肥後の嵐

創設は明治20年6月

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第十三臨時教員養成所

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第十三臨時教員養成所について

五高に第13臨時教員養成所、いわゆる高等師範学校が設置されたのは大正15年・4月1日の文部省告示第203号を以って臨時教員養成所数学科が設置された。五高では明治35年3月28日の勅令第100号臨時教員養成所官制ならびに同年の3月29日の文部省令第8号臨時教員養成所規程に基づいて、本所規則と本所学資支給規程並びに生徒服務細則を制定し文部省に申請しすぐ認可を受けた。同時に授業が開始された。設備は五高内の倉庫(建物番号第84号 雑屋建 物置 木造平屋建 80坪 価格6237円76銭5厘から6887円8銭5厘へ大正15年3月及昭和3年5月の模様替につき増価格になっている・・・・国有財産報告書から)の一部を改修して教室として生徒を収容した。職員及び生徒の使用する机・器具類は五高の備品を借用して使用し、参考用図書の多くは五高の備品を借覧したが不足する分については必要な分は購入した。その内訳は図書で和漢書43部、端本4冊、洋書25部、端本1冊で、価格は327円40銭であった。職員には専任の教官は居ない。大正15年度末の職員は管理者1名、主事1名、講師10名、事務5名、医師1名の合計18名で講師の外俸給は皆五高から出ている。その内の講師1名は県立熊本商業学校の教諭で他は五高の教授、講師、及び書記を嘱託としている。

この年の入学志願者は153名で国語・漢文・数学・英語物理の入学試験を実施し、その中から選抜して給費生15名、私費生20名、計35名を入所させた。

入学許可者を資格別に列記すると師範学校出身者3名、中学校出身者30名、その他が2名である。これを年齢から見れば給費生の最高齢は22年10月、最低17年2月、私費生では21年5月、最低17年2月であった。
なお、この年の退学者は2名で給費生1名、私費生1名、いずれも病気であった。生徒の図書閲覧の状況は創設の時から第五高等学校生徒と混同しているので統計に表出することは出来ないが、休暇中の図書貸出について挙げると夏休みが2人2冊、冬休みが3人4冊、春休みが5人9冊であった。昭和2年の生徒募集は行われていない。

以下参考法令

一 詔書・勅語・教育法規等
 教育法規等
(五) 教員および教員養成
 臨時教員養成所規程(抄)(明治三十五年三月二十九日文部省令第八号)
________________________________________

臨時教員養成所規程ヲ定ムルコト次ノ如シ
臨時教員養成所規程
第一条 臨時教員養成所ニハ国語漢文科、英語科、数学科、博物科、物理化学科ノ一学科若ハ数学科ヲ置ク
第二条 前条各学科ノ修業年限ハ二箇年トス
第三条 国語漢文科ノ学科目ハ倫理、教育、国語、漢文、英語、歴史トス
第四条 英語科ノ学科目ハ倫理、教育、国語及漢文トス
第五条 数学科ノ学科目ハ倫理、教育、英語、物理、簿記トス
第六条 博物科ノ学科目ハ倫理、教育、動物、生理、植物、鉱物、英語、地文、地質、人類、天文トス
第七条 物理化学科ノ学科目ハ倫理、教育、物理、化学、英語、数学トス
第八条−第十条 略
第十一条 入学試験ハ中学校卒業ノ程度ニ依リテ之ヲ行フ但シ中学校及師範学校ノ卒業者ニ限リ時宜ニ因リ試験ヲ行ハサルコトヲ得
第十二条−第十六条 略
第十七条 臨時教育養成所ニ於テハ授業料ヲ徴収セス
第十八条 略
表略
朕臨時教員養成所官制ヲ裁可シ並ニ之ヲ公布セシム

臨時教員養成所官制
第一条 臨時教員養成所ハ師範学校中学校及高等女学校ノ教員タルヘキ者ヲ養成スル所トス
第二条 臨時教員養成所ハ文部大臣ノ指定スル帝国大学及直轄諸学校内ニ之ヲ置ク
第三条 臨時教員養成所ハ当該帝国大学総長及直轄諸学校長ヲシテ之ヲ管理セシム
第四条 臨時教員養成所ニ教授及書記ヲ置ク教授ハ奏任トシテ各所ヲ通シ専任九人ヲ以テ定員トス生徒ノ教授ヲ掌ル
書記ハ判任トシ各所ヲ通シ専任五人ヲ以テ定員トス上官ノ命ヲ承ケ庶務ニ従事ス
臨時教員養成所管理者ハ講師ヲ嘱託シ授業ヲ担任セシムルコトヲ得
第五条 臨時教員養成所ノ名称ハ文部大臣之ヲ定ム
附則
本令ハ明治三十五年四月一日ヨリ之ヲ施行ス

第十三臨時教員養成所規則
第一節 総則
第一条 本所ハ師範学校・中学校及ビ高等女学校ノ教員タルベキ者
ヲ養成スる所とス。
第二条 本所ニ数学科ヲ置ク。
第三条 修業年限ハ3箇年トス。

       修身 教育 数学 物理 簿記 英語 体操  時間数
第一学年  1  2 17  3  2  3  2   30
第二学年  1  2 19  3     3  2   30
第三学年  1  2 19  3     3  2   30
< 第四条〜第七条 略   >
第八条 生徒ノ定員ハ凡ソ35名トシ内若干名ヲ給費生徒ス。
第九条 本所ニ於イテハ授業料ヲ徴収セズ。
<第十条 略  >
第十一条 生徒ハ左ノ資格ヲ有スる男子ニシテ出身学校長ノ薦挙ニ依         
      リ、当臨時教員養成所管理者ニ於イテ品行方正。身体健全ニシテ教員タル適当ナリト認ムル者ニ就キ試験ノ上選抜ス。
      但シ第2号中出身学校ヲ有セザル者ハ薦挙ヲ要セズ。
     1師範学校及中学校ノ卒業者
     2専門学校入学者検定規定ニ依リ試験検定ニ合格シタ者及一
      般ノ専門学校ニ関シ試験検定ヲ受クル資格ヲ有スる者並ビニ小学校本科正教員免許状ヲ有スル者

<第十二条〜第二十条  略   >
第六節 服務義務
  第二十一条 卒業生ハ卒業証書ヲ受得ノ月ヨリ左ノ期間引続キ教育ニ関スる職務ニ従事スる義務ヲ有ス。
       学資ノ支給ヲ受ケタル者ハ修業年限ノ一倍半ニ相当スる
       期間
       学資ノ支給ヲ受ケザル者ハ修業年限ノ二分ノ一ニ相当スル期間右ノ内最初の一箇年ハ文部大臣ノ指定ニ従イ奉職スる義務ヲ有ス。
  第二十二条 前条ノ外服務ニ関シテハ大正10年4月26日文部省令第29条高等師範学校等卒業者服務規則ニ依ル。

第十三臨時教員養成所

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安倍内閣により教育関係法案が強行採決により可決され、今後どのような教育制度になるのか判らない

が、昔の小学校の教師に成るためには師範学校卒業、中学校の教師になるには高等師範卒業となってい

た。五高にも高等師範が設置された時期があったので、五高の歴史を調べるうえでこの高等師範にも触れ

てみたい。主要な概要は以下のようなことである。明日から成立から閉校までを一寸くわしく延べてみる

ことにする・

文部省は大正15年に全国の中学校の専門学科の教員を補うため「臨時教員養成所」を設置した。五高に

は4月1日の文部省告示第203号を以って、第13臨時養成所数学科が設置され、すぐに授業が開始さ

れた。教室は倉庫を改修して使用し、所長は五高の校長で、専任の教官はいなく、職員は五高との兼務で

職員生徒の参考用図書は五高からの借用であった。初年度の入学志願者は153名でそのうち35名を入

学させている。その後数学科の募集は昭和4年に行われ、その時の受験者は300名、合格者は30名で

あった。昭和3年には国語漢文科が設置され、188名が志願し25名が合格した。給費生徒と言う制度

が影響したのか、昭和4年の受験者300名のうち給費を希望する受験生は269名に達していた。給料

貰って学校に行けるということで受験生が殺到したことが頷ける。その後は中学校の専門教員も充足され

たのか、各地に出来ていた臨時教員養成所のほとんどが、昭和7年には廃止されている。

ボートレース

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熊本における現在の大学対抗、高等学校対抗等のボートレースは熊本市内の画津湖で開催されている。画津湖については4月15日に紹介したが、上田沙丹著の「龍南物語」にも大正時代の端艇競漕の様子が記されているので今朝はそれを紹介したい。

端  艇  競  漕
漕ぐ手つかるや
行くさきやままよ
舟は流して 櫂枕
 咲きほこった湖上の紫の藻の花が,いつとなく秋に凋みそめると、こうした欵乃(ふなうた)のひびきは忽ち若いボートメンの唇を辞して仕舞う。水郷の秋は、日一日とうすら悲しい白鷺の声と共にすがれてゆく。しかし乍ら、龍南の男達たちのオールの影のみは益々繁く、どんよりと冬のかげのくらい湖の上に乱れる。
かくて一部、二部、三部、と各部の逞しいボート選手達は,霞まじりの北風のなかを白いシートの色も寒く、学校が済むや否や一里の道を画津湖画津湖と駆けてゆく。そうして来るべき四月のレースの優勝を思う一念から、雪の日も雨の日も尊い犠牲の姿を黄昏に至るまで湖上にさらす。
 寒かろう、苦しかろう。けれども彼等によりて、たとえ龍南の美徳が日一日と頽れてゆく今にあっても、美はしい感激や意気の光は昔ながらの輝きをもって強く高く示されることが出来る。おお滅びゆく我等がうら若き日の王国の光栄をとどむる偉大なる志士よ。山来仁者の心は常に苦しみに満ち、寂しさに悩まされがちなれど、それによってのみ初めて更に偉大な未来が開かれてゆくのではあるまいか。
 冬が来て冬が去る。かくして又乾坤(かんこん)の春がめぐって遂に花の四月が訪れてくる。柳の緑、花の紅、熊本市民達は瞳をかがやかしてわが水郷の堤防に辿って集る。色彩と旗と音楽と咆哮の錯綜した円形の画津湖は四圍に人の山を築いて、自然のままの円形闘技場となって仕舞った。むかし、羅馬のチルクスは人と猛獣の闘争であったが、今ここのそれは真剣な若い男と男の闘技であるが故に、熱しやすい陽春の血潮はいと凄きまでに燃え狂う。
 朝から暮れまでの歓喜のレースが繰り返される。けれどもその勝敗は比較的に淡い歓びと失望を生むに過ぎないが、春の日が、西にめぐり,暮靄が仄かに(ほのか)湖上にこめ渡ると、真に緊張したシーンが展がられる。
悠々として漕きくる緑、白、赤のユニホームあざやかな正副選手の二番のレースはあるとしある人の手に汗を握らせる。
 勝敗は知るべからず,堅く封じて未来の壷の奥深く秘められている。けれども勝利の涙敗戦の涙、その二つの間にたとえ甘さと苦さの差はあるとしても、そは共に真に純なわれ等のうら若き日の誇りである。
 大阿蘇は東十里。都鳥の白き羽影に波にかげする風情こそなけれ、水清く浮き草の花の匂い年ごとにまさりゆく画図の湖は昔から若い夢の児の王土であった。今も猶を、武蔵野の一角、粕屋の里の隠者が夢も、切り飛んで思い出の画図長堤の落日に馳するとか。さくら散る春の香はたれ、蓮華うす匂う長堤の薫草に身をうづめつつ,清洌の水の面におつる落日の影に見入ったならば、あくがれ来し象牙の塔に身をいるることを得て、窓に垂れたエジプトの更紗のカーテンをかかげて春の入日を眺めている如き、悦びの涙の甘く頬をながれて唇を濡らすのをおぼえるであろう。げに画図の湖は多感な龍南の夢の児に取って、美わしき思い出をはぐくむ詩美の境である。
 地上の美の終焉は呪わしき物質文明の栄えにつれて近づいて来たり、うら若き人の胸の悲しみはいや勝る。ああ詩の国、夢の国わが画図の水郷もともに世界を捲いてはびこり行く一切醜穢のにごりに汚されてゆくのではあるまいか、宵々の画図湖の夏秋、紅燈のかげ水に泌(にじ)み,絃歌嬌声の湖上の聖さを汚しゆくをきく時、長堤の暗に彳(てき)んだわれ等の心は巣を失った時鳥の児のような寂しさと悲しさに首うなだれる。たとえ我等に力の限りをあげて殉教者のように、うかれゆく美の影を支えるにしても、見よ、時潮の流れは余りに力づよく速かなるものではあるまいか!
 されば、黄金色の菜の花にふちどられたる春の湖の上、めざめた春のしるしにと開かれたるボートレースの一日に、溢れゆく腕の力をあげてオールとるわが友どちよ、漕げやうれしき日を力限りに。そうしてこの日を以て、すがれゆく詩境のための呪詛であり、せめて過去一年間、汚されたる聖き湖の潔めの式であり、祈りの声としようではないか。何となれば、自分等は独りこの画図湖とはいわず一切の憧憬と美の最も敬虔なる使途をもって許すからである。

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旧制高等学校の教育精神
時折五高記念館館内案内を頼まれ、展示資料を説明することがあるが、その度に「第五高等学校というのは・・・・・・・・・・」どうも現代のほとんどの人が、いや全ての人が、といっていいだろう。○○大学第五高等学校とか○○大学の付属高等学校とかと言う現代のマスプロ高等学校と全く同次元で考えている人ばかりで、「もう一寸日本の学校制度の歴史について勉強してみませんか」と云うこともしばしばである。それは五高という学校が存在して居たということを知 っている人が皆無になったということの証拠であり、五高が閉校されて既に60有余年、五高が存在した時代からは既に孫の時代になっており、旧制高等学校が歴史の彼方の一事項として忘れ去られている事、要するに、世代の違いはいたし方がないことである。しかし五高を始めとする旧制高等学校が持っていたその精神は今日の学校教育においても十分に引継がれていくべき事であると考えられる。
五高が出来た当時のエピソードを中心に剛毅朴訥の校風が成立した過程について述べて見る。日本の近代化の道はいわずと知れた明治維新からであるが明治18年の内閣制度の発足、明治22年の帝国憲法制定、翌年の帝国議会開設というように政府は着々と近代国家の形態を整えて行ったのであるが、教育制度については明治19年高等中学校令を制定し全国を五つの学区に分けて、直に東京の一高、京都の三高、二高は仙台に、四高は金沢と暫時設立されていったが、九州における五高の設置場所は選定に当たって、トラブルもあったが時の文相森有礼の決断によって熊本に地に設立が決まったものは明治20年の6月であった。

剛毅木訥論             由   比       質
今茲に題して剛毅木訥論といふ以上は龍南の校風に関係しての立論たるは言うまでも無いことである。抑も剛毅木訥は我が校風中の中堅綱領である。我が校に在りし先輩が唱導し且つ実践して綿々後進に伝えし無形の一重寶である。又現に刺激しつつあるのである。凡そ我国の学校では健全なる校風樹立は極めて必要である。校風という以上は其校員全体に関係することは勿論であるが殊に生徒が校風の中堅綱領を操持することは大いに必要である。
何処の学校でも一部分の生徒は校風の振興は全然学校長職員の責務に属する様に考えているが之は依頼心多き誤謬である。生徒の自覚奮励のない所には校風の振興すべき筈がない。        第一高等学校の校風は何であるか。自治であるか。第二,第三、第四、第六、第七高等学校は如何であるか。これ等の学校に於いて我校風と相対照らすべき綱領あることを聞かないのである。今や遡って此綱領が何時から,如何にして、誰によって我が校に標榜せらるる様になったかと由来を尋ねて見たいが文書の徴すべきものもなく、校友緒先輩の回想を促しても又甚だ要領を得ないのである。尤も初代野村彦四郎氏は剛毅の権化であるかの如き硬骨ある人格を具えられ、代々賢明なる校長の適切な指導は此の綱領の育成に重大の関係あることは勿論であろう。桜井校長の如きは「剛毅の気象ち質杯の風とを以って校風としている。」と三十三年九月十二日の入学式の訓告に明言されている。
又その感化で当時を風靡されたる会津の老儒秋月葦軒翁は「剛毅木訥近仁」と言う事があるといって生徒の風尚を鼓吹されたとの事である。
「剛毅木訥」に関する字句が尤も早く見らるるものは第二号「小野記行」中」「の「木訥生」である。元来校風なる語は度々演説者又は雑誌記者によって唱えられているが愈々弐拾七年五月第二十七号に「井上文部大臣巡回」の項中始めて「天真爛漫剛毅木訥」の字句が見ゆるが之が九州の青年を指し暗に龍南の健児を指している。二十九年十月第四十九号にラフカジイーオハーン氏が「九州学生と居る」に木訥(Rugged)剛毅の気質あることを指示している。而して雑誌記者が公然校風の綱領として剛毅木訥を標榜したのは三十一年十一月第六十八号雑誌欄内に或る。又三十五年以来は盛んに唱導せられているが要するにその由来は不明である。然るに更に退いて考えてみるとその知らざる間に保育せられて来たった事か却ってその尊き所以であるかもしれぬ。元来九州民族の士風は特に剛毅木訥であるまいか。我校は九州青年の重鎮であるから九州士風の権化が剛毅木訥となって次第に校風の中堅綱領を作ったのであろうと推察される。ラフカジオハーン氏は九州精神は日本の大勢力であるといっている。吾輩は是から此綱領に就いて少しくわしく卑見を述べて見たい。
 剛毅木訥とは頑固を言うのではない。融通の利かぬようになる意味でもない。粗大なる思想ではない。いたずらに弊衣破帽を得意とするものでもない。肩を怒らし大なる杖を振り横行闊歩する意でもない。是等は吾輩は論外として遠い海にでも山にでも捨てたいのである。龍南健児諸君の中には口には盛んに剛毅木訥を唱えつつも、何となく実践躬行に遠慮せらるゝの気味はないか。更に具体的に表現すれば質素は良き事なるゝ知れど、安い会費で集会を催すのは何となく「ケチ」臭いと若殿原はないか。世上一般に万時旧主義と新思想との両極端が表現されて形式上に、精神上に交々暗闘しているのである。世人の多くはその何れに適従すべきか全く迷うているのである。若しも万一にも龍南健児が一人でも此の風潮に襲われ、酔生夢死の有様で日を送っていたならば龍南思想界の危機之より大なるはなしというべきである。然らば如何なる覚悟が必要であるか。諸君は「剛毅木訥近仁」の金言を咀嚼するを望む。「剛毅木訥」の綱領とこれと必要関係して次に来るべき「近仁」の語の意味とをよく連絡して考えられんことを切望する。聊かたりとも剛毅木訥を以って陳腐とするも、斬新とするも皆これ諸君に懸かれりである。由来進化論は近世学会の一大原動力である。道徳上の原則も亦進化的に活動しなければならぬ。我国人士の頭脳から全然儒教思想を排除する事は到底不可能である。或は儒教の神髄をとって之を今日の進化的科学的基礎に置かねばならぬのである。元来剛毅木訥は主義ではない。方法である。高大遠塾なる仁道の同にも室に入るべき門戸である。資質である、準備である。
 ローマを興した精神上の原因は土民の質朴剛健の気象である。ローマを滅ぼしたのも此の気象の進化を誤り遂に之を喪失した為である。龍南の学風は何時までも剛毅木訥であって健児諸君が進化、研究、力行を怠らず科学的培養を加えてならば旧式でもない、浅薄でもない、文学や、美術や音楽と相容れない事もない。遂には涅槃にも天国にも到達する事が企てられぬでもないのである。吾輩は健児諸君の理想が何時までも高、遠、大であることを望むと同時にその理想は堅実に諸君の現実と調和する様に何事も飽く迄研究的態度をとられんことを切望する。もしも諸君が日夕相唱して「その剛健の質なりて玲瓏照らす人の道」とか「思は馳する木訥の流風薫る銀杏城」とか謡ふ時にでも、剛毅は龍田山の神の宣託で木訥は清正公の霊符であると云うような無我夢中の気でいられたならば校風の振興も百年江河の清を待つのと同様であろうと考えるのである。」


現代は大衆社会の時代であり、教育制度は、国家の柱石になるべき人材を育成するための特定のエリートだけを育成の教育制度ではなく、現代の大衆化した大学では一般民衆の意識も向上し、国民の教育レベルは上がっている。
五高卒業生の殆どは既に鬼籍の人であるが、壮健者でも齢は大半が80歳を越えた老人である・しかし彼等にとっての60年昔の五高での生活、特に習学寮における共同生活とは何であったろうか?ある者は青春の象徴であったと述懐し、またある者は自分の人生を赤裸々に見つめる時期であったと云う。同窓会でも行えば、未だもって「おい、お前」と五高の青春時代そのままの姿で語り合う光景に接すると改めて旧制高等校の教育について考えさせられるものがある。それ故五高の生活は忘れられない、懐かしいとする卒業生が多いのだろう。五高60余年の歴史は波乱に満ちたものであったが、この学校から幾多の日本の柱石となった人材を輩出したことは熊本の誇りであったと思う。現在の大学、況や日本の学校教育が旧制高等学校の精神を持つ必要があると思われる。

名物男列伝

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現在の熊本市繁華街を示す地図


名 物 男 列 伝 つ づ き



通町に教会がある。説教のある日は門の前に若い男が立っていて、通り係

の人を促しては是非聴いて行けと勧める。

Uさんが或晩散歩していると、例の男が袂を促えて説教を聴いてくれと勧めた。

Uさんは黙って進められるが儘に五分間ばかり説教を聴いてやった。

けれどもUさんは教会を出るや否や、いきなり件の男の両腕を掴んだ。

「あなた、何をなされるのですか?」

その男は土盛る吃驚して尋ねた。Uさんは何とも云わず、満身の力を絞って

ものの半町ばかりを引張って馴染のカフエーに引き込んだ。

「女ビール一杯早く」

Uさんは拒むとその男の口に無理矢理にビールを注ぎこんでやった。離して

やる恨めしそうに睨んで突っ立ているその男に向かって曰く。

「お互いだ。君がビールを嫌う様に僕は耶蘇が嫌いだから!!」
   ☆

Hさんは部屋に余り立派でない玉振り時計が懸かっている。Hさんは自ら恩

賜の時計だとだれにもじまんしている。

「恩賜の銀時計は聞いたことがあるが、恩賜の玉振りとけいとは初耳だ、

まさか!」

という陰口を聞いたHさんは、或る日少し怒ってその由来を説明してくれた。

説明を聞いた者は皆なる程と合点してその時計に敬意を表わすようになった。

説明に曰く、

往年九州の或る地方で特別大演習が、行われて、大元帥陛下には遥々と統監

遊ばされた。その時、Hさんの中学は偶然にも、行在所の光栄を受け、剰え生

徒一同に対して畏くも拾銭ずつ御菓子料を賜った。校長さんの訓示通り誰に


も有益なる使用方法に頭を絞った。

Hさんは有難い拾銭銀貨を投じて五つの鶏卵を求めた。そうしてその卵を宅の

鶏にぬくめさせ幾日か後に名誉ある五羽の雛鳥を得た。雛鳥もいつしか親と

なって毎日一つか二つかの卵を生むようになった。Hさんは恩賜の鶏が産んだ

卵は一つも無益に費やす様なことはしなかった。貯えては売り貯えては売り

して

幾年かの後にはHさんの貯金通牒には相当の金額が見出されるようになった。

然る後Hさんは全部の貯金を以って一個の柱時計を購入した。今Hさんの部

屋を飾る所謂、恩賜の玉振りと慶賀その時計であった。
    ☆
 
Aさんは生来湯に入ることが大嫌いであった。Aさんが獮々熊本に行って三四

「自宅に居る間は仕方がなかったが、寄宿舎に入って皆様と一緒に生活する

となれば今までのような訳にはいかないよ。お前みたいに一ヶ月に一度湯に

入るか入らぬと知れたら何で不潔な男だろうと除者にされるから、吃度二日

三日に一度位は湯に行くような癖をつけるのですよ、ねえ」
 
と言って、立派な石鹸箱や垢すりなど行李の中に入れて持っていくようにさ

せられた。けれどもAさんが冬の休みに帰省したときにAさんは故郷から持

って行った同じ石鹸を持って帰った。まだ形のあまり変わらない。
 
Aさんの湯嫌いは寮でも誰も知らぬ者もない程有名になった。
 或る日Aさんのともだちがビヤホールに行って「最早、二日湯に行かない

から何が何だか気持ちがわるいね」と言った。それを聞いていた女が、

「でもあなた、Aさんは一冬お湯にいらっしゃらないと言うじゃありません

か」

その友達は寮に帰ってその日の話をAさんに告げた。Aさんは非常に憤慨し

て珍しくも手拭と石鹸をもって出て行った。

 一時間程たってAさんは帰ってきた。友達は笑って、

「A君、好い動機だね。之から親孝行が出来るという訳だね」

「馬鹿ッ。誰が何と云おうが以前の儘に続くるさ」

その友は後で他の人から聞いた。その人が湯に入って居ると珍しいAさんの

詩型が湯屋に見えた。珍しいなあと見ていると湯に慣れないAさんは可哀想

に足袋を履いたまま湯槽に飛び込んで大恥をかいた。

 その後Aさんはの湯嫌いには辶がかかった。
    ☆
 
或発火演習の日、両軍火花を散らして、両軍火花を散らして、戦将に闌なる

に、Oさんの居る何時も問題になるクラスが一組見えない。

 休戦喇叭も鳴って、両軍勢揃いして人員点呼の時に、始めて何処から出て

来たか、のそのそやって来て離れた所に一組に並んだ。その受持ちの教官殿

怒りを含んでズカズカと近寄ると元来突破のOさん

「気を付け、捧げ銃」と全員に号令した。怒り心頭に発した教官殿

「一体貴様たちは何だッ!!」

「われわれは五高生であります」

Oさんの答えはいと冷静であった。

Oさんが下宿に帰ってみると「当分出校におよばず」という辞令が来ていた相

だ。
    ☆

西洋人のデイクテーションの時間、二人どうしてもいない。組長が心配し

て二人を呼んで来た。その西洋人の外国語の間に

「アイ、アム、W,C」と叫んで股間に手をやって排尿の姿勢を示した。次

に入って来た一人も負けずに

「ザ、セーム、ザ、セーム」と同様の姿勢をとって、無事ディクテーショ

ンを受けた。

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