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ハナミズキ この街の人が 愛する花です 市内のメインストリート 一般のお宅 あちこちで 見かかる花 近所の お宅のハナミズキが 咲きました 昨日の 悪友の感は やはり針灸のゆり戻しのものの様 若干の だるさはまだ残るが 熱は平熱に 昨日からの 異変はなりをひそめた。
気がかりといえば 力の衰退。
特に左手の 握力の無さが 目立つ。 普段持ち歩く 肩掛けかばんの中の 小さなバックが 重く感じる 普通にもつと 握力がかなり落ちているようで するりと 手から落ちてしまいそう。 腕に通し 格好は悪いが ポケットに手を入れ バックが落ちないように 持ち歩く。 時たま 悪化の時にに この握力のなさ 力の無さが 顔を持ち上げる 普段 握力が 10k満たない私。 無い時は 3kとか 4kとかになる 握力の落ちは 色々な不具合を生じるが まあ これも繰り返される 顔だ 握力の無さを 補うのが 曲がらぬ指だとは なんとも 皮肉だけど 曲がらぬ指が 引っ掛かりを作り 落下も防ぐ 亡くしたものも 沢山 でも 得た知恵も 沢山 残された 機能をフル活用
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2008年04月27日
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月光 鬼塚ちひろ I am GODS CHILD この腐敗した世界に堕された How do l live on such a field? こんなもののために生まれたんじゃない 「理由」をもっと喋り続けて 私が眠れるまで 効かない薬ばかり転がっているけど 不愉快冷たい壁とか ここに声も無いのに 一体何を信じれば? 哀しい音は背中に爪跡をつけて 時間は痛みを加速させて行く I can’t hang out world こんな思いじゃ 何処にも居場所なんて無い 最後になど手を伸ばさないで 貴方なら救い出して 私を静寂から I am GODS CHILD 哀しい音は背中に爪跡をつけて I can’t hang out world こんな思いじゃ 何処にも居場所なんて無い 私の大好きな 鬼塚ちひろの 歌詞である いきなりなんだ? と思われた方は ごめんなさい。その頃の 私はこの詩を聞き 涙を流していた。命を救われ海より帰ってきても 私には居場所が無かった。(いや そう感じていただけかもしれないが) 何時また壊れてしまうかもしれない自分が居た。 私は、子供達をお父さん子に育ててきた。意識的に、父親は絶対。父親が白のものでも黒と言い切れば 通る世界に。それは 間違った子育てではないと今でも自信が有る。どんな小さな物でも 買えばお父さん有難う。と見せる感謝させる。父親に感謝と 尊敬を持たせ続ける努力をしてきた。それは 当然の事だと思うから。父親は絶対的存在 子供達は 素直に忠実にそれを身に着けて育った。だから 父親の目線は 子供達の目線にも影響を与える。有る日 子供達の目の色が 父親のその私への目線である事に 愕然となった。私の最後の砦 子供たち。 そう 思わせるほど 前回の記のことは 私たち夫婦に大きな溝?すれ違い 目線の位地の違いを生んでいた。修復するほどの力は その時の私は持ち合わせていなかった。 物が壊れるたび 私は自分が自分で無くなるのを感じ 幽体離脱のように 天井からそんな自分を眺めている。そんな 日々。生きるには 生き続けるには この場所を離れなければいけない。そうしなければ またいつ発作的に自己破壊を・・・ そんな状況下。 前回の記のことがらを知るわけではなかったけれど、ネット上の友人が、厚生省の難病治療にかかわっている方とお知り合いで 病を心配された友人がお願いしてくださったようで 幾つかの中央の病院を詳しくリストアップしてくださり、通っていた病院への恐怖と不信感でいっぱいになっていた私は 故郷を後にする事になった40年近く、故郷以外を知らぬ 私には 少しでも遠く A(元 夫)から逃れたかったのも手伝って。とりあえず 通院とう名目で 仕事は やめざる終えない。休職扱いにしていただいていたが、社長より待つから といわれたが、もはや 身体を使った 作業が出来る私の身体ではないことは自分自身が一番解っていた。会社の計らいで 失業保険も降りた。これは助かった。 衣類と本とパソコンだけを持って 私は中央の病院の有る近くにウイクリーマンションを借り 通院する事になった。もう 故郷の地は踏まぬ覚悟で。 子供を手放すという事は 私にとっては捨てると同じ行為である。どんな理由を並べ立てようが 行った事は 同じ。でも 勝手では有るが、母親である事だけは 捨てたくは無かった。 しかし 高校生 中学生になる娘達には 娘達の世界が有る。友人も 夢も含めて、 先の見えぬ私が 仕事も無く通院する私が 子供達を連れて行くことは出来ない。子供達は物ではない。私の所有物ではない。父親だって 子を愛する心は 母親以上に有る。経済力 これからの学費 彼女達の夢 そんな事を考えると 私は 彼女達を連れて行くわけにはいかなかった。遠くそれを支える事しかできないと決めた。生きていてくれさえすれば良い。まして Aは 子供達無しで 生きていける様な人では無い。もし 子供たちを私が連れて行けば 彼の先は見えている様なきがした。そして 安心して子供たちを任せられる人である事も知っていた。 離婚届に サインしながら お互い それが必要になるまで それを出さないと決め 私は中央へと 出発した。Aは その地まで 車で荷物とともに 私を運んでくれた。 その後 私達は 納得の上で 書類を提出する事になる。私の付けた条件は ただひとつ子供達のこと。いつでも連絡も 会うことも そして学費の援助も 自由に出来る。それだけ 後は何も ない。持ち出した物も 洋服と本とPCのみ。全ての経済状況を把握していた私 それ以上の何かを付加する気はさらさら無かった。 18年の歩みに 幕を引いた。夫婦の間に どちらかが悪い?どちらかが正しい?どちらかのせいなどと言う事は無いと思う。お互いの積み重ねなのだと思う。私達は 不幸にも 前回のことが切っ掛けになり よりそう線路が 離れてしまったけれど、彼への怨みも無く、ありがとうの言葉しか浮かばない。それほど私は世界一幸せな時間を持っていた。最期の方は 少しばかり辛い経験をし しばらく恐怖が 有ったけれどたけ。わたしの18年間は 本当に幸せと思える時間がいっぱいで、素直に有難うがいっぱいな時間。 今更ながらに 願う。 医療にかかわる方に 命だけでなく 心も預かっている事を忘れないで下さい。 私が 唯一 病魔に襲われた事を憎むとしたら この事のみ (次回へ続く)
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