|
あとから思い出したのですが、トーマス・マンは、われわれの生は、先人たちの「轍(わだち)」を踏んでいくと、確か、書いていたのでした。
さて、世界戦場化の時代にあって、世界を美化するという実践美学は、考えて見れば、きわめて道徳的な要請だと捉えることができるでしょう。
ウエーバーは、神も預言者も遠ざかった時代においては、小さな神々がその代理をすると言いました。それは、たとえば国家であり、芸術であり、エロスです。
「神」がわれわれの人生に意味を与えたように、国家はわれわれに死を命じることができる。つまり、自分の人生に崇高な意味を与えることができるのです。国のために命を捧げることは、美しい行為として称揚されます。しかし、国家のために死ぬことは本当に美しいことなのでしょうか。世界を美化することなのでしょうか。
今道先生は、アリストテレスが共同体のために死ぬことを徳として捉えていることについて語ったときに、現代ではこれはあてはまらないとしました。理由は二つあって、一つは現代の戦闘行為がアリストテレスの時代とは大きく異なっていること。もう一つは、イエスの十字架での死以前の世界に彼が生きていたからというものです。
他者のために自らの命を投げ出す行為をわれわれは「愛」と呼びますが、国家ではなくとも、何か大義のようなもの、信念のようなものに殉じることは、美しいことと考えてならないものなのでしょうか。これは難問に思えます。
|