水天一碧

史実はもとにしてますが事実ではありません

明治孤狼伝

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明治に生き残った狼たちのその後の物語
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陽炎稲妻水の月 2

 新八が東京から消えたのはそれから間もなくだった。
 「新さんかい。なんでも、横浜から船に乗るって言ってたぜ。大陸に渡るとか言ってたが、本気かねえ?」
 角清の主人は肩をすくめて言った。
 「新さんは誰の紹介でここに来たのかい?」
 「ああ。新門の旦那からの紹介さ。大方、幕府のお侍さんだったんだろう。それにしちゃあ、あの人は気持ちのいい人だったからね、俺としちゃあいずれ暖簾わけでもしてやりてえと思ってたんだが。」
 残念がる主人に礼を言って、松吉は新門辰五郎の住まいへ向かった。どうして自分が新八のことをこんなにも気にかけているのか不思議でならなかった。新八のように幕府方で働いた侍など五万といるだろう。今の政府の役人に痛い目をみせた者とて大勢いるに違いない。どこにでもあるありふれた話だ。それなのに、新八だけが松吉の心を動かすのはなぜだろう。
 「ほう、井荻屋の売れっ子芸者がこの年寄りになんの用かね?」
 十五代さまから篤い信頼を受けていた火消しの親分は、煙管をふかしながら面白そうに松吉を見た。
 「親分さんが世話をしていた、原田左之助ってお人のことを知りたいんですよ。」
 単刀直入に言うと、辰五郎はちょっと目を細めて松吉をじっと見た。
 「姐さん、そのお人の名前をどこで知りなすった。」
 「本人が名乗っておりましたんで。」
 「そうかい。それなら仕方ねえ。」
 辰五郎は笑った。
 「確かに、俺ぁその人のお世話をさせてもらったよ。で、姐さんはその人の何が知りたいんだね?」
 問われて松吉は答えに詰まった。衝動に駆られるままここまで来てしまったが、本当の所新八の何が知りたかったのか、自分でもよくわからなかった。
 「あの人は、自分のことを“壬生の狼”って言ってたんですが、そりゃあどういう意味なんでしょう?」
 そう言った時のどこか誇らしげな不敵な笑みが忘れられない。辰五郎は煙を天井に向かって吐き出しながら小さく笑った。しかし、その表情はどこか泣きそうな顔にも見えた。
 「壬生の狼――壬生狼、か。懐かしい響きだねえ。・・・姐さんは新選組は知ってるかい?」
 「ええ、そりゃあ・・・」
 「新選組は、京都では壬生浪と蔑まれてねえ。あんまりおっかないものだから壬生の狼と呼ぶ人もあったよ。原田さまはその新選組の大幹部だったのさ。」
 「え・・・・・」
 「今の政府のお偉方なんざ、あの人に追っかけまわされて命からがら逃げてた人も少なくなかろうよ。」
 「そんな人がどうして俥屋なんかに・・・」
 「さてね。上野で大怪我なすったんで、俺が引取って看病がてら一年ほど匿ってさしあげてたんだが、怪我が治るとあちこちふらふらと出歩かれてね。そのうち人力車が巷に出回りだしたのを見て俥夫をやりてえと言い出しなすって・・・金のことならこの辰五郎がどうとでも工面すると言ったんだが、俥夫は面白そうだからと言いなすってねえ。上野で戦死したってことになっちゃあいるが、顔を見ればそれと知る人もまだまだ多い。俥夫なんざ危ねえと口を酸っぱくして止めたんだ。だが、結局押し切られちまって、角清の主人を紹介してさしあげたのさ。」
 そういえば、俥を引いている時の新八は楽しそうだった、と松吉は思いだした。
 「『殺の報殺の縁』と言いなさるのさ。」
 辰五郎がぽつりと言った。
 「なんです、その『さつのほうせつのえん』ってのは。」
 「簡単に言やあ、人を殺した者はいずれ自分も殺される縁にあるってことだな。」
 「新さん・・・いえ、原田さまがそう言いなすった?」
 「ああ。あの人も昔、頭のいいお仲間から教えてもらった言葉だと言ってなさった。どこにいたって、何をしていたって、いずれこれまでのツケは払わなくちゃならない時が来るんだと。そこまで覚悟を決めておられるんなら俺の口出すことじゃねえ。あの人の好きにさせて差し上げようと思ったのさ。」
 (ああ、そうか。)
 松吉は得心した。どうして自分が新八に――原田左之助という男に――惹かれるのか。松吉は辰巳芸者だ。一時期廃れたとはいえ、その気風と心意気は忘れていない。それを無くしたら、ただ客に色を売る女郎と変わらなくなってしまう。松吉が売れっ子であるのは、容姿の美しさや芸の上手さばかりではない。その一本筋の通った気性を愛されているからだ。だから、侍からただの俥夫に成り下がり、日々人に使われて生きていく毎日で、いつの間にか背を丸めて下を向き、すれ違う人から顔を隠すようにして歩く武士を見るたびに、松吉は情けない思いに歯噛みをしたものだった。
 新八は腰に大小を差していなかったし、印半纏に股引き姿で俥を引いていたが、頭を上げ、背を真っ直ぐにして走るその後姿は、松吉の目には立派な侍に見えていた。自らを「壬生の狼」と言った新八に、自分を蔑むような様子は見られなかった。むしろそう呼ばれていた自分を誇りに思い、今もその誇りを失っていないように見えた。そんな新八が、松吉は好きだったのだ。
 「あの人、どこへ行っちまったんでしょうね・・・」
 「この前見えた時は『海の向こうも面白そうだ』なんて言ってなさったが。」
 「じゃあ、本当に大陸に行くつもりなのかもねえ。」
 松吉は笑った。まるで風のような男だ。捕まえたいと思った時にはもういないのだから。
 「あたしも厄介な男に惚れちまったもんだ。」
 松吉がそう言うと、辰五郎はにっと笑った。
 「なに、あのお人は松吉姐さんが惚れたっておかしかねえ、いい男だよ。」

 松吉は別な俥夫の俥に乗って、今日も座敷に向かっている。
 前を走る俥夫の背中を見ながら、辰五郎が教えてくれたことを思い出していた。
 「原田さまが名乗ってた『新八』ってえ名前だが、あれも実は新選組の大幹部の名前でね。よりにもよって、どうしてそんな名前を名乗るんだか気が知れねえと言ったら、『新八と名乗ろうが左之助と名乗ろうが、大した違いはない』と言いなさるんだ。確かに、新選組に痛い目に合わされた連中にとっちゃ、どっちだろうとさしたる違いはないんだろうが。本物の永倉さまが知ったらびっくりするだろうに。」
 では、もしかするとこの間新八を襲ったのは、「原田左之助」と知って襲ったのではなく「永倉新八」という人だと思って襲い掛かったのかもしれない。
 松吉は思わず笑ってしまった。俥夫が不思議そうに振り向いたが、構わなかった。あの男が今もどこかで、いつ仇に会うかわからない毎日を鼻先で笑いながら走っているのではないかと思うと、無性に笑えて仕方なかった。

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陽炎稲妻水の月

 「新さん、今日もよろしく頼むよ。」
 「はいよ。」
 俥に乗り込むと、俥夫が赤いケットを膝にかけてくれる。春になったとはいうが、まだまだ風は肌寒い。
 「今日はどなたのお座敷だい?」
 「太政官のお偉いさんさ。なんでも異人を接待するってんで、きれい所をかき集めてるんだと。」
 「は!攘夷攘夷と狂犬みたいに騒いでた連中が、掌返したように異人にぺこぺこして媚び売ってるなんて知ったら、地下でお仲間が泣くだろうに。」
 そう言って鼻で笑った俥夫の左肩が少し下がり気味なのを松吉は知っている。
侍は毎日腰に大小を提げているから、いつの間にか左肩の方が下がってしまうのだと聞いたことがある。あの瓦解で幕府方についた侍は職を失い禄を失い誇りも失って路頭に彷徨った。新政府の役人になるのはよっぽどのコネがない限り難しいし、商売を始めようにもろくに金勘定ができないものだから、始める先から潰れていった。商人たちはそれを見て「士族の商法」と嘲笑ったものだった。落ちぶれた侍ができることといえば、体を使って稼ぐことしかなかった。折りしも巷には人力車が流行り出して、俥さえ持っていれば一人でもやっていけるものだから、たちまち仕事にあぶれた侍たちが俥夫へと姿を変えていった。ある時俥に乗ったら、俥夫をしていたのが以前ご奉公していた旗本の殿様だった、なんて話はざらであった。
 松吉が最近贔屓にしているこの俥夫は、角清という俥屋の俥夫で、年の頃なら三十半ば。背が高くがたいもいいし、侠気のあるところが気に入っていた。名は新八と言ったが、それが本名なのか偽名なのかはわからない。松吉は訊いたことがないし新八のほうも自分のことはほとんど喋らなかった。
 「新さん、どうしたんだい?」
 ふいに俥の速度が落ちた。何があったのかと俥夫を見ると、新八は被っていた笠をやや目深に下ろして再び走り始めた。ふと前を見ると、こちらも俥に乗った役人らしき男がすれ違おうとするところだった。松吉は何事もなかったかのようにすまし顔ですれ違い、その俥が十分に遠ざかってから新八に声をかけた。
 「顔なじみでも通ったかい?」
 返事が返ることを期待していたわけではなかった。新八の身の上と今しがた俥に乗ってすれ違った役人の姿を鑑みれば、訊かない方が親切な問いであったからだ。
 「なに、俺は敵持ちなもんでね。」
 いたって軽く新八が答えたので、松吉はびっくりした。
 「まあ、東京にいればいつかはすれ違うとは思っていたが、いざ相手の顔を見るとぎょっとするもんだな。」
 「危ないんじゃないのかい?」
 「なに、危ないことには慣れている。」
 新八は笑った。

 座敷を終えて茶屋を後にしよとした松吉は、待たせておいたはずの新八がいないのに驚いた。新八の俥はあるのに本人はいない。商売道具を無造作に置きっぱなしにするなど物騒この上ない。
 「新さん、どこ行っちまったんだい?」
 松吉が三味線を抱えたまま辺りを探していると、向こうの路地から金属がぶつかり合うような音が聴こえた。まさか、と思い松吉はそちらへ小走りで近づいていった。角を曲がろうとした時、突然男の背中が飛び出してきた。危うくぶつかりそうになって壁際に避けると、その男は背中から地面にどうと倒れて動かなくなった。風体から見ると浪人者らしい。角からそっと顔を覗かせて見た松吉は、危うく声を上げそうになった。
 その路地は袋小路になっていて、その突き当たりに新八が長い棒を構えて立っていた。それを囲むように三人の浪人者が刀を抜いて立っている。
 「おらおら!何ぼーっと突っ立ってやがる?誰もかかってこねえのか?」
 笠はとっくに外してしまって、ザンギリにした頭を晒している新八は、なぜだがとても楽しそうだった。
 「それとも、てめえらこの原田左之助さまに臆しちまったのか?」
 松吉ははっとした。新八は今なんと名乗った?もちろん、新八という名前が本名ではないかもしれないとは薄々感じていた。松吉は新八が今名乗った名前に覚えはないが、新八を囲んだ男たちの背中が動揺しているのはわかった。
 「逃げるなら今のうちだぜ?だがな・・・」
 新八の迫力に怯んだ一人がわずかに後ずさった。その瞬間、新八の手にあった棒が生き物のように伸びて、男の腹に吸い込まれるように入った。
 「敵前逃亡は、士道不覚悟だぜ?」
 男は先ほど松吉の前に吹っ飛ばされた男同様、呻き声すら上げず背後に吹っ飛んだ。
 「さあて、次はどいつだ?命が惜しけりゃ、誰に雇われたのかキリキリ吐いてもらおうか。」
 長い棒を自由自在に操りながら、新八は物騒な笑みを浮かべていた。
 「く、くそっ、壬生狼めっ!」
 一人が刀を振りかぶって新八にかかっていく。逆の方からもう一人が斬りかかる。
 (斬られる!)
 松吉は思わず目を覆った。ごきりという鈍い音に続いて、どさりと重たいものが壁にぶつかる音がした。
 「―――ふん、久しぶりに聞くと懐かしいもんだな。」
 新八の呟く声に、松吉は目を覆っていた手を外す。路地に立っているのは新八だけだ。新八が松吉の方を見た。その顔はまるで松吉の知らない男のようだった。
 「姐さん、見てたのかい。」
 新八は苦笑しながら近づいてきた。松吉は新八の手を取ると、急いでその路地から引き離した。
 「早くここから離れるんだよ、面倒ごとが起こらないうちに!」
 今にも羅卒が新八を捕らえに来るのではないかと松吉は不安でならなかった。俥に戻って、新八が振り回していた棒が俥の梶棒だったことに気づいた。梶棒を取り外しできるように細工していたのだ。

 「落ち着いたかい?」
 新八に差し出された水を飲んで、ようやく松吉はひと息つくことができた。実際に戦っていた新八は松吉に急かされるまま大急ぎで走ってきたにも関わらず、涼しい顔をしている。
 「あれは、さっきの?」
 「いやあ、あれは別口だろう。さっきすれ違ってすぐってことはないだろう。」
 新八は踏み台に腰をかけて煙管を吹かし出した。先刻のことなどまったく気にも留めていないようだった。
 「あんたの名前、原田左之助っていうんだ・・・」
 何気なさを装って松吉が言うと、新八はちらっと目を上げて松吉を見て苦笑しながら頷いた。
 「お侍だってことは知ってたけど、あんな刺客を送られるような生活してたのかい?」
 「はっ!あのくらいならかわいいもんさ。今の政府のお偉いさんに睨まれたらそれこそ、こんなもんじゃすまねえからな。」
 からからと笑う顔に屈託はない。
 「あんた何者なのさ。」
 新八はにやりと笑った。
 「壬生の狼さ。」
 新八はそれ以上は語らなかったし、松吉もそれ以上は訊けなかった。その日はそのまま置屋に戻った。いつもより遅い時間だったので、女将がいたく心配したが松吉がなんともないとわかるとほっとしたようだった。
 「異人の座敷だっていうから、もしやおまえになんかあったかと心配したよ・・・」
 「ごめんなさいよ。いい夜だったから、新さんに遠回りしてもらったのさ。」
 「そんなこと他の妓たちに言うんじゃないよ。みんな羨ましがって真似するから。」
 「ははは!わかってるよ。」

>つづく

血啼

 怒りに任せて人を殴ったことなどなかった――昔は。

 足元に襤褸切れのようになった男が倒れている。男の顔は見る影もなく形が変わってしまっている。下手をすれば、このまま死んでしまうかもしれない。

 着慣れない洋服を纏い、口髭を生やし、得意げに胸を反らして夜の都大路を闊歩していた新政府の官吏が、道端に蹲る乞食に目を付けたのが始まりだった。蓬髪で襤褸を纏い菰に包まったその乞食は、その風体から昔は侍であったようだ。おそらくはあの瓦解で禄を失い、誇りまでも失ってしまったのだろう。官吏はその乞食にちょっかいをかけだした。最初はからかう程度のつもりだったのだろう。しかし、乞食の方が黙ってされるがままになっているのに、だんだんと行為が激しくなっていった。口汚く罵るばかりでなく、足蹴にし、転がった所をさらに追いかけて溝に蹴落としたのだ。
 誇りを失うということは悲惨なことだ。あの乞食の姿はあるいは己であったかもしれない。肩で息をしながら哄笑する官吏が己の方に近づいてくる。

 目の裏に、死んでいった仲間たちの顔が火花のように弾けた。

 気がつけば、その官吏の胸倉を掴んで路地裏に引きずり込んだ。あとは、有無を言わせず殴りつけた。目の前が真っ赤で、自分が誰を殴っているのか、なぜその男を殴っているのか自分自身でもわからなかった。右の拳に男の鼻の骨の折れる感触が伝わる。頭のどこかでもうやめろと止める声がしていたが、自分で自分を止めることができなかった。

 ――もうよせ、島田!

 ふと、懐かしい声が蘇る。はっと男の襟首を掴んでいた左手を離した。胸元が熱い。そこに忍ばせている亡き人の戒名を左手でそっと抑える。亡き人はこんな自分を喜ばない。そう思うと、自分が情けなくて泣きたくなる。もはやぴくりとも動かない男をその場に置き捨てて家路を急いだ。家には妻と子供たちが自分の帰りを待っている。

 それでも、副長。自分はあいつらが許せないのです・・・

 三年近い謹慎から解かれて、今は京にある妻のおさとの実家に厄介になりながら雑貨屋を営んでいたが、商売のいろはも知らない自分には店番をする以外できることはない。おさとが懸命にあれこれと仕入れて頑張っているが、売上ははかばかしくない。それでも、自分の半分くらいしかない小柄な妻は、愚痴一つこぼさず笑顔で家計をやりくりしている。
 「・・・遅うおましたなぁ。」
 裏口から帰ってきた己をおさとが迎えに出た。妻の顔を見たら、ふと張り詰めていたものが緩んだ。手を伸ばし、京人形のようなおさとの体を抱きしめた。
 「どないしはりました?」
 おさとの小さな手が幼子にするかのように己の頭を撫でる。その優しい声にたまらなくなった。無我夢中でおさとの体を抱き上げ畳の上に押し倒した。帯をほどくのももどかしく裾を割り、襟を開く。その間、おさとは逆らうことなくまるで宥めるように自分の肩を抱いて、その小さな体を大きく広げ己の全てを受け入れようとしてくれている。自分にとって、この世で本当のものは妻の温かい体と、血肉を分けた子供たちだけである。
 「かわいそうに、ほんに、かわいそう・・・」
 胸に顔を埋める自分に、おさとは何度もそう囁き、愛しげに優しげに頭を撫でてくれる。己は泣きながらおさとを抱いた。おさとの白い乳房にむしゃぶりつき、己の全てを打ちつけ、己の全てをぶちまけなければ生きていると感じられない。
自分より若い同志たちが次々と非業の死を遂げ、己が生き残ったことを申し訳なく思った。その彼らの死を踏み台としてできた新しい世は、結局は薩長を始めとする一部の者たちが得をする世の中だった。では、あの血で血を洗うような戦いはなんだったのか―――

 今でも時々、戦の時の夢を見る。
銃弾に倒れる仲間たちの夢を見る。
泣いても叫んでも、彼らは戻ってこない。

 おさとの紡ぐ子守唄が聴こえる。己の背を叩く優しい手を感じる。この手が己を明日に生かしてくれる。

 一時の熱が冷めると、いつもの平凡な日常が戻ってきた。相変わらず雑貨屋は閑古鳥が鳴いていたし、威張り散らした官吏は目の前を横切っている。何もかもがいつもと同じであった。ふと、自分が殴り倒した男はどうなっただろうと思った。昔から常人よりも体も大きく力も強かった。かつて、屯所にしていた壬生で相撲興行をした時、相撲取り相手に勝負して見事に相手を投げ飛ばしたこともあった。だから、本気で人を殴ったりすまいと心に決めていた。悪夢から醒めれば、己のしたことは後味の悪いものであった。
 それでも、この偽りの平穏を無性に破壊したくなる。右の拳をじっと眺める。そして左手で亡き人の戒名に手を当てる。わかることは、亡き人がそれを望まないということ。

 この手で二度と人を殺めまい。
この手は妻と子供たちを守るために。
この手は若くして散った魂を弔うために。

 瞼を閉じれば、この街に翻った誠の旗が鮮やかに蘇る。

からくれない

 粗末な長屋の玄関口に、一人の羅卒が立ち尽くしていた。
 隣近所はつい最近起きた事件について、何か調べに来たのだろうとさして気にも留めなかった。

 狭い屋内には、家財道具は一切なく、薄汚れた壁や古びた畳はべったりと赤黒く染められていた。障子や襖にもそれは飛び散っていて、西日が射し込むとぞっとするような影を落とした。

 うらぶれた姿の武士が、玄関に背を向けて正座している。右手に置いていたニ刀のうち、脇差を手に取り鞘から抜く。手入れが行き届いているのか、刀身は禍々しいくらい輝きを放っていた。武士は、その刀身に懐紙を巻いていく。それが終わると、いったん脇差を置いて諸肌脱ぎになった。痩せた背中には、歴戦を潜り抜けてきたと思しき傷が数多刻まれていた。
 男の背筋がぴんと伸びる。一瞬にして空気が締まる。
 武士は脇差を手にとると、深く息を吸い、吐くと同時に脇差を脇腹に突き立てた。瞬間、全身が瘧にでもかかったように震えた。武士の背中にびっしりと汗が浮かんだ。左から右へ。探るように、確かめるようにゆっくりと刃を引いていく。すでに、足元の畳には血だまりができている。最後に上に掻き上げて、脇差を腹から引き抜いた。
 介錯人のいない切腹は苦しい。腹を切り終えたら速やかに自分で首を刎ねなければならない。
 肩で大きく息をしている武士は、血塗れの刃を左の首筋に当てた。刀を持つ手が震えている。ここでやり損なうと見苦しくのた打ち回る羽目になる。腹を裂いてしまっているから腹に力は入らない。武士は腕の力だけで刃を支え、ひゅっと息を吐きながらひと息に頚動脈を断ち切った。
 ぶつりと太い糸が切れるような音がして、障子や壁、襖を真っ赤な血潮が叩く。
 武士の体がぐらりと前に倒れる。そしてすべてが終わった。表では子供らが遊び騒ぐ声がする――
 それが新選組最後の隊長の最期であった。


 閉じていた目を開けば、そこは依然としてがらんと何もない、長屋の一室であった。そこに倒れていた武士の姿はもうない。しかし、己の目には確かにそこにいた男の最期がはっきりと見えた。
 「どうして・・・・・・」
 答える者もないのにそうつぶやかずにはいられなかった。
 その男が流刑先から東京に戻って来たことは仕事柄早いうちから知っていた。会いに行こうと思っていた。明日行こう、そう思いながら気づけば一月、二月と過ぎて行ってしまった。男の居場所ならすぐに知ることができる。なにも急ぐことはない。そう、自分に言い訳して。
 流刑先で妻を娶ったと聞いた。新しい人生を歩む決意をしたのだと思った。もう、かつての仲間が死ぬところを見ることはないのだと思っていた。
 「どうして・・・・・・」
 すぐに会いに行かなかったのだろう。
 わざわざ東京に戻ってきて死を選んだのだろう。
 死なねばならなかったのだろう。
 「どうして・・・・・・・」
 明日をも知れない毎日は終わったのではなかったのか?最後の戦いから二年、あんなにたくさんに血を流してきたというのに、明治という時代はまだ自分たちの血を欲するというのか。
 「すまない・・・・・・・・!!」
 膝から力が抜けた。こんな世の中だから、強かに生きてやると嘯いてきた。だが、それが虚勢であることは己自身が一番良く知っていた。
 「相馬っ――!」
 たぶん己は怯えていたのだ。己の虚勢を見破られることを。政府の犬に成り下がったと蔑みの目で見られることを。
 明日がある。
 己は何と浅はかだったのだろう。まだ自分たちは戦いの真っ直中にいる。生きるという戦いの。今日死ぬかもしれない、明日死ぬかもしれない。一寸先はまだまだ闇の中なのだ。
 冷たい土間に拳を打ちつける。
 後悔はしない。
 会津に残った時にそう誓った。この先何があろうと後悔するような生き方はしないと。それがこの体たらくだ。自分自身が許せなかった。

 夕闇に沈む部屋の中に嗚咽する男の声だけが響いた。


 明治五年――元新選組隊長・相馬主計、自宅にて切腹。その理由はいまだ解明されていない。

闇の現

 血が騒ぐ―――

 夜の闇に浮かぶ文明開化という名の偽りの灯り。その灯りの下で夜毎狂騒が繰り広げられている。しかし、一歩路地を入ればそこには粘りつくような濃い闇が広がっている。

 「いやあぁっ・・・・・・・・やめ―――っ!!」
 女の細い悲鳴と下卑た男たちの笑い声が闇を震わせている。
 「早うせんか、次がつかえとろうが!」
 「急かすな、もうちぃっとまっちょれ・・・・」
 西国訛りの男たちが闇の中で蠢いている。女の白い脛が闇を掻いている。

 そう、こんなことはここでは珍しくないこと。かつて徳川将軍のお膝元で栄華を誇っていた江戸は東京と名を変え、武士が肩で風を切って歩いていた江戸の町には、西国や西南から来た何者ともわからぬ乱暴者共が我が物顔で歩いていた。
 敗者は勝者に蹂躙されても文句は言えない。

 だが、それでいいのか―――?

 敗者はただひたすらに頭を垂れて嵐が通り過ぎるのを待つしかない。

 否。断じて、否―――!

 左手で短刀の鯉口を切った。
 女を犯して満足した男たちが路地から出てくる。

 刺して、抉る。
 人を殺すことなどこんなにも易い。

 一人目が声もなく絶命する。突然崩れ落ちた仲間に後ろにいた男がぎょっとしたように駆け寄った。
 「おい、どうしたっ?!」
 近づいた二人目の心臓を抉る。二人目もその場に倒れた。さすがに最後の一人は何が起こっているのか理解したのだろう。男は震えながら腰に差した刀を抜こうとする。こんな狭い路地で大刀を抜くのは自殺行為だ。
 足元に倒れている死体をまたいで震える男を一歩、また一歩と追い詰める。
 「や、やめろ、来るな・・・・・・・・」
 無理な話だ。
 二人の男の血に塗られた短刀を握り直す。
 その時、男の背後から白い手がにゅっと伸びた。
 「死ね・・・・・・・・・・!!」
 白い腕が男の首を締め上げる。男の肩越しに殴られて腫れ上がった女の顔。
 「死ね、死ね、死ね―――薩長の狗どもめ・・・・・・・・!!」
 「ぐっ――苦し・・・・!」
 般若のような顔で女は男の首を締め上げる。男の口が大きく開き、赤く膨れ上がった舌が突き出てくる。女の手を外そうと、男は白い腕に爪を立てて掻き毟った。しかし、女の細い手は万力のように男の首を締め続けびくともしない。
 男は口から泡を吹き、血走った白目を剥いて崩れ落ちる。
 倒れた男の後ろから、襦袢姿の女の全身が現れた。剥き出しになった乳房に血に塗れている。女の顔は能面のように表情がない。虚ろな女の目がゆっくりとこちらを見る。

 「――あんた、おさむらいでしょ?」舌足らずな口調で女が声をかける。
 「なぜ、そう思う?」
 「見ればわかるよ。」女は顔を歪めて笑った。「てっきり江戸のお侍はみんな腰抜けになっちまったと思ってたよ・・・・」
 「ちがいねえ。」思わず苦笑する。
 女は覚束ない足取りで近づいてきた。目の前に立った女は右手を差し出した。
 「よこしなよ、その短刀。」
 「なんだって?」
 「そんな物騒なもの持って、羅卒に捕まったらどうすんだい?」
 「俺ぁ逃げ足は早ぇんだ。」
 「いいからよこしなよ――下手人が見つからなけりゃ、あんたじゃない他の誰かが疑われることになるだろ?」
 「どうするつもりだ?」
 女は路地の奥を振り返った。闇に慣れた目に、壁に凭れるように座っている男の姿が映った。
 「あたしにはもう、何もない――亭主も死んじまったしね・・・・・」
 女は御家人崩れだという。幕府の瓦解で職を失い、幕臣だったことで新政府で新たに職を得ることが出来ず、慣れぬ人足仕事をしながら夫婦二人でようよう糊口を凌いでいた。金も地位も御家人としての誇りも失って、身一つしか残らなかった。それでも、夫婦仲はよかったのでがんばってこれたのだ。その夫が今そこで死んでいるのだ。
 「あいつらはあたしの目の前で笑いながら亭主を切り刻んだよ・・・・殺せるならば、あたしが殺したかった。だから、こいつらはあたしが殺したようなもんさ。」
 だから短刀をよこせと手を差し出す。
 顔は腫れ上がり、服もボロボロ、髪はばさばさに乱れているのに、その女の姿は美しかった。男を絞め殺した血だらけの手に短刀を鞘ごと渡す。
 「ねえ、あんたの名前訊いてもいい?」
 女も本気で訊いたわけではないだろう。適当な名前を名乗ってもよかった。だが、その時、どうしても本当の名乗らなければならないと思った。
 「―――新選組三番隊長、斎藤一。」
 二度と使わないと思っていた名であった。女が目を見開く。
 「嬉しいねェ・・・最後に会った男が新選組なんてねぇ・・・・」
 女は笑った。
 「さあ、行っとくれ。あたしはケリをつけるから。」
 どんなケリをつけるのかは訊かなかった。女の声に押されるように背を向けた。最後にもう一度振り返った。
 「やっぱり江戸の女はいい女だ。」
 「当たり前さ。」
 女はもう一度笑った。
 その笑顔は修羅のように凄絶で、菩薩のように慈愛に満ちて美しかった―――


Fin

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