水天一碧

史実はもとにしてますが事実ではありません

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陽炎稲妻水の月 2

 新八が東京から消えたのはそれから間もなくだった。
 「新さんかい。なんでも、横浜から船に乗るって言ってたぜ。大陸に渡るとか言ってたが、本気かねえ?」
 角清の主人は肩をすくめて言った。
 「新さんは誰の紹介でここに来たのかい?」
 「ああ。新門の旦那からの紹介さ。大方、幕府のお侍さんだったんだろう。それにしちゃあ、あの人は気持ちのいい人だったからね、俺としちゃあいずれ暖簾わけでもしてやりてえと思ってたんだが。」
 残念がる主人に礼を言って、松吉は新門辰五郎の住まいへ向かった。どうして自分が新八のことをこんなにも気にかけているのか不思議でならなかった。新八のように幕府方で働いた侍など五万といるだろう。今の政府の役人に痛い目をみせた者とて大勢いるに違いない。どこにでもあるありふれた話だ。それなのに、新八だけが松吉の心を動かすのはなぜだろう。
 「ほう、井荻屋の売れっ子芸者がこの年寄りになんの用かね?」
 十五代さまから篤い信頼を受けていた火消しの親分は、煙管をふかしながら面白そうに松吉を見た。
 「親分さんが世話をしていた、原田左之助ってお人のことを知りたいんですよ。」
 単刀直入に言うと、辰五郎はちょっと目を細めて松吉をじっと見た。
 「姐さん、そのお人の名前をどこで知りなすった。」
 「本人が名乗っておりましたんで。」
 「そうかい。それなら仕方ねえ。」
 辰五郎は笑った。
 「確かに、俺ぁその人のお世話をさせてもらったよ。で、姐さんはその人の何が知りたいんだね?」
 問われて松吉は答えに詰まった。衝動に駆られるままここまで来てしまったが、本当の所新八の何が知りたかったのか、自分でもよくわからなかった。
 「あの人は、自分のことを“壬生の狼”って言ってたんですが、そりゃあどういう意味なんでしょう?」
 そう言った時のどこか誇らしげな不敵な笑みが忘れられない。辰五郎は煙を天井に向かって吐き出しながら小さく笑った。しかし、その表情はどこか泣きそうな顔にも見えた。
 「壬生の狼――壬生狼、か。懐かしい響きだねえ。・・・姐さんは新選組は知ってるかい?」
 「ええ、そりゃあ・・・」
 「新選組は、京都では壬生浪と蔑まれてねえ。あんまりおっかないものだから壬生の狼と呼ぶ人もあったよ。原田さまはその新選組の大幹部だったのさ。」
 「え・・・・・」
 「今の政府のお偉方なんざ、あの人に追っかけまわされて命からがら逃げてた人も少なくなかろうよ。」
 「そんな人がどうして俥屋なんかに・・・」
 「さてね。上野で大怪我なすったんで、俺が引取って看病がてら一年ほど匿ってさしあげてたんだが、怪我が治るとあちこちふらふらと出歩かれてね。そのうち人力車が巷に出回りだしたのを見て俥夫をやりてえと言い出しなすって・・・金のことならこの辰五郎がどうとでも工面すると言ったんだが、俥夫は面白そうだからと言いなすってねえ。上野で戦死したってことになっちゃあいるが、顔を見ればそれと知る人もまだまだ多い。俥夫なんざ危ねえと口を酸っぱくして止めたんだ。だが、結局押し切られちまって、角清の主人を紹介してさしあげたのさ。」
 そういえば、俥を引いている時の新八は楽しそうだった、と松吉は思いだした。
 「『殺の報殺の縁』と言いなさるのさ。」
 辰五郎がぽつりと言った。
 「なんです、その『さつのほうせつのえん』ってのは。」
 「簡単に言やあ、人を殺した者はいずれ自分も殺される縁にあるってことだな。」
 「新さん・・・いえ、原田さまがそう言いなすった?」
 「ああ。あの人も昔、頭のいいお仲間から教えてもらった言葉だと言ってなさった。どこにいたって、何をしていたって、いずれこれまでのツケは払わなくちゃならない時が来るんだと。そこまで覚悟を決めておられるんなら俺の口出すことじゃねえ。あの人の好きにさせて差し上げようと思ったのさ。」
 (ああ、そうか。)
 松吉は得心した。どうして自分が新八に――原田左之助という男に――惹かれるのか。松吉は辰巳芸者だ。一時期廃れたとはいえ、その気風と心意気は忘れていない。それを無くしたら、ただ客に色を売る女郎と変わらなくなってしまう。松吉が売れっ子であるのは、容姿の美しさや芸の上手さばかりではない。その一本筋の通った気性を愛されているからだ。だから、侍からただの俥夫に成り下がり、日々人に使われて生きていく毎日で、いつの間にか背を丸めて下を向き、すれ違う人から顔を隠すようにして歩く武士を見るたびに、松吉は情けない思いに歯噛みをしたものだった。
 新八は腰に大小を差していなかったし、印半纏に股引き姿で俥を引いていたが、頭を上げ、背を真っ直ぐにして走るその後姿は、松吉の目には立派な侍に見えていた。自らを「壬生の狼」と言った新八に、自分を蔑むような様子は見られなかった。むしろそう呼ばれていた自分を誇りに思い、今もその誇りを失っていないように見えた。そんな新八が、松吉は好きだったのだ。
 「あの人、どこへ行っちまったんでしょうね・・・」
 「この前見えた時は『海の向こうも面白そうだ』なんて言ってなさったが。」
 「じゃあ、本当に大陸に行くつもりなのかもねえ。」
 松吉は笑った。まるで風のような男だ。捕まえたいと思った時にはもういないのだから。
 「あたしも厄介な男に惚れちまったもんだ。」
 松吉がそう言うと、辰五郎はにっと笑った。
 「なに、あのお人は松吉姐さんが惚れたっておかしかねえ、いい男だよ。」

 松吉は別な俥夫の俥に乗って、今日も座敷に向かっている。
 前を走る俥夫の背中を見ながら、辰五郎が教えてくれたことを思い出していた。
 「原田さまが名乗ってた『新八』ってえ名前だが、あれも実は新選組の大幹部の名前でね。よりにもよって、どうしてそんな名前を名乗るんだか気が知れねえと言ったら、『新八と名乗ろうが左之助と名乗ろうが、大した違いはない』と言いなさるんだ。確かに、新選組に痛い目に合わされた連中にとっちゃ、どっちだろうとさしたる違いはないんだろうが。本物の永倉さまが知ったらびっくりするだろうに。」
 では、もしかするとこの間新八を襲ったのは、「原田左之助」と知って襲ったのではなく「永倉新八」という人だと思って襲い掛かったのかもしれない。
 松吉は思わず笑ってしまった。俥夫が不思議そうに振り向いたが、構わなかった。あの男が今もどこかで、いつ仇に会うかわからない毎日を鼻先で笑いながら走っているのではないかと思うと、無性に笑えて仕方なかった。

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