HKの音楽夜話

在京オーケストラの定期公演を中心に、コンサート、オペラのレビューを掲載します。

新国立劇場

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〜壁、扉、鍵、解放、救済〜

新国立劇場「ムツェンスク郡のマクベス夫人」
スタッフ/キャストは http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000059_2_opera.html

爽やかな5月の空気とはおよそ不似合いな陰惨な作品。しかし、舞台がはねた帰り道は、不思議な清涼感。

1幕3場、カテリーナが「仔馬は母馬のところに急ぎ、仔猫は母猫を求め..」と美しいアリオーゾを歌う直前、弦のシンコペーテッドリズムの上で、「あるのは壁と、そして鍵のかかった扉。」と歌います。(ロシア語のフォントを出せないので訳詞ですみません。)この詩節がこのプロダクションを読み解く鍵です。カテリーナも、ボリスも、ジノーヴィも、それぞれ「壁と鍵のかかった扉」に閉じ込められた捕囚なのでしょう。ジノーヴィは性的不能というコンプレックスの捕囚であり、ボリスは老いのために体が心の言うことをきかなくなったもどかしさの捕囚であり、カテリーナは逆に健康すぎて心が制御できない官能の捕囚です。舞台装置も1幕から3幕までは天井まで届く高い壁と扉で仕切られた寝室、居間、事務室がそれぞれこの3人の「心の檻」の表象であるかのように、本当は心を通わせたい人々の間に立ちはだかるようです。仕切られた空間はそれぞれ広くなったり狭くなったりします。例えば、ボリスを殺害した後、2幕4場と5場の間のパッサカリアのところでは、カテリーナの寝室の壁紙がぱあっと張り替えられて、彼女の刹那的な満足感を象徴するかのように部屋は明るくなり、広くなります。しかし、やはり壁と扉で仕切られた閉じられた空間であることに変わりはありません。

各幕それぞれの群衆処理もやはり閉じられた空間を意識させるものとなっていて、狭い場所に多くの人がつめこまれたり、3幕7場警察署の場面では、署長を取り囲む署員たちもまた、レジーム側の人間であるにもかかわらずやはり閉じられた空間から外に出たいという願望を我々に示すかのように、壁に向かって整列します。4幕、シベリアへの徒刑の場面は、仕切られた部屋にかわって舞台上には囚人たちを乗せるトラックの箱形荷台が男囚用、女囚用に2つ現れます。

大詰め、舞台最前景に出たカテリーナが「森の奥に黒い湖がある...」と歌う場面では、囚人たちがいる後景が暗転する一方で舞台前面を正方形に明るく照らし出すスポットライトの光束の中に彼女が囲い込まれます。セルゲイにも裏切られ、彼女の「心の檻」はいよいよ身動きもできないほど小さくなってしまったということなのでしょう。彼女はさらに前方に進み出て、いつもはプロンプターがいる場所に設けられたセリからソニェートカとともに奈落に沈んで幕となります。

実は、壁や鍵のかかった扉であると思っていたものは、それぞれの人物が自分の心の中に自分でつくった「檻」であり、それは、光で区切られた空間のように、自分の意志で、つまり自分の心のコントロールの仕方ひとつでやすやすと抜け出ることができるものだったのでしょう。こうしてカテリーナは、自分を縛っていた官能の呪縛から解放され、自分で自分を救済したのであって、決して絶望の中で命を絶ったわけではないんだというのがリチャード・ジョーンズ氏のメッセージだと感じました。陰惨な暴力シーンが多いこの作品、音楽的な豊穣さにもかかわらず、これまで自分はどうしても腹に落ちなかったのですが、今夜の舞台を見て、はじめて、心が自ら束縛を断ち切って自由と解放に至る救済劇として、すうっと納得できました。これはまさに悲劇が与えてくれるカタルシスです。

プレミエとはいいながら、2003/04シーズンにコヴェントガーデンで初演されたプロダクションを借りてきたものですが、演劇的には非常に立派な出来映えだったと思います。とくに、セルゲイ役のルトシュクの芸達者ぶり、カテリーナを演じたフリーデの深味のある音色と表現は出色でした。若杉氏降板でピットに立ったシンケヴィッチ氏は大方のブラヴォーにふさわしく、よくオーケストラをまとめた雄弁かつ緻密な音楽づくりでした。合唱団も、3幕のフーガ、4幕の囚人の合唱など、立派な演奏でした。ややなじみの薄い作品のためか、空席もありましたが、見応えのある舞台で、お薦めです。

帰りの京王線でクラリネットのヌヴー氏とトランペットのマルティ氏が楽しそうに話しておられるのを立ち聞きしたところ、お気に入りのレストランについて情報交換をしておられました。大成功の舞台で今夜はメシも旨いでしょう。

新国立劇場 ワーグナー:「ラインの黄金」
スタッフ/キャストはこちら:http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000075_2_opera.html#cast

「トーキョー・リング」をはじめて観ましたが、なかなか立派です。世界各地の様々なリングを観て来たイマドキの聴衆は、もう何が出てきたって驚きません。今やリングは、様々な時代設定、意匠など舞台上の表象と様々な認識の枠組みを媒介として神話の意味を再確認するマスセレモニー(大衆儀式)と化した感があります。ぼくはまだ続く3編を観ていないので、このプロダクションがどういう風に首尾一貫した神話劇として完結するか分かりませんが、今夜の舞台の完成度を見ると、結構期待しています。冒頭、映写機を傍らにスクリーンを凝視するヴォータンの姿、その後の舞台が映画スクリーン状に枠取りされた中で演じられることが、おそらく今後の展開につながる基本的な枠組みなんだろうと想像しますが、謎解きは今後の楽しみとしましょう。

音楽的にも立派だったともいます。遅めのテンポですが、いささかも鈍重にならず、オーケストラは常に抑制気味でテクスチュアはクリア。ホルン、テノールチューバでちょっとしたミスはありましたが、今夜の東京フィルハーモニーは総じて立派な演奏でした。世界各地の劇場関係者も注目する中でエッティンガー氏の明晰で安定した音楽づくりは高く評価されるんじゃないでしょうか。おそらくヨーロッパの大きなハウスからそのうちオファーがかかると思います。声楽陣も総じて上出来。とくに今夜一番の喝采を浴びたアルベリヒのユルゲン・リンの強烈な存在感と自在の演技、フリッカを演じたエレナ・ツィトコーワのきりっとしまった美声と美しいディクション、エルダを演じたシモーネ・シュレーダーの深々とした胸声が印象に残りました。ローゲは、このプロダクションのイメージだともう少しアスレティックで若々しい歌がいいんじゃないかな。ローゲが“keiner kennt ihn; doch einer übt ihn leicht,”(手元のSchirmer版ヴォーカルスコアは小節番号がないので歌詞だけで失礼)でちょっとキューをつかみ損ねたのに気づきましたが、全体としては本当に立派な演奏でした。音楽の流れ、全体のテンポ運びがすばらしく、Bravo!! 次のヴァルキューレは4月。やはり四作続けてみたい。バイロイトみたいに、RheingoldとWalküreを連夜上演後、一日休んでSiegfried、一日休んでGötterdämmerungというスタイルが、歌う側も見る側も理想的なんですが、新国立劇場なんとかしてくれないかな。これだけレヴェルの高い上演なんだから。

演出については、全四作を見終わってからでないとコメントできませんが、テキストに込められた意味をかなり細かく視覚化しているなという印象。今夜の舞台では細かいディテールにしか見えないものが重要な伏線だったんだなと続編で思い出されるのでしょう。とりあえず今夜のメモ。

指揮者はこっそり登場し、開演前の拍手なし。これはバイロイト風。序奏が始まる。舞台には1点の光。やがて薄明かりに映写機の傍らに座るヴォータンの姿。スクリーンを見つめるヴォータン。舞台前方奈落からスクリーンがせり上がり、波打つ水面が投影される。舞台手前には映画館の座席。3人のラインテヒターは赤ん坊のようなかぶり物。アルベリヒは、赤のスーツにドレスシャツで登場。ラインテヒターがラインの黄金に宿る力について語り始めると、スクリーンには金色のジグゾーパズルと代数式。微分、対数、総和、三角関数など。愛を呪う言葉とともにスクリーン手前の奈落に飛び込むと、スクリーンには水面に飛び込み、ジグゾーパズル中央の1ピースを奪い取るアルベリヒの姿がアニメーションで映し出される。暗転。

セット交換の隙間に、アルベリヒが上手から下手へ、ヴォータンが逆方向に舞台を歩き、交差。ここだけがスクリーン形状の枠組みなしに素の舞台上で演じられる。おそらく意味があるんだろう。覚えておこう。

手前からせり上がるヴァルハラ入居前の神々仮住まいは、ミドルクラス向けハイライズフラットの一室。引越荷物の段ボール箱が積まれている。舞台手前にはヴォータンの槍を運搬するためと思われる長い木箱。建設現場の足場に用いる単管、ジョイント、クランプで組まれたバルコニー。先ほどのスクリーンと同じ形に枠取りされたプロセニアム。周囲は、数式で埋め尽くされたパネル。ヴォータンとフリッカは、ガウン姿で登場。ガウンを脱ぐと、ヴォータンはワイシャツ姿、フリッカはテイラードスーツ。どうでもいいが、ツィトコーワさんはスリムでセクシーなプロポーション。思わずオペラグラスを覗き込む。マフィア風ダークスーツ姿の巨人2人は、建設現場の作業用ゴンドラに乗って、強いサーチライトを客席側に照射しながらバルコニーから登場。ローゲは、テイルコートの大正装(ドイツ風に言えばgrosses Abendkleid)。ニーベルハイムに出かけるに際し、ヴォータンも段ボール箱からテイルコートを取り出して着込む。

下手側舞台が主舞台の位置に平行移動して場面転換。前場と同様、枠取りされたプロセニアム。ただし、180度回転移動していて、スクリーン型の枠は上下左右に反転。型抜きされた”NIBELHEIM“の文字も上下が逆。4本の柱で支えられたアルベリヒの執務室。上手側に事務机。金細工の設計図らしい青写真が机上に広げられている。舞台奥にはテラス風の柵があり、その奥にニーベルンク族の作業場。アルベリヒの指環は、ジグゾーパズルのピースの形。

トレンチコートの下に白い水着を着たスタイル抜群のブロンド美女を弄ぶアルベリヒ。かなり露骨な性的描写も。
eure schmucken Frau’n, die mein Frein verschmählt,
sie zwingt zur Lust sich der Zwerg,
lacht Liebe ihm nicht.
テキストにもこのようにあるし、やがてアルベリヒがハーゲンという子を設けるという「愛なき者の奇跡」への伏線か。

隠れ兜でアルベリヒが変身すると、4本の柱が爬虫類恐竜の足のように照明で彩られ、下手天井から恐竜の頭、上手袖から恐竜の尾。ヴォータンがカエルをブリーフケースに捕える。アルベリヒが拉致されたことを知ったミーメがその美女と情事に至る場面は、愛を放棄したアルベリヒの女性との即物的なかかわり方とコントラストをなす。

再び神々の仮住まいフラット。さきほどカエルに変身したアルベリヒを捕えたブリーフケースを床において開くと、手品のように中からアルベリヒが現れる。よく見ると、床のその部分はブリーフケースと同じ形のせり上がりになっていて、アルベリヒは奈落からブリーフケースの枠をくぐって登場したようだ。アルベリヒがニーベルンク族を呼び出すと、小人が多数のブリーフケースを運んでプロセニアム手前に並べる。

巨人再登場。フライアは、おおきなブリーフケースに押し込められている。さきほどのアルベリヒ登場と同じ仕掛けで、ブリーフケースのふたを開けると奈落からピンク色のドレス姿のフライア登場。運び込まれたブリーフケースに収められた黄金がフライアを押し込めていた大型ブリーフケースに次々に流し込まれる。エルダは、プロセニアム外枠の下手側がジグゾーパズルのピースの形に開いて登場。エルダの預言を聞くためにヴォータンは外枠から出て舞台最前面に降りる。そこから指環をファフナーに投げ渡す。フライアはファゾルトに好意を持っている様子。ファゾルトに指環だけを確保しておけとアドバイスした直後、ローゲがファフナーにダガーナイフを手渡す。ファフナーは、このダガーナイフでファゾルトを殺害。フライアが殺されたファゾルトにかけよって悲しむ様子。先ほどのミーメと美女とのからみと同様、のろわれた指環の持ち主(アルベリヒ、ファフナー)の行動とは対照的。ファフナーによるファゾルトの殺害は、 指環にかけられた呪いというよりも、ローゲがファフナーを焚き付けた印象。細かいが、ここらへんの演出は続編への重要な伏線じゃないかと想像。

仮住まいの舞台セットが奈落に沈むと、白壁に七色の風船が散乱するヴァルハラのセットが奥舞台から前方にせり出す。ここは新国立劇場の最新鋭舞台機構を最大限に活用したゴージャスな物量作戦。フリッカは山羊の角、ドンナーは雄牛の角、ヴォータンは鳥の翼など、神々はそれぞれゲルマン神話に沿ったかぶり物。ヴァルハラ入場の場面では、ゲルマン神話の神々の他、ガムランに出てくるヒンドゥーのヴィシュヌ、シヴァ、プラフマー、日本神道のイザナミとイザナギ、エジプトのイシスとオシリスなど世界各地の神々まで登場してにぎやか。トランペットがノートゥンクのモチーフを吹奏するのに合わせ、ローゲがヴォータンに宝剣を手渡す場面が次篇「ヴァルキューレ」につながる。最後のDes-dur主和音が鳴り終わると暗転。

グラズノフ:バレエ「ライモンダ」
2009年2月12日新国立劇場
ザハロワ、マトヴィエンコ、森田健太郎ほか

自分は、作品としてのライモンダがとても好きです。なぜかといえば、まずグラズノフの音楽。チャイコフスキーとはひと味ちがう魅力的な音楽、エクゾティックなハーモニー、色彩豊かなオーケストレーション。そして何よりも、クラシックバレエの中では、ドラマとして大きな可能性を秘めているからです。その鍵を握るのは、もちろんアブデラクマンのキャラクター設定とライモンダの心理です。そのアブデラクマンの役柄設定のコンセプトについて、プティパの振付けを改訂した牧阿佐美さんがプログラムに寄せた文章を少し引用します。

「アブデラクマンの人物像をどのように設定するかが演出の鍵になると思いました。」ここまでは、自分と全く同じ見解で100%賛同します。

「今回の演出ではサラセンの端正な騎士として登場させます。アブデラクマンもジャンと同様にライモンダに恋する一人の男性なのです。ある女性にひたすら憧れ、その女性を心から愛しているのに、彼女には相思相愛の恋人がいるという、いつの時代にも誰の間にも起こる、ある意味での普遍的な男女の恋愛模様として描きたいと思ったのです。」

一人の女を巡る三角関係ですか。率直に言って、それじゃ安っぽいテレビドラマですね。それにしたって、今夜の舞台では、ライモンダは終始明らかにアブデラクマンを嫌悪しています。これじゃあ三角関係でもなくて、単なるストーカー事件です。さらに、アブデラクマンは、いやしくもサラセンの「騎士」であるはずですが、このプロダクションでの彼の衣装は、どうみても十字軍当時南イタリアやシチリアを荒し回っていた海賊の頭目にしか見えません。立居振舞が洗練されていなくて、宝箱から金銀宝石を取り出して裸のままライモンダに渡そうとするとか、ライモンダの頬を両手でいきなり愛撫しようとするとか、「ばらの騎士」のオックス男爵にさえ笑われかねない粗暴な態度じゃないでしょうか。ライモンダに嫌われるのも当たり前です。この役柄設定では、相思相愛の恋人+ストーカーという構図で、だれの心にも緊張がなく、そもそもドラマが成立しないですね。

史実として残っているジャン・ド・プリエンヌが出征したであろう13世紀初頭の第五次十字軍当時、サラセンの騎士がハンガリー王の宮廷にのこのこ顔を出すなんていう設定は荒唐無稽であって、アブデラクマンの設定自体が壮大なフィクションというか、夢というか、シンボリズムなわけで、もっと大胆な性格づけが可能なはずです。男にしても、女にしても必ずあるはずのギャラントでエグゾティックでセダクティヴなものへの憧れ、性愛の誘惑との葛藤、中世カトリックの窮屈な倫理観でがんじがらめに縛られているが故の大胆な夢想、そういうパッションと貞節と戦い、人間がもっと自由だった古典ローマ時代の地中海世界へのあこがれ、来るべきルネサンスの予兆、そういうテーマがこのドラマの底流にあるんじゃないでしょうか。そうであればこそ、グラズノフは2幕のグランパダクシオンからバッカナールにあれほどセクシーな音楽を書いたのだと思います。ひとことでいえば、“cosi fan tutte”です。あるいは、エルヴィーラやドンナ・アンナが倫理観から拒みつつも本能ではジョヴァンニに魅せられてしまう心情といえばいいでしょうか。今回の牧版では、そのバッカナールの高揚感をまったく感じませんでした。

舞台装置は、限られた予算での制作でしょうから、この程度でしょうがないでしょう。

で、ザハロワさん、今夜の立ち上がりは本来の調子ではなかったか、たびたびバランスをくずしていました。終幕でやっと本来の輝き。グラン・パ・クラシックのヴァリアシオン、5番ポジションからポワントに立って、左右交互にルティレに持っていくパは何と言うのでしょうか、あのあたりの立ち姿が何とも美しかった。あいかわらずコールは立派でした。1幕2場、幻想のワルツだったか、コールのマネージュ隊列での連続フェッテ。新国コールの優秀さをアピールする振付けでしょうか。場内大いに湧きました。全般的にコールは、クラシックよりもキャラクターの方が生き生きしている印象を受けました。

新国立劇場は、バレエ団も合唱団も非常に立派です。これで座付きのオケがあれば、世界屈指の立派な劇場。今夜の東京交響楽団も立派な演奏でした。このレベルのオケがずっとピットに入れば、ものすごい劇場になるんですが。。トランペットのトップの人、すごくうまいですね。幕間にマーラー第7シンフォニーのファンファーレの練習をしておられましたが、そういえば来週の定期がこの曲ですね。練習を聴く限りは、トランペットはすごそうです。(笑)

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新国立劇場 「蝶々夫人」
2009年1月21日(水)
蝶々夫人:カリーネ・ババジャニアン
ピンカートン:マッシミリアーノ・ピサピア
シャープレス:アレス・イェニス
スズキ:大林 智子 ほか
指揮:カルロ・モンタナーロ
管弦楽:東京交響楽団
演出:栗山 民也

2004/05シーズン以来3度目の上演となるプロダクションですが、すばらしい舞台だと思います。白木と紙の色を基調とした簡素な装置に工夫をこらした照明が効果的です。開演前のプロセニアムには紗幕が降りていて、蝶々さんの寓居として下手奥から上手手前を長手方向にした白木の床の上手手前角に1本立てられた五寸角の高い柱の影が上手の壁に大きく投影され、孤立する墓標のように、早くも悲劇の結末を暗示します。ソフォクレスの昔から、観衆は悲劇を見るとき、悲劇の結末をあらかじめ知っているわけですが、その結末の一点に収斂していくドラマの力を舞台上の印象的なオブジェがドラマの展開に従って意味や位相を変転しつつヴィジュアライズするという手法がぴたりとはまっていました。

この白木の柱は、蝶々さんの儚い寓居をささえる柱であり、1幕終盤のデュエットで2人のシルエットとともに投影される時には蝶々さんのまっすぐで純真な心のシンボルであり、幕切れ近く、床に打ち捨てられた花嫁衣装に赤い花をそっと置いた蝶々さんのシルエットに重なって投影される影となる時には、彼女の動かぬ決意のシンボルとなります。薄明かりとその影が蝶々さんの心象を織りなす舞台は、幕切のロ短調VI六和音トゥッティと同時に、蝶々さんの最期を煌々たるフルライトで照らし出し、そして暗転。ポネルのトリスタンの幕切れみたいで、残酷なリアリティを胸に突きつけられるようです。

ババジャニアンさんは、この役のドラマティコな系譜とは一線を画し、繊細で端正な表現。ちょっとロス・アンヘレスの歌い口を思い出しました。確かに慟哭しなくても音楽が語ってくれるし、そういう表現がこのヌヴェル・ジャポネスクな趣味のよい舞台によく調和しています。“Un bel dì, vedremo “では、美しいピアニッシモで最初の高いGesを難なく決め、“E poi la nave appare”の低いDesまで一気に下る広い音域を、音色の切れ目なくスムーズに歌い、見事。こういう蝶々さんのスタイルもあってよいし、自分は好きです。

このオペラは、タイトルロールがよければなんとか格好がつきますが、ピサノア氏、イェニス氏、大林さんもしっかりとしたサポートでした。モンタナーロ氏率いる東響は端正で美しい演奏でした。ウィーンやスカラ並みとはいえないまでも、コヴェントガーデンのオケよりもずっとうまいです。

この舞台、ヨーロッパに持っていってもかなり受けると思います。

余談ですが、「ある晴れた日」と題されたアリアの歌詞とメロディラインについてちょっと考えてみました。歌詞の第1スタンザ:

Un bel dì, vedremo
levarsi un fil di fumo
dall'estremo confin del mare.
E poi la nave appare.

先ずは空を見上げると晴れている。
視線をちょっと下げると蒸気船の煙が水平線から立ち上る。
さらに視線を下げると、水平線の下から船が立ち上ってくる。

メロディ(上掲楽譜)も、最初のges-es-ges-es-f-fという音型とほぼ平行な音型がges->es->asと全体として詩行ごとに下降し、4行目の“E poi”ではdesからの上行音型で終止する。なるほど、このメロディは、夢想する蝶々さんの視線の動きなんですね。そんな風に詩とメロディの関係を考えるのもおもしろいです。

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