|
澤井繁男『実生の芽』(「三田文學」63号、2000年11月)
イタリア文学者で作家の澤井繁男氏を私が識るきっかけとなった書評である。
……澤井は、構成、文体ともに手堅い技巧の冴えを見せるが、どの作品でも、人物の風貌や着衣に関する描写は最低限に止め、主人公の内面に生起する繊細微妙な感覚の描写に筆を費やしている。特筆すべきは点描される小鳥や金魚といった身近な小動物や植物である。ある場面では僅か一枚の葉が、しゅじんこうのまなざしのなかでほとんど神話的な輝きを放っている。あたかも本書カヴァーに配されたカラヴァッジョの静物画のように。
……広義の神智学への澤井の造詣の深さには端倪すべからざるものがある。しかし
彼は西洋神秘思想を自らの小説中に直接取り入れようとはしない。一歩間違えればキッチュを作る空しさに終わることを知るからであろう。澤井はカンパネッラに特別の親近感を抱いているが、それはカンパネッラが持つ明晰さと汎神論的思考――森羅万象を有機的統一体として感得するところ――に心底共感するからである。ミクロコスモスとマクロコスモスの照応、小宇宙としての人間という思考が本書にも片鱗を覗かせるが、澤井は明らかに、借り物の思想ではなく、おのれの実感を思想的核とし、文学的形象化とともに時間をかけてこれを練り上げ、自らの生そのものと一体化させようと欲している。ここに澤井の文学者としての独自性がある。
澤井さんは、若い頃に腎臓を悪くされ、人工透析を続けるなかで精力的に執筆活動を続けている方であった。六歳年上の澤井さんは、カトリシズムに惹きつけられる私とは思想的傾向は異にしていたが、著述家として、彼はまたとないメンターであった。意気投合した我々は、学術的同人誌を二人でやることになった。40代半ばまでの5年間、横浜・京都という物理的距離があったにもかかわらず、常に身近に澤井さんを感じることができた。毎週数回、人工透析をしなければならない体であるにもかかわらず、仕事に対する澤井さんの烈しい熱情と厳しい姿勢には、いつも襟を正される思いがする。
|