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都内の電車の中で、こんな光景を目にしました。
某月某日、確か山手線、立っている人がそこそこいる車内。
幼い二人の子どもをつれた若い夫婦が、ドア近くに立っていました。
父親はベビーカーを掴んでいて、母親の方は2歳前後?の女の子を抱いていました。
電車が動き出して、しばらくしたら、母親の立っている横の座席に座っていた初老の女性が、
その母親の肩をトントンと叩いて、ポケットティッシュを渡しました。何か言いながら。
私の場所からは、声は聞こえなかったのですが、みると、振り返って、ティッシュを受け取った母親が
恥ずかしそうに、恐縮したようにお辞儀した後、抱いていた女の子の鼻水を拭いていました。
女の子の顔は母親の肩の上にのって、母親の背中の方を向いていました。
ちょうど、初老のご婦人からはよくみえる位置だったんですね。
その後ご婦人は、手にした、小さくたたまれた新聞の記事に再び目を落としていました。
何事もなかったかのように。
電車が次の駅に止まりました。
喪服を着た親子4人連れの家族が乗り込んできました。
下の女の子は3歳くらいだったでしょうか。父親はディパックを背負っていました。
母親は細身の人でしたが、疲れ切ったような顔が、彼女の身体をより一層頼りなくしていました。
そのドアの近くに腰かけていた欧米人の男性がさっと立ち上がって、「どうぞ」と
流暢な日本語で席を譲りました。
さっきの初老の婦人とは斜め向かいの少し離れた席でした。
母親は頭を下げながらゆっくり腰を下ろしました。
その欧米人の男性は、ベビーカーに女の子を乗せ、上の男の子は父親と何か話していました。
パパ一人で、二人の子どもとお出かけ?ママはどうしたんだろう?なんて、どうでもいいことを考えながら
私はベビーカーの女の子の可愛い仕草をみていました。喪服の家族が乗り込んでくる前のことです。
混んでもいないけど、空いてもいない電車の中の風景です。
皆それぞれの場所に行くために乗っているんでしょう。
車内におだやかな優しい空気が流れたような気がしました。
私はその時、少し落ち込んでいました。
おだやかな、やさしい空気におもいがけない場所で触れて、
少し元気を貰いました。
実は、そのご婦人の顔には見覚えがありました。
どうしても名前は思い出せませんでした。
TVの中でみる人でした。
数日経って、やっとお名前をみつけました。
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2009年の記事より
以下は10年前の記事です。
初めてこの国に住んだ時のインドネシア語の先生は確か40才前後の大学の先生だった、どちらかというとおしゃべりな人で、日本語も達者だったので話がよく脱線していた。
実は彼の口癖で未だに気になっている言葉がある、それは”社会人”という言葉である。 例えばひとつの単語が、使われる人によって違いがあることを説明する時、例をあげれば「ちょうだい」という言葉、おそらく大人同士ではあまり使わない、対子どもの場合がほとんどだろう、そんな時彼は、 「社会人はですね、あまり言わないですねー」とよく言っていた。
今でこそ直訳という観点で考慮するなら、言わんとすることはよく理解できるのだが、その時はこの”社会人”が気になって気になって、他の話題になっても上の空だった。 日本語の場合このような場面では社会人とはあまり言わない。やはり”大人同士とか”親しくない間柄”では、 あまり言わないですねー、と言うべきだろう。
上の話とはちょっと意味合いが違うのだが、自分の職業柄、巷で使われる”複雑骨折”という言葉が気になる。 医療従事者にとっては当たり前のことであるが、これは骨が複雑に折れている骨折のことではない。 骨折した人がいて、その時の様子を誰かが話す時、もう勘ぐらなくても、9割がた複雑に折れたという意味でこの言葉が使われていると察するようになった。 あまりににも多くの人が使っていると、いちいち訂正するのも面倒くさくなり、無駄な抵抗はしない!と思うようになった。 カルテに記録する必要がある人が喋っている訳でもないし、公然の間違いとでもいったらいいか。 複雑骨折とは”傷(開放創)と骨折部位がつながっている骨折のことである。” 傷のない場合の骨折と違って、骨の感染を防ぐという意味で慎重に対応しなければならない。 一度骨髄炎になってしまうと完治するのはなかなか難しいからである。
ちなみに受傷後6〜7時間以内ならゴールデンアワーといって感染する可能性が低いので、それまでにきちんと処置することが大切である。 年をとるにつれ、若い人たちの言葉(特にわが娘の)も気になって仕方がないが、生き物である言葉は進化し続けるだろうから、逆に本帰国したときにわからない日本語がどっさり出てきているのではと気になるどころか心配になる。 この記事を書いてから、10年も経ったなんて、信じられないのですが。。。
今回、久しぶりに長い期間、日本に住んでいて、本帰国ではないものの、まさにこの記事を書いた時危惧していたことが起きています。未だに、外国人になって、日本を見ている気分です。
で、タイトルの「握手」、日本人はどんな時握手するのか、これも又、さっぱりわからなくなっていました。
日本人って、どんな時握手しますか?
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今週月曜日、八重洲ブックセンターで久しぶりに雑誌を買った。
目的のものは品切れで、結局買えなかったけれど、こちらは残り2冊だけだった。
仮に品切れでも、取り寄せすれば、或いは〇マ〇〇で購入すればいいことなんだけど、
本屋で捜しまわって、手に取って、感触を確かめて、パラパラめくって、目次に目を通して。。。
そういう経過を楽しみながら選ぶのが好き。
こちらは翻訳家でアメリカ文学者の柴田元幸さんが、責任編集を務める文芸誌。
息子が紹介してくれたもの。
紹介のHPにはこう書かれていた。
15号まで広告なしで赤字も出さずにやってきた。
柴田さんが、インタビューに対して答えていたのが以下。
言葉は真実を伝えるためのものだという前提が今まではあったが、その前提がなくなってきている。
以前は「嘘をつけば世の中機能しない」という考えのもとに何らかの歯止めがあった。言葉を公の場で発する時には新聞や本があり、色々な人が関わることでチェック機能も働いていた。今はチェック機能なしに全世界に
情報を流せる。実はチェックが働いていた方が幸運な状態だったのかもしれない
ー言葉の発し手も受け手もモラルがより必要になりますか。
自分も含め世の中は本当にモラルをもとめているだろうか。「世の中全体がうまく行った方が良い」という視点に立てば、モラルを求めた方が良い。しかし今は、そう考える余裕のある人がどれだけいるだろうか。
ーそのような時代に教養として読むべき小説はありますか。
その問いが成り立たなくなっている。小説と教養がセットだった時代は過ぎた。
教養とは、人間のことを知ろうとする試み。
しかし、今は「人間の中身なんて知ってもしょうがない」というシニシズムがあるように思う。
これは健全なことかもしれない。実際に今、人間が地球に対して行っていることを見ても、そんなに賢い
とは思えないし
柴田さんのことは、なんとなく、知っていたけれど、こういう考えの人だったんだ。
共感する部分が多い。
偶然にもこの号の特集、旅行記に池澤夏樹さんが「すばらしい新世界」を書いた時の旅行記が掲載されている。
偶然が偶然を呼ぶのは必然?
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6月初めに、東北を旅しました。 あれから8年の月日がながれたのですね。
行って、この目でみて、初めてわかったことがありました。
報道だけでは、決して気づくことなく、知ることもなかったことでした。
ブログ引っ越しの手続きしました。
上手く移せていたら、お知らせいたします。^^
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告白
人間が好きなこと
だれにつたえよう
いつ告白したらいいの
好きなこと秘密にしても洒落にもならない
今日はかたつむりに
明日はそよぐ風に
あさっては信号機に
そんなことってある?
きっと私はその前に人間でなくなってしまう
人間が好きなこと
呼吸をしているうちに
確かに何かに
伝えなくちゃ!
荒川線沿線で薔薇まつりをやっているとか、お天気もいいので行こうかなあと思ったのですが、
ちょっと遠いかなあと、近所を散歩していたら、沿道にこんなきれいな薔薇が咲いていました。
薔薇を眺めていたら、こんな詩が浮かびました!
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