宇目郷 温故知新録

子供の頃の記憶を手繰りながら宇目の里を訪ね歩き記録しています。

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熊野神社 白鹿権現(シシゴンゲン)について調べて見ました。


熊野社

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白鹿権現

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熊野神社の神社明細帳について県立図書館で調べてみると旧藩時代、明治23年、明治44年の3冊がありました。


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          大野郡神社明細牒 (1) 明治44年   (大分県立図書館所蔵)

 活字にしてみました。

大分縣管下豊后國大野郡西神野村字白山迫
              村社
                    熊野神社
一 祭神   伊邪那美命  速玉男命      品陀和気男
                                              大彦霊神
           事解男命       大山祇神     六柱 菅原神
           志那都比古    加具土神    三社 宇気世知神

一 由緒
       豊后國大墅郡宇目郷水ヶ谷ノ住
        人清玉太郎久宗、仝三郎宗義日向
        國高千穂之惣司ナリ、二人常二熊
              墅神社ヲ信仰シ山猟ヲ業トス、時
        ニ兄弟ニ神託アリ、日州反誓崘兄
       中ニ白猪白鹿アリト、依テ兄弟ノ
       モノ猟犬大黒小黒二疋ヲ引テ山
       二登リ白猪白鹿ヲ狩出シ追テ三
       重郷ニ至リ川ヲ渡ル、則チ是ヲ射
       トメントシテ矢ヲウシナフ其川
       ヲ矢無瀬ト云ヌ、追テ墅津川登ヲ
             落行故ニ落合・入水・田代・泊リノ字ア
             リ時ニ鹿蹄ヲ失フテ血流ルヲッ
             テ地名水地大地ト云、追テ尾崎
             川ニ至ル傍ニ大岩洞穴アリ、玆
             ニ於テ終ニ熊墅神体ト現ル、仝年
             近衛院勅使ヲ下シ、十月廿日社檀
             ヲ建築シ神田ヲ寄附シ給ヒ、熊太
             郎宗貞ヲ此ノ神事ヲ司ラシム、其
             後土御門院建久二年大友氏当國
             ヲ領セシ時、社司清玉内膳太夫宗
             重カ子無キヲ知リ廣田朝臣熊若
             ヲシテ家ヲ継カシム、清玉内膳太
             夫宗重迠十代大友氏ヨリ銭七拾
             貫文神領寄附アリ、是ヨリ廣田ノ
             姓ヲ唱フ廣田熊若ヨリ廣田夛里
             本迠二十七代、清玉信宗ヨリ廣田
             夛里本まで三十七代年ヲ経ル事七
             百三十七年ニシテ、久安二年丙寅
             三月三日ノ勧請ナリ、萬治元戊戌
             年稲葉能登守信道当社造営アリ
             白銀ヲ寄附セラレ又長ク竹木ノ
             寄附アリシ
             宝暦戊戌年二月十二日稲葉能
             登守参詣染筆アリ、天保十三年寅
             二月十三日稲葉能登守幾通参詣
             金百疋奉納セラル、安政七年申三
             月十二日稲葉伊豫守勸通参詣金
             百疋奉納、又文久二年戌二月廿二
             日自筆ノ額奉納アリ、大友ノ翰書 
             拾通今猶存在ス、明治六年村社ニ
             列セラル、大山祇神ハ本村字ホコ
             土西畑之イタスナリ、石内畑登尾
             鎮座迦具土神ハ本村字仁田久保
             尻江小墅下鎮座、志那比古神ハ
             本村字尻江鎮座ノ處、明治十二
             年本社ノ合併  (注:原文は縦書き、句読点は編者)

宇目水ヶ谷の住人清玉兄弟が上赤の山中に白猪・白鹿がいるとの神託を受けて猟犬大黒・小黒を連れて山に登り狩りを始めた。逃げる獲物を追って三重郷から川登まで行き、尾崎川に至る傍らに大岩洞穴があり熊野神体が出現したと書かれている。
由緒によれば 久安二年(1146年)丙寅三月三日に勧請したあり、また近衛院(平安時代末期・第七十六代近衛天皇)が勅使を使わし、十月廿日社檀を建築し神田ヲ寄附シ給ヒ。熊太郎宗貞ヲ此ノ神事ヲ司ラシム。それ以降、時の権力者が神社を庇護したことが書かれている。
宇目の水ヶ谷から宮司の先祖がやってきたこと、大友氏とも関係あり、南田原の鷹鳥屋社の由緒ともよく似ていて興味深いものがある。
神社の上部には西神野小学校(廃校)があり裏手の小高い所に古い墓地があり古い五輪塔があるところから有力者がこの地に住んでいたのではないかと思われる。また神官 廣田家もある。



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昨年宇目の赤松峠を踏査の時山の神様に鹿の心臓を棒に刺して奉納していたのを目撃。此の風習について宇目の狩猟家の方に話を聞いた折り野津にシシ権現があることを教えて頂いた。県南地方の猟師であれば一度は参拝する狩猟の神様です。社は断崖の中腹の洞窟にあり鎖場があると話された。洞窟の中には夥しい鹿・猪等の頭骨が奉納されているそうだ。猟師がこの崖を登れなくなったら現役引退だとも話された。また女人禁制であったようです。
 私たち人間は動物をはじめとする多くの命を頂いて生きながらえている。猟師はその最前線で獣の命と対峙しているので命を奪うことの意味を一番理解していると思う。
 昔宇目のある所でイノシシの解体を見る機会があった。シシを捌くときは寒いと猟師の方が云っていたのを覚えている。寒いとは体が冷えることではなく命に対する畏怖の念があったからではないかと私は考える。
 天気と相談して晴れの日に参拝に出掛けた。話に聞いた鎖場とご対面、久しぶりの岩登りを楽しみながら落ちないよう慎重に壁を三点支持で攀る。上り詰めた洞窟の前は小さな広場になっている。窟内の夥しい獣の頭骨は猟師が供養と豊猟を願い奉納されたのではないかと思います。

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赤松峠の大山神

臼杵川に架かる沈下橋と熊野社の鳥居
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熊野社拝殿、神殿は洞窟の中に建てられている。

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白鹿権現は断崖の中腹の洞窟に鎮座している。↓

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鎖場は3ピッチ20m程の高さがある。鳥居から洞窟までの高さは40m位。岩質は石灰岩なので岩が濡れていると滑りやすくなる。

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白鹿権現は神聖なる場所であり興味本位で訪れる場所では決してありません。心して参拝をしてください。
洞窟の前に宝経印塔二基。洞窟内に石祠二基がある。白鹿権現は熊野社の境内社ではないかと思うが詳しくは調べておりません。


 鳥居前の沈下橋の下流に面白い地形があった。西神野周辺の地質は石灰岩 鳥居の前を流れる臼杵川
に浸食地形が見られる。少し下流に行くと(阿蘇山の火砕流)凝灰岩(灰石)の柱状節理が見られる。
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上の熊野社鳥居からみる津久見 碁盤ヶ岳と八戸高原

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鷹鳥屋神社 初詣


国道326号線 南田原 新田代橋上から  
残念ながら昨年に続き日の出は拝めなかった。

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昨年12月17日に改築工事が竣工。装い新たにして新年を迎えた鷹鳥屋神社境内


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境内林入口駐車場から境内までの参拝道がコンクリート舗装されて車の乗り入れが出来るようになった。

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籠堂の跡に新築された神楽殿 

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神殿 神楽殿改築記念碑 以前この場所には手水鉢があったが一段下神楽殿の前に移設された。

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       大杉が倒れ奥の国有林が伐採されすっかり明るくなった柳瀬参拝道の鳥居周辺

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大河ドラマ 「西郷どん」が人気を博した。九州では「せごどん」ブームが捲き起こる。
数年前から佐伯市宇目で日向街道の踏査を行っている。踏査対象地域内の三国峠・旗返峠・赤松峠・梓峠は明治10年「西南の役」の時戦場となった。


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旧326号線三国神社登り口に建つ歌碑

 この戦は日本人同士が戦った最後の内戦であった事を忘れないで欲しい。また勝ち負けに関係なく多くの若者の血が数多流されたことを心に留めて欲しい。
 西南征討志によれば赤松峠・梓峠周辺で132名の死傷者が記録されている。子供の頃祖母や祖父から良く聞かされていたので西南の役は私にとってそんなに昔のことではありません。古里の山河が戦場になった事は紛れもない史実でした。年末にふさわしくない話題でありますがあえて書きました。

来年は戦のない平和な世の中でありますように八百萬の神にお祈りします。

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赤松林道

国道10号線 北川支流鐙川と赤松谷の吐合に架かる橋の袂に赤松林道入口のゲートがある。此の林道は大分森林管理署専用林道で通行するには「国有林野入林許可書」が必要です。


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赤松谷に沿い延びる赤松林道を辿り赤松谷分岐点から少し先で右手に赤松林道(赤松側)の入口があるが入らずに行き止まりから谷を詰めて行くと左岸に林道があり、道に上がり少し行くと先の調査で峠から少し下った所に壊れた作業車があった場所に出る。ここから杉林の中の荒れた道を上がって行くと峠に出る。重岡側の眺めは素晴らしく正面に傾山が遠望出来る。

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明治の文豪徳富蘆花が著書で赤松峠について次のように書いている。

赤松峠
 (大正2年9月16日)
馬車は程なく一の峠を下る。峰と云わず谷と云わず見ゆる限りは土佐繪に描く様な赤松。名にし負ふ赤松峠である。明治十年の戦争には、大分の方から南下する官軍を薩兵は此赤松峠に支へて双方の血が此處に流れた。馬車の上から見廻はす。赤松山に赤松の外、人の氣はなく、ひとりせヽらぐ渓流のほとり半腐した山小屋の藁屋根に一疋の蛇が、とぐろも巻かず、長々と寝そべっていた。
                                                                          
出典 「死の陰に 赤松峠」 大正六年 徳富蘆花


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