェックも目撃。やがて、両親と自分の置かれた状況を子供ながらに理解していき、3幕1場(マリーの祈り)では、壁に"Hure"(売女)と大書して、母親に対してこの忌むべきう言葉を浴びせる。貧困と抑圧が敬虔な人間の人格を歪め、悲劇が世代間で再生産されていく。

2幕4場。沼で溺れ死ぬヴォツェック。その後のニ短調の間奏曲の間中、舞台は暗転し、ヴォツェックの遺骸だけが沼の水の色のような青緑のスポットライトに照らし出される。息子がペンライトを持って登場し、父親の遺骸を検分する。暗転して最終場、暗闇からまた黒子が出てきたと思ったら、なんと黒子がみんな子供になっている。両親がいなくなった部屋、空中に漂う心もとない部屋。守ってくれる者がいない部屋に一人残された息子に子供の黒子たちが物を投げつける。貧困が人間性を損ね、世代を超えて受け継がれていくという、やるせない状況。だが、冒頭でも述べたように、ひたすら美しい。

待てよ、、、どこかで見たことがある。20年前にハリー・クプファーがバイロイトでやったリングの陰画(ネガティブ)じゃないか、これ。ジークフリートの葬送の場面、舞台上には英雄の遺骸だけが残されてスポットライト。幕切れは、悲劇の永劫回帰からの脱出を暗示するように、子供がペンライトで足下を照らしながらプロセニアムから飛び出て客席の方に去っていく。当時の新聞では、"Optimistische Tragödie"(楽観的なる悲劇)と評された。これの全く正反対が今回の演出。世代が変わっても悲劇の連鎖から抜け出せない社会状況。メッテルニヒ体制のヨーロッパだけに限ったことじゃない。我々が生きている今のこの国だって、同じ状況じゃないだろうか。暗澹たる思い。しかし、やはり悲劇は美しい。

それから、クリーゲンブルク氏も指摘されているのですが、母子とヴォツェックの関係、これは、聖マリアと主イエスの母子に対するヨゼフ(マリアの世俗の夫)の関係の陰画。新約聖書では、ヨゼフは自分の運命を粛々と受け入れるわけだが、そこで語られない「ヨゼフの葛藤」というのも興味深いモチーフだ。

音楽について。新国の初日はいつもこんなものだ。冒頭はどうなるんだろうかと心配になった。いきなりはずす管楽器。オケはみな不安そう。2幕1場の60小節あたり、マリーの" 'sist gewiss Gold"が出てこない。伴奏は1小節先に進んでしまう。別に合わせるのが難しいところでもないと思うが、初日はやはりこういう事故が起こる。ああこんなもんかと思っていたら、3幕は気合いが入っていて美しい。聖書のパリサイ人のくだりを朗読する場面とか、マリーの殺害直前の伴奏の美しさ、ニ短調のインターリュードのエモーショナルな盛り上がり。ぼくの想像だが、限りあるリハーサル時間を3幕に集中したんじゃないだろうか。明らかに前半と音楽の完成度が違う。2幕の合唱は立派。560小節からの"Ein Jäger aus der Pfalz..."のぶつかる音程(des-es-ges-as)の美しさ。さすが新国コーラス。これから見に行く方々、新国はいつもそうですが、日を追ってよくなっていくと思います。

最後にもう一度。悲劇は美しい。よい舞台だった。

昨日、新国立劇場のオペラトーク「ヴォツェック」を聴いてきた。お話は、指揮のハルトムート・ヘンヒェン氏、演出のアンドレアス・クリーゲンブルク、進行は東京大学の長木誠司氏。

クリーゲンンブルク氏は、今回の演出意図について、舞台上にある人、物、できごとはすべてヴォツェックの視点から見たものだと説明した。ヴォツェックにとって美しく見えるのはマリーと子供だけで、他の人物はすべて醜悪で怪物のように見えるらしい。それから舞台前面には水が配置されるとのこと。最近、新国立劇場では水を使った演出が多いのでまたかといわれそうですが、、、と前置きしたところで会場から笑い。そういえば、オテロもそうだった。そして、舞台進行には「黒子」が活躍するらしい。彼の話を総合すると、貧困と社会階層による悲劇の再生産と“No Exit”というのがテーマのようだ。ちょっとペシミスティックだがまあしょうがないか。今回のプロダクションはバイエルン州立オペラとの共同制作で、すでにミュンヒェンでは公開されている。その映像を見る限り、非常におもしろそうだ。

ヘンヒェン氏は、作品の音楽的特徴について解説。おもしろかったのは、アトーナルな音楽が支配する中で、2幕1場で全曲を通じただ一度だけC-durの主和音が出てくる箇所、ヴォツェックがマリーに給料を渡す場面(116-124小節)だが、ここについて、ヴォツェックは、家族に貧乏で不自由な思いをさせていることに常々罪悪感を感じており、お金を渡す瞬間だけ彼はそういうストレスから開放されるんだという解釈を述べておられたところ。なるほど、そういう見方もあるわけだ。

ベートーヴェンの第6シンフォニー、シューマンのガイベルによる3つの歌op.30、シュトラウスのサロメなどからの引用についても解説があった。ベートーヴェンとサロメはすぐ分かるが、シューマンはこれまで気づいたことがなかった。どこなんだろう??

バロックの舞踊組曲、パッサカリア、フーガ、ソナタなど厳格な楽式が、断片的なエピソードを並べたような台本にドラマとしての一体感を与えているというのは、いろんな研究者が指摘し、また我々聴き手も直感するところ。歌唱法については、シェーンベルクが創始したSprechgesangをさらに発展させ、ヘンヒェン氏によると、語りと歌との間に4段階の表現があるという。彼の言葉をそのまま使うと、1 sprechen, 2 etwas gesungen, 3 halb gesungen, 4 ganz gesungen ということらしい。こうしたsprechenのテクニークを使うのは登場人物の中でもいわゆる下層階級に属するキャラクターだけだという指摘はおもしろい。恥ずかしながら今まで見過ごしていた。

音楽の例示として、1幕3場のヴォツェックとマリーの場面(363-483小節)、1幕5場の鼓手長とマリーの場面(666小節から幕切まで)、3幕2場のマリー殺害場面(73-108小節)が演奏された。演奏は、今回アンダースタディに入っている萩原潤、並河寿美、成田勝美の3氏、ピアノは小埜寺美樹さん。ほんの数メートルの距離で聴くと、みなさんすごい声だ。プロフェッショナルというのは、我々の想像をちょっと超えるところで仕事をしている。これだけのメンバーをアンダースタディにしているのはすごくないだろうか。新国は、呼ぶ歌手についてはすごいと思う。その本番歌手たちも後ろの方の席で興味深そうに聴いておられた。

最後にヘンヒェン氏から、いかがでしょう、美しい音楽ですね、シュトラウスやヴァーグナーなど後期ロマン派の音楽をお聴きになるつもりでお越し下さい(のような意味)の発言があった。賛成。むずかしく構えなくても、この音楽、直感的に美しいと思う。

いつものようにホワイエで行われたが、ほぼ満席。200人くらいの人が来ていただろうか。

新国立劇場「オテロ」
配役等は、http://www.atre.jp/09otello/

10/3(sat)の公演を見ました。

まず舞台と演出について。舞台設定は、19世紀風のヴェネツィア。演出のマルトーネ氏は、プログラムノートで、「オペラを演出する際には、小道具や衣装のスタイルを台本の時代設定に合わせるよりも、『作曲された年代』に合わせたい」と語り、また、「今回の舞台装置が表すのはヴェネツィアという街の空間ですが、それはオテロの心の中の都市であり、あたかも蜘蛛の巣が張っているかのような、迷宮としてのヴェネツィアなのです」とその意図を説明します。嫉妬と羨望が妄想と悪意を生み、そういう感情の連鎖がヤーゴからロデリーゴへ、そしてオテロへと感染し、周囲のパペットを巻き込んで、ついには信頼と従順と善意の権化であるデズデモナを含め、すべての人々に破滅をもたらしてしまうというテーマはそれ自体、時代や場所をこえて普遍的な悲劇であって、舞台設定を敢えて変更してそうした悲劇の普遍性を検証するというレギーテアターの試み自体には自分も多いに興味がありますが、もっと抽象的な時代/場所の設定ならまだしも、19世紀のヴェネツィアという必然性は自分には感じられませんでした。特に、原作の舞台である15世紀のキプロスといえば、ビザンチンが崩壊した直後、オスマンに対抗してヴェネツィアの制海権と生存を守る最前線として、今日の我々が想像もできないような緊張感に包まれていた場所であって、そこに生きる人間もまた、明日なき運命を日常としていたはず。そういう歴史的背景を切り捨てる必然性はあるのかな?

唯一印象に残ったのは、2幕のコーラス “Dove guardi splendono raggi, ...” の背景で、照明が舞台全体に波紋の動きを投影する中でデズデモナが太もももあらわにセダクティヴな情婦のパントマイムを演じ、ヤーゴの言葉によるオテロの妄想が表象される場面。

次に音楽について。デズデモナのイヴェーリさんは、フォーカスのしっかりした美しい声でした。アヴェマリアの最後の弱音はすばらしかった。オテロのグールド氏も、破綻なく堂々と聴かせました。ちょっとスケールが小さいかなと思いますが、後に述べるように、ヤーゴのキャラクターを中心に据えた演出だから、等身大のヒーロー、しかもヤーゴの奸計にからめとられる神ならぬ身、生身の人間ということで、これでいいのでしょう。この夜の主役だったヤーゴについては、後に述べます。エミリアを加えた2幕のクワルテットやファルスタッフを思わせる3幕の速いアンサンブルはお見事でした。

フリッツァ氏率いる東フィルは、好演だったと思います。圧倒的な雄弁さというわけではないけれども、堅実な伴奏で、立派なヴェルディの音楽自体が十分に語っていたんじゃないでしょうか。あちこちで東フィルの演奏がまずかったといった評を目にしましたが、「新国の法則」というのがあって、プレミエがだめでも、公演を重ねるごとにアンサンブルはしまってくるように感じます。だから自分は事情が許す限り後ろの方の日付を買うようにしています。合唱はあいかわらず立派でした。プロセニアムの前でかたまって歌っていたこともあり、冒頭の合唱は圧倒的な迫力だったし、いくつかのコンチェルタートはソロとのバランスがばっちりでした。

非常に興味深かったのはヤーゴの役づくり。悪役のイメージとは違う、折り目正しく端然とした歌唱でしたが、ここがマルトーネ氏がいちばん訴えたかったポイントじゃないでしょうか。

19世紀のニューヨークで活躍したシェイクスピア俳優であるエドウィン・ブース(http://en.wikipedia.org/wiki/Edwin_Booth)はヤーゴの役づくりについて次のようにに語ったそうです。(手元にあるPenguin版シェイクスピア全集にケネス・ミュアー氏が書いている解題からの受け売り孫引きですが。。。)

"... try to impress even the audience with your sincerity ... Iago should appear to
be what all but the audience believe he is.“

そうなんです。ヤーゴが”scellerato“であると知っているのは、観客だけなんですよ。舞台にいるほかの主役たちにとってヤーゴが明らかにscelleratoであったならば、そんなのにだまされるわけはありませんね。こういう演劇的パラドックスをどう処理するか、どう演出するか、どう演じるかが舞台の面白さなのかもしれません。よく考えてみると、ドン・ジョヴァンニは”galant’uomo“(レポレッロの証言)なんです。だからこそ、エルヴィーラは彼に首ったけになり、ツェルリーナがほろっと心動かさ、アンナも貞節をぐらっとさせてしまう。さらにいえば、スカルピアはほとんどのローマ市民にとっては立派な紳士なんですよ。

もう一つ、さらにことをややこしくするパラドックスが。。。ヤーゴ自身は、”Son scellerato perche son uomo“ (直訳すると、"I am villain because I am a man."「自分は人間であるが故に悪者だ」)と語ります。しかし、彼自身が語るように劣悪な遺伝子から発生した生まれながらのscelleratoだとすれば、彼は自分自身を相対化/客体化した言葉でそのことを語ることはできないはず。さらに、彼は、”Credo in un Dio crudel... “と語りますが、クレドという強い信仰を告白することばを使わなければ自分のscelleratoなアイデンティティを語れないこと、あるいは残されたひとかけらの善意を否定できないこと自体、彼が生まれながらのscelleratoではないことの証左ではないでしょうか。

このドラマは主要な登場人物すべてに破局をもたらすわけですが、その中でも最も悲劇的なのはヤーゴではないでしょうか。嫉妬と羨望が悪意を生み、その悪意を自分でコントロールできなくなる。ひとかけらでも善意が残っている人間にとっては耐えられない自己分裂です。そこで彼はクレドまで持ち出し、自分自身を欺瞞する。それこそが、悲劇です。

マルトーネ氏とルチオ・ガッロ氏によるヤーゴのプロジェクションは、ヤーゴが本来は普通の人間であったこと、普通の人間の人格を分裂させるような悲劇が彼の人格の中でおこっていることを我々に訴えているような気がします。ここは切ないなと感じました。

ロッシーニ:チェネレントラ
2009年6月10日(火)新国立劇場

ロッシーニは理屈抜きに楽しい。今夜はすごい歌手が揃って、歌唱については満足。とくにシラグーザの柔らかく暖かい音色と正確な音程、技術は圧倒的。2幕の大アリア“Se fosse in grembo a Giove”、完璧なアジリタと4回の輝かしいトップCをきっちり決め、満場のブラーヴォに応えて “Dolce speranza”からカバレッタの最後までをアンコールの大サービスで再度満場のブラーヴォ。こんなサービスができるのもロッシーニならでは。カサロヴァは、低域のハスキーな音色にちょっとクセがあるが、豊麗な胸声がびんびん来て、ちょっと乾いたアジリタが小気味よい。演技が上手なアンサンブルの中でも特にマニフィコのシモーネは出色。ブッフォな声じゃなく、むしろ音色自体はプレーンだが、声色(こわいろ)の変化、スピードの変化、豊かな音量と正確な発声で変幻自在な表現の幅がすごい。そうした中で、ダンディーニを演じたカンディアは、ちょっとアジリタが滑り気味で、歌唱全体にアバウトな印象を受けた。クロリンダの幸田さん、なかなかの美声で、ほかのスーブレットを見てみたい。言葉のキレが小気味よい14番の六重唱など、アンサンブルは美しかった。合唱も好演。

オーケストラは、重い。ロッシーニ独特のシャンパンの泡がパチパチはじけるような軽妙なリズム感がなく、ガスが抜けてべとっとした発泡酒。シンフォニアから冒頭の二重唱は、どうにも重ったるく、一体この先どうなることかと心配したが、劇が進行するにつれて、そこそこにまとめてきた。2幕は重いながらもそこそこ聴けた。指揮者にブーイングが出たのもしょうがないだろう。

ところでこのプロダクション、「新制作」なんて麗々しく書いてあるが、30年近く前にミュンヒェンのナツィオナルテアターで初演されたものの再演出。べつにいいじゃないですか。借りてきて制作費を安くして、その分豪華な歌手を揃えたのもひとつの見識。

とにかく、楽しかった。こんなにすばらしい歌手陣でロッシーニを聴けて、最高。

出演者等は、以下の通り。
【指 揮】デイヴィッド・サイラス
【演出・美術・衣裳】ジャン=ピエール・ポネル
【再演演出】グリシャ・アサガロフ
【演技指導】グリシャ・アサガロフ/グレゴリー・A.フォートナー
【ドン・ラミーロ】アントニーノ・シラグーザ
【ダンディーニ】ロベルト・デ・カンディア
【ドン・マニフィコ】ブルーノ・デ・シモーネ
【アンジェリーナ】ヴェッセリーナ・カサロヴァ
【アリドーロ】ギュンター・グロイスベック
【クロリンダ】幸田 浩子
【ティーズベ】清水 華澄
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

2009年5月21日
新国立劇場「白鳥の湖」
出演者等は http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000086_2_ballet.html

「白鳥の湖」という演目は、新国立劇場のお客さんの層ががらっと華やかになります。ヴァーグナーをやる日の、あのヲタク風のむさくるしい雰囲気とは大違いで同じ劇場とは思えない。高校生の女の子たち、おそらく駆け出しのバレエダンサーであろう恐ろしくスタイルのいい女性たち、小さな女の子を連れたおしゃれなお母さんたち。何だか、ヒゲおじさんの自分が一人でうろうろしているのが場違いに思えます。

表現がやや淡白で大柄なザハロワさん、オデットに似合っているんじゃないでしょうか。この演目で自分の一番好きな箇所、2幕のソロ、ロン・ド・ジャンブ・アン・レールからポワントでワーキングレッグを180度に直立させるところなど、何とも格調高い、香り立つような踊りです。その前のパ・ド・ドゥでの腕を支えられたアラベスクからの深いプリエも、長い手足がさらにすーっと伸びていくようで、この人ならではの美しさがある。一方、オディールはややクィックネスが足りない感じで、2つの役の表現の違いが際立たない印象を受けました。しかし、格調高いオデットで十分満足です。

コール・ド・バレエは立派。よくもここまで脚、肩、腕、首の角度、タイミングまでビシッと揃えられるもんだと感心します。パ・ド・ドゥの中間部に入るところ、木管がシンコペーションのリズムを刻み始める所ですが、そこまで上手下手に分かれてじっとしていたコールが一斉に後ろ向きのタンルベで動き出すその直前、24人のするどい衣擦れの音とともに舞台から空気が動く。ソロダンサーもコールもすばらしい時のあの瞬間は、ぞくっとする。

東フィルはいただけなかった。とりあえず合わせたという感じで表現が平板、ソロは弱いし音程も悪い。ヴァルキューレではなかなかの好演でしたが、先日のライモンダで健闘した東響との出来映えの差がはっきりしてきたような気がします。がんばってほしい。

大詰めの解釈は昔から議論があるところです。この舞台の下敷きとなったマリンスキーの現行演出(プティパ/イワノフ/セルゲーエフ版)では、ロートバルトが翼をもぎ取られ、オデットとジークフリートはめでたく結ばますが、今回の牧改訂版は、ロートバルトの消え方をややマイルドにするも、ハッピーエンドは同じ扱い。自分の好みに過ぎませんが、ドラマとして軽い気がします。音楽が最後の木管の刻みとハープのアルペジオが入ってくるところで長調に変わり、はっきりと異次元にトランスフォームしているのと齟齬するような気がします。ここは来世にしてほしい。どうだろう?

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