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そんな私が、唯一、非常に楽しみにしていた講義がありました。
それが、カウンセリングの講義でした。
講師の先生は当時、確か鉄道弘済会をはじめとした現場で活躍されていて、
雑誌の記事にもよく出ていました。先生に憧れて、一時はカウンセラーになりたいと思ったほどでした。
最近読んだ、河合隼雄さん、谷川俊太郎さん、大江健三郎さんの共著
「日本語と日本人の心」の中で、カウンセリングを行う中で浮き彫りにされた、日本語の特性を
河合さんがおもしろく語っている箇所が上の写真のページです。
この本は以前にも読んでいるのですが、その時は、全く別の個所に線を引いていました。
大切な時でさえ、主語や目的語なしで自然に会話が成り立つ日本語!
こういう角度で日本語と英語を眺めると、すっかり思い込んでいた「私」が疑わしくなってきて、
英語の”I"に相応しい日本語はあるだろうかと訝しくなってきました。
それにしても、河合先生ほど、専門的な難しいことを誰にでもわかるように、しかもユーモアを交えて
細かく砕いて、お話しして下さる方はなかなかいらっしゃらないですね。
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φ(・_・)読書ノート
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常日頃から自分が言わんとすることを書いてある本に出会って
よくぞ書いてくれたと思うことも少なくなりました。
それよりも、なるほどそういう考え方もあるのかと、少なからず刺激を受けることの方が
圧倒的に多くなりました。
この本はその両方がうまくバランスがとれていて、読んだ後も愉快な気分になりました。
今から18年前に発行されたものですから、 今現在の日本語がどのように変化しているか、日本から長く離れている私などにとっては
想像もつきません。
特に共感した内容を少し書いてみます。
まず、「わざとヘンテコを狙うCMことばの空おそろしさ」という題で書かれていたことです。
イアン、アーシーという日本在住のカナダ人の翻訳家からみた、日本語の現状(といっても18年前)。
翻訳家は日本人以上に日本語についての知識が深いはずと私は思っていますし、
日本人以上に日本を客観的にみていることは言うまでもありません。
広告のコピーは、日本語の文法も伝統も無視して、ただただ気分的によさそうな語を並べる。
人目につきやすいようにわざとルールをやぶったりするのだ。
日本人は欧米にコンプレックスを持っているんでしょうか。☚これについては今現在はどうなんでしょう?
著者の清水義範さんはアーシーさんのこの考えに対してはとりあえずそう言っていいでしょうと答えています。
もちろん、日本人が外国人に対して持つ感情はいろいろと複雑なのだが何となく、
欧米に対しては憧れの気分があり、そのせいで
広告にカタカタがあきれるほどでてくると言えるだろう。
どうなのかなぁ、正直私はそんな風に思ったことなどなかったので、広告の作り手側の人に一度聞いてみたいものです。
「よいものを言うときはカタカナで」このムードは近頃では政治家や官僚にまで広がって、
自分達の会派にリベラルなんとか、と名をつけたり、アセスメントを重視したり、交通アクセスについて
考えたりしているようですが、政治までが広告の語法で語り始めているわけで、要注意である。
政治の分野まで…なるほど…私の場合単純に、インドネシアと比較しただけのことですが。
この国は、急速に英語への置き換え(と言っても、英単語の語尾を変えて、インドネシア語として使っているわけですが、意味は英語と全く同じという点は日本の場合より優れていると思います。)
その現象を目の当たりにすると、「自国の言葉に対する愛着や、自尊心はないんかい!」と
つっこみをいれたくなるのです。
だから、カナダ人のイアン.アーシーさんのお気持ちはよくわかります。
アーシーさんはさらに鋭いことを言っていて、広告言葉は品詞すら勝手に変えてしまうと
「旬のおいしいが映えるちょっと贅沢なビール」
「あなたのキレイを応援します」
「生ビールな、ヤツ」
「デジタル写真をカラリオしよう」
などをあげています。
これに対しては著者は日本人は俳句や短歌に馴染んでいるので、言葉で何か新しさを表現するのが
得意だし。鑑賞もできる、広告コピーは別の形の俳句もどきだと言えるほどと書いています。
そう言えば、一時帰国のとき、TV番組よりもCMの方に興味が湧くのは、こちらの生活で日本語に飢えている
私の潜在意識かもしれないと思わず納得しました。
それから、もうひとつ言えることは、日本人はなぜだかあきれるほどに新しいものが好きなのだ。
新しいものだと言われると身も世もなく欲しくなっちゃうのである。だから、去年とほぼ同じ味のビール
でも今年のは新しいと言わなければならないのである。その言い方には文法を無視してまで
新しい言い方を取り入れるのである。そうすると魅力的なのだ。
新しい服を着る時の興奮くらいなら、理解もできますが、そんな生易しいものではなく、
人生の中で大きな空間と時間を占める、畳や妻に対してさえも新しいものを賛美するという
歴史的にもずっしりとした根拠があったわけですが、改めて、外国人から指摘されると
ただただ、恐れ入りましたというしかありません。
こんな風に外国人の目からみた考え方も交えての、笑える日本語の側面満載の本です。
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「この世界の片隅に」というアニメ映画が人気を博しているとのこと、ハリウッド映画は アメリカと同時に封切されて、しょっちゅう観ることができますが、残念ながら邦画はほとんど
こちらの映画館では観ることはできません。
戦時中の庶民の日常が丹念に描かれていると聞きました。
戦時中の庶民の日常を描いた文学作品というと、まっさきに吉村昭の名が浮かぶのですが、
戦争文学という分類があることを知りました。
梅崎春夫の「桜島」を読んだ時です。
鹿児島出身の私にとって、桜島が戦争に結びつくということは、それまでありませんでした。
鹿児島県人にとっては知覧の特攻隊の基地の方がはるかに、戦争と結びつく地名だったからです。
「桜島」は題名こそ知っていましたが、まさか、あんな内容だったとは、作品名だけ覚えさせられた
中学生の頃は想像だにしませんでした。
戦争が、引き起こす、人格の変貌の不気味さをじつに丁寧に、分かりやすく描いている作品でした。
そして。。。
今日は太宰治の戦争文学?のひとつといっていいいような作品を読みました。
青空文庫を漁っていて、何気なく読み始めた佐藤春夫が作品の中で、
太宰のことを褒めちぎっていました。
これがその一部分です。
「稀有の文才」と言うタイトルで、太宰治について書いています。
無用な気取りや、はにかみなどの今さらならぬ根本的な不満は別として、その短篇の構成にも文章の洗練の上でも、自分は再読し三読して、毛を吹いて疵を求めるやうに意地悪く、といふよりも依估地になつて、かかつたが結局どこにも欠点と思しいものは見つからなかつた。
興味をそそられて、早速「佳日」という太宰治の短編を読みました。
冒頭の部分だけ紹介します。
これは、いま、大日本帝国の自存自衛のため、内地から遠く離れて、お働きになっている人たちに対して、お留守の事は全く御安心下さい、という朗報にもなりはせぬかと思って、愚かな作者が、どもりながら物語る
ささやかな一挿話である。
内容に触れるのはやめます。
一気に読めます。梅崎春夫が描いた戦争とは全く異なる、文学の中の戦争、いや、戦争の中の文学です。
どちらも戦争という魔物に翻弄されながらも、ひたむきに生きる人達を、丁寧に深く優しい眼差しをむけながら
描いていることだけはまちがいないと感じました。
文学の力というものを存分に味わいました。
笑えて泣ける太宰の作品です。
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昨夜、iPS細胞を利用して、心筋をつくることに成功したというニュースを見た。
映像ではミミズの太っちょ版のようなものがシャーレの中で踊っていた。
いずれは「心筋シート」なるものを作成して心臓病の治療に利用できるようにするとのこと。
「ついにここまできたのか」
と思うのと同時に、踊っているようにもみえるシャーレの中の筋肉細胞?をみて
つい最近読んだ海野十三の「生きている腸(はらわた)」を思い出した。
知らなかったのだけど、海野十三は日本のSFの始祖となった小説家らしい。
いつものように、青空文庫を眺めて、174作品もある彼の書いたものから、あまり深く考えもせず選んだのがこの作品。
何とも不思議な魅力、雰囲気を醸し出していた。
主人公の医学生吹矢隆三は腸のことばかりを考えていて、ついに、刑務病院から
死亡直後の人の腸を手に入れ、それを部屋に持ち帰って、育てるという話。
腸は所属していた人体を離れて、隆三の部屋でみごとにひとつの生命体として生きるようになる。
餌を与え、なんと部屋の中を散歩してまわるようにまでなる。そして、隆三はこの生命体に
といっても腸なのだけど名前までつけて可愛がる。
何と言うグロテスクな内容と思われるかもしれないけれど、医学生の彼があたかも実験をするように
淡々と描かれているので、淡々と読んでしまう。
そして、結末はいかにも文学的な終わり方。
うーん、SFの始祖、うなずける。
SFと言えばアメリカを代表するような宇宙を扱ったものをつい思い浮かべてしまうのだけど
同じ宇宙は宇宙でも人間の身体の宇宙をユニークに扱っている作品に初めて出会った。
はるか天体の宇宙のことも彼の生きていた時代(1897〜1949)とは比べものにならない位、
わかったことも多い今日。
私達の身体の中の宇宙もどんどん解明されていっている。おそらく彼には想像もつかなかった位。
なのに、こんな小説を書き残している、文学の魅力と役割のようなものを改めて考えてみる。
そう言えば、同じく昨日、ラジオで五木寛之氏が、今の医療は進歩が速く、3年前の内容がもう役に立たなくなってきているという話を医師から聞いたと言っていた。
「事実は小説より奇なり」と昔から言われてきていることだけど、文学の中の想像と事実は
単なる想像と創造の違いになるだけの時代がやってくるのかもしれない。。。
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かつて、使ったことのない表現ですが、この作品はまさに私にとっては鑑賞するとしか言いようがありません。
熊本の水俣出身ということにも興味がわいて読みました。
とくにじっくり味わいたい部分を抜粋。
全体草なンか余計なものが何になるのか。何故人間が除草くさとり器械にならねばならぬか。除草は愚だ、うつちやつて草と作物さくもつの競争さして、全滅とも行くまいから残つただけを此方に貰へば済む。といふても、実際眼前に草の跋扈ばつこを見れば、除とらずには居られぬ。
隣の畑が奇麗なのを見れば、此方の畑を草にして草の種を隣に飛ばしても済まぬ。
近所の迷惑も思はねばならぬ。
そこでまた勇気を振起ふりおこして草をとる。一本また一本。一本除とれば一本減るのだ。 草の種は限なくとも、とつただけは草が減るのだ。手には畑の草をとりつゝ、心に心田(しんでん)の草をとる。 心が畑か、畑が心か、兎角に草が生え易い。油断をすれば畑は草だらけである。吾儕われら
の心も草だらけである。四囲あたりの社会も草だらけである。
吾儕は世界の草の種を除り尽すことは出来ぬ。除り尽すことは、また我儕人間の幸福でないかも知れぬ。然しうつちやつて置けば、我儕は草に埋もれて了しまふ。 そこで草を除る。己わが為に草を除るのだ。生命いのちの為に草をとるのだ。敵国外患なければ国常に亡ぶで、草がなければ農家は堕落して了ふ。 徳富蘆花の「草とり」という短い作品です。
「不如帰」は昔読んだような記憶があるのですが、こんな作品もあったんです。
今、明治大正期の作品がおもしろい、マイブームです。
小説ではないのに、物語を読んでいるような気分にもなりました。
日本語を鑑賞したいと思ってもなかなか、いい作品に出会えないのですが、
幸運でした。
楽しいメタファー、私にとってはそう言いたくなるような作品です。
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