神谷光信

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(承前)
estをはじめるまでのワーナーの思想的遍歴は、私生活上の遍歴よりも遙かに重要なので、バートレーの評伝を参照しながら、もう少し詳しく考えてみることとしよう。経済関係が専門のジャーナリストであるプレスマンの評伝は、ワーナーがビジネスからリタイアするまでをカヴァーしているとはいえ、ビジネスとしてのest(要するに、儲けた金が流れていく仕組み)とワーナーの影の部分に主眼が置いている。これに対して、40代前半までしかカヴァーしていないとはいえ、バートレーは哲学者であり、estの原理と抽象についてまことに深い理解があるからである。

改めて確認しておきたいが、我々のワーナーに対する関心も、カトリック教会が、なぜ、宗教でもない、単なる民間の教育プログラムを問題視するのかという点にそもそもあった。ヴァチカンがニューエイジを警戒するのは理解できないでもない。「教会の外にある人々のための」心理学をうち立てたユングや、輪廻転生を説くルドルフ・シュタイナーを問題視するのは、それがカトリック教会の世界観と対立するものであるからだ。

しかし、estの何か問題なのであろうか。私が現在、仮説として胸に抱くのは、ワーナーが、人間の「ビリーフ・システム」を問題視し、「真理ですら、信じたとき、嘘になる」と述べ、「真理は信じるものではない。体験するものだ。」とすることを、カトリック教会は問題視しているのではないだろうかということである。estは、われわれががんじがらめになっている「現実」の横に、「可能性としての現実」を対置することで、「現実」のグリップを少し緩めるというだけの、一言でいえば、生きるための「力づけ」の教育プログラムにしかすぎない。

「理解はいつでもブービー賞だ」というワーナーの有名な言葉がある。重要なのは体験である。estは「体験の体験」であるとワーナーはいう。ドグマを持ち、「信ずること」を重視するカトリック教会にしてみれば、「信ずること」が人間の自由さを奪っていると考えるワーナーの思想と対立するように見えるのかもしれない。

また、ハイデガーのいう「世界内存在」のごときものとして、自分こそが、この世界の源泉(ソース)である(いわば「神」のようなものである)と捉えてみること(しかしそれは、信ずることではない。ゲームをするためにトランプのカードを配るように、トレーナーが可能性としての会話、要するにデタラメをいうだけのことである。トレーナーは、自分のいうことを信じるなと繰り返し参加者に強調する。)。これも、一種の「自己宗教」としてカトリック教会が問題とすることとなっているのではないか。今のところ私はそんなふうに想像しているのである。

さて、ワーナーが最初に出会った思想がナポレオン・ヒルであったことは、以前記したとおりである。妻子を捨て、名前を変え、年齢を偽り(エレンが3歳年下としたのに対して、ワーナーは3歳年上にした)、セールスマンとして働く自分。淋しさや罪悪感、居心地の悪さを常に感じている自分。当時のワーナーにとっての問題とは、端的に、「自分は誰なのか」ということであったと、バートレーは指摘する。彼に必要なのは、winning self-imageであった。

ワーナーは、セントルイスの公共図書館で、成功に関するコーナーの書物を片っ端から読んだ。そしてナポレオン・ヒルとマックスウエル・マルツの書物と出会ったのであった。
彼はそこに、宗教めいたものを見いだした。世の人々は誤解しているが、きちんと彼らの書物を読めば、そこに見いだされるのは、インテグリティーとヒューマニティーである。それはある種の宗教哲学であり、彼らの仕事の核心は、スピリチュアルなものなのだ、とワーナーはいう。彼はこれらの書物に一筋の光明を見いだしたのである。


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