中国 深セン出張日記

1月に帰国したのですが、4月〜7月までまた出張

ブログすなる

[ リスト | 詳細 ]

バージョンアップ歴など 元SEとして多少は飾りたい。
記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

一年経過

このブログを開始して一年経ってしまった。

実は、この前にライブドアで「総経理生活 準備編」というのを書きはじめていたのだが、
続けられなくてちっとも書いていなかったのだ。

それが、記事数313、アクセスは8600というところまで積み重ねられた。
週に6個書いている計算になる。
こんなにひとつのことを続けられたのは、高校生以来だと思う。

実は、このブログをはじめたきっかけは、毎日の苦労をどう乗り切ったのかを
後継者のために記録しておこうということで、業務上のことではじめたのだったのだが、
その路線からは少しずれてしまった。機密の問題ということもあるし。

それにしても、ネタに困らない生活だ。
明日も明後日も、もう書く事が決まっている。
明日は多分、事務室の新人のこと。
明後日は体力が持っていればだが、新業務のことを書くでしょう。
昨日は、香港でおおはしゃぎしてきたのだが、まだ書けていない。
先週は香港まで3往復もしてきた。その過程でいろいろなものを見て、話してきた。
書ききれない。
起きていることに、書く体力が追いつかない。

そんな暮らしを送れることは、本当に幸せなことである。

青春バトン

今日はお客さんと日本料理屋へ繰り出して、しっとりと飲み食いしてきました。
仕事の方は、ここにはかけないような大変な状況なので、今日は、いくつか溜まってしまった
バトンのうち、ひとつでも回しましょう。

台湾在住(今は日本に帰っているみたいだけど)ナミミさんからいただいた青春バトン。
ああ、私もおっさんになってしまった…

Q1・・・17歳の時何してた?

え?ナミミさん、デートしてたって?
私は、東京都国立市の桐朋高校というところに片道90分以上かけて通っていました。
(当時は有名な2流進学校でした。)
で、高校2年生で、はっきり言って、勉強ばかりしていた。部活もしていなかったし
趣味も無かった。16までは猛烈に本を読んでいたけど、17になるとそれも無かったと思う。

友人も少なかった。
父親が単身赴任していて、一ヶ月か2ヶ月に1回帰ってくるなり、両親が大喧嘩して
つらかった。母はそれから4年後、死んだ。
中学のとき、祖父母が2人、相次いで病のあと死んで、そのあと、17歳のとき、
おばが自殺した。母は私を葬儀につれて行かなかった。
当時、若いのに、胃潰瘍が酷くてとても苦しんだ。後に鬱で入院するが、このころから
少し精神的に不安定だった。体重は今より15KGも少なかった。

でも、今の知識、思考力、粘り強さはその頃、身に着けたものに違いない。

そういえば、ナミミさん、吹奏楽やっていたと書いていましたが、私は小学校のときは
トランペットやっていて、その後17歳の頃まで自分でフルートをやっていました。
17歳というとピークは超えていたかな。いまでもフルートの音が好きです。


Q2・・・17歳の時何考えてた?

理系にするか、文系にするかかなり悩んだ。本当は、日本史、世界史、地理が大好きだったのに、
理系を選んでしまい、物理で非常に苦しんだ。理系にしても、将来何を学び、何を仕事にするのか
を学校がいろいろな機会に考えさせてくれるのだが、それが実感が湧かず、苦しかった。
自分には、なんでもできるような万能感があり、そして、何もしたいとは思わなかった。

小学校、中学校のときは、勉強もスポーツもできたのに、高校生、それも17歳になると
スポーツはできる方とはいえなくなっていた。子供の頃の世界が自分中心にまわっている
ような万能感が消失していく過程をうまく受け入れることができず、少し混乱していた。


Q3・・・17歳の時にやり残した事?
 
 いまから思うと、特に悔いはないです。
偏っていたかもしれないが、大量のことを吸収していたと思う。
足りなかったものはたくさんあるかもしれないが、総量が不足していたわけではない。


Q4・・・17歳に戻れるとしたら?

 友人を大切にしなおしたい。
 友人が財産、ということはそのとき、分かっていなかった。



Q5・・・次にまわす人5人
ゲストブックにお持ちします!


青春か、もう19年前の話。
でも、今も結構、精一杯やっていて、自分では青春っぽい気分なんですけど。

NHKを見ていたら、最近「福知山線 脱線事故1年」のニュースが多い。

私は中国に来る前、尼崎市の猪名寺というところの福知山線(日常は宝塚線と呼ばれる)沿いの
アパートに暮らしていた。事故現場からは自転車で10分ぐらいのところである。
毎日、その宝塚線を7時半過ぎに出る列車に乗って通勤していた。

あの日は月曜日だったはずだ。
GW前の週、私は赴任準備のため、休暇をとり、ダンボール20箱あまりを海外引越し業者に
梱包してもらい、インボイスを作成して貰って、9時半ごろ、業者はさっさと帰っていった。
もっと、半日かかりなのかとおもっていたら、1時間半あまりの作業であっけなかった。
妻は引越し業者を私に任せ、銀行へと出かけていった。
「気をつけてね」
数日前に妻の愛用の自転車が盗まれていて、私の自転車に乗っていくので、私はそう声をかけた
のを覚えている。

業者が帰ってまもなく、家の電話が鳴った。9時45分ぐらいだったと思う。
妻の母が電話口で、「大変な事故ね。知ってる?」という。
受話器を横に置いたまま、テレビをつけると事故の臨時ニュースが各局のワイドショーで
始まっていた。
塚口から尼崎に向かうカーブ、というだけで私の通勤経路のあの場所だとすぐ分かる。
そして、衝突したあのマンションも毎日、見慣れているマンションである。

私の大学院の専門は交通工学、その中でも高速鉄道の経済効果と技術選択を専門にしていたので、
鉄道にはかなり詳しい。カーブで何らかの原因で脱線したのはすぐ分かった。
車両が横向きにビルに衝突している(下にもぐりこんでいるとはニュースで
いうまで気づかなかった。)のを見て、死者4名、と最初に伝えられたが、そんなものでは
すまないことはすぐ分かった。横向きに数十キロ(実際には100キロ以上だった)のスピードで
ぶつかっては、人間の体が耐えられないような衝撃になったはずであるし、車両は相当もろく
ぐしゃとつぶれ、中にいる人間を圧迫したはずである。


妻が帰ってくるなり私が、「大変」というよりも先に「なかなか踏切が開かなくて大変」という。
結局、うちの近くの踏み切りはその日の昼過ぎまで閉じたままだった。
妻と二人で残りの荷物を整理しながら、ニュースを見、会社に連絡をして無事であることを
伝える。
私は9時過ぎの電車に乗ることは普段はないが、妻は月曜の9時過ぎはいつも伊丹駅駅まで
言って、駅前のジャスコで買い物をしたあと、電車で大阪駅まで会合に行っていた。
快速に乗ることもあった。
この日は引越しのため、その会合を休んでいたのだが、月曜日に業者が手配できなかったら、
乗っていたかもしれない。

周囲は10機以上のヘリが飛び、爆音でテレビの音がかき消される。「地獄の黙示録」のテーマが
聞こえてきそうな光景である。

その日の夕方は、そのころ、必死で勉強していた中国語教室に行った。
分かってはいたが、一応猪名寺駅へ行ってみた。
売店は店を締め、駅員が手持ち無沙汰に立って、券売機は閉鎖されていた。


歩いて20分ほどの阪急稲野駅へいき、定期券を見せ、振り替え輸送の券をもらう。
帰りもそう。
結局、離日までの間の通勤、そしてGW中の中国語教室は阪急線で通うことになり、
30分余計にかかる非日常的な日々を送った。
振り替え券も印刷するだけ無駄と思ったのか、次の日から、JRの定期券を見せるだけで
阪急に乗れるようになった。
妻は回数券を持っていて、最初の日は振り替えはだめだといわれたが、2日目以降は
すんなり乗れた。が、JRに文句をいって、無理やり払い戻して貰っていた。
私は、その間の定期代が払い戻して貰えるはずなのと、icoca定期券の保証金を返還して
もらえるはずなのだが、復旧する前に離日してしまったので、請求できず仕舞である。

中国語教室から帰ってくると、会社の総務課長から連絡が入る。
総務の同僚のお父様がこの事故でなくなったのだという。
その同僚は、私よりいくつか年上の女性で、シングルマザーで高校生のお子さんがいた。
そして、そのお父様が父親代わりにいろいろされている、というような話をされていたのを
聞いたことがあった。
彼女の家は川西だが、彼女自身は阪急で通勤していたので全く意識していなかった。
それから総務課長とどうするかなど、電話で協議したが、結局お父さんをお引取り
できたのは夜遅くだったということで、翌日私は、その迂回路で通勤した。

翌日もすごいヘリの数だった。その日はだれもが、先頭車両に乗りたがらないのかと思ったら、
普通に先頭に乗っていた。阪急梅田駅は先頭に乗ると便利な駅だからだ。
人間なんて、こんなものなんだな。と思わずにはおれなかった。
電車の中で友人同士の話が聞こえてくる。
「JRめっちゃ早いやん、やっぱおかしいんやで」「そやけど阪急遅すぎや」
JRのスピードの速さは関西に来た頃、私も驚いた。
大学の同級生がその頃、JR西日本の運行関係の部署にいたが、私鉄との競争上の戦略である、
というようなことを話していた。

もしかしたら、妻が乗っていたかもしれないし、そして、同僚のお父様が実際に亡くなってしまった
あの事故は、海外赴任前の鮮烈な記憶となって残っている。そして、上の電車の中での会話も
「生と死は隣り合わせ、それでも普段は他人事」というようなそのときのむなしさとともに
よく覚えている。

翌火曜日は、私の壮行会が予定されていた。会社にいくのもあと3日となっていた。
が、自粛を申し出た。同僚のお父様がなくなられたというときにあえて、そんなことをする必要はない。
結局、私の壮行会は開かれなかった。

あれから一年、同僚は、元気を振り絞って、連休明けから出勤しており、私も労務、保険関係など
お世話になっている。彼女から業務上の連絡がメールで届くたびにあの事故を思い出す。
肉親を事故で失った彼女が、「普通に」仕事をしようとする姿をみて、こう思うのだ。

「人はいつ死ぬかわからない。でも死ぬまでの間は、どんなに苦しくても生きなくてはならない。
 楽しいか、苦しいかなんて、関係ない。ただ、一生懸命生きなくてはならない。」
私はかつて、自殺未遂事故を起こして入院した。今もつらい。鬱っぽい。ただ、人の生きる姿を
この12年、それだけたくさん見てきた中で、こういうことが分かってきたのだ。

あれから一年、あの近くに住んでいたというだけの話なのだが、ヘリの音、上がらない遮断機、
ワイドショーの字幕、阪急線の混雑、不機嫌そうな猪名寺駅の駅員の顔、稲野から帰る途中の
夜道の暗さ、夜の雨の冷たさ、そんなものを思い出した。

うちのパンダ君ったら

うちのパンダ…3500にもアクセスが伸びているので、パンダをゲストブックで
飼い始めました。
で、言葉を覚えて、クリックすると話すのですが、これが、妙なことばかり。

部門。
工場。
変更か…。
自動的!
観光が。
トイレ。
仕事♪。

妻から見た私のようですらある。
クリックして、いじってやってください。
あと、コメントの単語を吸収するようなので、どんどんコメントくださいな。

昨日、当社の日本向けIP-VPNが終日障害があった。
こんなに長く停止していたのは初めてだ。
聞けば、恵州、トウガンまでの広域の多くの企業で発生していた、中国電信の収容側での
問題であったらしい。日本側キャリアが収容変更を実施して回復した。

予備のADSLに運用を切り替えて、運用を進めたがこのADSLも程なくして、日本向けの
ルーティングが正常にされない現象が発生した。これは以前から見られた現象なのだが、
当社の兄弟会社の上海法人では発生しないので、説明に困る。


今日、帰ってくると、妻が、「今日、午後からyahoo見えないよ。サーバーとまっているのかな」
という。ヤフーが半日、全面停止しているわけがない。
見てみると、ポータルサイト、メール、ブログともアクセスできない。pingを打っても
通らないので、これもルーティング障害である。ちなみにinfoseekなどは正常。
こりゃだめだ。
と思っていると8時になって、すいすいと出るようになった。

政策だという話も聞くが、万事がこの信頼性、それを日本の顧客が理解するわけでもなく、
ほとほと困ったものである。

そういえば、ADSLの料金が突然安くなった。いままで月額100元だったのに、80元ぐらいに。
これも今のところ、何が起こったのか、わからない。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


.

ブログバナー

kam*ta*ha*
kam*ta*ha*
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

検索 検索

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事