神谷光信

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サンフランシスコから取り寄せたDVD「トランスフォーメーション ワーナー・エアハードの生涯と伝説」があまりに衝撃的で、1週間「est について」をお休みした。また始めたい。

今年は日米戦争の終結から63年目の夏となる。「ヒロシマ」と「est」が、私の中では繋がっている。

私がestを東京で受講したのは、1988年9月下旬から10月上旬にかけてのことである。2週末(4日)と1晩のプログラムだから、2ヶ月にまたがったわけである。紹介者は、当時親しかったデザイナーの女性だった。新宿ルミネのアクトホールで行われた最終日がゲストセミナーにもなっており、そこに彼女は私を招待してくれたのである。8月の終わりのことであった。

彼女は広島県生まれの人で、母親が原子爆弾に被災していた。私がヒロシマをわがこととして考えるようになったのは、彼女と知り合ってからのことである。
当時私は、estについて無知であったが、彼女の、それまでに見たことのない明るい笑顔と、トレーナーの会話がインスピレーションに満ちていたことから、その場でサインナップした。たまたま保存してあった領収書を見ると、9月2日に参加料15万円をWE&Aに振り込んでいる。

estは1971年にサンフランシスコで始まり、1985年に日本に上陸した。したがって、日本上陸3年目に私は参加したことになる。当時、世界中に40数人(私の記憶では46人)いたトレーナーのうち、英語のみならず日本語でもestをリードできるトレーナーは50代のアメリカ人トレーナー1人しかいなかった。この人は、1998年に引退し、現在は、estと自分との関係をブログでも公にしていないので、名前は記さない。

est修了後、私は6ヶ月間のGSLP(ゲスト・セミナーズ・リーダー・プログラム)に参加した。誤解をされることが多いが、これはestへの勧誘数を競うプログラムではない。私が参加した7期には、最後の最後まで、1人もエンロール(参加登録)できなかった男性がいた。無給の営業要員養成が主目的であれば、こういう「役に立たない」参加者はさっさと脱落させるはずである。

ある日のクラスルームで、トレーナーと彼との間のインタラクションが深まっていき、ほとんど深淵といってよいレベルに至ったことがある。トレーナーが涙ぐみ(これはめったにないことである)、会場全体がエンロールメント(巻き込み)されて(エンロールメントは起こることを許容するものであり、することではない)、厳粛なスペースとなった瞬間の感動を、私は今でも鮮明に憶えている。長いインタラクションの最後は、深い沈黙となった。彼がそれでも何かいおうとするのをトレーナーは遮り、何もいわなくていいです、とだけ述べて、涙を浮かべて彼を見つめていた。

その後、1991年から1993年までの3年間、est修了者対象のフォローアップセミナー(毎週1回、19時から22時までの3時間、全10セッション)のセミナーリーダーとして、東京と大阪で定期的にセミナーをリードした。大阪で初めて定期的にセミナーをリードしたのは私である。福岡でもリードしたことがある。セミナーの参加者は、75人から120人程度の規模であった。

私は、WE&Aの社員であったことはない。無給(ボランティア)のセミナーリーダーだったわけである。ワーナー・エアハード、ローレル・シーフ、そしてアメリカのセミナーリーダーたちからトレーニングを受けた。estに関わった5年の間に、アメリカでのワーナーのスキャンダル報道と、WE&Aの解散があった。その時に東京センターが果たした役割については、プレスマンの評伝が若干触れている。

1976年に書かれたブライの『エスト』を読むと、創設5年目のestの朝日が昇るような勢いを感じ取ることができるが、1980年代終わりの日本のestもまた、それに似た熱気があった。東京センターのスタッフは数人であり、セミナーリーダーが10人程度。説明会リーダーは30人程度いた。
このような草創期の組織の特徴として、マックス・ウエーバーが指摘するように、セミナーリーダーたちも、トレーナーのカリスマを分有し、抗しがたい魅力的なオーラを放っていた。また、実際、彼らのコミュニケーション能力の高さは抜群であった。ただし、私自身がどのように人々の目に映っていたかはわからない。

ここで私は、目を瞠るばかりに有能な人々と仕事をした。スタッフ(管理職)はWE&Aの従業員だが、セミナーリーダーは、est修了生のボランティアがほとんどであった。
有名な外資系銀行で働いていた女性は、私より少し年上だったが、これまでに私が出会ったなかで最も優秀な女性であった。スレンダーで姿勢が良く、頭脳明晰で冗語を一切しない人だった。
面白いのは、スーパーバイザーとしてestの全てを取り仕切る驚異的なマネージメント能力があるにもかかわらず、彼女がセミナーリーダーとして仕事を始めたのは私よりも遅かったことである。大人数を相手にセッションをリードしていくことに、彼女のアイデンティティーが抵抗していたのだ。

外科医、会社経営者など、さまざまな背景を持つ人がセミナーリーダーにはいた。トレーナーが日本語よりも英語に堪能であったこと、マニュアルが英語であったことからか、英語のできる人が多かった。容姿に恵まれた人も多かった。彼らについても、具体的に名前をあげることはできない。

セミナーリーダーは数字でスタッフから管理される。出席率、ゲスト数、ゲストのサインアップ数といった数字である。数字が貧弱であれば、即座にクビである。義理も人情もなく、実力(数字)だけで評価されるまことにシビアな世界であった。

私はほぼ2年間のトレーニングを受けてセミナーリーダーとなり、3年間働いてボランティアをやめた。当時の私はトレーナーになるコミットメントを持ってはいなかったが、あと2年間アシスタントを続けておれば、あるいはestのトレーナーになっていたかもしれない。トレーナーになるには、7年間の訓練が必要とされているからである。実際に、当時一緒にセミナーリーダーをしていた者が、現在、ワーナーからestの著作権を引き継いだ会社でトレーナーとなっている。

私がセミナーリーダーをやめたのは、セミナーリーダーであるというコンテクストの中に、人生のコンテンツ全てを入れることを要求されたからである。これは、ワーナー・エアハードがトレーナー(トレーナーは全てWE&Aの社員である)に要求したものであって、ボランティアのセミナーリーダーが要求される事柄ではない。

私は文章表現の世界で生きるというコンテクストの中に、セミナーリーダーというコンテンツを入れていたのであって、その逆ではなかった。(これは「estについて」が、他の記事と比較して、いかに情報量が多くとも、このブログのコンテンツの一つであり、ブログ自体のコンテクストではないことと同一である。)

セミナーリーダーたちの週末のプログラムの中で、私とトレーナーとの間で、このことを巡って長時間のインタラクションがあった。私がこの要求を許容してサレンダーする(コンテクストもコンテンツも、言葉の中にしか存在しないものであるから、現象的には、ただそういう「語り」をするだけのことであるが)ことに抵抗したからである。最後にトレーナーが「神谷さん、あなたが勝ちました。あなたはコーチできない。」といった。それで、私はセミナーリーダーをやめたのである。

今思えば、当時還暦を迎えていたトレーナーは、10数人の日本人セミナーリーダーの中から、後進の日本人トレーナーを一日も早く作り出す必要に迫られていたのだろう。トレーナーとセミナーリーダーとの力量の落差には途方もないものがあり、誰一人としてest全セッションをリードできる者はいなかったからである。そのトレーナーは、われわれをセミナーリーダーとしてではなく、セミナーリーダーをしているestトレーナー候補者としてみていたのである。


私がこの連載で行うべきことは、estの著作権と関係者の個人情報保護に配慮しながら、できるかぎり正確なestの全体像を日本語で言語化すること、そしてカトリック教会の批判が納得のいくものかどうかを検証することである。
ワーナーがアラン・ワッツと出会ったところで、ワーナーの生涯の略述が止まっている。そのあたりから再開することとしたい。


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