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ドイツ文学者の高橋義孝先生は、留学したのがナチスの時代だったので、ナチス文学に関する研究から出発した方です。読んでみると、韜晦に満ちたナチス文学批判の書物です。
その高橋先生は、多くの翻訳や、リルケや鴎外に関する優れた論考があるほか、文芸理論に関する論文が多数あって、現在読んでも、さまざまな示唆に富む考察を展開しています。
ずいぶん昔のことですが、高橋先生のインタビューをテレビ番組で見たことがありました。髪型は綺麗なオールバックで、銀縁の眼鏡をかけ、蝶ネクタイを締めていることが多かった。美しく装うことに、こだわりがある方なのです。
「西洋人は笑うときに、ドアを開けて閉めるように笑う」と高橋先生は語っていました。また「西洋人は、横を向くときに、顔だけを横に向けるのではなく、身体ごと横に向く」とも言っていました。(西洋人ではなく、ドイツ人だったかもしれません。)
「西洋の劇場は、幕が上がって始まり、幕が下りて終わる」「西洋の絵画は額縁の中にある。額縁の外が現実世界で、額縁の中が作品世界である」という意味のことも語っていました。
ここには観察の鋭さがあり、その観察が観察だけで終わっていないと、そのとき私は敬服したのでした。
高橋先生は、お能をやっていましたが、能舞台には西洋の劇場のような幕がありません。いつの間にか始まり、いつの間にか終わります。そもそも能舞台は、観客席の方に迫り出している。
つまり、現実と芸術との境目が曖昧である。西洋の場合は、それがはっきりと区別されている、ということです。ここまでは現実である。しかし、ここからは芸術であるということが明確になっている。
芸術の世界のなかでは――それは文学でも映画でもよいのですが――ありとあらゆる怖ろしい出来事が起きます。犯罪者、殺人をする人物が主人公であることすら珍しいことではありません。
殺人者の心理が物語の進展とともに詳細に描かれ、読者のわれわれは、主人公に感情移入して、それが優れた文学作品であったならば、何か運命的なものを感じて心打たれます。人間の真実の一端に触れたのです。
絵画が額縁のなかに閉じ込められているように、怖ろしい物語は書物のなかに閉じ込められている。封印されている。そう考えることができるのではないでしょうか。
それはある種の智慧のように感じられます。現実と芸術とを地続きにしない。現実と芸術を区別する。これは大切なことなのではないでしょうか。虚の世界と実の世界を混同するのは危険なことだと思われるからです。
現実の世界と芸術の世界は、往還すべき二つの世界なのであって、両者が混淆してしまうと、日常の生活は少しずつ狂っていくように思います。夢想が現実を侵食し始めると危険です。個人はもちろんですが、社会全体が夢遊病者のようになってしまったとしたら!
しかし、歴史をふりかえると、意図的に両者を混淆させようとする力も、世の中には潜んでいるような気がします。
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