あなざ世界

経済は水のような物、自然と流れ広がり、全ての人々に行き渡る物。富は、その流を積止め、いびつな流を作り貯めた水の事。

明智光秀の独り言

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 前のページ ]

イメージ 1


平定後の越前は、柴田が守護職、前田利家、佐々成政、佐久間盛政が与力として付けられ、統治と北陸方面軍となった。

越前平定から、少しさかのぼるが、わしは上様から丹波丹後平定の大役を受けた。
ただ、わしの兵力だけではたらず、与力として細川を付けられた。
又、上様の命令で、5畿内と越前平定など、織田家を囲む敵との戦いに借り出され、中々丹波丹後平定に乗り出せないでいた。
ただ今回、越前の平定が終わり、やっと丹波丹後平定に手がつけれそうだ。

丹波丹後の地は、最初に上様が義昭を連れて上洛した時、ほとんどの大小名が従属した。
その後、上様と義昭が仲たがいすると、ほとんどの大小名が義昭方に付いた。

明智家が丹波平定に乗り出すのにあたり、波多野氏を織田方に付けた。
その後は順調に平定が進んでいたが、突如波多野氏が謀反を起こし、わが明智軍は敗残して丹波を退却した。

本願寺との講和が破れ、本願寺の対織田家包囲の一環として、波多野氏は調略されたのだ。
上様はこの本願寺の動きに、原田直政の大和、京の衆に、荒木の摂津衆、明智の丹波丹後衆に、本願寺包囲を命じた。

原田直政は、元は塙姓で上様の赤衣衆、今回わしと羽柴、簗田の四人が九州の名族の姓を下賜されたの中の一人。
謀反をした松永に代わり大和と全体と京の一部の支配を任された。

だがこの包囲作戦は脆くも本願寺の反撃にあい、主将たる原田が討ち死に、逆に本願寺勢に天王寺砦を包囲されることになった。

この時、砦にはわしと佐久間勘九郎が守備をしていた。
この急変を京で聞いた信長様は急遽一騎掛けで駆け付け、わずか三千人の手勢で、一万五千人の敵に突っ込んだ。
天王寺砦に入り、砦の手勢三千人を加え、六千の兵力で、一万五千人の本願寺勢を撃退した。

原田亡き後の対本願寺編成は、佐久間信盛に任され、荒木は対対毛利勢の備えと摂津海上守備、わしは引き続き丹波丹後方面を担当。
この時佐久間殿は、軍時的には、尾張、美濃の所領に与力として、大和、みなみ京、河内、和泉、淡路四国勢などの大小名が与力として付けられ、荒木、明智が支援部隊とされた。
機内の政治向きは、明智が軸に細川・丹後、荒木・摂津、筒井・大和で婚姻を結び、京周辺の政治向きの軸は、我が明智軍が担当する。

その後、天王寺砦の宿番は、佐久間が松永に守備を指名した。



次回、霜台 松永弾正久秀編

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

画像は上から松永久秀、荒木村重、明智光秀

今回明智みつびでの独り言を書こうと考えたのは、Yahoo!ブログで荒木村重のブログを見たからです。

当初は荒木謀反から本能寺の変の少し前まで簡単に書くつもりでいたのですが、あれやこれや書いている内に、1回のブログじゃあ納まらなくなり、内容も松永久秀のことも書きたくなりました。

この三人は信長に謀反して、未だにその理由が議論されていることが共通点ですが、それ以外にも幾つかの共通点があります。

・出目が妖しい。
・文化人で教養人
・中年以降に世に出た。
・一国一城以上の出世をしている。
・都会人
・下克上の武将
 →明智光秀に関してはこの下克上は「違うのでは」と考えている方々も多いと思います。
  私個人的な考えによるところですが、今回のブログを書き終えた後に自分の考えを書きます。


次回の明智みつひでの独り言は松永久秀の謀反が大きなテーマになります。


開く トラックバック(1)

イメージ 1


宿敵の浅井朝倉を滅ぼした、我ら織田家に新たな総力戦が必要な敵が見えて来た。
石山本願寺と一向一揆衆。

この戦いは、機内から三好一党を追い出す戦いをしているとき、本願寺からの種子島の攻撃を受けたことから、本格的な抗争になった。
それまでは部分的な争いで、上様は「一向一揆何する者ぞ−」とのお考えだったようだ。
わしも「朝倉家で一向一揆衆とは戦い、織田家の巨大な軍事力の前では敵でないと考えていた。」

その考えが間違いである事を近江で思い知らされる。
当時、浅井朝倉と対峙しながら織田家は近江路を確保していた。
この近江路を一向一揆勢は「織田信治、森守成」を討ち取りずたずたにした。
当時、畿内から美濃尾張に帰国する織田軍団は近江路を避け、間道の伊賀路を通って美濃に帰国した。

本格的な本願寺との抗争に、わしは戦の無限地獄に引き込まれたように感じた。

朝倉家を滅ぼした後、越前は織田家の分国だった。
朝倉の旧臣に任していたが、一年も経たずに一揆勢に蹂躙され、一向一揆の持ち国になった。
又、織田家の本拠地尾張には、伊勢長島の一向一揆衆が迫る勢いで、織田信興をはじめ伊勢国境の守備の武将が討ち死にした。

当時明智家は、足利義昭追放後の5畿内の平定に追われてた。
5畿内の平定は佐久間と原田、明智の三家が担当した。
主な敵は三好一党と旧幕臣の和田や池田、伊丹の摂津三守護、織田家に謀反した三好義嗣や松永久秀等だ。

織田の主力は前後三回に渡り伊勢長島の制圧に向けられた。
動員兵力は伊勢、尾張、美濃、北近江等畿内と畿内を平定している部隊を除いて織田家の7、8割の兵力を投入している。
伊勢長島の討伐の模様は上様の手紙で読んだが、女子供の関係なく、根切りで伊勢長島に人が居なくなる程凄まじい合戦だったようだ。

上様の戦はいつも厳しい。
比叡山もそうであったが、普段は、相手国の住民に狼藉を一切働かないが一揆を含め坊主達との合戦は別で、例え女子供であっても、信長様に一度刃向かえば容赦なく切り捨てられる。

朝倉家や畿内の他家の戦に比べれば遥かに厳しい戦をしている。

四郎勝頼の武田家が美濃、三河の国境を侵し始めた。
「義昭を初め本願寺はよくやる、伊勢長島が壊滅したら、次は武田、織田包囲網を他の勢力を使い自由に作るところは、信長様が戦略上、先手を取られてる感じがする。」

だが、四郎勝頼武田家は長篠の地で、上様の考えた策謀と戦法の前に砕け散った。
上様の策謀と戦法とは。
・織田の兵が弱ければ、弱くても勝てるように種子島を大量に用意したこと(種子島三段撃ち?)。
・武田の騎馬隊が優れているのならば、騎馬隊の力が発揮出来ないように馬防さくと溝を野戦に用意したこと。
・策謀と戦術的攻撃で、武田の騎馬隊を上様の思い通りに攻めさせたこと。

この敗北で武田は主だった重臣と強漢な兵士を失ったが大きな痛手だ。

この時、愚かにも家康はこのまま武田領までの追撃戦を進言したらしい。
「家康はまだまだ若い。」
上様は武田がまだ農兵分離が出来てなく、兵士の損害は米の生産量の減少を意味することを理解していた。

今回の長篠の合戦で武田家は、名のある部将を初め多くの足軽を失っている。
このことで、武田家の国の力は落ち、その内に内部崩壊すると信長様は考えていた。

武田破ったことで、東の脅威は亡くなった。

その頃、越前の一向門徒が内部分裂をきたした。
上様はこの好機を逃さず、越前に攻め込んだ。
この時は我が明智家も参加して、近江、若狭、美濃方面から陸伝いに侵攻する部隊と若狭湾を船で渡り海岸線から海から侵攻する部隊で越前の一向一揆衆を圧殺して、海に追い落とす戦術での作戦だった。

これでいよいよ石山本願寺との全面対決が始まる。



--------------------------第二部終わり→この後第一部二部の後書きに続く------------------

イメージ 1

わしは、上様にお使え出来て本当に幸せ者だ。
上様はワシの能力を高く買っていて、その働きにあった恩賞をくださる。

もし、あのまま朝倉家にいたら、出世も望めず働き場所もなく、飼い殺しのようなことになって、最後は上様に滅ぼされただろう。


比叡山延暦寺を焼き打ちした後、坂本の町と近江の一部拝領する国持ち大名になれたのは、上様にお使え出来たからだ。


ただその時の織田家は四面楚歌の絶対絶滅の危機でもあった。


我が明智家は、京の守備と足利義昭将軍の監視、朝廷工作、京周辺及び畿内の政治軍事の要の役割を演じていた。
織田家ひろしと言え、この役目が出来るのは、我が明智だけだ。


東の対武田家前線は徳川家康。
岐阜と京をつなぐ通路の確保と対浅井朝倉の備えが木下藤吉郎。
岐阜、京間の連絡通路の守備として、丹羽、柴田、佐久間の織田家重臣達。


ただ、武骨一辺倒の織田の家臣団の中で、一際我が明智家は輝きを放っていた。


そして、武田信玄の西上と上様の申しつけを聞かなかった、徳川家康の惨敗。

ただその後、上様の予想通り、武田家の侵攻の速度は落ち、田植えの時期に備えて撤退した。
戦国最強とは言え、所詮は農民兵の集団、長期に渡る遠征は不可能。

ただ、信玄公が亡くなったと聞いたときは、我が耳を疑い上様の運の強さを改めて実感した。

それから、わしは畿内の将軍派豪族や大名の調略。
この時わしの仲介で細川や荒木が織田家に寝返った。

その後、足利(義昭)将軍の追放。


確かに将軍家と一緒に行動することで利益はあったが、
上様の前に出れば、所詮は力を持たぬ飾り者の存在だ。


そして長年の敵だった、浅井朝倉を滅ぼし織田家は京の通路の確保と直轄領を増やした。

この時、気になったのが、木下藤吉郎が旧浅井領の北近江3郡を拝領したことだ。
確かに藤吉郎は対浅井朝倉戦線での活躍は目覚しかった。
金ヶ崎の退き口戦の殿役。
浅井朝倉の押さえとしての横山城主。
特に最初は敵領の中で、浅井家より劣る兵力でよく横山城を護りぬいた。
そして、浅井方武将の調略とその働きはわしの働きにも劣らない働きだ。


ただ、わしの京を中心とした政治働きは、他の家臣には真似できない働きなので、藤吉郎よりは一にも二にも上だ。


ただ残念なのは、一度手に入れた越前を一向一揆衆に取られたことだ。
上様は織田家の重臣に越前の支配を任せかったんだろうが、
石山本願寺を中心とした一向一揆との戦い、この時まだ近江路は完全に織田家の支配下ではなく、危険な状態だった。
又、信玄亡き後の武田家は、直接美濃にも侵攻出来るため美濃に相当数の兵力を置かねばならない。
そして、新たな前線として伊勢長島が加わった。
ここは織田家の伊勢支配はもちろんだが、織田家出身の地、尾張にも圧力がかかるので、相当数の兵力を裂かねばならなかった。

我が明智家は京周辺の防衛と機内への通路の確保が役目だった。

織田家の重臣は本拠地の美濃尾張と京への連絡路、京周辺の備えに目一杯動員されている。
その中で、苦肉の策として旧朝倉家臣に越前を統治させるたのだが、やはり上手くいかなかった。


長年の宿敵浅井朝倉をを葬り去り、戦国最強の武将信玄が亡くなったが、織田家は未だ敵だらけの中に存在することは変わりなかった。


------------第一部終わり------------


お詫び。
当初予定していた長篠の合戦までは書ききれませんでした。
申し訳ありません。

イメージ 1

はじめに。

当初「明智光秀の独り言」として、本能寺の変一週間前の物語として書きはじめました。

書き従っている内に、長い内容になりそうなので、わかりやすく数ページに渡って、大きな事件を区切りとして書いていこうと思いました。

内容は
明智光秀の心の心情とその時々の織田家の内情を光秀の言葉を借り書いていきます。

ブログのアップは不定期です。

次回は
比叡山延暦寺焼き打ち〜長篠の合戦
までを書きます。

お楽しみに。

全2ページ

[1] [2]

[ 前のページ ]


.
気まぐれ
気まぐれ
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事