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さて、昨日今日と少し人間にとっての思考の限界という問題を考えるようになった。
すなわち、現代に生きる我々において自らが変革を迫られている問題がそもそもの思考の問題なのではないかということである。
私が取り上げたいのは近代の哲学者デカルト以来人間の思考においてかなりの重要な役割を担うようになった「二元論的枠組み」を脱却し、再度人間がいかなる思考を自らの中ではぐくめば良いのかということを問うものである。
「二元論」という考え方の限界
私が最近この二元論的な考え方に限界を感じているのは、国会での政治論戦などを見ていてあまりにも収集のつかない状況に果たしてこのままでよいものだろうかとふと思うところから始まったものである。
すなわち与野党の論戦において、これが正しい、いやそれは間違っているというとにかく二元論的な方向性でもって攻撃的にやり合う形式の議論というものがあまりにも限界に来ているのではないかという気がして仕方がないというところである。
例えばそれは私たち普通に生活している市民にとっても二元論的枠組みでとらえきれない問題がそこに提示された場合どのようにそれを取り扱うのかという問題でもある。
具体的には、
「あなたは日本の自衛隊が積極的に国際社会の紛争防止に努めるため、海外に派遣されるのに賛成ですか反対ですか。」という問題提起がなされた場合それに対してどう考えるかというものである。
こういった問題の場合結論は一つしかない。つまり二つの中から一つを選択するというものである。合理的な考え方をするのであれば双方の利点、欠点などを挙げながらより勝る言い分の方に軍配を上げ、その結論を採用するというものであろう。
しかし、この考えにおいて非常に欠けがちだと思う点は結局問題そのものに対する意識として大変客観的な要素が重視されてしまうため、問題に答える人間の当事者意識が欠落してしまうところである。
すなわち、軍隊どうこう自分には関係ないという意識が人間の頭の中に実はあってあくまで国の問題だから自分とは関係ないよみたいな意識が強くどこかにあるのではないかということが言いたいのだ。
そもそも軍隊とは何のためにあるのか。
実際よく考えてみれば人間の中にある種の残虐性のようなものが認められるがゆえにそういった軍隊のような統制機関のようなものが機能するのではないだろうか。つまり、個々人の中に、普段は意識はしないけれどもどこかに残虐性のようなものは眠っていると考えるのが実は妥当なのではないだろうか。
社会の中で起きる問題は実はその要素を抽出して良く考えると人間の個人の問題にも置き換えて考えられることができる。軍隊の問題などの場合は自分の持つ残虐性などに置き換えられることが可能になるし、国会で行われる議論というのは自分に置き換えれば自己批判の応酬ともとることは可能になる。
自分自身の中でとらえた問題を自己批判にかけたときそれは多くの葛藤を自らの中に生み出すに違いない。しかし、この葛藤、苦悩こそが人間にとっては重要なのではないかと思う。
葛藤、苦悩はそれこそ論理性の枠を超えたところで存在する。論理性の限界を認識し人間が自己の苦悩と葛藤に向き合う時代が来ているといえるのではないだろうか。
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