TO ASHITA

明日はいい顔♪ 画像とうを黙って持ち帰りしないでね。全て著作権はAshita に有り。

悪友の足跡(過去を振り返って)

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前回の記事(http://blogs.yahoo.co.jp/kamihuusenn_sora/59466595.html) より続き。
 また この記事への投稿が遅くなっています このプログを書き始めた時点まで なんとか進めないと (笑)

対症療法として 麻酔科による神経根ブロック注射がかすかな希望となり残っていましたが 帰る場所も行く場所も そしてリュウマチの疑いでの難病指定を継続できなかった私は、失業保険の給付のタイムリミットもあります。

そんな時間を過ごすにも 金銭的壁がそそり立っていました。仕事に就かねば 治療どころか 住む場所も その日の糧にもありつけなくなる。これは大きな問題です。痛い 動かないをどんなに叫べども 身障者でもなく健常者でもない私、何の保護もない。仕事をしない=生きる糧を得られない=餓死して死ぬしかない。といって 今まで誇りを持ってきた仕事を続ける事は不可能。座って 精密でない仕事・・ 製造業はもう無理。事務系のものを探さなくては・・・
麻酔科のブロック注射を受ける間。私は 住んでいた場所の近くに小さいが、wordやexcelの試験を生徒でなくても受けられるPCスクールをネットから見つけ出した。とても受講を受ける余裕などない。市販のテキストと問題集を それぞれ買った。ExcelやWordの資格を取ったからといって 即仕事に結びつくとも思えないが、PCが 少しでも扱えるという証明にはなってくれるであろうと。その当時MUSのExcel、Word 初級の資格二つを 2ヶ月をかけて取得した。今までの技術職のような 自分の腕に頼る細かな仕事は出来ない。 新たな分野の仕事に挑戦して行くしかなかった。
この資格取得には PCが壊れた時 自分のノートを貸してくれたネット方、格安で修理してくれた方、風邪を引いて高熱を出し 食べる物も買いに出かけられず居た私に お弁当を 食料を届けてくれた方。見知らぬ土地でネットからの友達になった多くの人に 支えられた上で 成り立った物で有る事を 深く感謝します。

 仕事を探すといっても、確かな病名も無く、健常者でも、障害者でもない私。その頃、人あまり状態の状態。若くもなく年齢的にも職自体が少なかった。ハローワークでも、障害者手帳があれば・・少し違うのですがと言われたが、病名もない精神的なものといわれるものに 障害者手帳など交付される、いや 医師の診断書すら書いてはもらえない。

 そんな中 東京のある会社に就職が決まった。故郷を出た私は、40年余り故郷以外での生活はしたことは無い。どんなに遠くてもどんな地でも 私には同じである。意を決して 初めての地、初めての仕事に付く事になった。
 麻酔科の先生は 万が一を考え宛名の無い紹介状を書いて下さったが、ブロック注射も思うようにその効果は無く、もう 精神的なものという言葉は聴きたくなく。いや 病院で痛いという言葉を言う事すら怖かった。と、共に 病院へ通う余裕も無かった。

 これから しばらく病院へ通うことを諦めた私が居ました。 病院から出された痛み止めも底をつき、市販の痛み止めを買い 仕事に没頭することで 痛みから逃れた。逃れたと言うより これが 私なのだ 痛みを友達としても 松葉杖であろうと生きるためには、糧を得なければ、健常者と対等に仕事をこなさなければ 生きてはいけない。有るがままで生きていこう。 そう、決心しました。

 百数十枚の 履歴書を書きました。みな 資格を取ったりの意欲を認めてはくれましたが、松葉杖を見たとたん 答えは顔に書いていた。まして健常者の若い方が 仕事にあぶれていた時代・・・ 経営者が若い有能な方を選ぶのは当然なことでしょう。

 そんな中 東京に仕事があるからと 来て見ないかとネットの友人より連絡が有り、意を決して 面接へ。

 仕事は 私のまったく未知の世界の物でした。でも 作ることにかかわれる仕事。
社長のOKが出、東京での仕事が決まりました。

 
 

                    (次回へ続く)

前回の記事(http://blogs.yahoo.co.jp/kamihuusenn_sora/56269724.html)より続き。
 最近 この書庫が進んでなかった。反省・・ またボツボツと記憶をたどりながら記していきます



 対症療法として 麻酔科による腰の硬膜内ブロック注射と首もとの神経根ブロック注射が 1週間に1度 行われる事になった。まずは ワンクルー試してみようと言う事に成り、開始された。
朝一に予約を入れ ブロック注射が行われ、病院を出るのは 2時ごろであった。注射後 数時間 ベッドに横になっていなければならない。それは ブロック注射の副作用を考慮しての事.

 まず、硬膜内ブロック注射の前には、先に痛み止めの注射が打たれる(この痛み止めを打つのが 結構痛かったかも)。身体を出来るだけ丸くして 注射を受ける。痛み止めが聞いた頃、硬膜内注射が打たれる。間もなく 歯医者さんの麻酔が体中に広がっていく感じ。
 その後しばらくして 喉元への神経根ブロック注射が行われた。(これは 左右どちらかを選ばなければならなかった)目が真っ赤になる。
その効果は 正直良く解らない。痛みはなんだか解らなくなったような気がするが、体が歯医者さん麻酔状態で その不快さがなんとも やっとの思いで 部屋に帰り着きベッドに転がり込む状態。だるく ただだるく・・・その後夜から朝にかけて 歯医者さんの麻酔が切れるが如く、正常な感覚が返り始め 痛みも帰ってきていた。

 何度目かの 注射の時、硬膜内注射が行われた時の事、何時ものように麻酔が広がっていく感じ・・ いや なんだか変 そう思った時には 時遅く、手も足も動かない、異状を知らせるにも 声が出ない。うめく様に叫んだのを覚えている。TVのICU世界のようになんだか 体中に装置がついた。心電図 血圧計・・酸素マスク 点滴・・・・

 病院を出たときには 空が暗くなり始めていた。 電車にどう乗り 家にたどり着いたか 朦朧としていた。その夜と、翌朝 麻酔科の医師から様態を確認する電話と ことわりの言葉を聴いた。注射が深く居る事があり そういう事があるかもしれない それは説明では受けていた。だから 電話をくれた医師に噛み付く気は無かった。・・ただ 正直 あのまま逝ってしまうかと思った。しばらくは 指一本 目すら動かせなかった。

 次回のブロック注射の時 さすがの私も硬膜内ブロック注射は 二度と受けられる気分でなかった、それほど恐怖の時間だった。首もとの神経根ブロック注射だけが その後 行われたました。
 神経根ブロック注射においては、それほどの体全体の異常な感覚も少なく、その効果は 足の方にも影響を及ぼしているように思えた。ただ いかんせん その持続力は 翌日までの物でした。


                         (次回へ続く)



 中央の病院へは、紹介状が必要。私は それまで掛っていた主治医に紹介状をお願いした。膠原病である 多発性筋炎・強皮症の疑いという事で経過観察の身であった。経済的な面をも考え、主治医の配慮で、難病指定も経過観察ながら受けていた。主治医曰く、「他へ行っても 誰も認めてはくれないよ・・それでもというなら 書くけど・・」そんな言葉をもらった。紹介状と引き換えに。もうこの病院には もどれぬという事か・・・ 覚悟を決めて行くしかない。

 お金に余裕が無い。目的とした病院の近くには 住む場所を持つには余りにも経済的に困難。電車と徒歩で 通院圏内へ居住地を決めた。病院への電車の景色は とても私を助けてきれた。大好きな海を横に走るのである。病院への電車は 通勤の時間と重なり、座る事はできない。私は いつも 海の見える場所のドア近く 手すりとドアに身を預けながら海を楽しんだ。 楽しむことで 痛いを耐えた。歩くもようようの状態だが、見てくれでは、松葉をついた人くらいなのだろう・・ 誰も席を譲ってはくれない。それに 駅に着いた時 奥の方へいたら 停車時間内に降りられそうもない。必死で 駅へ着く度に その場所を、人の乗り降りの波で流されないよう固守した でなければ 松葉だけの電車は無理。 

 目的の病院。紹介されていた医師は、膠原病リュウマチの世界では かなり名の通った方であった。
ものの見事に 私の希望は打ち砕いてくれた・・・病名も病気の存在すらも 完全否定! それまで持っていた かすかな希望も全てが闇へと放り込まれた。精神的なもので 全てを片付けられた。今までそうで有った様に、心療内科へも回された。「勝手に病気を作るんじゃない!!」そうも 怒鳴られた。病院で痛いを口にすることが 怖くなった。
 ようよう 息をしている様な者にへである。もし、本当に精神的なもので有ったとしても、その精神を病んでいるであろう者に そういう言葉を投げつけるか?全てを掛けてきただけに・・ショックは大きかった。この 動けぬも 松葉も全て偽者?私の作り上げた想像の成果物?凹みのどん底。何度も繰り返し聞いた。精神的なもの この悪魔のような言葉に私は 何度奈落の底に叩きつけられたであろう。

時期を同じくして、難病指定の更新の時期であった。私は その有名な医師からは、その認定への送付書類を手にできなかった。更新できなかったのである。これは 希望と経済的困難に拍車を掛けるものであった。失業保険のみが 頼りであった。
でも、ここまで来て ただただ撃沈する事は出来ぬ。帰る場所もない。進む道も無い。意を決し、整形外科へ回してもらった。
整形外科の医師は、若き医師であった。これが 私を助けたかな?偉くなった医師は あくまでも一般的にだが、患者の話を聞かない。(違う医師も居るだろう事を 誤っておく)検査数値のみが 真実の目の様だ。結果に出ないものは、全て白なのである。
私の検査結果は ものの見事に何も異常は無かった。しかし 運よくだろうか、若き医師に出会った。彼は 私の話を一通りは聞いてくれた。
全身に及ぶ 引きつり、しびれ、浮腫、動かぬ。身体じゅうを 雑巾絞りに骨ごとあっているような痛み。そして以前ヘルニアに感じていた症状が その時左手に起きていた。MRIやレントゲンの結果。以前手術をした 右とおなじ場所の左側に わずかだけど その病変を見た。ただ ほんのわずかだった。可能性的な程度。その時、「今は まったくその段階に無いけれども、もし これが悪化して 手術等ことになっても 切るこちら側にも かなりの勇気が居る。」そう言われた。前回の手術で (後ろから切ったため、神経とかが有るべき場所に無い事もあるらしい)様は 悪化させても ここは切れぬと言うことね。ただ 全身に起きている。足に起きている それとは因果関係は あまり考えられないと言われた。(と言うか・・・ 首を思いきりひねられていた??)
しばらくの間(4ヶ月ほどだったか) この整形の医師が 私の新しい主治医となる。
対症療法として 麻酔科による腰の硬膜内ブロック注射と首もとの神経根ブロック注射が 1週間に1度 行われる事になった。まずは ワンクルー試してみようと言う事に成った。 

                             (次回へ続く)

                月光
                           鬼塚ちひろ

I am GODS CHILD
この腐敗した世界に堕された
How do l live on such a field?
こんなもののために生まれたんじゃない

「理由」をもっと喋り続けて
私が眠れるまで

効かない薬ばかり転がっているけど
不愉快冷たい壁とか
ここに声も無いのに            
一体何を信じれば?           

I am GODS CHILD          
哀しい音は背中に爪跡をつけて
時間は痛みを加速させて行く
I can’t hang out world
こんな思いじゃ
何処にも居場所なんて無い
  
次はどれに弱さを許す?
最後になど手を伸ばさないで  
貴方なら救い出して 
私を静寂から  
  
I am GODS CHILD
哀しい音は背中に爪跡をつけて
I can’t hang out world
こんな思いじゃ 
何処にも居場所なんて無い   

Haw do live on such field?




 私の大好きな 鬼塚ちひろの 歌詞である
いきなりなんだ? と思われた方は ごめんなさい。その頃の 私はこの詩を聞き 涙を流していた。命を救われ海より帰ってきても 私には居場所が無かった。(いや そう感じていただけかもしれないが) 何時また壊れてしまうかもしれない自分が居た。

 私は、子供達をお父さん子に育ててきた。意識的に、父親は絶対。父親が白のものでも黒と言い切れば 通る世界に。それは 間違った子育てではないと今でも自信が有る。どんな小さな物でも 買えばお父さん有難う。と見せる感謝させる。父親に感謝と 尊敬を持たせ続ける努力をしてきた。それは 当然の事だと思うから。父親は絶対的存在
 子供達は 素直に忠実にそれを身に着けて育った。だから 父親の目線は 子供達の目線にも影響を与える。有る日 子供達の目の色が 父親のその私への目線である事に 愕然となった。私の最後の砦 子供たち。
 そう 思わせるほど 前回の記のことは 私たち夫婦に大きな溝?すれ違い 目線の位地の違いを生んでいた。修復するほどの力は その時の私は持ち合わせていなかった。

 物が壊れるたび 私は自分が自分で無くなるのを感じ 幽体離脱のように 天井からそんな自分を眺めている。そんな 日々。生きるには 生き続けるには この場所を離れなければいけない。そうしなければ またいつ発作的に自己破壊を・・・ そんな状況下。
 前回の記のことがらを知るわけではなかったけれど、ネット上の友人が、厚生省の難病治療にかかわっている方とお知り合いで 病を心配された友人がお願いしてくださったようで 幾つかの中央の病院を詳しくリストアップしてくださり、通っていた病院への恐怖と不信感でいっぱいになっていた私は 故郷を後にする事になった40年近く、故郷以外を知らぬ 私には 少しでも遠く A(元 夫)から逃れたかったのも手伝って。とりあえず 通院とう名目で 
 仕事は やめざる終えない。休職扱いにしていただいていたが、社長より待つから といわれたが、もはや 身体を使った 作業が出来る私の身体ではないことは自分自身が一番解っていた。会社の計らいで 失業保険も降りた。これは助かった。
 衣類と本とパソコンだけを持って 私は中央の病院の有る近くにウイクリーマンションを借り 通院する事になった。もう 故郷の地は踏まぬ覚悟で。


 子供を手放すという事は 私にとっては捨てると同じ行為である。どんな理由を並べ立てようが 行った事は 同じ。でも 勝手では有るが、母親である事だけは 捨てたくは無かった。
しかし 高校生 中学生になる娘達には 娘達の世界が有る。友人も 夢も含めて、 先の見えぬ私が 仕事も無く通院する私が 子供達を連れて行くことは出来ない。子供達は物ではない。私の所有物ではない。父親だって 子を愛する心は 母親以上に有る。経済力 これからの学費 彼女達の夢 そんな事を考えると 私は 彼女達を連れて行くわけにはいかなかった。遠くそれを支える事しかできないと決めた。生きていてくれさえすれば良い。まして Aは 子供達無しで 生きていける様な人では無い。もし 子供たちを私が連れて行けば 彼の先は見えている様なきがした。そして 安心して子供たちを任せられる人である事も知っていた。
離婚届に サインしながら お互い それが必要になるまで それを出さないと決め 私は中央へと 出発した。Aは その地まで 車で荷物とともに 私を運んでくれた。


 その後 私達は 納得の上で 書類を提出する事になる。私の付けた条件は ただひとつ子供達のこと。いつでも連絡も 会うことも そして学費の援助も 自由に出来る。それだけ 後は何も ない。持ち出した物も 洋服と本とPCのみ。全ての経済状況を把握していた私 それ以上の何かを付加する気はさらさら無かった。
18年の歩みに 幕を引いた。夫婦の間に どちらかが悪い?どちらかが正しい?どちらかのせいなどと言う事は無いと思う。お互いの積み重ねなのだと思う。私達は 不幸にも 前回のことが切っ掛けになり よりそう線路が 離れてしまったけれど、彼への怨みも無く、ありがとうの言葉しか浮かばない。それほど私は世界一幸せな時間を持っていた。最期の方は 少しばかり辛い経験をし しばらく恐怖が 有ったけれどたけ。わたしの18年間は 本当に幸せと思える時間がいっぱいで、素直に有難うがいっぱいな時間。
 
 今更ながらに 願う。
 医療にかかわる方に 命だけでなく 心も預かっている事を忘れないで下さい。

 私が 唯一 病魔に襲われた事を憎むとしたら この事のみ

                           (次回へ続く)

医師に送った手紙より抜粋。
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略)
女性は、幾つになっても女性なのです80になろうと、90になろうと、その気持ちは持っています。昔 自決する女性が着物のすそが乱れぬよう。紐で足を縛ったと言われる心を持っています。本来なら 好きでもない人に髪の毛一本でも触れられたくは無い。先生も女性ならば その気持ち理解していただけると思います。
それを 自ら身を任せなすがままになるのは 藁にもすがる 少しでも良くなりたいそんな患者の気持ちでしか在りません。色々な民間医療(マッサージ・カイロティック等)
でリンパの元 手の付け根 足の付け根の少し恥ずかしい部分に集中して有ることは知っています。医療行為だと信じれるから 身を任す事が出来るのです。
 肌寒く リハビリ前からリハビリベッド待つ間毛布がかけてありました。Gパンのうえからでは 感覚がわからないのでと言う彼の言葉に少しやだなぁと思いながらも 私は従いました。なんの疑いも持たず。
リンパの元をほぐすのに 少しギリギリのところまでマッサージしますにも 疑いを持ちませんでした。洋服の上から民間医療でも そういう事はありましたから。ただ 普通は此処から先は 同じように自分でされてみてださい。とかならず 有る地点で言われますが。 恥ずかしいけれど身をゆだねるしかない。
 でも 次の瞬間 私頭が真っ白になりました。自分に起こっていることが 信じられなく なにがおこっているのか・・・ 下着の中に彼の手はありました それは絶対医療とはかけ離れた場所に。理解するに私は時間がかかった。何かの間違い?手が滑った?いえ違う!そうじゃない!! 叫び声すら上げられなかった。恐怖で頭が真っ白。助けを求めるにも お昼時 他のスタッフの姿は無く・・・手を払いのけるのが精一杯。
 私 その後どうエレベータに乗ったかも どう 歩いたかもわかりません。
気が付いたら 先生の診察室の前・・・何をどうしたらいいかわからない。身体がわなわなと振るえ 頭は真っ白で 何も考えられなくて でも 扉を開く事はできなかった。
 確かに聞いたのです。払いのけて 立ち上がった私に彼は言った 「触らせてくれて有難う」 その声がこだましていて ただ病院が怖くて 白衣が怖くて 逃げ帰ったように思います。その後どう精算をすまし 薬をもらい駐車場に待つ主人のとろころへ戻ったかも覚えていません。

 先生を信頼しております。でも病院が怖いです。これ以上通えません。
 ただ どうか解ってください。患者の心を 藁にもすがる思いで通っている患者の心を忘れないで下さい。』
 

すぐに電話があった。嫌な思いをさせた謝罪と、事実関係を調査するむね。これからの事を話し合いたいと。
その頃私体調の変化もあり 通院は短い周期で 薬も切れる。重い足を病院に向けた。
そこに待っていた言葉は、行き過ぎた医療行為だったかもしれないが 彼は医療の一環として新しい手法をためしたのだと。傷付けたなら申し訳ないとの彼からの言葉が伝えられた。先生から 彼を交えての話し合いが提案されたが 私はお断りした。あの恐怖がよみがえる顔など見たくも無い。今 彼の居るこの病院に居る事さえ 息苦しく私は恐怖を持っているというのに。彼の処遇を先生は聞かれた。まるで私が首にしてと言えば 首にすると言わんばかり。 それは 私が決める事では無いでしょう。そう言ったのを覚えている。医療に立つものとして 病院としてそれは決める事じゃないのか?私に彼の一生を決める言葉を言わせたいのか?私にこれ以上の荷物を背負わせるつもりか?私が 慰謝料でも要求するとおもったのか?裁判沙汰にされることをおそれたのか?
 私は ただ患者の気持ちをわかって欲しかった。藁にもすがる思いを。彼を制裁するとか、裁判を起すとか そんな気持ちのかけらも無かった。それは あくまで病院側のやる仕事だろう。これから先 同じ事が起こらぬように。
 他の病院に転院したくても たらい回しの精神的なで終わらされる私 他の病院へ移ることは不可能。友人に中央の病院を紹介されるまで 通院はやむ得ぬ事だった。理学療法士の彼が どうなったかは 私は今でも知らない。私の味わった地獄を少しでも想像で気のなら その事を土台にわすれないで 患者の心のわかる理学療法士に成長されていることを祈る。そして 私の前に二度と現れないで。
 後日中央の病院に見てもらうため 紹介状をお願いしたら 私以外に病名をくれる医師はいまのところいないと思うよ。といわれた。 それでもというなら 書くけど・・・と 医師。(確かに 経過観察でもかりの病名をもらっていた。その事には感謝せずには居られない)紹介状を書いてもらうと もう見てはくれぬ問う事か・・・そう 感じられた。

 
 全てをA(元夫)に話した。あの 悪夢の日。駐車場に待つAのとろこへ帰った時。
Aが助けてくれる そう 信じた。 Aは 何も言わず 黙って車を出した家へと。その事についてAが触れる事は それから先も一度も無かった。
 Aは Aで苦しんだと思う。何も言わないが 彼の精一杯の愛情だった。今は そう言えるけれど、その時 私には冷静な事を考える余裕は無かった。彼にすがり尽きたかった。大声揚げて泣きたかった。壊れそうな私を救い上げて欲しかった。何も言わないは 私には地獄だった。それは 彼に許されていないと思わせた。そんな状況下に身を置いた事。叫び声一つ発せれなかった事。悔しさと、情けなさとAに申し訳ない。自分が汚れた汚い物のように思えた。自分を責め続けた。少しずつ 私たちの間に隙間が出来ていく。病気と言う物を心から憎んだ。病気にならなきゃ こんな惨めな思いもしなくてすんだ
私もAも相手の心を見失っていった。確かに何かが音を立てて崩れていくようであった。
Aは 人に直接的に暴力を振るう人ではなかった。ただ 物に当たる人であった。昔から
星一徹のように ちゃぶ台・・(テーブルが)ひっくり返る事だってあった。グラスも飛んだ お茶碗もお皿も 壁に向かって、その 物に当たる頻度が高くなっていった。ポルターガイストのように。私は その中で動けぬが ますます酷くなり ほとんど寝たきりに近い状態。暗い闇夜が家を包んでいた。物が壊れていくたびに 私も壊れていった。大きな音。物が壊れる音がすると今でもしゃがみこむ。何も出来ず震える私をもう一人の私が見つめる。幽体離脱のように。家の中は 一変した。世界一幸せな私は 姿をけして行った。
 そんな私から逃げ出したくなるのも 解る。他へ気持ちを安らぎを求めたくなるのもわかる。そんな 逃げの姿を見てしまった。それでも Aは 私を病院に連れて行くことも 家の事を子供達とこなす事も、やめなかった。病院代を稼ぐため仕事も必死。私を捨て切れなかった。
 有る日 近所の人と 何気ない会話「あいつは 開き直っているから それだけでも 救いです」そういう話し声が 聞こえた。今までの私なら聞き流したであろう。 開き直ってなんか居ないよ。泣きたいんだよ。助けてって叫びたいんだよ。解ってよ!!そんな叫びを心で上げた。 悪夢を夢で見る 眠れぬ夜ベッドに横になることすら出来ない私は、居間の座椅子で寝起きしていた。1日をそこで過ごしていた
 私の中の自己破壊は どんどん進んでいった。自分が余計物 お荷物。汚れた物。家族に申し訳なさ。将来の娘の人生に影響が有るのではないか。離れていくAの心。日に日に 失われていく感覚と動き。恐怖と不安と絶望。壁に自分の手を叩きつける。頭をぶちつける。そうやって誰も居ない時。狂ったように泣いた。そんな状態で身体が良い方に剥くはずも無い 坂道を転がるように悪化していく

 ある日、私は心の故郷と思う一番大好きな海。○○岬に居た。動けぬ身体で 一人運転して。お地蔵さんが あちらこちらに有る岬。弾丸絶壁。打ち寄せる波に 泡と共に連れて行ってほしかった。地平線の彼方に。
 しかし 海は 消して私を受け入れてはくれなかった。拒否された。まだいけないと。その時でなは無と。
 海へとその宙へと 足を踏み出そうとした瞬間。娘達に自分が言ってきた言葉がよみがえった。

 諦めるのは 何時でも出来る。まずはトライしなさい。
 大空を自由に飛べる翼、自由と背中合わせの責任をしっかりと解った
 本物の自由の翼を手に入れなさい。

なんて事を・・ 私は子供達との約束を自ら破ろうとしている。
海は 私に正気を取り戻させてくれた。

 

                故郷


            我故郷 この岬に立ち
              我心 放たれん

               重き荷物
              この潮に沈め
                我心
              明日を目指す

               我故郷にて
                我心
             生き返り 命とす

 
 
 

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